千夜子には、今まで料理をする習慣がなかった。
 必要に迫られたことがない、というのがひとつ。そして、自分の手作りを食べさせたいと思う相手がいなかった、というのがもうひとつ。故に、包丁で野菜を刻む程度はできても、本格的な一品料理を食卓に並べるには腕が足りない。学校に持ってきている毎日の昼食は母が作った弁当で、時折それが購買のパンに変わることはあっても、積極的に自分で用意しようと考えはしなかったのだ。
 だからその発言は、半ば賭けに近かった。

「……お弁当を?」
「はい。もしよかったら、その、私が作ってこようかな、って」

 当然と言うべきか、怪訝な表情を浮かべる健一に、千夜子は俯きながらも答える。
 横ではツバメが黙ったまま様子を窺っていて、細めた目で睨むようにこちらを見据えていた。

「ただ……実は私、料理とかほとんどしたことなくて。それで、絹川君には率直に感想を言ってほしいんです」
「確かあんた、料理できるんでしょ?」
「まあ人並みには」
「ならちょっと千夜子に付き合ってやってよ。あたしも全然その辺はわかんないし、気の利いたことも言えないから」
「でも、僕でいいんですか? そりゃあ勿論作ってきてもらえるのは嬉しいですけど」
「いえっ、お願いしたいのはこっちの方ですっ。きっとおいしくないですし、本当によければ、なので」
「……わかりました。大海さんの役に立てるかどうかは微妙ですけど、僕でいいなら引き受けますよ」
「あ……はいっ、ありがとうございます!」

 承諾を得て、千夜子の声が弾む。その過剰な喜びように健一は首を傾げるも、不審には思わなかった。
 残りの時間は他愛ない会話。昼休みの終わりを告げる鐘の音に、いつも通り三人は立ち上がる。
 歩き出した健一の少し後ろで、ツバメは視線だけを千夜子に向けた。彼女の意図するところを正確に汲み取り、千夜子は頬を少しだけ緩ませる。恥ずかしさの名残と微かな不安、浮ついた感情が胸を満たしていた。
 ――端的に言えば、これもツバメの入れ知恵だ。千夜子がそういう願望を持っていたのも確かだが、目敏くそれを見抜き実行に移させたのは彼女である。健一は料理ができるらしいということも判明していたし、事実、コーチの相手としてこれ以上ないほどの適役なのは間違いない。特訓の名目で健一に手作り弁当を食べさせられる上、料理の腕の向上も見込める。一石二鳥だった。
 助力を受けているとはいえ、一歩一歩、着実に歩み寄っている。声を掛けることすら躊躇う間柄だったのが、言葉少なでも話をするようになり、昼を一緒に食べる日が増え、ついには健一のために弁当を作るところまで来た。
 ここまでに掛かった日数を考えれば、順調と評してもいい。些か奥手な面のある千夜子だが、ツバメがフォローしてくれるおかげで、ほんのちょっと大胆になれた。前へと踏み込めた。
 この調子なら、と、淡い希望を抱く。いつか、友達という枠組みから抜け出せるかもしれない、と。

(……頑張ろう)

 弁当の件は、今日の夜、母親にコーチを頼んで特訓しよう。多少は詮索されるだろうが仕方ない。下手に自分だけで全部こなそうとしても、空回りして玉砕するのが目に見えている。おいしいものを食べてもらうなら、ちっぽけなプライドや恥ずかしさは捨てるべきだ。
 そう己に言い聞かせ、心中で千夜子は一人頷く。もっとも、彼女が明らかに気負い過ぎていると、唯一気付けるはずのツバメが察せられなかった時点で、結果は既に出ていたのかもしれなかった。










 物事をずっと続けていると、それはいつしか当たり前のことになる。恒常的に両親が帰ってこない環境で、家事のほとんどをやろうとしない蛍子と暮らしている健一にとって、毎朝の弁当を作ることは日課と言ってもよかった。
 だから、今の心境を述べれば、色々な意味で実感が湧かない、というのが近い。

「……どうして大海さんはお弁当を作ってこようだなんて言ったんだろ」

 別に、突然料理を始めようとしていることがおかしいとは感じない。女性は須く料理ができるなんて幻想は長年蛍子と付き合ってきているのでとっくに捨てているし、上手くなりたいという気持ちもわかる。腕を上げる一番の近道は、やはり誰かに食べてもらうことだ。健一を毒味役に選んだのも決して変な話ではない。単純に出来を評価してもらいたいだけなのだろう。
 勘違いは身を滅ぼす。きっと千夜子に他意はない、と結論付け、健一は目前の光景に再び意識を向けた。

「うわ、まただ」

 1301にボウリングのレーンがあること自体は知っていたが、稼働しているのを見るのは初めてだった。勿論、刻也がボールを持って構えているのを目にするのも。右手の指を三つの穴に差し入れ、胸の前で留めるようにして、片足を半歩後ろに。奥に並ぶ十本のピンを正面に捉え、流麗なフォームで腕が振り子の軌道を描く。重さに逆らわず、レーンの境界線で手放された球体は、緩やかに弧のルートを走り、先頭のピンの右側から斜めに入って逆三角形を崩していく。
 非の付け所がない、完璧なストライク。健一の記憶が確かなら、これで五度目だった。
 振り返り、微かに伏せた瞼をすっと上げて、刻也は表情を崩さず「君もやるかね?」と問いかけてくる。
 言葉よりも先に苦笑を返した。まさか、と首を横に振り、

「あんなの見せられた後には恥ずかしくてできませんよ。五回連続ストライクだなんて」
「ふむ……そうか」

 正直な気持ちで告げたが、特に喜ぶこともなくそう呟くと、健一が座っていたベンチの隣に刻也も腰を下ろした。
 プロと遜色ない腕前を披露したにもかかわらず、それが当然とばかりに自然体でいる。すごい人だと健一は改めて実感し、少しの間、見る者によっては不機嫌そうにも映る横顔を眺めた。そこには楽しさも、虚しさの類も窺えない。

「いやでも、八雲さんがボウリング得意だなんて知りませんでした」
「自慢するようなことではないからな。それに、得意というわけではないのだよ」
「そうなんですか? 僕には逆立ちしてもできませんけど……」
「単に経験の差だ。私は君がここに来る前から、暇な時にはやっていた。その違いだけだろう」
「だとしても、五連続でストライク取るのはプロでも難しいですって。やっぱりすごいですよ」
「君の言に対する反証を一つ挙げようか。私はスペアが取れないんだ」

 珍しく苦笑いを浮かべた刻也の発言に、健一はしばし考える。
 スペアの意味がわからないわけではない。一投目で全てのピンが倒せなかった場合、次で残りを倒せばスペアのスコアが出る。ストライクとはまた違う、精密なボールコントロールを必要とされるものだ。しかし、ストライクを取れるだけの腕があれば、それくらい容易いことではないのか。
 そんな健一の思考を察してかどうかは謎だが、あっさり刻也は解を教えた。

「基本的に、この場所でのレーンの傾きやピンの並びは変わらないだろう。ストライクを取れる投げ方さえ覚えてしまえば、環境が同じである以上、正確に動くことでストライクは出し続けられる。私は応用力に欠けていてね、状況に応じてとか、時間に追われてというのは苦手なのだよ。その点ボウリングは、どこまで突き詰めても一人でやるものだ。外的要因に左右されない分、純粋に自身の集中力のみが試される」
「そういうものなんですかね……」
「あくまで私が知っているのは、どういった歩幅でどう投げればこのレーンでストライクを出せるか、ということだけだ。おそらく他のボウリング場で投げたなら、散々なスコアになるだろうと思う」
「けどそれって、全く同じ動きを再現してるってことですよね」
「まあそうなるな。私は単純に、集中力を確かめるためにやっているのだよ。精神が乱れれば狙ったコースから外れる。そういう時は心を落ち着けて投げると、少しずつ正しいコースへと寄っていく。また取れるようになれば、集中しているという証左になる」
「なるほど。……何か、座禅みたいですね」

 ふと思ったことを口にすると、突然刻也が笑い始めた。小さく声を漏らし、嬉しそうに。
 座禅、座禅か、と繰り返し呟き、健一にその笑みを向ける。

「君は言葉選びのセンスが本当にいい。うむ、確かにその通りだ。私のしているのは座禅みたいなものだよ」

 眉目秀麗にして成績優秀、ありふれた言い方をするならば天に二物を与えられたような八雲刻也という人物は、こうして見るとどこか掴み難く、しかし決して見た目ほど固い性格をしていない。つくづく不思議な人だと思い、思った勢いで、かねてより抱いていた疑問を吐き出すことにした。

「そういえば八雲さん」
「何だね?」
「どうしてうちの学校に入ったんです?」

 誰が見ても、刻也の成績は図抜けている。学年トップを一度たりとも譲ったことはなく、噂によれば全教科の偏差値が七十を超えているという。入学する学校を間違えたのではないかとまことしやかに囁かれるほどで、彼ほど頭が良ければ、あの程度の授業は退屈極まりないとすら言えるだろう。なのに、何故刻也はもっとレベルの高いところに行かなかったのか。
 健一の問いに、刻也は先ほどと色の違う笑みで、本命の受験に失敗してね、と言った。

「え、そこまでレベルの高いところだったんですか?」
「世間一般にはそう言われているが、どうだろう、私には難関だという意識はなかったな」
「じゃあ何で……」
「試験を受けずに入れる場所ではなかった、というだけのことだ」
「……ああ」

 つまりそれは、何らかの理由で前提条件を満たせなかったということであり。
 もしかしたらそこにこそ、十三階に刻也がいる理由が秘められているのかもしれない。
 もう話すことはないと言外に滲ませ、長身が再びボールを手に取りレーンへ近付く。一連の動作をぼんやりと見つめ、健一は刻也と、綾、冴子の顔を脳裏に浮かべた。それぞれに事情がある。語りたくないというのなら無理に訊き出すつもりもない。冷たいのだろうかとも思うが、なら何が望ましいことなのかは、わからなかった。










 もし本当に千夜子が料理を上手く作れるようになりたいと考えているならば、弁当を用意してくるのも一日だけではないだろう。何事もまず継続することが重要であり、当人からは意欲が感じられる。なので健一は向こうが満足するまでの間、ちゃんと毒味役を務めるつもりでいた。だがそうなると、健一が自分で作ってくる必要がなくなる。蛍子が高校に通っていた頃からの習慣だ。いきなりやらなくていいと言われても、どうも落ち着かない。
 そういったことを刻也に話したところ、では私の分を作ってくれないだろうか、という提案が出てきた。

「君が暇な時だけで構わない。大海君が作らなくなった際、君の腰が重くなってしまっているのはあまり望ましくないと思うのだが……どうだろうか」
「いいですよ。毎日ってわけにはいかないかもしれませんけど、八雲さんにはお世話になってますしね」

 どちらにとっても損な話ではない。少し悩み、健一は頷いた。洗濯機を使う許可を取りに現れた冴子にも同様に問いかけ、ほんの少し揉めたものの、結果的に健一は二人分を作ることになった。一応冷蔵庫の中身を確認し、栄養や色合いのバランスを考慮して頭の中でレシピを並べる。寝過ごしたりでもしない限りは問題ないだろう。
 1301を出ると、冴子が付いてきた。すっと健一の隣まで足を運び、相変わらずの眠たげな細い瞳でこちらを見つめてくる。

「もう帰るの?」
「はい。……あ、でも、何か用があるんだったら残りますよ」
「ううん。無理に引き止めちゃ悪いし、その、今日はどっちでもいいから」

 欠けた主語が何であるかは、口にせずともわかった。おおよそ週の半分以上、ペースとしては三日のうち二日、健一は冴子が眠るために床を共にしている。おかげで――というと些か皮肉にも聞こえるが、最初に出会った時と比べれば彼女は健康そうに見える。十三階の中だけで言えば人当たりも良く、やはり変わった部分はあるものの、自然に接せられる相手なのは確かだった。
 ただ、それはあくまで十三階に限ってのことだ。学校での冴子は相変わらず人を寄せ付けない、一種断絶した雰囲気を周囲に撒き散らし、健一もアプローチを掛けられずにいた。あらぬ噂を立てられるから、という理由もわからないではないが、もっと根深いところに原因があるように思え、釈然としないまま今に至る。自分と冴子の関係が如何なるものかと考えてみるも、答えは出そうになかった。

「……絹川君?」
「え、な、何でしょ」
「ちょっとぼうっとしてるみたいだったから。体調悪いのかなって」
「いえ、考え事を少し。それより、有馬さんは洗濯しなくていいんですか? 弁当箱も必要だと思うんですけど」
「弁当箱は家から取ってくるつもり。これでも私、中学生の頃は自分で作ってたのよ」

 朝などは、健一が起きるよりも早く1301にいて、朝食の準備をしていることがある。何度か冴子の手料理を口にしたが、あれなら一人暮らしをするにも充分な腕だろう。

「じゃあ、有馬さんが取ってくる間に僕が洗濯物やっておきましょうか?」
「……本当に絹川君ってエッチなのね」

 純粋に好意からそう言った健一は、冴子の揶揄するようなひとことに困惑した。
 どうして、と視線だけで問い返す。

「だって、私の洗濯を代わりにするなんて……下着とか、あるし」
「ああ……うちではホタルのも一緒にやってるんで、全然気にしてませんでした。そういうの、駄目なんですかね」
「駄目ってことはないと思うけど……私の方が気にし過ぎてたのかな」

 1303の前で立ち止まり、何となく互いに部屋の中へ入るタイミングを失いそこで話し込む。
 自分一人が意識していたことが恥ずかしいのか、冴子は頬を薄く染めて俯いた。
 照れ隠しも兼ねて玄関の扉を開け、するりと身を滑り込ませる。健一も後に続き、若干足早に居間を目指す冴子の背を追った。膨らんだ大きめの紙袋がソファの近くに置いてあるのに気付き、つい中身を想像して複雑な気持ちになる。
 そんな心境が表情に出てしまっていたらしく、紅潮したまま、もう、と冴子は呟いた。
 妙な雰囲気が場を満たす。静寂の痛さに耐えかね、多分に誤魔化しの意を込めて別の話題を振る。

「そ、そういえば、どうして最近はお弁当作らなくなっちゃったんです?」
「前にね、ちょっと太ってるのが気になって」
「ってことは、お昼は抜いてるんですか?」
「ううん。今はちゃんと食べてる。ただ、自分で作ってた頃よりは少ないかな」
「それなら、有馬さんのは寮を控えめにしましょうか」
「……お願いできる? 食べ切れなくても困っちゃうから」
「わかりました」

 無意識に健一は冴子を見やった。女性の一般基準を知らないのではっきりとは言えないが、決して太っているわけではないと思う。触れた限りでは綾より肉付きが良く、しかしそもそも綾は健康面が心配になるレベルの痩せ型をしているため、参考にならない。肌の病的な白さを加味すれば、逆に細い印象がある。それなのに体重が気になるものなのかと考え、冴子も女性なのだと結論付けた。

「絹川君、そんなに胸が気になるの?」
「え? あ、いや、違います。有馬さんはどっちかというと細いかなって」
「それはたぶん、着てる服がゆったりしたのだから。身体の輪郭が出るのは着られないもの」

 夏であるのにもかかわらず、彼女の服装は両腕を覆う緩い長袖の上着と、膝下辺りまでを隠すスカート。言われてみれば、この外見では厳密な体型を判別するのは難しそうだった。

「……また見てる。やっぱりエッチなのね」
「見てません。というか、洗濯しに行かなくていいんですか?」
「あ……ごめんなさい。絹川君を引き止めちゃってた」
「こっちこそ。僕は一旦帰りますけど、しばらくしたらまた戻ってきます。弁当の準備もしておきたいですし」
「うん。私はここか1301のどちらかにいるから」

 頷き、玄関で靴を履く。
 また後で、という冴子のさり気ない言葉が、やけに耳に残った。



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何かあったらどーぞ。