大抵の学生は、夏休みを歓迎するものだ。 かく言う千夜子自身、そこまで勉強に熱心なわけではないし、長い休暇は素直に嬉しい。課題を早々に終わらせてからは、割と自堕落な日々を過ごしている。 しかし、それを歓迎しきれない理由があった。 「……絹川君と、全然会えてないなあ」 千夜子と健一の接点は学校にしかない。 電話番号程度なら連絡網で調べられるが、いきなり電話を掛けたところで何と話せばいいものか。一人姉がいるらしいし、必ず健一が電話を取ってくれるとも限らない。 そして外で会う偶然を期待するには、健一のことを知らなさ過ぎる。 どうにも遠慮がちな性格の千夜子にとっては、なかなかに難しい問題だった。 会いたい。 けれど、いい方法が思いつかない。 結局一時間ほど悩んで、ツバメに電話することにした。 『はーい、鍵原です』 「もしもし、ツバメ?」 『おー千夜子、こんな夜にどうしたの。もしかして私の声が聞きたくなったとか?』 「そういうわけじゃないんだけど……その、ちょっと相談したいことが、あって」 歯切れの悪い千夜子の言葉に、ツバメはんー、と考えるような声を出した。それからすぐに、 『絹川の話でしょ』 「……うん」 『よしよしそーゆーことならこの私に任せなさい! で、何が聞きたいの?』 「その……夏休み入ってから、絹川君と顔を合わせる機会がなくて。せめて一度くらい会いたいと思うんだけど、どうしたら会えるかなあ、って」 『電話すればいいじゃない』 「今までしたことないのに、いきなり電話なんかしたら引かれないかな……」 『まあ、確かに理由もなくだと変かもね。なら――そうだ、千夜子。お弁当を口実にしちゃえば?』 「お弁当?」 『夏休みも特訓してたってことにして、その成果を見てもらうって形で誘うのはどう? ほら、それならあんまり不自然じゃないだろうし』 ツバメの言葉を受け、脳内シミュレーションを試みる。 ……あの、もしよければ、時間があったらでいいんですけど、また料理の出来を見てもらえませんか? 絹川君の、正直な感想を聞きたいんです。だからどこかで……か、瓶井戸公園で会うのはどうでしょう。あそこなら座る場所もありますし、ゆっくり食べられますよね? なんて感じで。 もしかしたらそのまま二人で公園を歩き回ったりなんかして、いい雰囲気になっちゃったりなんかして。 そこまで行けばもう、デートと言ってもいいんじゃなかろうか。 「うん、ツバメの案で、頑張ってみる」 『結果は後で聞かせてよね! ファイト、千夜子!』 受話器を置いた千夜子は、すぐにクラスの連絡網を引っ張り出した。絹川健一。名前と番号を確認し、再び電話の前に立つ。 深呼吸。急にドキドキし始めた胸に手を当て、落ち着け、落ち着け私、できるできる、と自分に言い聞かせる。 すぅー、と息を殊更大きく吐いた直後、勢い任せで八桁の番号をプッシュ、受話器の中程をぎゅっと握り、耳に強く押し当てた。 響くコール音に緊張を募らせながら、祈るように数秒待ち、四回目の半ばで誰かが出た。 「あっ、あ、あのっ、お、大海と申しますっ。絹川健一さんのお宅でしょうかっ」 『ん、ああ、そうだが』 「………………へ?」 女性の声だった。 千夜子、テンパる。 これ以上ないほどしどろもどろな状態で、姉と名乗る人物から何とか健一に取り次いでもらい、明日のデート(千夜子的には)の約束をした頃には、両手が汗まみれになっていたのだった。 「じゃあ、大海さんと出かけることになったのね」 「はい。かなり真剣な様子みたいだったし、特別断る理由もないかなと」 翌日の昼前、幽霊ビルに足を運んだ健一は、1301で冴子を見つけた。 昨夜はかなり早い時間に帰ってしまったので、冴子と身体を重ねていない。彼女の気怠げな様子を見る限り、やはり眠れなかったようだった。 千夜子から電話が掛かってきた時、健一は自宅で夕食の片付けをしていたのだが、蛍子に呼ばれ「クラスメイトの大海さんだそうだ」と受話器を渡された。抑えた声色と、やけに不機嫌そうな表情でいたのが気になったものの、追求したところでまともな答えが返ってこないのはわかっている。 ついでに、何故か千夜子との関係についてかなり細かく訊かれたが、ただのクラスメイトだと説明すると、幾分不機嫌さが和らいだのも謎だ。 「どういうことなんでしょうね」 「……ちょっと、それだけじゃわからないわ」 「ですよね。すみません、変な話しちゃって」 「ううん、別に気にしてないから。でもそうなると、今日のお昼は絹川君、ここで食べないのよね」 「ざっと作るくらいの時間はありますけど……」 「たまには私が作るわ。絹川君は早めに行った方がいいと思う」 そう言って冴子はキッチンに立つ。 1301用の食費を出している刻也が決めた献立表によれば、メニューはそうめんだ。さして手間も掛からない。 手際良く昼食の準備をする冴子の背中を眺めていると、不意に玄関から物音が聞こえた。微妙に不規則な足取りで現れた人影は、のっそりとした動きで椅子に座り、そのままテーブルに突っ伏す。 「あ、おはよー健ちゃん。冴ちゃんも」 「えっと……おはようございます、綾さん」 声と掲げた手だけは元気なのだが、どう見ても他が付いてきていない。 とりあえず冷たい麦茶を差し出すと、両手で持ってゆっくり飲み始めた。それくらいの気力はあるらしい。たぶん夏バテか何かだろうと結論付け、後は冴子に任せることにした。 「それじゃ有馬さん、行ってきます。夕方頃にはまた顔を出すつもりなので」 「わかったわ。いってらっしゃい、絹川君」 約束の時間は十二時半。 少し急がなきゃいけないかな、と健一は階段を下りる足を速めた。 「んー……あれ、健ちゃんどっか行くの?」 「お弁当のコーチ役みたいです」 「そっか。夕方にはまた来るって言ってたよね」 「はい。綾さんはお昼ご飯、食べますか?」 「食べるー」 テーブルに頬を付け、気持ちよさそうな顔をしている綾にくすりと笑みを見せて、冴子は鍋に水を張る。 そうしてコンロの火に掛けたところで、今度は刻也が入ってきた。挨拶を二人に告げてから、視線をぐったりした綾に向けて固まる。 「……綾さん、何度も言うようですが、そのだらしない服装を改めてください。下着が見えています」 「だって暑いし、ボタン留めると苦しいし」 「あの、八雲さん。ここにいる間くらいは、自由な格好でいいんじゃないかって思いますけど」 「本当にここだけで済むならまだ許せるのだがね」 白衣姿ほどではないが、薄手のシャツの胸元は大きく空き、深い谷間と黒い下着が外気に晒されている。 扇情的に過ぎる綾の様子に、刻也は溜め息を落とした。 「外に出るからと言って着替える人ではないだろう」 「私はそういうところを見てないから何とも……」 「えー、そんなことないって」 「では一昨日、白衣一枚でコンビニに行っていたのも、私の目の錯覚だということですか」 「……そういえばそうだったような」 「全く……まあ、今更言って聞いてくれるとも思っていませんが。正す努力くらいはしてみてもいいでしょう」 「あ、そろそろそうめん茹で上がりますよ」 管理人さん口煩い、という無言の視線は黙殺。 些か険悪になり始めてきた空気を誤魔化そうと、キッチンの冴子は静寂の隙間を縫って発言した。 刻也が人数分の皿を並べ、綾も冴子から受け取った台布巾でテーブルの上を拭いていく。 水で薄めた適量のめんつゆと刻みネギを器に入れ、席に座った三人で「いただきます」と両手を合わせる。 しばらく、ずるずるとそうめんを啜る音だけが響いた。 「ところで、絹川君は来ないのかね」 「八雲さんが来る少し前まではいましたけど」 「お弁当のコーチなんだって」 「コーチ?」 「何でも大海さんから申し出があったらしくて」 「ふむ……大海君か」 「管理人さんもその人のこと知ってるの?」 「クラスメイトの女性です。確か最近、友人の鍵原君と一緒に、絹川君と昼食を摂っているようでしたが」 「女の子なんだ」 めんつゆの雫をシャツに飛ばした綾が、ぽつりと呟く。 「ねえ、冴ちゃん。健ちゃんって、その大海さんとどういう関係なのかな」 「ただのクラスメイト……だと思います」 「そっか。うん、よし、決めた。冴ちゃん、お願いがあるんだ」 「お願い、ですか?」 「一緒に出かけてほしいの。私だけだとふらふらしちゃって、きっと帰ってこれないから」 唐突な綾の申し出に、冴子はしばし考えた。 個人的には、あまり外出したくない。ただでさえ寝不足で体力がない現状、夏の強い陽射しに当たり続けるのは良くないだろうし、トラブルに巻き込まれないとも限らない。綾といれば尚更だ。 が、今の綾は、放っておけばそのまま一人で行ってしまいそうな感じでもある。なら、後で下手な心配をするより、付いていった方がいいのかもしれない。 「……わかりました。私でよければ」 「ほんと? やった! じゃあこれ食べたらすぐ行こっ」 「何をしに行くつもりかは知りませんが……外出するのなら、まず身だしなみをきちんとしていってください」 「えー」 「綾さん、ここは八雲さんの言う通りにしましょう」 不満げな声を上げた綾を説得し、お互い着替えてから合流、ということになった。 冴子が聞いていた目的地、瓶井戸公園に二人が到着するまでには、それからさらに四十分を必要とする。 集合場所の『時の番人』前には、既に千夜子がいた。 約束の時間よりは早く着けたが、少し待たせてしまったらしい。こちらに一拍遅れて気付いた千夜子は、薄く頬を綻ばせて挨拶をしてきた。 「すみません、昨日の今日で」 「いえ、いいですよ。コーチ役を請け負ったのに、言われてみれば夏休みの間は全然見られなかったですしね」 千夜子のことを忘れていたわけではないが、進んで連絡を取るほど親しくもなかったので、電話が来た時には驚いた。 とはいえ、頼まれたからにはちゃんとやるべきだろう。 どれだけ上達したか、楽しみでもある。 近くのベンチに並んで座り、千夜子がバッグから包みを取り出した。しゅるりと結び目を解き、弁当箱の蓋を開ける。 メニュー自体は相変わらずスタンダードだ。卵焼きに野菜炒め、プチトマト。半分を占める白米の上にはふりかけが散りばめられている。 メインらしきおかずは、イカのフライだった。 色合いはいい。となれば、あとは味。 受け取った箸で、まずは卵焼きを掴んだ。 「ど……どう、ですか?」 「んぐ……うん、ちゃんといけますよ」 「っ、ほんとですか!?」 「少し塩気が強いと思いますけど、焼き加減については問題ないです。中身が半熟になるようにも作れるといいかもしれませんね」 「よかった……。あ、ほ、他のも食べてみてください」 あからさまに胸を撫で下ろした千夜子にせっつかれ、ひとつひとつ確かめるように噛んでいく。 野菜炒めは水っぽさがまだ多く残っていた。火の通りが甘いのだろう。この辺はたぶんすぐに改善できる。 ご飯の炊き具合も悪くはない。こっちは逆に水気が少な過ぎるから、気持ち増やした方がいいとアドバイスをした。 最後、イカのフライ。 口に放り込み、ゆっくりと味わう。 「……そうですね。正直、唐揚げの時より全然良くなってます。生っぽさはないし、塩気も僕としては丁度って感じで。ただ、もうちょっと油を切っておくと、もっとおいしくなるんじゃないかと。お弁当みたいに冷めた状態だと、出来立てのよりも余計に油っこく感じちゃうので」 「なるほど、そっか、そういうことも考えなきゃいけないんですね……。奥が深いです」 「まあ、僕も極めただなんて到底言えないですけど、大海さんの手助けができてるならいいな、と思います」 「充分ですよ。充分、助けになってます」 そう言って、千夜子は柔らかく微笑んだ。 何となく顔を見るのが気恥ずかしくなり、健一の箸を持つ手が動きを速める。食の進みが鈍らないほどには、お弁当はおいしかった。 「健ちゃん見っけ、っと。冴ちゃん、あの子が大海さんかな」 「はい。間違いないです」 「んー……ちょっと遠いからわかりにくいけど、可愛い子だ」 健一と千夜子が食事を終えて雑談に興じている頃、冴子と綾は離れた場所から二人を観察していた。 物陰に隠れ、目を細めて綾はベンチの辺りを見つめている。冴子も気が進まないながら、隣で向こうの様子を窺っていた。 「何話してるのかな」 「さすがにこの距離だと聞こえないですね」 「もっと近付いてみる?」 「できればそれは避けた方が……」 カップルというには、二人の肩は離れ過ぎている。 時折千夜子の手がぴくりと動くが、躊躇うかのように止まっては戻り、また伸ばしかけては下ろすことを繰り返している。 わかりやすいにも程があるんじゃなかろうか。 見方によっては微笑ましい光景に、冴子は自分の予想が正しかったことを悟った。 健一はともかく、千夜子の方は間違いなくそうだろう。 可愛くて健気で――普通の、いい子だ。 だから私とは違って、きっと彼女には―― 「……冴ちゃん?」 「え? あ、すみません、ちょっとぼーっとしてました」 「大丈夫? 体調悪い?」 「平気です。考え事、してただけですから」 一瞬、脳裏に過った思いを振り払う。 少しでも心配させてしまったのが申し訳なかった。 だから努めて平静を装い、口を開く。 「そういえば、どうして絹川君の後をつけようだなんて思ったんですか?」 「うーん……どうしてだろ。大海さんって子が気になったのもあるんだけど」 自分の言葉に確証が持てないのか、綾は首を傾げる。 恥ずかしそうに、けれど嬉しそうな表情を浮かべる千夜子をじっと見つめ、 「私ね、あのマンションに来てから結構経つんだ」 「八雲さんの次、だったんですよね」 「うん。でもほら、私ってこんなだから、あんまり外出なくって。いろんなことを知らない」 「……はい」 「それでもいいかなって思うんだけど、何かね。健ちゃんには、あのマンション以外での暮らしがあるんだなって気付いて」 綾には。冴子には。刻也には。 十三階以外に、帰る場所がない。 事情はそれぞれだが、皆自ら帰らないことを選んだ。 しかし健一は違う。帰れる家があり、たった一人でも待つ家族がいて、健一自身もあそこを己の居場所と定めていない。 それでいい、と冴子は思う。 健一との関係、十三階での出来事は全て、夢のようなものだ。 いつか覚める時が来る。その予感を、忘れたことはない。 「不思議だね。健ちゃんのことだから、知りたくなった」 「……別に、不思議じゃないですよ」 「そうかな」 「覗き見はよくないですけどね」 「あはは。じゃあ戻ろっか、健ちゃんが帰ってくる前に」 きっと綾は帰りもふらふらするだろう。 最後まであの二人を見届けたい気持ちもないわけではなかったが、立ち上がった綾の手を取り、公園を後にした。 早く着いたら、ご飯を作って健一を迎えよう。 密やかに心を決め、冴子は帰路を少しだけ急いだ。 家族として、姉としての贔屓目で見ても、健一の長所というのはさほど多くない。 まあ、顔はいい方だろう。そこいらの学生どもがきゃあきゃあ騒ぐような、芸能人ばりの美形とまではいかないものの、整っていて悪くない。凛々しさと放っておけない感じが半々で。 家事も一通りできる。絹川家の若干特殊な家庭事情に起因するものではあるが、何をさせても自分よりは上手くこなす。特に料理、唐揚げ辺りは絶品だ。週に一度は食べないと、逆にイライラする。 意外なことに、成績もかなり上の方だ。大して勉強してないように見えるのに、何故かさらっとテストでは高得点を叩き出してくる。運動能力も人並みにあるし、変なところで要領がいい。 だが、そういう部分を一切合切帳消しにするほど、馬鹿で鈍くて変人だ。 ……あいつは人を苛つかせる。 無自覚に残酷で、相手の気持ちに無頓着な奴。 今日もそうだった。 クラスメイトの女(しかもあの大海の妹と来た。当人は可愛げのある雰囲気だったが)に誘われてほいほい付いていって、しかも夕食は外で済ませてくるだなんて言いやがって。 「………………ちっ」 苛立ちを静めるために、ベランダに出て煙草をくわえる。 ライターで火を点け、大きく吸った。 肺に染み渡るような感覚。左手で煙草の真ん中を摘み、ゆっくりと煙を吐き出す。 都会の薄濁った夜空に消えていく白を眺めながら、蛍子はもう一度舌打ちをした。 父と母の姿を、こういう日には見たくなる。 自分達の子供より仕事が好きで大事な親だ。どうせ今も会社で二人楽しく働いてるに違いない。そのことについては、遠い昔にもう割り切れている。 だが、この頃は一人でいると嫌なことばかり考えてしまう。健一がいればそんな風には感じないのに、寂しい、とか、まだ帰ってこないのか、とか、女々しい思いが山ほど浮かんでくる。 「……本当、どうしたもんかね」 茶色のフィルタに唇で触れる。 また吸って吐き、そのまま器用な動きで携帯灰皿に灰を落とした。 誰に語ることもなく抱え続けてきた感情は、一向に治まる気配がない。どころかますます膨れ上がって、顔も知らぬ謎の女のみならず、クラスメイトでしかない大海の妹にすら嫉妬する始末だ。 それでも蛍子は、自分の想いを表に出すつもりはなかった。 一度は踏み出しかけたが、結果的にうやむやになって、和解して。未だぎこちなさは拭い切れないものの、ちゃんと家族として、姉弟として振る舞えている。 なら、それ以上望むことなんてないだろう。 ……ない、はずだ。 はずなのに。 「さっさと帰ってこい、健一」 半分ほど残った煙草を、灰皿の中にぐりぐりと押し付ける。 見えないところに積もった灰がどれほどの量になっているのかは、彼女にもわからない。 back|index|next |