健一が家に戻ったのは、八時を回った頃だった。夏至を過ぎて間もない今の時期だと、陽が落ちるのもかなり遅い。まだ微妙に明るさの残る空を一瞥し、玄関の扉に手を掛ける。鍵は閉まっていないので、いつも通りと言うべきか既に蛍子が帰ってきているらしかった。
 靴を脱ぎながら「ただいま」と居間に届く程度の音量で声を上げるが、返事はない。部屋に籠ってるんだろうか、と思い、台所の方に向かうと、丁度風呂場から出てきた蛍子と鉢合わせする。

「おかえり。遅かったな」
「……なんつー格好してるんだよ」
「別に、どこもおかしくはないだろ」

 気怠げに頭を掻いた蛍子の姿は、ほとんど裸に近かった。
 肩にハンドサイズのタオルを掛け、下にパンツを穿いてはいるものの、後は何も着けていない。ドライヤーで乾かしていないのか、少し濡れそぼった髪がしっとりした肌に張り付いていて、無闇に扇情的だった。目のやり場に困り、つい視線を逸らしてしまう。
 昔から蛍子にはズボラなところがあった。風呂上がりに平然と下着一枚で室内をうろつく。特に夏は暑いからといって寝るまでそのままなことも多く、健一はそれこそ飽きるほど、嫌になるほど姉のそういう様子を見てきたのだ。
 本来なら意識するものではない。しかし、どうしても――健一の脳裏に、あの時の情景が浮かぶ。荒く重ね合わせた唇。触れた柔らかな胸。抱き締められた細い腕。仄かに漂う女の匂い。たった一度の過ちは、未だに尾を引きずっている。もう蛍子はとっくに忘れているのに、自分は元通り接することもできないのが情けなかった。
 もっとも、そのだらしない格好を看過するかどうかは別の話だ。誤魔化しの意も含めて、ちゃんと服は着ろよな、と文句を言う。

「こっちの勝手だ……と言いたいところだが、わかってるよ。今日の当番は私だしな」
「ならいいんだけど」
「しばらく時間掛かるから、お前は大人しく待ってろ」
「はいはい。じゃあ風呂にでも入ってるよ」

 元々そうするつもりだったので、いいタイミングなのかもしれなかった。
 自室に着替えを取りに行き、いつ十三階に戻ろうかと考えつつ居間を横切る。ちらりと覗いた台所にはいくつかの調理器具が並べられていて、とりあえず夕食の心配は要らないようだった。まな板と包丁、コンロには小型の中華鍋。冷蔵庫から材料を出している蛍子の背中をしばし眺め、改めて風呂場を目指した。



 結論から言えば、蛍子の作った物はどれもおいしかった。健一は両親が料理しているところをほとんど見た覚えがないので、もしかしたら絹川家の人間にはその方面の才能がないんじゃなかろうかと思っていたのだが、単純に手間を惜しんでいただけらしい。あの親は、自炊をする暇があったら一分一秒でも仕事に使いたいのだろう。コンビニの弁当やファミレス、出前で済ませている父と母の姿がありありと想像できて、心中で健一は苦笑した。
 ラインナップは中華寄りだった。メインのおかずにエビチリ、野菜が多めの汁物もそれに合わせた味付けで、かなり箸が進む。ただ、エビチリは健一の好みと照らし合わせると、少々辛味が強い。珍しく味の良し悪しを訊ねられ、おいしい、という感想と共にそのことを伝えたところ、蛍子ももうちょっと辛くない方が好みだと答えたのには、小さな違和感を覚えた。
 ――察しろ。
 それだけを口にした後、あからさまに機嫌を悪くした蛍子に、健一はどう接すればいいのかわからなかった。以降は特に会話もなく、先に蛍子が席を立つ。若干遅れて空になった皿を抱え、手早く片付けを終わらせる。
 室内に響く食器の擦れ合う音がなくなると、どうにも居心地の悪い空気が場を満たした。
 不機嫌そうな表情を崩さず、ソファに背を預けて雑誌を読み始めた蛍子に、恐る恐る声を掛ける。

「……あのさ。俺、これからまた出かけるんだけど」
「どこにだ」
「いつものところ。まだ用事が残ってて」
「帰ってくるのか?」
「そのつもりだよ。そんな遅くはならない……と思う」

 勿論、用事の具体的な内容については言えない。どんなにもっともらしい理由があったとしても、冴子との交わりが後ろめたいものだという意識は消えなかった。しかし、だからといって自分の協力なしには眠れない彼女を放っておく選択肢もまた、健一の中には存在しない。
 雑誌のページをめくる手が止まる。
 細められた蛍子の瞳が、鋭く健一を見つめる。

「私は十一時になったら寝るからな。それより遅くなるなら帰ってこなくていい。あと」
「あと?」
「明日の当番はお前だろう。だから唐揚げを作れ」
「何でそっちがリクエストするんだよ」
「お前の放蕩ぶりを見逃してやってるんだ。対価だと思え。それに、最近唐揚げの頻度が下がり過ぎてるからな。私が食べたい」
「……まあ、いいけどさ」

 見逃されているのは確かなので、ここは素直に従うのが得策だろう。
 わかったよと頷き、財布だけをポケットに入れて、健一は再び玄関に足を運ぶ。
 視線を雑誌に落としたままの蛍子は、振り返らなかった。

 意図的に。
 平静を、装うように。






 結局、1303で一晩を過ごすことになった。
 行為の後、半ば気を失うように眠る冴子と違い、健一はすぐに寝付けない。身体に残った熱が抜けるまでは結構な時間が掛かるので、それまではぼんやり布団に包まっているか、そっとベッドを出て散歩に行くかのどちらかだ。家に戻ることもあるが、今日は気付けば既に十二時近かった。蛍子の言葉を信じるのなら、おそらく帰っても室内は静まり返っているだろう。あるいは施錠されているかもしれない。帰宅が無駄足になる可能性を考えると、冴子と共に朝を迎える方がいいと思えた。

「んしょ……っと」

 なるべく物音を立てないよう、慎重にベッドから抜ける。床に散らばった服を拾い上げ、ゆっくりと身に着けた。僅かな衣擦れの音さえ過剰に響き、度々冴子がいる場所に振り向く。一度落ちてしまえば滅多に起きないほど眠りが深いと知っているものの、やはり気を遣わずにはいられなかった。
 何故彼女がセックス依存症になってしまったのか、その具体的な原因を健一は聞いていない。話したくないのだということは何となくわかったし、お互い無闇に詮索しないのが暗黙のルールにもなっている。そもそも、無理に問い質しても冴子は決して答えないだろう。短い付き合いだが、それくらいは健一にも理解できる。
 ――いつか、話してくれる日が来るのかな。
 そうであればいいと思いつつ、火照った身体を冷やすために玄関の扉を開けた。
 古びた金属が甲高く軋む。靴は半履きの状態で、ギリギリ通れるスペースだけを作り、そこに身を滑り込ませる。後ろ手でノブを捻り、閉まる速度を極力抑えた。ぱたん、と小さく空気が漏れたのに合わせてノブから手を放し、一息。
 さすがに一階まで往復する気力はないので、階段辺りで座っていようかと動きかけた時、先ほどとは違う、健一よりも派手にドアを開ける音が聞こえた。

「あ、健ちゃんだ」
「綾さん。まだ起きてたんですか」
「うん。さっきまで作業してて、一段落したんだ。そしたらお腹空いてるのに気付いちゃって」
「何か食べるんなら1301で作りますよ」
「んー、頼んじゃっていいかな」
「有り合わせのものになっちゃいますけど、いいですよね?」
「大丈夫。私、健ちゃんが作ったものなら全部おいしいって言う自信あるから」

 奇妙な言い草に苦笑を返し、二人で1301に入る。
 いつも誰かがいる、というイメージがあるからか、まるで人気のない真っ暗な部屋は少し新鮮だった。

「焼きそばができそうなんで、それで行きますね」
「うあーい」

 椅子に腰を下ろすや否や、上半身をだらしなくテーブルに投げ出す綾。よっぽど疲れているらしい。潰れた頬が端正な顔を歪めていて、百年の恋も冷めそうなその不細工ぶりに、一度振り返った健一は思わず噴き出してしまった。誤魔化すように調理へ戻るも、妙なところで目敏い綾からはしばらく抗議の言葉が絶えなかった。
 謝る傍ら、刻んだ野菜と適度にほぐした麺をフライパンで炒める。1303に行く前、明日の弁当の下拵えをするために台所を使ったので、何が残っているかはしっかり把握していた。野菜は中途半端に余ったのがあり、冷蔵庫の中を整理するのにも丁度良い。勝手に材料を消費してしまっていいのかとも思うが、朝辺り刻也に言えば大丈夫だろうか。そんな風に考え事をしていても、健一の手は止まらなかった。頃合いを見て全体にソースを掛ける。派手な音と共に香ばしい匂いが広がり、立ち上る湯気が換気扇に吸い込まれていく。
 ある程度水分を飛ばしてから、箸で野菜の火の通りを確かめる。よし、と一人納得し、大皿にざっと盛り付けた。

「はい、どうぞ」
「ありがと健ちゃんっ。いただきまーす」

 綾の食べ方は、悪く言えば綺麗ではない。猫背で皿に顔を近付け、細かい野菜の欠片を周囲にぽろぽろと散らしながら、およそ上品さとは無縁な調子でひたすら口に放り込んでいる。
 だが、健一は綾の食事姿が好きだった。とにかく彼女は、おいしそうに味わってくれる。いくら行儀が悪かろうとも、幸せそうに箸を動かしているのを眺めていると、自分も不思議と嬉しい気持ちになるのだ。
 途中喉に詰まって苦しみ始めた時はどうなることかと思ったものの、急いで注いだ水を飲ませることで何とか事無きを得た。皿が空になるまでに要したのは五分弱。満足げに再度感謝のひとことを告げた綾は、手早く食器を洗い終えた健一をじっと見つめ、

「……あれ? そういえば、なんで健ちゃんがいるの?」
「今更ですか……。いやまあ、もう帰るには遅過ぎるんで、今日は泊まっちゃおうかと」
「蛍子ちゃんと喧嘩したとかじゃないんだ。よかった」
「喧嘩……とは違いますね。ちょっと一緒に居辛いってのはありますけど」
「そうなの?」
「向こうはたぶん、全然意識してないんですよ。だから、僕が一方的にそう感じてるってだけで」
「うーん……どうかなあ。私は実際に見てないからよくわからないけど、蛍子ちゃんも結構意識してるんじゃないかな」
「え、どうしてそう思うんですか?」
「何となくだけど……うん。でも、悪いことじゃない気がするんだ」
「……そうなんですかね」
「だから健ちゃんも、あんまり気にすることはないと思うよ」

 励まされ、少し心が軽くなる。
 礼の言葉を述べ、自身の両腕を枕にしてそこに顎を乗せた綾の対面に座った。
 まだ調理時の熱の名残はあるが、当初の目的は果たしている。眠気がまだ弱いので、もうしばらくは綾に付き合おうと決めた。

「あ、そうだ。ずっと訊きたかったことがあったんだよ」
「変なことじゃなければ答えますけど……」
「健ちゃん、冴ちゃんとはエッチしてるの?」
「………………」
「ほら、二人で一緒の部屋にいるわけだし、今日みたいに健ちゃんが泊まったりすれば、そういう雰囲気になったりするのかなって」
「同じベッドで寝てるとは限らないじゃないですか」
「違うの?」

 一切疑いを含まない声色で問い、綾は首を傾げる。

「……まあ、違わないです」
「でしょ? だからさ、絶対健ちゃんと冴ちゃんはエッチしてると思うんだよね」
「いや、さすがにそれは飛躍し過ぎてません?」
「そうかなあ。私だったら一緒に寝るだけなんてきっと我慢できないし、健ちゃんとはエッチしたいって考えるよ」
「……お願いですからそこはもうちょっと悩んでください」
「えー」
「というか、綾さんは色々直接的過ぎます。そんなこといきなり言ったら、普通は引かれますよ」
「でも、健ちゃんは普通じゃないから大丈夫だよね?」

 ――認め難い。
 そう感じるが、さりとて否定はできなかった。
 口を噤んだ健一に、ふにゃりとした笑みを綾は向ける。

「えへへ」
「どうしたんですか、突然」
「やっぱり私、健ちゃんのこと好きだなって」
「……だから、いきなり言わないでください」
「じゃあこれから私の部屋に行こ?」
「行きません」
「えー」
「襲われたくはないですから」
「合意の上なら襲ったことにはならないよ?」
「やる気満々じゃないですか……。とにかく、絶対行きませんからね」
「どうしても?」
「どうしてもです」

 断言すると、柔らかな笑顔はしょんぼりしたものに変わった。
 少しばかり罪悪感を覚える。が、ここで引けばまた同じような問答を繰り返すだけなのも間違いない。

「……ならさ、ひとつ、頼んでいいかな」
「エッチしてほしいとかそういうことでなければ」
「そんな頑固にならなくてもいいのに……」
「帰りますよ?」
「あー、待って待って! 今度はちゃんと言うから!」

 どうやら真面目な話らしく、若干ではあるが綾の表情が引き締まった。
 釣られて健一も構え、しっかり向き合う。

「こないだ一緒に服買いに行ったのは覚えてる?」
「確か、雑誌か何かに写真を載せるから、でしたよね」
「うん。でね、その撮影が明日なんだ。本当は健ちゃんに見に来てほしいところだけど……でもそっちはお昼、普通に学校でしょ?」
「はい」
「仮に健ちゃんがいいって言っても、サボってまで来てほしくはないしね。だからせめて、撮影が上手く行くようにって祈っててほしいの」

 掴めてきた。
 つまり、綾は不安なのだろう。作業に集中すると長い間部屋から出てくることがなく、時折思い出したかのようにコンビニへ足を運ぶ以外、ほとんど一人では外にも行かない。行けない。そんな己の異質さを自覚しているからこそ、撮影も滅茶苦茶にしてしまうのではないか、関わる人に迷惑を掛けるのではないか、という意識が、おそらく綾の胸中には存在する。
 健一が付いていけば、綾の奇特な行動は抑えられるかもしれない。しかし、それが綾の本意でないことは健一にも理解できた。

「それだけでいいんですか?」
「勿論。健ちゃんが応援してくれるなら、きっと私、頑張れるから」
「……なら、お安い御用です」
「ありがと。本当は朝、みんなに言うつもりだったんだけど、折角顔合わせたんだしって思って」

 ほっと胸を撫で下ろす綾を見て――健一はいくつかの言葉を飲み込んだ。
 心配な気持ちはある。けれど、起こり得る問題も全て承知で、綾は話を受けたのだ。それが自分を変えようとする綾が踏み出した、大きな一歩だというのなら、極力尊重したい。

「気を付けてくださいね。ただでさえ綾さんは危なっかしいんですから」
「大丈夫大丈夫。……たぶん」
「いきなり弱気にならないでくださいよ……」
「あはは」

 どうか、上手く行きますように。
 この時ばかりは、心の底からそう願わずにはいられなかった。



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何かあったらどーぞ。