十三階の面々とは、この時間に必ず会おう、というような決め事をしていない。それぞれ生活リズムが違うし、必要以上の過度な干渉はしない、そういう暗黙の了解が存在しているからだ。
 となれば必然、タイミングが合わないこともある。
 千夜子の弁当批評をした翌日、昼食を済ませてから十三階に顔を出した健一は、1301を覗いて首を傾げていた。
 誰もいない。
 それ自体は珍しくも何ともないのだが、てっきり一人くらいはいるんじゃないかと思っていたので、肩透かしを食らった気分だった。
 早々に部屋を抜け、皆の居所を考えてみる。
 綾は、まあ、作業中だろう。確か昨日もそんなことを言っていた。もしかしたら昼も摂ってないかもしれない。
 刻也はバイトか、あるいは1302で勉強でもしているか。プライベートではボウリングをしている姿しか見ていないので、いまいちオフの過ごし方が想像できない。ただ、どちらにしても今会えそうにはなかった。
 と、そこまで思索したところで、1303の前に辿り着く。

「有馬さん、いますか?」

 軽いノックと共に問いかけ、それから健一はノブを握った。
 十三階の各部屋には呼び鈴がない。基本的に一人一部屋なため、割り当てられた自室へ入る分には困らないのだが、1303だけは健一と冴子の共同空間だ。返事はないとわかっていても、こうして呼び鈴代わりに声を掛けるようにしている。
 鍵は掛かっていなかった。軋む扉の向こう、玄関に一足のサンダルが置かれているのを確認する。健一も靴を脱ぎ、真っ直ぐ居間に向かう。

「……絹川君?」
「はい」

 冴子はそこから程近いキッチンにいた。
 焦点の合わない、薄ぼけた視線をゆっくりと動かして、健一の姿を認める。
 流し場の横にはコップがひとつ、先ほど注いだばかりらしい水で満たされている。さらにその傍らには、一錠分ずつ切り取られた何種類かの薬。まだパッケージされたままだった。

「ごめんね、ちょっとだけ待っててくれる?」
「別に急ぎの用事ってわけでもないのでいいですけど……わかりました」
「すぐ終わるから」

 人差し指と中指に包みの底側を乗せ、親指で押し込んで中身を広げたもう片方の手の中に落としていく。
 丸い錠剤と、カプセルタイプの物もあった。知識のない健一には、それらがどういった効能を持つのか検討も付かなかったが、健康な人間が飲む量じゃない、ということくらいはわかる。
 何故か、そのうちのひとつがやけに目に付いた。
 青と白のカプセル。封の部分はメタリックブルーと言える色で、遠くてよく見えないが、濃い青で薬の名前が書いてある。
 冴子は手のひらの薬を一気に口へ放り込み、コップを静かに呷って嚥下した。ごくりと喉を鳴らし、再度水を飲む。そうして一息吐くと、使い終わったコップをさっと洗って逆さに置いた。

「身体、どこか悪いんですか?」
「女の子は色々大変なのよ」

 空になった薬の封を捨て、冴子は薄く笑んだ。
 誤魔化された感もある。しかし、追求したところでこれ以上の答えが返ってくるとも思えなかった。
 いつか、話してくれるんだろうか。
 内心で嘆息し、ひとまず別の話題を探そうとすると、いつの間にか間近に寄ってきた冴子が、健一をじっと見つめていた。

「え、えっと……何でしょう」
「煙草の匂い。最近結構強かったのに、今日はあんまりしないなって思って」
「ホタルの吸う数が減ったから、ですかね。そんなにちゃんと見てるわけじゃないですけど、僕のいるところで吸うことは少なくなりました」
「そういうことなのね。お姉さんの機嫌は戻ったの?」
「たぶん……正直よくわかりません」

 千夜子と別れてから直接十三階に行き、日が変わる前に帰ったのだが、その頃にはもう蛍子は寝てしまっていた。
 てっきり詮索されるんじゃないかと身構えていたので、軽く拍子抜けしたのを覚えている。
 昼まで一緒にいたものの、結局昨日のことを訊かれたりはしなかった。ただ、会話らしい会話もなく過ごしていただけだ。
 微妙にイライラしているようにも見えたが、それだって確実とは言い難い。誰より長い付き合いの姉なのに、健一にはその心境がほとんど読めなかった。
 ずっと。
 あの時も。

「……まあ、心配されるようなことはなかったですから」
「ならよかった……のかな。お昼はもう?」
「食べてきました。有馬さんは?」
「八雲さんとさっき。綾さんの姿は、今日は見てないわ」

 また部屋に籠もってるということは、作業の真っ最中だろう。落ち着くまで待つしかない。

「となると、八雲さんは1302ですかね」
「夕方からバイトみたいだけど、それまでは部屋にいるって」

 1301に住人不在だった理由を理解し、健一は得心した。
 いつもなら麦茶を飲みつつぼんやりするのだが、さてどうしようか、と考えたところで、目の前の冴子が急にふらついた。
 慌てて肩を掴む。
 のっそりと健一を見上げた冴子の顔色が、普段以上に白く透けている。

「あ……ごめんなさい」
「いえ。それより有馬さん、体調悪そうですけど、もしかしてさっき飲んでた薬と関係あるんじゃ」
「ううん、違うから大丈夫。昨日外に出たから、今になって疲れが出てきたのかも」

 慎重にソファへ座らせると、瞼を下ろした冴子が深く息を吐いた。
 辛うじて聞こえる程度の声量で、もう一度「ごめんなさい」と健一に告げる。力の抜けた身体で寄り掛かり、

「しばらく、こうしててもいい?」
「僕なんかでよければ」
「絹川君しかいないわ」
「……ですね」

 頭を傾け、眠ったように動かない冴子を見て、健一は頬を掻いた。
 弱っている彼女を目にすることは割とよくあるが、こういう状況は意外とない。ほとんど毎日肌を重ねていても、同じ場所に居続けていても、どうにも気恥ずかしさは拭えなかった。
 密着する肩から、冴子の微かな熱が伝わってくる。
 垂れ下がる長い黒髪が、所在なくソファの下に置いた手の甲をくすぐり、間近で冴子の体臭を感じた。
 甘やかで、ほんの少し汗の匂いも――

「……あ」

 と思った瞬間、不意に冴子が目を開けた。
 反射的にビクッとしてしまい、焦る。内心冷や汗ものだったが、当人は自分の袖を口元に持っていき、それからゆっくり腕を下ろして、すっと立ち上がった。

「……どうしたんですか?」
「あの……ね、ちょっと汗臭いから、シャワー浴びてくるわ。絹川君も来たことだし」
「えっと、じゃあ、僕はどうしましょう」

 馬鹿なことを言った、と気付いたのはすぐ後。
 冴子はソファに座る健一を見ないまま、風呂場へ向かう前に呟いた。

「絹川君って、本当にエッチなのね」










 性行為が冴子にとって“眠るための手段”である以上、交われば彼女は床に就く。昼でもそれに変わりはない。
 ベッドの中で冴子が寝たのを確認してから、健一は一旦自宅に戻った。休ませることはできたものの、やっぱりまだ心配だ。なるべくなら夜に再び寝付くまで、そばにいておきたい。
 そういうわけで、今日も帰りは遅くなる旨を蛍子に伝えようと思ったのだが、どこにも姿がなかった。
 自分の部屋かとノックをしてみても、返事がない。鍵も閉まっていたし、どうやら出かけているらしかった。書き置きの類はなく、行き先も帰ってくる時間もわからない。
 仕方なく居間のテーブルに走り書きの伝言を残し、改めて十三階に足を運ぶ。
 冴子は、陽が沈む頃になるまで起きなかった。
 夕食時には綾も顔を出してきたが、遅めの食事を済ませるとまた部屋に籠もってしまった。結局1301でも二人きりになり、冴子が洗い物を終えると、お互い手持ち無沙汰になる。
 向かい合って食後の麦茶を飲むも、会話はほとんどなし。
 結局妙な雰囲気のまま、1303に戻ることになった。

「……もう、寝ます?」
「お昼に一回寝ちゃったから……してもすぐには眠れないかな」
「……ですよね。どうしましょうか」

 今は十時過ぎ。
 さすがにもう、1301には誰もいないだろう。この時間は大抵二人でベッドに入っていて、あまり他のことをしていた記憶がない。

「家には帰らなくていいの?」
「書き置きはしてきましたから、大丈夫です」
「そう。……ねえ、絹川君」
「何ですか?」
「もしよければ、なんだけど、外、行かない?」

 珍しい提案だった。
 学校がある日以外、冴子は滅多に十三階からは出ない。
 今日のように疲れやすいから、という理由もあるのかもしれないが、おそらく噂絡みの面倒事に巻き込まれかねないと考えているのだろう。
 実際、初めて会った時がそうだった。
 窪塚佳奈の剣幕を思い出し、健一は返答に迷う。

「……平気よ。別に今すぐってわけじゃなくて、十二時を回ってからにしようと思うの。それなら、人に会うこともほとんどないはずだし」
「うーん……まあ、有馬さんがそう言うなら付き合いますよ」
「ありがとう」

 とはいえ、言ってしまえばこれは過ぎた心配だ。
 冴子一人ならまだしも、自分が付いていればそうそう絡まれることもないはず。
 別に遠出をするわけでもないし、軽く散歩するだけ。よっぽど運が悪くない限り、何事もなく戻ってこられるだろう。
 だから健一は、冴子の言葉を信じることにした。



 そうしておよそ二時間後。
 外灯が並ぶ道路の、特に人が少なそうな細い道を選んで二人は歩いていた。

「さすがに夜は涼しいですねえ」
「そうなの?」
「昼なんてもう、家から一歩出ただけで嫌になりましたから。十三階はクーラーあるのでそこまで気にならないですけど」
「ずっと室内にいるとわからないものね」
「でも、廊下の方は暑かったんじゃないですか?」
「……私、鈍感だから」

 ぽつりぽつりと話しながら、隘路を抜けて大通りに出た。
 中途に建つコンビニは明るく、小さな駐車場の辺りには何人かの高校生らしき影がたむろしている。
 その様子を遠巻きに眺め、密やかに冴子は呟く。

「この時間になっても、結構人がいるのね」
「みんな夜遊びが好きなんじゃないのかなと。夏休みですし」
「そっか。そういう風に考えたことなかった」
「……やっぱりまずかったです?」
「私のこともあるけど……絹川君も、私と一緒にいるところを知り合いに見られたら困るでしょ?」
「うーん、どうなんでしょ。知り合い自体がそんなにいないというか」
「大海さんとか、鍵原さんとか」
「確かに、鍵原には会いたくないなあ……」

 この状況で遭遇したら最後、理不尽に首を絞められる未来しか思い浮かばない。
 本気で嫌そうな顔をした健一に、冴子はくすりと笑みを漏らした。

「早めに戻りましょう」
「ですね」

 と、次の曲がり角に差し掛かった瞬間、冴子の表情が固まった。向かいから現れた人影に、じっと視線を注いでいる。

「飯笹君」
「……有馬」

 そう呼ばれた相手の方も、冴子の姿を認めた途端に身構えた。
 さらに隣の健一を見やり、あからさまに舌打ちをひとつ。ポケットに手を突っ込んだままこちらに近付き、

「今日はその男かよ」
「………………」
「はっ、答える気はないってか」

 険悪な空気を隠そうともせず、二人の前に立った。
 冴子はさっきから全く口を開かない。静かに、感情が抜け落ちたかのような目で、動かずにいる。
 相手が冴子の知り合いだということは何となく読めたが、いったいどんな相手柄なんだろうか。ただ、少なくとも良好な仲でないのは確かだ。
 じり、と足に力を入れ、健一は俯きかけた面を上げる。
 しかしそれをまるっきり無視して、飯笹君と呼ばれた男は冴子を睨んだ。

「この時間なら、今からコイツの家に行って、ってとこか」
「だったら何?」
「気に入らねえな。なあアンタ、この女がどういう奴か知ってて付き合ってんの?」
「……詳しくは知りませんけど」
「じゃあ教えてやるよ。コイツは酷え女だぜ。彼女のいる男に手出して別れさせて、そしたらまた次の男に手を出すんだ。しかも」

 急に話の矛先を向けられ、苛立ちを募らせつつも健一は答えた。
 自分でも声が低くなったのがわかる。そんな健一の変化を知ってか知らずか、飯笹は無遠慮に左肩を掴み、力を込めてくる。
 食い込む指の付近に感じる、滲むような痛み。

「やる前は可愛いと思ったのに、一度しちまったらもう興味ないとばかりに姿を消しやがる。男と寝るために平然と嘘を吐く、そういう女なんだよ」
「ぐ……っ」
「だからアンタも、さっさと逃げた方がいいぜ。俺とアンタ、お互いのためにな。優しい優しい俺からの忠告だ」
「……僕は、そんな風には思いませんけど」
「ああ?」
「確かに、有馬さんのことはあんまり知りません。でも、男と寝るために平然と嘘を吐くだなんて、思えないんです」
「それこそがコイツの手口なんだとしたらどうだ? する前まではまともで可愛い女を演じて、まんまと相手を騙くらかす。俺の時もそうだった。違うか? そうだよなあ、有馬」

 健一の肩を握る力は緩めずに、飯笹は冴子へと向き直る。
 飯笹を見つめる冴子の瞳は冷たかった。
 敵意も、怯えもない。

「そうだったかもね」
「かもね、じゃねえだろ。お前の所為で佳奈と別れることになったんだ。男の前だからっていい子ぶってんじゃねえよ」
「この人は関係ないわ。私があなたを嫌いなだけ」

 ――そこに浮かぶのは、紛れもない、嫌悪の情だ。
 こんな冴子を、健一は初めて見た。

「へえ。関係ないんだってさ、お前」

 彼女の言葉に顔をしかめた飯笹が、一瞬肩を握る右手の力を弱めた。それを疑問に感じたのと同時、浮いていた左手が後ろに引かれる。
 健一が確認できたのはそこまでだった。

「げふ……っ」
「絹川君っ!」

 大丈夫です、と返そうとしたが、言葉が出ない。
 殴られた腹は酷く痛み、内臓が逆流しそうな気持ち悪さがあった。苦しい。息がまともにできない。足の力も抜け、立っていることすら難しくなる。
 冴子の健一を呼ぶ声は、必死で、悲痛だ。
 そして、そのことが飯笹の癇に障ったのは間違いなかった。

「随分と心配されてるみたいだな」
「は、ぐ」
「そんなにコイツが心配か、有馬ぁ!」

 掴まれたままの肩を基点に、身体が引っ張り上げられる。
 さらに一発、無防備な腹に拳が叩き込まれた。危うく嘔吐しかけ、何とか堪える。ともすれば手放しかねない意識の中で、どうしてこんなことになってるんだろう、とぼんやり思う。
 閉じられない口端からこぼれた涎が、ぽたりと地面に落ちた。
 冴子は健一のその様子を、両手を固く握り締めて見る。

「どんな男とも一晩限りってのは嘘だったわけか? コイツが本命で、俺に声掛けた時にはもう、最初から捨てる気でいたのか?」
「違うわ。それに、あなたには窪塚さんがいたでしょ」
「お前の所為で別れたけどな」
「……ええ、そうね」
「まあ、あんな女のことはどうでもいいんだよ。確かに顔は可愛かったけど、プライドだけは高くて、その癖ちっともやらせちゃくれなかった。どうせ一発やったら別れるつもりだったし、別に好きでも何でもなかったからな」
「可哀想な人」
「……何だと?」
「私があなたと寝たのは事実だわ。でも、あなたが振られた原因は、本当に私だけにあるの? それを認められないあなたは、可哀想な人よ」
「なっ……じゃあお前は悪くねえってか!? 全部、お前の所為じゃねえか! なのに何が可哀想な人だよ!」

 淡々とした冴子の指摘に、飯笹が声を一層張り上げた。
 沈みかけた健一を叩き起こすかのように、三度目の拳を腹部に突き入れる。
 吐かなかったのは、せめてもの意地だった。

「俺に女を殴る趣味はねえからな。お前にどう復讐しようかって考えてたけど、丁度いい。コイツを目の前でボコしてやるよ」
「……う、く、そ」
「アンタは生け贄だ。ま、運が悪かったと思って諦めな」
「はぁ、っ、だ、れが、いけにえ、だ」
「黙ってろ」

 肩を離され、立とうという意思とは裏腹に、膝から崩れ落ちる。そうして地面に倒れた直後、掬い上げるような蹴りが脇腹にめり込んだ。
 喉元に胃液の味がせり上がる。
 涙を滲ませながらも、それを留める。

「……もうやめて。この人は関係ないって言ってるでしょ」
「だったら見捨てていきゃいいじゃねえか。そしたら俺もコイツは放ってやっていいぜ。お前は別の男を探すんだろうが、それならそれで俺は納得できる。やっぱりお前は人でなしで、噂通りの女だ、ってな。コイツは一晩路上でおねんねってことになるが、構わねえだろ? 関係ないんなら」

 明らかに飯笹は、冴子が健一を見捨てないと確信していた。
 意地の悪い問いを投げかけ、うつ伏せになって倒れる健一の背中を踏みつける。
 そのまま体重を、ゆっくりと。
 骨の軋む音が、身体の奥から聞こえた。
 健一は歯を食い縛る。
 耐えればいい。反撃の機会はなくとも、ひたすら耐えれば、冴子が現状を脱する程度の時間は稼げるかもしれない。
 だから見捨てて逃げてくれれば、と思った。
 ここで別れても、また後で会える。冴子の帰る場所は、あの十三階だ。あそこにしか今はないはずなのだ。
 わかった、と頷くだけで。
 それだけで、いいのに。

「……どうすればいい? あなたはどうすれば満足なの?」

 冴子は。
 健一を守ることを、選んだ。

「じゃあまず謝れ。私の所為で窪塚さんと別れることになってすみませんでした、って」
「……私の所為で窪塚さんと別れることになって、ごめんなさい」
「マジで謝んのかよ。プライドねえなおい。つーか、謝られても佳奈とよりを戻せるわけじゃないんだよな」
「謝れって言ったのはあなたじゃない」
「はっ、覚えがねえな。それより、まだ俺の気が治まらねえからさ。ああ、そうだな、またやらせろ。今度はお前の方から誘え。是非私と一緒にラブホ行ってエッチさせてください、って。ほら、言ってみろよ」
「………………」
「早くしないと、勢い余ってコイツの横っ面を蹴っちまいそうだぜ。ついでにそこでパンツでも脱いでくれりゃ最高だな。そのくらいしたら許してやるよ。コイツはもうボコられずに済むし、俺はいつでもやれる女を手に入れられる。お前も謝罪する機会を得られる。いいこと尽くめじゃねえか」
「……脱げば、いいのね?」

 情けなかった。泣きたかった。
 辛くて、苦しくて、いっそこのまま寝てしまいたかった。
 喧嘩なんて碌にしたこともない。当然本気で殴られ蹴られるのも初めてだ。痛みに慣れてるはずもないし、心はとうに折れかけている。
 それでも、健一だって男だ。男なのだ。
 冴子のことは“こんな奴”よりよく知っている。本当は優しくて、自分のしてきたことで傷付いて、どうしようもないとわかっていても、誰も見ていないところで懺悔をするような、そういう人なんだと。
 少なくとも、自分は。
 そんな、普通じゃない彼女を受け入れたいと、思う。

「あ、りまさん……っ!」

 伸ばした手が、飯笹の足首を掴んだ。
 白い靴下の上から爪を立て、力の限りに握る。スカートの中に手を入れかけた冴子も、それをにやにやしながら眺めていた飯笹も、健一の足掻く姿に気付いた。

「なっ、テメェ!」
「絹川君!」

 何度か振り解こうとして諦めた飯笹が、もう片方の足を後ろに引いた時、耐え切れず駆け寄りかけた冴子がはっと振り向いた。
 鈍い殴打の音。ぐえ、と蛙のような呻き声を上げ、白目を剥いて緩やかに前へと倒れる。

「ったく、アホは死ねよな、本当」

 呆然とした健一は、一拍遅れてその背後に人影を見つけた。
 深く帽子を被った少年だ。背は低く細身で、肩より少し長い髪を軽く編んでいる。中性的な面立ちにハスキーな声。所作や口調は男性的だが、それ故に健一はちぐはぐな印象を受けた。

「そこのお前、何か随分ボコボコにされたみたいだなあ。男ならもうちょい頑張って女を守ってみせろって。俺が来なかったらどうなってたかわからないぜ」
「……すみません」
「ま、でも、おかげでコイツを見つけられたんだし、むしろ感謝するのはこっちの方なんだよな。サンキュ」
「この人のこと、探してたんですか?」
「色々あって、前から気に入らなかったんだよ。そんでいつかとっちめてやるつもりだったんだけど、正面からじゃ分が悪い。と思ってたところで、お前がいい感じに気引いてくれてたからな。こう、金的必殺だ」

 見敵必殺じゃないのか、と突っ込みかけたが、よくよく思い返してみれば、さっきは後頭部を殴った上、飯笹の股間にピンポイントで蹴りが入っていた。
 あながち間違っているわけでもない。
 僅かながら飯笹に同情した健一は、少年に差し伸べられた手を取って起き上がる。まだ立っているのも辛かったが、慌ててそばに来た冴子に肩を借り、どうにか姿勢を保つ。
 と、そこで少年が露骨に眉を顰めた。

「って、有馬冴子かよ。変な女助けちまったな……」
「有馬さん……知ってる人ですか?」
「たぶん、だけど……窪塚さんだと思う」
「え?」
「窪塚日奈さんよね?」
「うわ、マジかよ……何でわかるかなあ、本当」

 健一は自分の耳を疑って聞き返そうとしたが、お互いの反応からして、冗談ではないらしい。
 窪塚日奈。
 冴子と出会ったきっかけでもある、窪塚佳奈の双子の妹。
 同じ学校に通ってはいるものの、クラスが違い、面識もない。ただ、美少女姉妹として学内に名が知れ渡っているから、それを覚えていただけだった。
 噂によれば、可愛らしく控えめな子だという。
 しかし、今目の前にいる日奈は、そのイメージから程遠い。
 ほとんど別人だ。

「んー、あんま恩着せがましいこと言いたくはないんだけどさ、さっき助けた礼ってことで、このことは黙っといてくんないかな」
「それは構いませんけど」
「隣のも、いいか?」
「あ、はい」
「んじゃそういうわけで! 約束だからな、本当!」

 痛みもあり、いまいち現状をよく理解できていない健一がとりあえず頷くと、日奈はしゅたっと手を上げ、走って行ってしまった。
 置いてかれた二人で、しばし顔を見合わせる。

「……えっと、どうしましょうか」
「帰りましょう。ここに居続ければ、また彼が起きてきちゃうから」
「そう、ですね……っ」
「……やっぱり、痛い?」
「違うって言ったら嘘になりますけど、大丈夫ですよ。このくらいなら耐えられます」
「そっか。……よかった」

 倒れたままの飯笹を置いていくのは若干気が引けたが、放っておいてもしばらくすれば目を覚ますだろう。何より、あまり大きな問題にしたくない。
 幽霊マンションまでの十分程度が、今ばかりはやけに長く感じた。途中からは冴子の肩を借りず、自力で歩けるようになったのでそうする。
 まだ違和感の残る腹を擦りながら、健一は冴子の横顔を窺う。
 仕方ないとはいえ、さっきからずっと暗い表情だった。

「ごめんなさい。こんなことに巻き込んじゃって」
「いえ、いいですよ。五体満足……とは言えませんけど、大した怪我にもなってないですし」
「でも、もしかしたらもっと酷い目に遭ってたかもしれない」
「結果的に平気だったんですから。有馬さんは気にし過ぎですよ。それに、僕の方こそ全然駄目だったというか、頼りにならなかったというか」
「そんなことないわ。そんなこと、ない」

 健一の言葉を、冴子は強く否定する。

「全部、自分で招いたことだもの。わかってたけど……私、トラブルに巻き込まれやすいから。だからもう、一緒に外に出るのは止めましょう」
「いやでも、ずっと十三階に閉じこもってるわけにもいかないですよね? だったら尚更一人にはさせられませんよ。こっちの知らないところで何かあったらって思うと、気が気じゃないです」

 飯笹が言っていたような、今日限りの出会いであったならば、ここまで心を砕くこともなかっただろう。
 けれど健一は、既に知ってしまった。関わってしまった。
 見過ごせるはずもない。

「……絹川君」

 不意に、冴子の足が止まる。
 一歩前へ出た健一が振り返った先、彼女は静かに瞼を落としていた。
 祈るように。
 あるいは、感謝するかのように。

「世界の隅っこにでも自分の居場所があるってだけで、私は幸せだから。ときどきこうして絹川君に優しくしてもらえるだけで、充分過ぎるの。いつか罰が当たるかもしれないって思うくらいなの」
「……そんな」
「だからいいの。それだけでいいし、それだけでいたいから」

 納得いかない、という気持ちもあった。
 しかし、冴子はきっと色々なことを諦め、受け入れている。そこに至るまでの経緯を、冴子の境遇や人生を、今健一は知り得ない。いつか冴子が語ってくれるまで、聞くことはないだろうと思う。
 なら自分にできることは何なのか。
 考えて、答えが、胸にすとんと落ちた。

「そっか。じゃあしょうがないですね」

 誰にだって、誰かを縛る権利はない。
 それが冴子の確固たる意思ならば、健一にはどうしようもないのだ。
 だからしょうがない。

「……やっぱり、絹川君って面白いのね」
「え、どうしてです?」
「普通は引き留めたりするものだと思うんだけど、あの状況で“しょうがないですね”って真顔で言うんだもの」
「……ちょっと冷たかったですかね」
「絹川君らしいわ」

 肯定も否定もせず、冴子はようやく笑った。
 また二人で歩き始める。先ほどまで感じていた微妙な息苦しさは、気付けばなくなっていた。

「別に、絹川君のことを信用してないわけじゃないんだけど」
「はい」
「私との約束、覚えてる?」

 幽霊マンションを目前にして、唐突にそう問われる。
 まだ、健一が冴子と肌を重ねていなかった時の、切実な声色で告げられた“お願い”。
 守れないかもしれない、と健一は返した。
 その思いは今も変わらない。
 ただ、

「大丈夫です。ちゃんと、忘れてませんから」
「……うん。ありがとう」

 未来がどうなろうとも、それこそが自分と冴子を繋ぐ絆なのだ。
 ――絶対彼女を好きにはならない。
 誓約は未だ、活きている。

 故に一瞬心を刺した微かな痛みを、健一は気の所為と断じた。
 断じるしか、なかった。



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何かあったらどーぞ。