時折、有馬冴子という人間は二人いるのではないか、と思うことがある。 かつての健一にとって、冴子と言えば影が薄い、ある意味では背景と同じような存在だった。クラスメイトという以上の繋がりはなく、長らく授業を共にしながらも、会話の一つさえ交わした覚えがない。あの日、公園で出会わなければ、ずっとそのままでいたはずだ。 だが健一は、十三階での冴子を知っている。彼女が外で極力他者と関わりを持とうとしない理由についても。だからだろうか、ほとんど口を開かず、何を考えているのかもわからない学校での冴子を見ていると、どうにも複雑な気持ちになってしまう。 「どういうことなんだろうな……」 他人として振る舞った方がいい、と冴子は言っていた。 目立たないようにしていても、これまで冴子が複数の男子生徒と肉体関係を持ったことは事実だ。噂は必ず付き纏う。場合によっては当人以外の、親しくしている人間にも影響が及ぶ。それを危惧したからこその言い分だと理解してはいるものの、明確に拒絶されて少しも心が痛まないかと言えば、そんなことはない。 結局自分にできるのは、寝るための手伝いと弁当を作っておくこと程度。改めて無力さを思い知らされ、重い溜め息が漏れた。 「なーに辛気臭い顔してんのよ。しかも溜め息なんか吐いちゃって」 「……鍵原」 「あんたが落ち込もうがあたしはどうだっていいけど、約束だけは忘れないでよね」 「わかってるよ。楽しみにしてる」 「それは千夜子に言うべきことでしょ」 ひらひら手を振って席に戻るツバメを見送ると、不意に千夜子と目が合う。 何故かさあっと頬を赤らめ、恥ずかしそうに笑みを浮かべる彼女の様子に健一は首を傾げたが、とりあえず微笑み返した。 次の授業までは二分もない。鞄から教科書やノートを取り出しつつ、再び視線を斜め前へと向ける。賑やかな周囲をまるで意に介さず、ただ静かに座っている冴子の、血の気の薄い横顔。普段の眠そうな雰囲気はいくらか鳴りを潜めていて、こころなしか元気なようにも見えた。瞳を閉じているのは、祈っているからかもしれない。 (……綾さん、大丈夫かな) 深夜に聞いた通り、朝方綾は冴子と刻也にも撮影のことを伝えた。二人の反応はそれぞれ違っていたが、無事に済んでほしいという気持ちは健一と同じらしく、刻也の方も「私でよければ」と言って綾を驚かせていた。開始は昼頃とのことなので、そろそろだろうか。 机に両肘を付き、顔の前で手を組む。そっと瞼を下ろし、遠くで頑張っているはずの綾に、成功を祈った。 頼まれたからやっているのかと言われれば、否定はできない。が、綾には幸せになってほしかった。そのために努力しているのなら、ちゃんと報われてほしかった。 そばにいないことを、今ばかりは歯痒く思う。湧き上がる不安は、拭えない。 「授業始めるぞー」 チャイムに合わせて入ってきた教師の言葉に反応し、幾人かが慌てて自席へと戻った。 立ち上がった拍子に動いた椅子がガタガタと不揃いな音を響かせ、それが止むと教室には静寂が満ちる。 健一は号令を聞きながら、もう一度、胸の中で綾の名を呟いた。 一世一代の大勝負、というと大袈裟かもしれないが、千夜子からしてみればそれは冗談でも何でもない。手作り弁当を食べてもらうのは、間違いなく女の子にとっての一大イベントだ。例え相手が自分を意識していないのだとしても、弁当の出来次第ではどうなるかわからないだろう。もしかしたらおいしいよなんて言われちゃってさらに千夜子ちゃんはいいお嫁さんになるんじゃないかなとかそんなことまで言われちゃったりなんかしてー、と昨夜ベッドの中で一人悶えていたのは一生の秘密である。 ともあれ、やるだけのことはやった。想像していたようにとは行かなかったものの、悪くはない……と思う。 (大丈夫……だといいなあ……) 自身を奮い立たせようとしてみるが、正直あまり自信はなかった。 これまで包丁すらほとんど握ったことがないのに、いきなり弁当を作るというのがどれだけ無謀なのかは、実際にチャレンジした結果、文字通り痛いほど理解できた。ちゃんと洗ったとはいえ、一部のおかずから血の味がしないかどうかも心配ではある。 ――心配は尽きない。逃げ出したい気持ちだって、ないとは言えない。 それでも、踏み込むと決めた以上、千夜子は迷わず前へと進む。 四時限目が終わり、まばらにクラスメイト達が席を立ち始める。その流れに乗るようにして、健一の許に向かった。 胸元には鞄から出した花柄の包み。それを両手で抱き締めながら、窓際の彼に声を掛ける。 「あの……絹川君」 「はい。お昼ですよね。ここでいいんですか?」 「教室じゃ落ち着けないし、屋上に行きましょ。今日は天気もいいしね」 健一の問いに、千夜子の挙動を察知して来たツバメが答える。 衆目に晒されるのは恥ずかしいので、その提案には千夜子も賛成だった。 二人分の視線を受け、健一も頷く。 「ということでちょっと私はこれから購買に突撃してくるから、千夜子と絹川は先行ってて」 「え?」 「じゃ、また後で!」 しゅたっ、とわざとらしく手を掲げ、ダッシュで廊下に飛び出すツバメ。 ちなみに普段、彼女は弁当を持ってきている。なのに何故今日に限って購買なのか――深く考えずとも、千夜子にはツバメの思惑が透けて見えた。有り難さと居た堪れなさが半々で、世話を焼いてくれるのは嬉しいけれど、少し、呆れる。 座ったままの健一が、控えめな苦笑いを浮かべた。 「えっと……鍵原もああ言ってますし、行きましょうか?」 「あ、は、はいっ」 だいぶわざとらしい態度だったはずだが、どうやら健一は全く不審に感じていないようで、ほっと胸を撫で下ろす。 上擦った声を手振りで誤魔化し、意識的に立ち上がった健一の隣に並んだ。肩が触れない微妙な距離は、今の自分と彼の関係そのもの。これがもっと縮まればいいのにと思いつつ、横目でちらりと表情を窺う。 世間一般の基準で見れば、おそらく健一は美形の部類に入るのだろう。全体的に整っている。ただ、単純に格好良いのではなく、どこか浮世離れしたところがあった。視線は前に向けられているのに、その実どこも見ていないかのような。意識だけが、当人以外与り知らぬ遠い場所へ飛んでいっているかのような。そんな印象を、千夜子は時に抱く。 今もそうだ。 一見ぼんやりとした顔で何を考えているのか、それが千夜子には気になって仕方ない。 「絹川君」 「……え、あ、何でしょ」 「もしかして……なんですけど、悩み事とか、あります?」 屋上に続く階段を上がる最中、小さな声で問いかけた。 足を止めないまま、千夜子の言葉に健一は考える素振りを見せる。 そして、 「まあ、あるっちゃありますね」 「なら……よければ、聞くくらいはできます、けど……」 「いやでも、そんな深い悩みじゃないんですよ。何というか……その、知り合いが」 「知り合いが?」 「今日は大事な仕事がある日らしくて。一人じゃ遠出もできないような危なっかしい人なので、無事に辿り着けるかとか、迷惑掛けずにやっていけてるかとか、色々と心配なんです」 「すごい心配の仕方ですね……。こんなこと言うと何ですけど、絹川君、その人の保護者みたいです」 「あながち間違ってないかもしれません」 やけに真面目な声色で健一がそうこぼすものだから、千夜子はついくすりと笑みを漏らした。 さすがに全て本当だとは思えない。幾分冗談も混じっているのだろう。健一の新たな一面を見つけた気がして、ちょっぴり嬉しくもなる。自然軽くなった足取りで、リズム良く段差を踏みしめていく。いち、に、さん、し。踊り場まで跳ねてから、僅かに遅れて来る健一を振り返っては待つ。 楽しかった。 心の中でツバメに感謝しながら、屋上の手前で立ち止まった。健一がすぐそばにいるのを確かめて、ゆっくりと握り締めたノブを引く。途端、流れ込む風。乾いた匂いが鼻を撫で、左右に縛られた千夜子の髪を靡かせる。 見渡す限り、他の生徒の姿はあまり見受けられなかった。とにかく陽射しの下は暑い。快晴に近いせいで日陰の面積も少なく、三人が光に当たらず座れる場所を探すのも一苦労だったが、どうにかスペースを確保する。 「お、いいポジションじゃない」 落ち着いたところで、タイミング良くサンドウィッチと紙パックのジュースを抱えたツバメが戻ってきた。 それぞれが腰を下ろし、いよいよ千夜子の弁当が御開帳、ということになる。 無言で見つめる健一の視線にプレッシャーを感じつつ、床に置いた包みを静かに解く。以前兄の悟が遠足の時などに使っていた、シンプルなデザインの黒い弁当箱。決してサイズも小さくはなく、量で言えば普段健一が食べているものとさして変わらないはずだ。 中身の半分を白米が占拠し、仕切られたもう半分におかずが敷き詰められている。メインは唐揚げで、他はゆでたまご、冷凍物のグラタン、プチトマト。見た目は悪くない。そもそも後者二つはよほどのことがない限り料理ができなくても簡単に作れるものなので、問題は唐揚げとゆでたまごである。こればかりは、出来に関して誤魔化しが効かない。 弁当箱に備え付けのプラスチック箸を健一に手渡し、固唾を飲んで見守る。 「それじゃ、えっと……おねがいします」 「……いただきます」 やたら緊張感漂う食事風景に構わず、ツバメがマイペースにサンドウィッチのビニールを剥がす。 その音をバックミュージックに、まず摘ままれた唐揚げが健一の口に運ばれた。 地面に投げ出された千夜子の右手が、ぎゅっと握られる。 「んぐ……ん」 「ど、どう……ですか?」 「まあ、その、思ってたよりはおいしいですよ」 「……絹川君。できれば、正直に言ってもらえた方が有り難いです」 明らかに言葉を濁した健一を、じっと注視する。 そんな千夜子の覚悟に負けたのか、健一は一瞬目線を宙に彷徨わせてから、 「たぶん、上げるのが早かったんだと思うんですけど……火の通りが甘くて、少し生っぽいんです。衣は悪くないですし、低めの温度でもうちょっと揚げればいい感じになるんじゃないかな、と」 「なるほど……。ありがとうございます。ちゃんと言ってくれて、嬉しいです」 「あ、でも、食べられないわけじゃないですから。初めてなら充分過ぎるくらいですよ」 「絹川、あんたそれで褒めてるつもりなの?」 「いやほら、僕だって最初の頃は失敗ばっかりだったし。いきなり上手く作れっていうのも無理な話だろ」 「うん。いいよツバメ、絹川君の言う通りだから」 「はぁ……。ま、千夜子がそう言うんなら別にいいけどね」 呆れたように呟いて、ツバメは最後の一口を済ませた。 遅れて千夜子も自分の弁当箱に箸を付ける。横からツバメに焦げ気味の唐揚げを掻っ攫われたりしながら、そろそろ完食しようという時、不意に屋上の扉が開いた。三人の意識が向けられた先、現れた人影は緩慢な動作で千夜子達の姿を見やり、くるりと反転する。 思わず千夜子は立ち上がった。 「有馬さん、待ってください!」 「……何?」 「よかったら、一緒に食べませんか?」 「どうして?」 「いえ、だってクラスメイトですし、あんまりお話したことないから、折角の機会だと思って」 「仲がいいわけでもないのに?」 「これから仲良くなればいいじゃないですか。それに、ここで会ったのも何かの縁かもしれません」 有馬冴子。 彼女に関する話を、千夜子は噂でしか聞いたことがなかった。曰く、男なら誰とでも寝る女。同じ女子生徒の大半からは蛇蝎の如く嫌われ、また当人が弁解もせず、他者との接触自体を断っているようなところがあるため、噂はほとんど事実として扱われている。一部の男子が好意的な評価をしているのは、あるいは自分も、という期待めいたものを持っているからだろう。どちらにしろ、彼女が教室でも浮いた存在なのは確かだ。誰かに話しかけられたのを、少なくとも千夜子は見たことがない。 しかし、こうして声を掛けてみて――何となく、ではあるが、冴子が噂通りの悪女だとは思えなかった。どこか距離を取った、他人との間に線を引いた感じはするものの、それは相手を傷付けまいとするが故の態度だとも言い換えられる。 「でも、鍵原さんは嫌がってるみたいだから」 「じゃあ二人でならどうですか?」 ツバメが冴子に対して嫌悪感を抱いているのはわかっている。いくらか本人の中で誇張されているとはいえ、以前ツバメが告白しようとしていた人を冴子が横から掻っ攫ったのも事実だ。だから、無理は言わない。今は自分だけでいい。 もしも叶うのであれば、ツバメと和解してほしい。納得して、認めて、その上で親しくなってほしい。 親友が誰かを嫌うのも、嫌われるのも、真っ平御免だった。 「……大海さんが、それでいいなら」 千夜子の押しの強さに負けてか、渋々といった表情で冴子が提案を受け入れる。 やった、と胸の前で両手を合わせ、様子を窺っていた二人の許へ、千夜子は微笑を浮かべながら戻ってきた。 だいぶ中身の減った弁当箱を持ち上げ、健一に頭を下げる。 「すみません。こっちから誘ったのに」 「別にいいですよ。僕のことは気にしないでください」 「ツバメもごめんね」 「私には千夜子が何考えてるのかさっぱりだけど……どうなっても知らないからね」 「大丈夫。きっと、有馬さんは悪い人じゃないよ」 「……ったく、とことんお人好しなんだから」 案外、ツバメはこちらの意図を汲み取ってくれているのかもしれない。 感謝の言葉をこぼしてから、千夜子は冴子と共に、別の日陰に腰を下ろした。なるべくツバメとは離れた方がいいと思ったので、給水塔が乗った出入口の部分を挟んだ反対側を陣取る。 対する冴子は無表情。千夜子よりも細く白い指が薄赤を基調とした包みの結び目をしゅるりと解いていく。 そうしてお目見えになった弁当は、料理初心者の千夜子を感心させるに充分なものだった。彩り良く揃えられたおかずの数々。どこかで見たような気もしたが、それは単なる錯覚だろう。 「すっごくおいしそうですね。これ、有馬さんが作ったんですか?」 「私はこんな上手くは作れないわ」 「ならお母さんが?」 「母は料理ができない人だから」 「……ってことは、お父さん?」 「それも違うわ。なんて言えばいいのか、よくわからないけど……私にとっての、家族みたいな人」 「家族みたいな人……」 「そんなに、仲がいいわけではないけど。でも、大切な人だとは思う」 小さく。 確かめるように呟く冴子こそがおそらくは『本当』なのだと、素直に千夜子は感じた。 「その人も、有馬さんのことが大切なのかもしれませんね」 「……さあ。わからないわ」 恥ずかしそうな、照れ混じりの冴子の笑顔は、年相応に可愛らしかった。 実を言うと、内心ではかなり冷や汗を掻いていた。 冴子が持参していた弁当は、健一が朝に作って渡したものだ。それなりに見慣れている千夜子には気付かれてしまうのでは、と戦々恐々していたが、幸い自分と冴子の関係が発覚することもなく、どうにか昼休みは終わった。もっとも、冴子が弁当箱を広げた瞬間ぴしりと硬直した健一に、もしかしてこいつ見惚れてるんじゃないかと勘違いをしたツバメがねちねちと質問責めをしてきたので、平穏無事にとは行かなかったが。 ともあれ、全く同じレシピにしない限りバレることはないだろう、と判断する。よくよく考えればわかりそうなことだが、普通は同級生が一つ屋根の下で暮らしていると思われないはずだ。十三階、あの奇妙な場所でのみ成立する不思議な関係。おかしな自分達だけが抱える、共通の秘密。それは健一にとって、決して不快なものではなかった。 居心地が良い。例えば1301の、綾が、刻也が、冴子がいる風景。いつしか当たり前になりかけている、日常のひとかけら。 昼の屋上で、冴子は自分を「家族みたいな人」と評していた。しかし、健一の知る『家族』とは、仕事が好きで好きで仕方なくて、そのせいで娘と息子を半ば放り出した両親のことであり、傍若無人で理不尽な姉のことでもある。温かさや優しさとは縁遠い、二人で住むには広過ぎる家で過ごしてきたからか、健一は『家族』に対する幻想をまるで持っていない。 だから。 冴子の言葉は、胸に真っ直ぐ突き刺さった。 (……家族、か) そういうものに、なれるだろうか。 わからない。けど、なれたらいいと思う。 心持ち軽い足取りで幽霊マンションの入口まで辿り着き、階段に差し掛かった。今日も来る時は一人。刻也は放課後の帰り際、バイトで遅くなるので夕食は必要ない、と言っていた。ふっと教室から姿を消していた冴子は不明だが、おそらく綾はくたくたになって戻ってくるのだろう。何を作れば喜んでくれるのか、献立について悩みながら三階の踊り場を通り過ぎようとした健一は、誰かがうずくまっているのに気付いた。 見間違えようもない。一緒に買いに行った服を着て、撮影に出かけていたはずの綾が、そこにいる。 「綾さんっ!?」 そっと肩に手を置く。慌てた健一の声に、十秒近く掛けて振り向いた綾の顔色は、蒼白を通り越して今にもぼろぼろに崩れてしまいそうだった。勿論それは錯覚だ。が、明らかに、尋常ではない。 瞳は乾き、目尻から頬を何かが流れた跡がある。力無く丸められた背中は無理に伸ばせばぽきりと折れそうで、普段の快活な表情も、見るに堪えないほど歪んでいる。 罅の入った唇が、きもちわるいと呟いた。あるいは違う発言だったのかもしれない。ガタガタに乱れて壊れた音は、最早言葉としての意味を成していなかった。 「……何か、あったんですか?」 綾は答えない。答えられない。 振り向くよりも長い時間を使って、首が左右に振られた。 否定。そんなはずはないのに、ただ健一を慮って、彼女はこれ以上心配させまいとする。 もう――見ていられない。 「とりあえず、部屋に戻りましょう。僕が連れていきます」 激しく揺らさないよう、なるべく優しく触れたところで、綾が血の気の失せた顔をさらに歪めた。 俯いたままえずく。口が大きく開き、ぴしゃり、ぴしゃりと吐瀉物が撒き散らされる。地の底から響くような呻き声と共に、何度も、胃液しか吐き出すものがなくなっても、その行為は止まらなかった。 苦しげに細められた瞼の隙間から、一滴の涙がこぼれる。 ……祈ったことは、結局、無駄だったのか。 綾が落ち着くまで、健一は傍らで支えることしかできなかった。 back|index|next |