疲れ果てた後に待っていたのは、泥のような眠りだった。 さすがの健一とて、一夜に四度も果てれば辛い。冴子と過ごす中でそれに近い回数を行うことは幾度かあったが、どちらかと言えば穏やかな交わりのあちらと比べ、疲労の種類が違う。 蛍子との性交は、全力で走るマラソンに近い。 目覚めた瞬間、まず身体が欲したのは水分だ。汗と精液で酷い臭いのベッドから離れ、ふらふらとした足取りで健一は居間の冷蔵庫に向かった。 よく冷えた麦茶の紙パックを取り、直接口を付けて一気に喉へ流し込む。ごきゅ、ごきゅ、と豪快な音を響かせ、あっという間に中身を空にした。 端からこぼれた雫を手の甲で拭って、深い息を吐く。 そこでようやく、自分が裸なことに気付いた。 「……そっか、やっちゃったんだよな」 昨晩、健一と蛍子は一線を踏み越えた。 姉弟として、本来犯すべきではない領域。 しかし不思議と、後悔する気持ちはない。あの時の蛍子の告白は本物だった。それに答えなければいけないと――答えたいと、確かに思ったのだ。 その結果、失神するほどに蛍子を求めてしまった。さっき起きる際にちらりと見たが、とても人前に出られるような姿ではない。涙と鼻水と汗と愛液と精液と、そこに破瓜の血まで混ざって、凄まじいことになっている。 たぶんシーツの汚れは、洗っても落ち切らないだろう。 どうしたものかと頭を掻きながら、ひとまず着替えを取りに自分の部屋へ行く。下着とシャツ、家で過ごす用のハーフパンツを箪笥から抜き出し、洗面所にまとめて置いた。 夏の暑さも相まって、汗臭い。 朝食の準備をする前に、さっと風呂に入ろうとしたところで、近付いてくる足音に気付いた。 「健一……いないのか?」 「ホタル、こっち」 不安の色濃い声に返事をすると、洗面所に蛍子が姿を見せた。 当然ながら裸だった。 肌は薄く紅潮し、胸の辺りと髪、そして下腹部と太腿の付近に、白く濁ったものが乾いて張り付いている。昨日の情事を思い出させる様相に、健一の鼓動が跳ね上がった。 萎れた股間のモノに血が集まる。 「……朝っぱらから、ケダモノだなお前は」 「男の生理現象……って言っても、信じてくれないよな」 「あんだけ出しといた次の日にこれを見せられちゃ、誰だってそう思うだろ」 なんて呆れながらも、姉の視線は一点に注がれていた。 二重の意味で今更恥ずかしがるような仲ではないが、こうして改めて凝視されて、堂々と隠さずいられるほど健一の神経は太くない。 誤魔化すように手で隠し、するりと風呂場へ身を滑らせた。 シャワーのコックを捻ると、まだ冷たい水が噴射され始める。 温まる前に浴びてもいいかもしれない――なんて考えた直後、ばたんと荒い動作で扉が開いた。 「ちょっ、ほ、ホタルっ」 「私だって入りたかったんだ。それとも、一緒は嫌だって言うのか?」 「いや……嫌ってわけじゃないけど」 「なら気にするな。こっちも気にしない」 そっぽを向いての言葉を最後に、狭い空間の中ではしばらく水の流れる音だけが響く。 ギリギリ肌が触れない距離。 互いに背を向け、半身だけで熱を持ち始めた水を受ける。 「起きて、お前がいないって知った時、急に怖くなった」 「……なんで?」 「あの出来事は、夢だったんじゃないかって。お前に告白したことも、身体を重ねたことも、全部」 「ホタル……」 背中越しに、柔らかいものが当たり、潰れるのがわかった。 腰に蛍子の腕が回る。臍上で結ばれた両手が、微かに腹を圧迫する。 首裏で吐息を感じた。 ただ、熱い。 「夢じゃ、なかったんだよな?」 「うん」 「全部、本当にあったことなんだよな?」 「……うん。俺は、ホタルとセックスしたよ」 「そっか。……よかった」 ――確かに、健一に後悔の気持ちはない。 しかし、果たしてこの選択が“正しかった”のか、それは未だにわからなかった。 姉と弟。血の繋がった家族。 二人の関係は、どうしたって揺るがない。 「なあ、健一。今、駄目か?」 「昨日散々したばっかりなんだけど」 「私はお前とだったら、毎日したい」 無情な現実は見ないふりをした。 風呂場なら、汚れてもすぐに洗えるだろう。 とはいえ、さすがに毎日というのは無理がある。 その数日後、一度朝方いい雰囲気になったところで珍しく両親が帰ってきた時は、真剣に焦った。すぐに目配せし、何事もなかったかのように振る舞ったので、幸い気付かれず済んだのだが、健一はいつ自分がボロを出すかと不安で仕方なかった。 どうやらたまたま親心を出した結果らしく、昼は久々に四人一緒だった。夕方前にまた慌ただしく職場へ戻る二人を見て、ちょっと自重しよう、という話になったのは、まあ順当な結論と言えるだろう。 蛍子との交わりも落ち着き、何日かぶりに健一は十三階へと足を運んだ。 先に1301を覗いてみたものの、誰もいない。そういえば今日は刻也のバイトの日じゃなかったか、と思い出し、ここで待つよりは早いだろうと1303へ。 案の定と言うべきか、冴子がいた。 「絹川君」 「すみません、しばらく顔を出さなくて」 「それは別に気にしてないけど……何か、あったの?」 隈の濃い顔で問われ、正直に話すべきか少し迷う。 だが、普通に考えれば誰にも言えないような話でも、おそらく冴子は嫌な表情一つ浮かべずに聞いてくれる。今まで連絡しなかったことに対する申し訳なさもあり、健一はここ数日の出来事を、包み隠さず伝えた。 絹川蛍子――実の姉に、告白されたこと。 その気持ちを受け入れて、セックスしたこと。 語り終えてから、ずっと無言で座っていた冴子は、小さく「やっぱり」と呟いた。 「いつかそうなるんじゃないかって、何となく思ってた」 「えっと……そんなに僕、節操ないですかね?」 「あ、ううん、そういうことじゃなくて。前にお姉さんの話を聞いた時、もしかしたら、って」 常識か非常識で言えば、それは後者だ。 姉が弟を好きになることは、世間一般に見ておかしい。 しかしおかしいというのなら、冴子も同じだった。健一も、綾も、おそらくは刻也さえも――存在しないはずの十三階に辿り着いた人間は、どこかしらに異常性を抱えている。 偶然ではなく、必然。 集まるべくして集まったのかもしれないと、冴子は感じている。 「……僕も、有馬さんならそう答えるんじゃないかって思ってました」 「私が変だから?」 「変人同士ですから」 茶化すような冴子の問いかけに、頬を緩めて健一は返す。 互いに顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。 「そろそろ夕飯時ですけど、お腹は空いてます?」 「……少しだけ」 「じゃあ1301で、軽いものを作りましょっか」 「私も手伝う」 「わかりました。……あんまり無理はしないでくださいね」 健一がいなければ、彼女は眠れない。 数日空けてしまったのだから、何があっても今夜は1303にいようと心に決めた。 「おお、健ちゃんだ。久しぶりー」 「こんばんは、綾さん。しばらく来なくてすみません」 ふらりと綾が1301に顔を出したのは、丁度冴子と二人で夕食を済ませた頃だった。 また作業に没頭していたのか、足取りが微妙に怪しい。ひらひら手を振りながら冷蔵庫に近寄り、中から水道水を入れたペットボトルを取り出して、一気に呷る。 半分ほどを飲み干してから、ぐぅ、とお腹を鳴らした。 「あはは、そういえば今日はまだ何も食べてないや」 「すぐ用意しますね」 「うん。ありがと冴ちゃん」 苦笑した冴子が椅子から立ち上がり、出来合いのおかずを電子レンジで温め始める。 その様子をぼんやり綾は眺め、不意に健一の方を見て、軽く目を細めた。 「んー……健ちゃん、何かあった?」 「え? いやまあ、あったと言えばありましたけど……」 「もしかして溜まってるとか」 「違います」 鋭いのやら鈍いのやら。 一瞬跳ね上がった鼓動を落ち着けるため、深めに息を吸う。 誤魔化したのに気付いて敢えてスルーしたのか、あるいは単純に気付いてないのか、綾はそれ以上追求してこなかった。 ほかほかと湯気を立てる皿を冴子が置くと、お世辞にも良くない行儀で箸を動かしていく。 いつものことながら、子供のようだ、と健一は思う。 実際、そうなのかもしれない。芸術――物を創ることに特化した彼女には、明らかに多くの常識が欠けている。 (だからこそ、なんだろうけど) ここにいる理由。 自分達が、こうして同じ場所で暮らしている要因。 もし、綾が常識的な人間だったなら、出会うことすらなかっただろう。 刻也や冴子も。 その人となりを知ることはなかったはずだ。 「ごちそうさまでした。っと、ねえねえ健ちゃん」 思考の海に沈んでいた健一を、綾の声が引き戻した。 そちらを向くと、くたびれた白衣で口元を拭ってから、 「あのね、後でちょっと出かけるのに付き合ってほしいんだ」 「どこか行きたいところがあるんですか?」 「うん。私の写真が載ってる本、見てみたいなって」 「『隔月刊アーツライフ』でしたっけ。コンビニに売ってるのかな」 「なかったらまた今度でもいいから。とりあえず行くだけでも、ね?」 「ちなみに僕が断った場合は」 「しょうがないから我慢する」 なんて言いつつも、断られないと確信しているかのような表情だった。 まあ、ここで行かない理由もない。(主に綾の)準備もあるので、だいたい一時間後に出ようということになった。 元々外着の健一は着替える必要がなく、食器の片付けをしてからは1301で冴子と雑談に興じていた。 「お待たせー」 「……服は問題ないですね。それじゃ有馬さん、いってきます」 「いってらっしゃい」 見送られ、十二階まで下りてからエレベーターで一階へ。 外に出ると、途端むわっとした熱気が肌に纏わりついてくる。夏の蒸し暑さに、思わず健一は眉を顰めた。 「とりあえず一番近いコンビニですかね」 「りょうかーい」 昼間は少し出歩くだけで足を止め、結果迷子になってしまう綾だが、夜になればその頻度はぐっと減る。健一が手を引いたのもあり、十分程度で目的地に着いた。 店内に入り、書籍棚を調べる。 「……あった」 「ん? 見つかった?」 「はい。買う物はこれだけですよね?」 「今日はこれだけかな。健ちゃんが欲しいものとかあったら一緒に買ってもいいけど」 「ないです」 「えー」 「何でそこで不満そうになるんですか……」 「そしたら健ちゃんに貸しができるかなって」 「もう綾さんには奢られないようにします」 「わーウソウソ! 冗談だから!」 そんなやりとりをしつつ、精算はすぐに終わった。 微妙にやる気のない店員の声を背に、さあ帰路に就こうというところで、雑誌の入ったビニール袋を両手で抱えた綾が、健一の前に出て振り向く。 「実はもう一ヶ所、行きたいとこがあるんだけど……いいかな」 「一応確認しますけど、変な場所じゃないですよね」 「どうだろう、変って言えば変かも」 「……ホテルとか、エッチなお店とか」 「そういうのじゃないよ」 否定され、考える。 予想以上に買い物は早く片付いたし、時間的には問題ない。 それに、 「あんまり遠くないなら、まあ構わないですよ」 「ん、大丈夫。真っ直ぐ歩けば十分くらい」 どこか真剣な色を、健一は見て取った。 行き先は綾しか知らないという辺りにかなり不安はあるものの、ここは任せるしかないだろう。 点々と街灯が照らす道を、綾の先導でしばし歩く。 途中何度も横道に逸れかける、非常に危なっかしく不確かな足取りだったが、本当に十分ほどで到着したらしかった。 綾が止まり、見上げるようにした先を、健一も窺う。 一見何の変哲もない、民家。 夏故にカーテンは閉められておらず、しかし部屋の明かりは消えてしまっている。奥の方に大きめの白い離れがあるようだが、そちらも人気は感じられない。 明かりが遠く、ここからは表札の字も読めなかった。 「……そっか。もう寝ちゃってるんだ」 「誰の家なんですか?」 「私の家」 ぽつりと呟いた綾に問いかける。 返ってきた答えは、何となく予想していたものだった。 綾の人間関係について健一が知るところは多くないが、この性格でまともな付き合いができるとはとても思えない。相性というか、仲が(おそらく一方的に)悪い蛍子が特殊なのだ。 それは、桑畑綾が抱える大きな欠陥。 「昔はもっと小さかったんだ。錦織さんと知り合ってから、何度か改築したの」 となると、あの離れはアトリエなのかもしれない。 綾が得意とする金工などは、かなり広く場所を取る。騒音もするし、普通の家屋ではまずできないだろう。 「昔に作ったものとかも、結構残ってるんじゃないかな。あそこに持ってきたのって、必要な道具くらいだし」 「……戻りたいとは、思わないんですか?」 「ううん。私がいても、お母さんに迷惑掛けるだけだから」 娘に振り回され、倒れてしまった母の話を思い出す。 大切であることは確かなのに、どうしようもなく一緒にいられない。綾が綾である以上、決して“普通の母子”にはなれないのだ。 できるのなら、初めからやっている。 誰もが巧く生きられないからこそ、色々なことで苦しむ。 「一応、もう大丈夫になったってことは錦織さんに聞いてたんだけどね。こうやって一度、自分の目で見ておきたかったんだ」 「………………」 「健ちゃん。私は、これでよかったと思う。今までずっと、私だけ気持ちいいことして、お母さんを困らせてばっかりだった。だから、これでいいの。ちゃんとお母さんはぐっすり眠れてる。私も、好きなことをやってる」 「綾さんがそう言うなら、僕が言うこともないですよ」 「そっか」 理想的な解決法なんて、本当に存在するのか? 仮にそれがあったとして、果たして実現可能なものなのか? 綾と綾の母との関係が、自分と蛍子に重なる。 既に現実は走り始めてしまった。 そのレールがどこに続いているのか、健一には知る由もない。 「ありがとね。健ちゃんがここまで付き合ってくれなかったら、一人で泣いちゃってたかも」 「役に立ってる気は全然しませんけど……力になれたならよかったです」 ただ、言葉とは裏腹に。 寂しそうな顔をした綾のそばにいようと、今はそう思った。 久々に眠れた冴子は、いくらか元気を取り戻したように見えた。 お互い早めに起きてしまったので、昨夜に引き続き揃って朝食の準備をする。といっても大したことではなく、白米を炊いておかず一品と味噌汁、サラダを手分けして作るだけだ。 炊き上がるまで二十分の時点で、仕事がなくなった。 手持ち無沙汰になり、炊飯器から噴き出る蒸気を眺めていると、三人目が現れた。 「ごきげんよう、二人とも。今日は早いな」 「おはようございます。昨日からずっといたんですよ」 「なるほど。有馬君もかね」 「はい。……あ、言い遅れましたけど、おはようございます」 どうやら起き抜けではないらしく、ほぼ完璧に身なりが整っていた。いつも通りと言うべきか、私生活での隙がまるでない。 刻也は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注ぎつつ席に着く。軽く唇を濡らしながら、 「最近任せきりのような気がしてね、今日の朝くらいは自分で作ろうと意気込んでいたのだが、先を越されてしまった」 「まあ、これが僕の役割でもありますし」 「私も……お手伝いくらいはしたいですから」 「有り難い反面、やはり申し訳なくもなるな。いずれ返せるといいのだが……ああ、そうだ、昼食と夕食は、私の分を用意しなくて構わない」 「どこかお出かけでもするんですか?」 「いや、急なシフトが入ったので、今日は一日中バイトなのだ」 バイトという単語に、健一は微妙なつっかかりを覚えた。 夏休みはある意味稼ぎ時だろうし、別に問題らしい問題はないのだが、不思議と刻也の口から出ると違和感がある。 「八雲さんはいったいどんなバイトを?」 「国道沿いのファミレスでウェイターと皿洗いをしている」 「ファミレス……」 「私がその仕事をしているのはおかしいかね?」 「いえ、おかしいというか、もっと知的な感じのを想像してたので」 「例えばどういったものだね」 「家庭教師とか」 「勉学に秀でていることと、他人に教えることは全くの別物だよ」 指摘されてみれば、なるほどその通りだった。 そもそも学校で見ている限り、刻也はあまり社交的ではない。むしろ他者を避ける傾向にある。 生真面目に受け答えをする姿は何となく思い浮かぶが、肩を寄せて親密に教授するような光景は、どうにもイメージできなかった。 「でも、八雲さんがウェイターっていうのは結構意外です」 「……自分で言うのも何だが、それほどでもないだろう」 冴子の素朴な疑問に、何故か刻也が微妙な焦りを見せた。 声こそ低く抑えているものの、一瞬言葉の頭が上擦っていた。 気になったので、もう少し突っ込んで訊いてみる。 「どうしてウェイターを選んだんです?」 「た、たまたま募集の張り紙を見つけたからだ」 「それなら国道沿いより近いところがあるような……」 「学校とここからも結構離れてますしね」 「……別にいいだろう、私がファミレスでバイトをしていても」 「それは勿論、悪いとは言ってませんけど」 詮索し過ぎたかもしれない。 軽く睨まれ、健一は口を噤む。しかしそこで、話を聞きながら刻也の分の朝食を用意していた冴子があっさり核心を突いた。 「もしかして、彼女さんと一緒に行ったんでしょうか」 「……正確には違うのだが、そういうことになる」 「かなり仲が良いんですね。八雲さんと彼女さん」 「ぐ」 にっこりと告げられたひとことに、刻也は小さく呻いた。 こんな風に冴子が他人をからかうのは珍しい、というか、一度も見たことがない。新鮮な気持ちで二人のやりとりを眺めていたが、誤魔化すように刻也が朝食を摂り始めたので、話は途切れてしまった。 仏頂面で味噌汁を啜る刻也を前に、食べ終わったらとりあえず謝ろうと、冴子と顔を見合わせて決意する健一だった。 朝にそんなことを話したからか、あるいはその後冴子が「私も、アルバイトしようかな」なんて言い出したからか、昼前になって健一は求人募集を調べていた。 実家暮らしの高校生だ、別にお金に困っているわけではない。滅多に家には帰らない両親だが、毎月提示される生活費は多く、それなりの自由も利く。時間に関しても、蛍子に説明する必要はあるものの、問題らしい問題はその程度だろう。 ただ、こうしてコンビニの求人雑誌に目を通したり、外に出て張り紙をチェックしてみると、考えていたよりも選択肢は少なかった。資格や技能を要するものは、自分にはできない。何かに秀でてもおらず、経験だって皆無だ。 もっとも、それ以前に。 やりたいことが思いつかない。 「どうしたものかなあ……」 煮詰まっているのを自覚して、健一はいつもの公園に向かった。慣れた道を辿り、求めていたもの――『時の番人』の元へと。 綾が小学生の頃に作ったという、巨大なオブジェ。些か大仰なネーミングで、果たしてその名前が合っているのかどうかはともかく、時を経た今でも不思議な力を感じるのは確かだった。 ここに『時の番人』が置かれたのも、夏休みのことだ。 初めは一人で、ずっと見ていた。毎日飽きずに、早い時間から陽が暮れるまで。 それがいつしか、二人になっていた。 途中から加わった、健一以外の人間。 おぼろげな記憶の中に残るのは、少女の姿だ。黒く艶やかで長い髪の、同い年くらいの女の子。 名前は、そう。 “ハルナ”。 どういう字を書くのかは、最後まで教えてくれなかった。難しいからわからないと言われたはずなのだが、もしかしたら単純に覚えていないだけかもしれない。 そもそも、本当に名前かも定かではないのだ。 彼女はある日を境に、ぱったり来なくなってしまった。 あれ以来一度も顔を合わせていないから、きっと今再会しても気付かないだろう。お互い、そんな程度の関係だった。 「元気にやってるのかな」 「何してんだお前、本当」 ひとりごとのつもりで呟いた言葉に、応える相手がいた。 どこかで聞いたハスキーな声。ぎょっとして振り返ると、腕を組み、こちらを見つめる野球帽の『少年』が立っている。 間違いない。 窪塚、日奈だった。 back|index|next |