健一がいないと飯が不味い。
 それは精神的な理由ではなく、純粋に料理の腕の差があるからだ。前者に起因する部分も、まあ、ないわけではないのだが。
 昼までは家にいた。一緒に食事もした。
 しかし、そこから蛍子がちょっと麦茶の買い足しと雑誌の購入をしに行ってる間に、忽然と姿を消していたのだ。
 そして極めつけに、居間のテーブルにあった書き置き。
 具体的な行き先は告げず、今日は帰ってこないと来た。当然ながら腹も立つ。ちらっと読んで、四回にわたりメモ用紙を破って捨てたのも、ある意味仕方のないことだった。
 こんな気分では、買ってきた雑誌に目を通そうとも思えない。テーブルの上へと乱雑に放り投げ、自室に戻って不貞寝を決め込む。
 クーラーを一日中使ったところで、誰に咎められることもない。
 仕事漬けで家に寄り付かない両親は、蛍子にかなりの自由を保障してくれた。健一と二人で暮らすのに困らない程度の金を出し、決して子供の行いに口を挟まない。放任主義と言えば聞こえはいいが、単に優先順位の問題だろう。
 子の親にも向き不向きがあるのなら、間違いなく絹川家の父母は向いていない。
 もっとも、蛍子は自分を可哀想だとは全く思わなかった。
 一般的な尺度で見れば、確かに異常な家庭環境なのかもしれないが、充分に恵まれている方だ。この歳になってまで親の不在を寂しく感じるような人間でもない。
 弟が。
 健一さえいてくれれば、それでよかった。

「一日は、長いな」

 無駄にクーラーの設定温度を下げ、頭から掛け布団を被る。そうしてずっと目を閉じていると、大して眠くなくてもうつらうつらしてくる。
 しばし、蛍子は時間の経過を忘れた。
 次に意識を取り戻したのは、窓の外が暗くなりきった頃。真っ暗な部屋を出て居間の時計を確認し、思わず溜め息が漏れた。

「もう九時かよ……」

 どう考えても寝過ぎだ。夕方には起きるつもりでいたのに、予定が狂った。本当に今日は散々だな、と再度嘆息して、遅い晩飯の準備に取り掛かる。
 健一ほど上手くは作れない。買い物に行く気もないので、有り合わせのもので手早く調理を済ませる。おかずはほとんど冷凍物だった。
 一人でテーブルに食器を並べ、いただきますと呟く。
 健一のいないご飯は、味気ない。
 機械的に食べ終え、片付け、風呂に入り、洗濯もし、そのままぼんやりと過ごした。
 長い昼寝の所為であまり眠くない。一瞬雑誌に手が伸びたが、すぐに引っ込めた。どうせ読めば不機嫌になる。わかっていて買ったのだ。なら、まだ精神状態がまともな時にしたい。
 明日になれば、少しは嫌な気分も抜けるだろうか。

「……どうだか」

 自分のことだってわからない。
 形のない苛立ちを抱えたまま、蛍子は眠る。



 朝の目覚めは早かった。
 時計の針が六時に達していないのを見て、二度寝しようと即座に顔を伏せたが、これっぽっちも睡魔が訪れないと知ってすぐに諦めた。
 健一は帰ってきてるんだろうかと僅かな期待をしてみたものの、やはり居間には誰もいない。朝食代わりに麦茶をがぶ飲みし、昨日置きっぱなしにしていた雑誌を手に取る。
 隔月刊アーツライフ。
 端的に言えば、芸術関係の情報を載せる雑誌だ。基本は絵画中心だが、編集側の視野が広いのか、特集を組むジャンルは多岐にわたる。
 現在進行形で美大に通う蛍子にとって、アンテナは張っておくに越したことはない。定期購読をするほどではないが、業界の大まかな動きや今の流行などを知る、手頃な情報源だった。
 ただ、一般的な雑誌に比べるとどうしてもマイナーで、普通の書店には売っていない場合も多い。蛍子が把握している限りでは、美大の購買部と駅近くの大型書店くらいだ。
 昨日もわざわざ、麦茶を買う前に駅の方まで足を運んだ。いつもなら通学のついでで済むのだが、この時期は夏期休暇中。休みなのに大学へ行きたくはなかったから、自然と選択肢は限られた。
 勿論、買わないという手もあったのだ。
 だがそれは、今回ばかりは選べなかった。

「………………」

 蛍子はじっと表紙を眺める。
 どこかぎこちない笑みを浮かべた、少女の写真。
 今や世界にまでその名を知らしめた芸術家、アヤ・クワバタケ――かつて蛍子の同級生だった、桑畑綾がそこに写っていた。
『アヤ・クワバタケの世界』と題された特集は、内容としては単純なものだ。本人と作品の写真が数点、アーツライフお抱えのライターがそれらにコメントを載せている。
 インタビューの類はなかった。当然だな、と冷めた頭で頷く。そもそも、こうして写真を撮らせていること自体が驚きだった。
 まともな対話の通じない相手。
 蛍子は綾を、そういう人物だと認識している。
 けれど、例えどんなに綾が嫌いでも、彼女の芸術性までを否定することだけはできなかった。
 絵にしろ文章にしろ音楽にしろ、普通はある程度の素養がなければ優劣は付けられない。声の大きな評論家が褒め讃えた作品が、常人にはさっぱり理解できないというようなことも、この業界では珍しくない話だ。
 特に「見せる」芸術はその傾向が強い。一部の人間に過剰なほどの評価を受けることはあれど、万人に受け入れられる作品はほとんど存在しないと言ってもいい。
 だからこそ、綾の才能は異質だった。
 誰もがわかる。小難しい理論や見方を必要としない、いっそ暴力的なまでにシンプルな“凄さ”。
 嫉妬する気にもなれない。
 それほどまでに、自分との差は歴然なのだ。

「……やっぱ読むんじゃなかった」

 わかっていて手を出したのだから、我ながら相当わだかまりが残ってるんだろうな、と思う。
 綾に対する蛍子の感情は、複雑のひとことに尽きる。恨んだし、羨みもした。が、あれは“そういうもの”なんだという諦めもある。
 もしかしたら、一生。
 解り合えることはないのかもしれない。
 閉じた雑誌を昨日と同じく乱雑に放り、煙草を吸おうと立ち上がったところで、玄関から物音が聞こえた。
 まだこっちが寝てると思っているのか、ただいまのひとこともなく、抜き足差し足といった感じで歩いてくる。
 様子を窺うように廊下から居間を覗いて、そこで蛍子と目が合った。

「えっと……ただいま」
「おかえり、健一」
「もう起きてたんだ」
「ついさっきな」

 声のトーンで不機嫌だと判断したらしく、曖昧な表情を浮かべて健一は蛍子の横を抜ける。
 冷蔵庫をおもむろに開けて中身の確認をし、いくつかの食材を台所に出して、手際良く朝食の準備を始めた。

「……ホタルは食べる?」
「要らん」
「わかった」

 短いやりとりが済めば、それ以上は会話も続かない。
 しばらく調理に付随する音だけが響き、自分で作った目玉焼きとパンを黙々と胃に入れてから、健一は着替えのために部屋へ戻った。
 一人取り残された空間で、蛍子は吐息を落とす。

「何やってんだろうな、私は」

 色々訊いてしまいたくもあった。
 毎日のように、いったいどこへ行っているのか。
 誰と会って、何をしているのか。
 だが、それをぶしつけに問うてみても、まず答えてはくれないだろう。どうしてそんなこと言わなきゃいけないんだよ、と突っぱねられるのがオチだ。
 自分は健一の姉でしかない。
 姉以上のことは、求められない。

「……あれ、その本」

 ふと俯いていた顔を上げると、着替えてきた健一がテーブルの上を凝視していた。
 目線の注がれる先には、さっき読んだ隔月刊アーツライフが置かれている。珍しい反応に訝しみつつ、蛍子は「これがどうした?」と返した。

「先週……だっけ、先々週だっけ、同じの買ってなかった?」
「まあ、買ってたな」
「お気に入りの雑誌なの?」
「気が向いたらたまに買ってくる程度」

 素っ気ない蛍子の言葉に、健一は気のない声を漏らす。
 それから改めて雑誌の表紙に視線をやり、固まった。
 一瞬見せた、驚きの表情。

「……あのさ、ちょっと読んでみてもいい?」
「別に。構わないけど」

 手が伸びて、雑誌を拾い上げる。
 ぱらぱらとページをめくり、

「これ――時の番人だ」

 蛍子がさり気なく覗き込んだ箇所には、何とも形容のし難いオブジェの写真が掲載されていた。
 時の番人、と名付けられたそれが、徒歩で行ける距離にある瓶井戸公園に飾られていることを、健一も、蛍子も知っている。
 雑誌内の表記によれば、アヤ・クワバタケが小学生の時に完成させ、区に寄贈した作品だという。実際健一が中学校に入る前から、ずっとあの場所に“時の番人”は存在していた。
 ふと、蛍子は思い出す。
 今でこそ鳴りを潜めたものの、昔の健一は事ある毎に公園へと足を運んでいた。そして“時の番人”の目前で、陽が暮れるまで眺め続けていた。
 飽きることなく、何度も、何度も。
 健一の心を捕らえて離さなかった。

「……やっぱ駄目だ」
「え」
「これ以上読みたきゃ自分で買ってこい」

 ページを見つめる健一の姿に苛立ちを抑え切れなくなって、蛍子は雑誌を取り上げた。さすがに怒らせたか、とも思ったが、あからさまな溜め息を吐いただけで、健一は何も言わない。
 それで頭はすぐに冷えた。
 本当に。
 我ながら、どうしようもない。

「……悪い。八つ当たりだったな」
「いいよ。そういうこともあるだろうし」
「そいつも読んでいいぞ。私はもう要らないから」
「わかった。ありがと、ホタル」

 これ以上ここにいても、碌なことにならないだろう。
 もう日中は部屋に閉じこもろうかと腰を上げ、そこで何となく、単純な、普段なら気にも掛けないような疑問が浮かんだ。

「なあ」
「ん?」
「芸術なんかにゃ興味ないだろうに、何で読みたいんだ?」

 特に他意はなかった。
 毒にも薬にもならない答えしか聞けないと思っていた。

「何でって……そりゃあ“時の番人”が載ってるし、綾さんのことももっと知りたいし」

 だけど、それは。
 絹川蛍子にとって、他の誰より酷い猛毒となる名前だったのだ。
 身体は勝手に動いた。テーブルの前に立つ健一へと距離を詰め、シャツの緩い襟を掴んで捻り、そのまま壁まで押し込んで叩きつける。
 頭半分の身長差。若干見上げる形で、蛍子は健一を睨んだ。

「おい。今、なんて言った」
「う……“時の番人”が、載ってるし、って」
「その後だよ」
「……綾さんのことも、もっと、知りたいし」
「綾。綾ね。そいつはアヤ・クワバタケのことか?」

 蛍子の右手で首元を圧迫されながら、健一は小さく頷く。

「じゃあ、どうしてお前がアヤ・クワバタケを知ってて、しかも“綾さん”だなんて親しげに呼んでるんだ?」

 問いかけはしたが、答えを聞くまでもなかった。
 最近やけに遅かったり不規則だったりする健一の帰り。以前、まともな余所行きの服を持っていないという女のために、自分の着なくなった衣類を渡したこと。さらに遡って、年上らしき女とエッチしてきたこと。
 全部、繋がった。
 ここまで来れば、疑念ではなく確信だ。

「春の頃、随分遅い時間に帰ってきたことがあったな」
「………………」
「あの時の女が、桑畑綾か」
「……そう、だけど」
「毎日のように遊びに行ってるのも、あの女に会うためなんだな」

 ――どうして。
 どうして、よりにもよって、桑畑綾なのか。
 他の女ならきっとまだ許せた。仕方ないと自分に言い聞かせることもできた。私は姉でこいつは弟なんだからと無理矢理にでも納得していられた。
 でも、あの女だけは。
 駄目だ。
 絵のみならず、大事な、たった一人さえも、奪っていく。

「なあ」

 するりと、右手の力が抜けた。
 緩やかに前へと倒れた蛍子の額が、健一の胸に当たる。
 縋りつくように、両手が肩に掛かる。
 頭が上げられない。
 今、絶対、酷い顔になってる。

「どうして」

 自分の意思とは関係なく、勝手に涙が溢れてきた。
 溢れて、止まらなくて、くしゃくしゃになって、声も震え始めて、それでも言葉はこぼれていく。

「どうして、お前は、あそこで逃げ出したんだよ」

 正しくないとわかっていても。
 一歩踏み出せば戻れないと理解していても。
 転がり落ちずにはいられない。
 間違いを、犯さずにはいられない。

「私は、構わなかった! こんなの違う、駄目だってずっと否定してきたけど、やっぱり、お前のことばっかり考えちまうんだ! お前となら、お前になら、襲われたって、なし崩しにしたってよかったのにって!」
「……ホタル、それって」
「でも私達は姉弟だ! 世間も、誰も、許さない! そんなのわかってる! だから言わないでいた、言わないままでいようと思った、それでいいって思ってたさ!」

 いつか、こいつにも彼女ができて。
 苦々しくも、素直に祝福する日が来ればいいと。

「思ってた。けど、無理なんだ。無理なんだよ。私は」

 ――どうしようもなく。
 お前が好きなんだって、気付いてしまった。

「……脱げ」
「え?」
「今すぐ、服を脱げ」
「ちょ、待ってよホタル、何言ってるんだよ」
「脱がないなら私が先に脱ぐぞ」
「そういう問題じゃないって! まずいだろ……っ!」

 無視して腕を上げ、汗臭いシャツを放り捨てる。
 ブラジャーのホックも外し、床に落とした。
 ぱさり。微かな絹擦れの音。
 ハーフズボンの腰回りに指を掛けたところで、健一に手首を掴まれる。

「止めんな」
「普通止めるだろ! さっきホタルも言ってたじゃないか、俺達姉弟なんだって! ホタルと綾さんの間に何があったかは知らないけど、こんなの――」
「違う、あいつは関係ない! 関係あるけど、関係ないんだ!」
「だったら!」
「お前しか、いないんだよ……っ」

 一秒もあれば、充分だった。
 ズボンを下ろしかけた手に気を取られていた健一の唇に、蛍子は自分の唇を押し付けて塞ぐ。塞いで、言葉ごと閉ざして、静かに離れた。
 涙で視界が歪んで、まともに顔も見えない。
 けれど、それでも。

「健一……あの時の、続きをしてくれ」

 彼女の声は、確かに届く。










 目の前で、蛍子が泣いている。
 何よりもその事実に、健一は打ちのめされていた。
 人間的には決して尊敬できないけれど、頑なな、強い姉だと思っていた。少なくとも健一が知る限り、こんな風にぼろぼろと涙を流すような、弱々しい声色で囁くような――女の顔をする人では、なかったのだ。
 最早誤解のしようもない。簡単な言い訳や誤魔化しも通用しない。
 実の姉に、今、求められている。
 姉弟としてではなく、一人の男と女として応えろ、と。

(でも、俺とホタルは家族で、血が繋がってて)

 それは“いけないこと”だ。禁忌の所業だ。
 わかっている。そんなの、蛍子だって百も承知だろう。
 身を切るほどの覚悟がそこにはあった。何もかもが台無しになるかもしれないと、これまでの生活が粉々に壊れてしまうかもしれないと、理解した上で踏み込んできた。
 嘘は吐けない。不実は働けない。

 だから、考えた。
 考えて――健一は、愕然とした。
 答えを出せなかったからではない。
 あまりにもあっさり、自分の心を決められたことに。

(そう、なんだよな)

 初めから気付いていたことなのだ。
 どれだけ偽ろうとしたところで、本質的に、普通ではいられない。
 だって。
 こんなにも罪悪感を覚えるのに。
 嫌じゃない。
 欲しい、と思った。
 蛍子を。実の姉を。ここで泣いている、女としてのホタルを。
 欲しいと、思ったのだ。

「ホタル」

 今度は自分から、唇を触れさせる。
 一秒、二秒、三秒。ぱさりと蛍子の両手が力なく落ちたのを見て、濡れた瞼の下に指を擦らせ、涙の雫を拭い取る。

「けん、いち」
「俺なんかで、いいの?」
「……さっき言っただろ。私にはお前しか、いないんだ」
「そっか」

 後はもう、言葉も要らなかった。
 健一の肩に両手を乗せ、身体を壁に押し込んで、蛍子が少しだけ背伸びをする。お返しとばかりに勢い良くキスをして、嬉しそうに目を閉じた。
 瞳に溜まった涙が頬を伝う。密着した二人の頬で弾け、合わさる唇の隙間に混ざる。
 これで四度目。甘やかさも何もない、塩辛い涙の味。
 どこかぎこちない蛍子の仕草に、健一は舌を出して応える。ぴっちりと閉じた唇を割り、微かな呻き声は聞かなかったことにして、蛍子の舌を探り当てる。

「んっ!? ん、ちゅ、ちゅぷ、んんっ……」

 生温かい感触に、初めは蛍子も驚いたが、次第に健一を受け入れるようになっていく。舌先で歯茎をなぞり、時に絡め合い、唾液を交換する。息苦しそうな様子を知って、鼻で呼吸する方法を教えた。一旦口を離し、無言のまま五度目を始める。
 さらに深く。貪るように。
 時間の経過さえ忘れた交わりは、蛍子の腰が砕けて終わった。
 崩れかけた蛍子を健一が支え、お互い床に膝を付く。
 蛍子の頬は、湯気が出そうなほど赤かった。

「……お前、随分手慣れてるな」
「え、えっと……」
「普通がどうなのかはわからんが、一回二回しただけじゃ、こんなに上手くならないんじゃないのか」

 尤もな質問に、苦笑いを返す。
 ほとんど毎日やってるだなんて言えない。しかも、一応事情はあるものの、綾ではなく蛍子が知らない相手だなんて余計に言えない。
 追及してくるかと身構えたが、蛍子は不満げな視線を送るだけに留めた。代わりに「ん」と口付けをねだる。
 まだ足腰が立たないらしいので、短めにした。その分回数を増やし、鳥が啄むように、触れては離れを繰り返す。

「健一、上脱がすぞ。私だけじゃ不公平だ」
「自分から脱いだ癖に」
「うるさい」

 キスの際、首に回していた腕を、蛍子は背中の方に落とした。後ろ側の裾を摘み、するすると引き上げる。着替えてきたばかりのシャツからは、微かな汗の匂いがした。

「……次はどうすればいい?」
「どうすればいいって言われてもなあ……。というか、こんなところでいいの?」
「む、そういえばそうだな。部屋に行くぞ」
「どっちの?」
「…………私のだ」
「了解」

 二人して上半身裸で歩き回るのも馬鹿らしいが、仮に居間でやっている時に両親が帰ってきたらと思うと、落ち着いてはいられないだろう。
 それに、固い床よりはベッドの方が望ましい。
 蛍子が初めてなら、尚更。

「入れ」

 行きがけに脱ぎ捨てたものを洗濯機に放り込み、健一は蛍子に連れられて部屋へと足を踏み入れた。
 素っ気ない内装だ。端には真っ白なカンバスが置かれ、その辺りから油彩独特の匂いがする。
 思えば、こうしてまじまじと見ることはなかった。

「やっぱり、画材の匂いが気になるか?」
「ううん。何というか、これがホタルの部屋なんだなって」
「……ベッドにでも座ってろ」

 照れたようにそっぽを向いて、蛍子は健一を無理矢理座らせた。そうして首を傾げる健一の前に立ち、一瞬躊躇いの表情を浮かべる。
 が、ちらっと健一を窺い、意を決して両手を腰に持っていく。
 先ほどしようとしたことの再現だった。
 指がハーフパンツに掛かる。前面のホックを外し、ゆっくりと下ろす。
 隠れていた下着は、居間で脱いだブラジャーとお揃いの黒。押さえを失ったハーフパンツを床に落とし、片足ずつ抜いて下着一枚になる。

「……っ」

 さらに長い躊躇を経て、身を捩りながらも下着を摺り下ろした。くしゃくしゃに崩れたハーフパンツの上に、丸まった黒の下着が重なる。
 片手を胸に、もう片手を股間の茂みに添えた蛍子は、今にも倒れそうなほど顔を赤くして、それでもそろりそろりと手を外していく。
 文字通り、一糸纏わぬ姿。
 裸なんて見慣れていたはずだった。風呂上がりのはしたない格好を目にしたところで、これまで興奮するようなことは一度もなかった。
 しかし今、健一の心臓は破裂しそうな勢いで高鳴っている。
 乾いて水気の飛んだ唾を飲み込む。
 可愛い、と思う。
 こうして目の前で恥じらう蛍子を、愛したい、と思った。

「……あんまりじろじろ見るな」
「見るよ。ホタル、すごい綺麗だ」
「なっ……き、綺麗って、真顔で言うやつがあるか」
「素直な感想なんだけど」
「……本当の本音か?」
「うん」
「私と、したいって思ってくれてるのか?」
「思わなかったらとっくに逃げてる」
「そうか。……そうか」

 ベッドから立ち上がり、宙をさまよう蛍子の手を一気に引く。
 胸元に身体を抱き寄せ、軽くキスをひとつ。

「健一、お前も下を脱げ」
「折角だからホタルが脱がせて」
「む、わかった」

 ズボンのホックとチャックに指が掛かったのを見計らい、背中に回していた手を蛍子の胸に運んだ。
 俯く頭に遮られて見えないが、そこまで支障はない。下から掬い上げるように、膨らみに触れる。
 小さく響く矯声。いきなりで怒られるかもという危惧は、蛍子が脱がす作業を再開したことでなくなった。
 大きさで言えば、綾ほどではない。
 が、充分に柔らかく張りもある。そして何より反応がいい。初めこそ慎重にしていたものの、嫌がる気配がないと知ってから、健一は指の動きを大胆にした。
 全体に五指を沈ませて揉みしだく傍ら、時折乳首に指を引っ掛け、あるいは挟んで転がす。上から押し潰してもみる。
 間近で段々と艶めいてくる声を聞きながら、煽るように、焦らすように健一は胸を責め続けた。

「はぁ、く、ん……っ、腰、浮かせろ」

 刺激を受けておぼつかない蛍子の手が、ようやく健一のトランクスに掛かった。言葉通りに上げた尻が外気に晒されるのと同時、両手の親指と人差し指で摘んだ乳首をきゅっと捻る。
 瞬間、蛍子の身体が跳ね上がった。
 一際強く震え、くたりと弛緩する。倒れてきた蛍子を受け止めると、恨みがましい視線を向けられた。

「……お前には、情緒ってものがないのか」
「ごめん。だってホタルがあんまりにも可愛いから」
「そういうことばっか言ってれば、許されると思うなよ」
「どうしたら許してもらえる?」
「まずはキスだ」
「ホタル、キス好きだね」
「うるさい」

 今までで一番可愛らしい我が儘だろう。
 勿論断る理由もなく、顔を寄せて口付ける。さすがに何度もして慣れたのか、舌を入れることにも抵抗はなかった。じっくりと味わって、お互いに貪り合う。

「ちゅ……次は?」
「手、出せ」

 名残惜しげに唇を離し、命令に従って右手を差し出す。それを掴み、蛍子は下腹部に導いた。
 ベッドに座る健一に寄り掛かった姿勢で、開いた両足の間、僅かなスペースに蛍子は膝を置いている。されるがままに茂みの生えた場所をなぞり、指先が割れ目に到達する。
 濡れているのは、すぐにわかった。

「……触っても、いいぞ」

 誘う言葉に、鼓動が殊更強くなる。
 壊れ物を扱うように、そっと秘裂へ指を入れる。

「ふぁ……、あ、けんいち」
「ホタル……まだ全然いじってないのに、感じてるんだ」
「だって、こんな風にされるの、何度も想像、してたから」

 とろけた顔と声で。
 そう言われて、我慢できるはずもない。
 二本目の指も追加で突っ込み、中を掻き回しながら、健一は陰核を探し当てる。これから行くよ、と指の腹で撫で、蛍子が身を震わせたのを確認してから爪で引っかいた。
 蛍子の腰が浮き上がる。愛液がさらにどっと溢れ、軽くイッたのか、口を半開きにして数秒硬直した後に、物凄い目で睨まれた。

「おま、いきなり、っ、それは、ないだろ!」
「ごめん。ちょっと調子に乗り過ぎた」
「私は初めてなんだからな。……優しくしろ」
「わかってる。今度はちゃんとやるよ」

 先走ったのも否定できない。一旦心を落ち着け、緩やかに前戯を始める。空いた手で胸にも触れつつ、徐々に蛍子を高ぶらせていく。
 充分過ぎるほどにしたところで、健一は指を秘裂から抜いた。
 頬を上気させ、息も荒くなり始めた蛍子に「そろそろかな」と告げる。

「ん……いよいよ、なのか」
「もしかして、怖かったりする?」
「そりゃ、まあ、ちょっとは。でも、やっぱり、嬉しいよ」

 首元に蛍子の腕が絡み付く。
 唇を静かに押し当て、ふっと表情を綻ばせた。

「この日を、ずっと待ってた」

 返事は言葉にしない。
 ただ無言で、優しくベッドに組み敷く。
 健一の方は既に準備万端だった。股間で反り立つものを見て、蛍子も息を飲む。

「そ、そんなもんを挿れるのか」
「一応まだ、今なら何とか止められなくもないけど……」
「馬鹿、ここまで来て退けるか。嫌だって言ってもやるぞ」
「言うつもりもないって」

 緊張を誤魔化すように軽口を叩き、慎重に健一は腰を落としていく。じりじりと近付けた先端が入口に差し掛かり、

「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「…………何」
「そんな顔するな……。手だ」
「手?」
「握ってくれ。そうしたら、怖くない」

 覆い被さる身体の下、影に薄く染まった蛍子の瞳に、微かな怯えの色を見た。
 それは、健一が知らなかった、知ろうとしなかったホタル。
 等身大の、一人の女の姿だ。
 所在なくベッドの両側に投げ出された手に、自分の手を重ねる。
 恋人握り。固く、強く、合わせる。

「行くよ」
「ああ」

 当たりはもう付けていた。小さく開いた秘裂に健一が割り入る。呻きと共に繋いだ手の力が増すが、構わず進めた。
 ぬかるみの中は熱く、まだ先は遠いのに、ともすれば達してしまいそうな快感をもたらした。理性に反して動き出そうとする腰を留め、抵抗がある場所まで辿り着く。
 敏感な亀頭に、薄い膜の存在を感じた。
 処女の証。
 それを、人生でたった一度の大切なものを、弟の自分が奪ってしまっていいのか。不意に浮かんだ迷いに息を止めた健一は、そこで蛍子の目を見た。
 ――後悔しないなんて、断言できるわけがない。
 けれど。
 世間的には間違っていても。
 好きで、大事で、だから愛そうと決めたのだ。
 躊躇いこそすれ、迷う必要はない。

「ぐ……っ、あっ!」

 長引かせるよりはいいだろうと、一気に突き入れた。
 ぶつっという痛々しい音を押し切り、きつく絡み付く内壁を擦りながら、最奥に到達する。手の甲には強く蛍子の爪が食い込み、少し血も滲んでいた。

「入った。全部、入ったよ」
「つぅ……ああ、健一が、中にいるの、わかる」
「ちょっと休む?」
「大丈夫、だ。まだ痛いけど、お前なら、いい」

 頷く代わりに、ゆっくり腰を引く。
 締め付けが激しく、気を抜けばすぐにでも果ててしまいそうだった。根元に込み上がる衝動を何とか抑え、雁首から後ろを外気に晒す。
 赤色の混じった愛液が、とろりと蛍子の尻を伝い、ベッドのシーツに染み込む。その様子を確認するより早く、身体ごと押し付けるようにして挿入した。

「は、あっ、ふ、く、うぅ……んっ」

 恥ずかしいのか、声を堪える蛍子に、健一は抽挿の速度を上げることで応える。
 もっと鳴かせたい。感じさせたい。
 そう考えることを、もうおかしいとは思わなかった。
 ぐちゅ、ずちゅ、という粘ついた音は、次第に間断のない、破裂音に近いものへと変わっていく。

「ひっ、あ、あっ、けん、いちっ、けんいちっ!」
「やば……ホタルの中、すごいキツキツで、気持ち良過ぎる……!」
「へんだ、わたし変になる、こんな、痛いのに、きもちよくて、やぁ、まって、まって!」

 制止の言葉を口にしながらも、蛍子の乱れ様は凄まじかった。普段の低めな地声からは想像できない、高く、ぞっとするほど艶やかな喘ぎ声。中性的な喋り方からは程遠い、女らしい口調。
 殻に包まれた知らない姿を、一枚一枚剥がして露わにして、自分だけで独占するような、得も言われぬ快感があった。
 止まらない。止まるつもりもない。
 それでも限界が近いことは、頭の隅で理解していた。腰を打ち付け、身体ごと重なって、ラストスパートに掛かる。

「けんいち、んっ、あ、はぁっ、だめ、だめ、わたしもう、っ!」
「く、あっ、ホタル、ホタル! 出る……っ!」
「ひっ、ああああああぁぁぁぁぁぁ!」

 外に出そうという考えは全くなかった。
 深く突き込んだ膣内に、大量の白濁が注がれる。狂的な熱と快感も一緒に流れ出していくかのようで、危うく意識を持ってかれそうになる。
 数秒にもわたる長い射精を終え、健一は残った力で肉棒を引いた。ほとんど抵抗なく抜け、堰を失って溜まっていた愛液と精液がごぼりと溢れる。
 強い絶頂を迎えた蛍子が、一拍遅れて瞼を震わせた。
 起き上がる気力もないのか、首だけを軽く捻って周囲を見回し、それから健一の姿を認める。
 まだ頭がはっきりしていないらしく、胡乱な目で健一を注視し、

「ん」

 キスをねだられたのでそうした。
 たっぷりと柔らかな感触を味わって、一息。

「……健一?」
「うん」
「私は……気持ち良かったか?」
「正直、途中から我を忘れてた」
「なるほど、そうか。ふふ、確かに正直だな」

 結んだ手指を解き、健一の腰を抱き寄せる。
 瞳を閉じ、愛おしむように。

「お前が好きだ。本当に好きだ」
「……俺は」
「答えなくていい。お前は私を求めてくれた。だから、今はこれで充分だよ」
「………………」
「ところで、あいつとは何回やったんだ?」

 耳元でとんでもない問いを囁かれた。

「えー、えっと……言わなきゃ駄目なのか?」
「正直に教えてくれたら許してやる」
「……五回です」
「五回? 初めてで?」
「はい」
「…………なら、六回だ」
「え?」
「私にはあと五回しろ」
「それは、その、俺はともかく蛍子はきついんじゃないかと」
「あいつに負けるのは我慢ならん。それに――」
「それに?」
「お前となら、何度だってしたいと思うから」

 結果。
 四回目で蛍子が失神して、そのまま朝まで目覚めなかった。



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何かあったらどーぞ。