セックスとは『満たされること』だ。少なくとも、冴子にとってはそういうものでしかない。性的な快楽を欲するが故に求める者がいれば、愛を語る上で欠かせないと言う者もいるだろう。しかし、心地良さを伴わない性行為も存在するし、愛がなくてもセックスはできる。だからそれは、ただの手段だ。人間が男女に分かたれて生まれている以上、最も簡単に、物理的に繋がろうとするのなら、セックスほど理に適ったものはないと思う。

 繋がれば満たされ、満たされれば安らぐ。自分は孤独じゃない、という実感を得られる。

 健一との性行為は激しかった。今まで冴子が体験したどれよりも気持ち良く、正直に言えば、淫らに喘ぐ己が恐ろしくもあった。あくまで眠りに就くための手段なのに、このまま健一と交わり続けたならば、いずれ行為そのものに意義を見出してしまいそうだったから。
 一度目は四回。二度目に一回。さすがに勢いや量は回数を重ねる毎に減衰していったが、絶倫と評していいスタミナだ。事の最中、普段ぼんやりした――ある意味では浮世離れした、と表現すべきかもしれない――健一はやけに鋭く、冴子が知る限り綾と一度しかしたことがないのにもかかわらず、攻め方が異様に的確だった。それこそ、鈍い冴子が感じてしまうほどに。
 ……誰かと『寝る』際、冴子はいくつかのことを心掛けている。例えば、少しでも面倒事を減らすために、同じ相手と再びは床を共にしない。誘う男も選ぶ。ずっとしなければいつか倒れてしまうが、何があってもそれだけは必ず守るようにしていた。
 だが、絹川健一という人物は、冴子が知るどんな男とも違う。違うから、おかしいから、異常だから――引き止められて、この部屋に、1303に残ると決めた時、ほんの僅かな安堵を得てしまった。

 薄い闇が、意識を侵食する。

 幾度目かの絶頂を迎えた後、曖昧な記憶が最後に残していたのは、腰を抱く健一の腕だ。そのぬくもりと力強さに包まれて、冴子は穏やかな眠りに入ることができた。夢は見ない。ただ、恐怖のない時間がそこにはある。
 睡眠とは、一時とはいえ自分を無に置くことではないか、と冴子は思う。深く暗い、伸ばした手も決して届かない水の底に落ちて、沈んで、どろりとした闇に全身を押し潰されそうになる。
 先ほどまで視界に広がっていた部屋の黒色でさえ明るく感じるような、あの世界に誘われるのが、何より嫌だった。
 独りでなければ、逃れられる。絶望の足音は聞こえない。だから、冴子は満たされたかった。満たされていたかった。人は本質的に孤独だという事実を、せめてその時だけは忘れていたかった。

『私は、おかしいの。異常なの。それが私なの』

 ――有馬冴子は妾の娘だった。親が資産家というと裕福なイメージを持たれるが、幸せな日々を過ごしていたかと問われれば否定する。水商売で日銭を稼ぐ実母は、冴子の存在を利用して有馬の家に押し入った。この場合、責任の所在は父にある。どちらが乗り気でどちらが流されたのか、そもそも子を産む意思があったのかは定かではない。幾人かを不幸にし、結果として奪い取った幸福を享受するように、彼女はひとつの居場所を獲得した。
 が、そこに平穏はない。異物である冴子はいつも、冷たい疎外感を味わっていた。義理の兄達からはあからさまに性的な視線を向けられ、父の本妻――もう一人の母には当然のように疎まれ、唯一姉の静流だけは、そんな家庭の様子を遠巻きに眺めていた。
 端から受け入れられるとは思っていない。それでも、居辛いことに変わりはない。
 ……結局、冴子の居場所はどこにもなかったのだ。

『私、変になってる……かも』

 予感がある。
 おそらく、健一との関係は今回だけで終わらない。身を重ねれば重ねるほど深みに嵌まっていく気もするが、これ以上余計な厄介事や心労を増やさなくてもいいというのは、純粋に望ましいことだろう。1303に他の無関係な人間を連れてこれないのも考えれば、健一と秘密を共有するのが最善だと思う。常人の手が及ばない十三階なら、発覚するリスクも皆無と言えた。
 故に。故に、冴子は恐れる。約束が――彼と交わした約束が、守られなくなってしまう未来を。

 いつまでいられるのかはわからない。
 けれど、例え短い間だとしても、安住の地を見つけたことに――冴子は仄かな安らぎと幸せを、感じていた。










 苛立ちを解消する一番簡単な方法は、物や人に当たることである。相手が苛立ちの原因そのものなら尚良い。
 といっても、一般家庭にサンドバッグの類があるはずはなく、壁を殴れば手が痛い。怒りを当人――健一にぶつけようにもまるで帰ってくる気配がないので、意味もなく居間を歩き回る蛍子は神経質に足音を鳴らしていた。
 行き場のない感情を抱え、がしがしと頭を掻くと、玄関の鍵を掛け居間の電気を消し、木材を踏み抜いてしまいそうな勢いで二階へ上がる。零時を過ぎても戻らないなら、出迎えてやるのは諦めた方がいいと判断した。
 荒い足取りで自室に入り、扉を後ろ手で閉めてベッドに身を投げ出す。どうにもささくれ立った気持ちが治まらず、枕に持ち上げた踵を振り下ろした。くぐもった音が響き、しかしそれだけ。苛立ちが消えてくれるわけでもない。

「ったく、なんで戻らないんだ……」

 確かに、別に帰ってこなくていいとは言った。でも、本当に遅くなる奴があるか、と思う。
 愚鈍で無神経な弟は、まるで人の言葉の裏を読めない。家にほとんど寄り付かない仕事の虫の両親を除けば、一番近しい存在であるはずの姉に対してもだ。……いや、姉だからかもしれない。近過ぎると見えないものもある。気付けない、こともある。

「ああもう……っ」

 全部あいつが悪い、と心中で毒づき、シーツに顔を埋めて、ふと普段は意識しない匂いに気付く。
 木炭やら絵の具やらの、独特の匂い。蛍子にはそれらが己の肌に染み付いているのではないかと錯覚した。そう、錯覚だ。本当にそうなら、普段から健一が遠慮なく文句を言うだろう。蛍子だから感じ取れる、微かなもの。
 仰向けになり、天井に手をかざした。繊細とは評し難い、薄汚れた指が目に入る。自分が女らしさとは程遠い位置にいると蛍子は理解しているが、時折綺麗な手指が羨ましくなることもあった。

 ――私には、絵しかない。

 そんな風に強く実感したのは、いつだったろうか。
 薄く瞳を閉じ、微睡みに意識を委ねて、彼女はゆっくりと記憶の海に浸り始める。
 ……高校生活が残り一年と僅かになった頃。春休みを利用して、当時の蛍子は静物デッサンに勤しんでいた。自宅でできればよかったが、一般家庭で必要なスペースを確保するのは酷く難しい。だから数日を掛ける作業のために、美術準備室を使わせてもらっていた。美術室を空けているのは、蛍子以外の誰かが訪れる可能性を考えてだ。顧問の荒幡教諭は、そういうところにしっかり気を配れる人間だった。
 デッサン自体は、技術向上のための修練でしかない。正確に、精密にモデルの石膏像を写し取るだけの作業。しかしそれは、例え目に見える成果を得られずとも、間違いなく蛍子を高める。自分が思い描いたイメージを現実で再現するのもまた、想像を写し取るという行為なのだから。
 黙々とデッサンを続ける蛍子の側には、同じ美術部員の人間がいることが多かった。三条宇美と有馬静流。毎日ではないものの蛍子に付き合って来ている彼女達は、専ら雑談に興じていたが、そこに蛍子が混ざることはほとんどなかった。
 確かあの日、静流の家が色々あって崩壊しかかってる、というような話をしていたと思う。宇美がそれを聞き、途中で無視できなくなった蛍子は仕方なく会話に参加した。特筆すべき内容ではない。ただ男の話題が出た時は漠然と、反発心めいたものを感じた。
 静流は男漁りが趣味と評してもいい人物で、資産家の娘――世間一般ではお嬢様と呼ばれる立場にいながらも、どこか生々しく下品なところがあった。対極の位置にいる蛍子にとって、彼女はどうにも好きになれない相手だ。苦手意識に近い、かもしれない。
 容姿端麗なのにもかかわらず、まるで自分の魅力を活かそうとしない蛍子に、何かと静流は男を勧めてきた。一応そこに僅かばかりでも善意が込められているのはわかっていたが、頑なに蛍子は拒否した。そんなことをしている時間があったら絵を描く。構図を考える。デッサンに集中する。価値観の違いが、そのまま意見の相違だった。

「私も美術のことはあんまりわからないけど……蛍子ってさ、殻の中に籠もり過ぎって感じがするのよねぇ。別にそうやってデッサンしてるだけならいいけど、それじゃ経験ってものが足りないんじゃない?」
「………………」
「芸術家なんてのはみんな、自分を切り売りしてるわけでしょ? どんなに巧く描けてても肝心の中身が空っぽだったら、少なくとも私はそんなのがいいとは思わないな」

 静流の苦言を、蛍子は否定しなかった。ただし肯定もしなかった。だって、それでも構わなかったのだ。
 誰もが蛍子の実力を認めていた。コンクールに学校代表として作品を出展することも決まっていた。
 ……なのに、たったひとつの出来事が、全てをぶち壊した。

「もっと相応しい作品が持ち込まれたんだよ」

 そう告げた荒幡教諭の苦い表情を、今でも覚えている。
 桑畑綾――蛍子と同年齢ながら、当時既にその才能を世界に認められていた彼女が、新作を学校のために使ってもいい、と言ったらしい。満場一致で受け入れられた蛍子の作品は、そっちの方が恰好の宣伝になるという、単純かつ残酷な、勝手な都合と理由で取り下げられた。……それだけならまだいい。かつて芸術家の道を志し、作品に対しては真摯に向き合ってくれる荒幡教諭さえも、最終的には綾の方を推したという。
 それがどういうことか、理解できない蛍子ではなかった。納得できるか否かはともかくとして。



 同日の夜、蛍子は荒幡教諭に渡された案内図を頼りに、綾の家に伺った。応対してくれた彼女の母親に荒幡教諭の名前を出すとあっさり受け入れられ、離れのアトリエに通される。そこで見た、桑畑綾の新作。思わず呼吸さえも忘れるほど圧倒的な存在感を持つオブジェ。それがたった一人の手で作られたことを、蛍子は少しの間、信じられなかった。

「……誰?」

 アトリエの奥、キングサイズのベッドで眠っていた人影――綾が、蛍子の立てる物音に気付きむくりと起き上がってきた。
 寝ぼけ眼をしばたたかせ、重い足取りで現れた彼女に、お邪魔します、と申し訳なさを含んだ声で挨拶する。しばらく綾はぼんやりと首を傾げていたが、蛍子の名前を聞いてぱあっと頬を緩めた。
 以前、蛍子は綾を美術部に勧誘したことがある。しかしそれ以外に接点はなく、来訪を喜ばれるような関係でもないはずだ。

「蛍子ちゃんが私の作品を見に来るなんて、ちょっと意外だったな」
「……どうして?」
「嫌われてるって思ってたから。美術部に入れって言われたのに断ったの怒ってるかなって」

 綾は無邪気に、嬉しそうな顔で口を開いた。
 何故――何故そんな風に、平然としていられるのか。

「コンクールのことで、私に、何か言うことはないの?」
「え? コンクール?」
「まさか……知らないの?」
「うん」

 迷いのない首肯に、余計心が落ち着かなくなった。
 歯噛みする蛍子の前で、綾は何か思い当たることがあったのか、そっか、と呟く。

「たぶん、お父さんが出したんだと思う。私、コンクールとか興味ないから」
「興味ない、って……」

 綾が美術部に入らなかった理由も、同じだった。物を作れればいい。それが彼女の世界だ。完成した作品がどうなろうと、自分の与り知らぬところでコンクールに出されようと、関与しない。する必要がない。
 蛍子にはわかる。今の言葉は、綾の本心からのものだと。
 だからといって――はいそうですかと頷けるほど、彼女は大人になれなかった。

「あなたはそれでいいかもしれないけど、私は……あなたの所為で……っ」
「何かあったの?」
「三ヶ月掛けて描いた絵が、無駄になったんだ。コンクールに出展される予定だったのに、あなたの作品の方が学校の代表に相応しいからって、そんな理由で、無駄になったんだ」
「じゃあ、辞退すればいいのかな」
「っ、あなたが! あなたがそんなだから!」

 全身を染め抜く怒り。固く握った拳が発作的に壁を叩いた。
 びくりと驚きで震えた綾に、湧き上がる言葉をぶつける。

「……今のひとことがどれだけ人を傷つけるか、わかってる?」
「ごめんね。わかってないと思う。私、そういうの苦手だから」
「苦手って、馬鹿にしてる?」
「ううん。本当に、わからないの。私が話すといつもそう。みんなを怒らせたり、悲しい顔にさせたりしちゃう。それは嫌。笑われるのはいいけど、私の所為でそうなってほしくない。だから、」

 ――教えて。蛍子ちゃんはどうしたら、喜んでくれる?

 蛍子になくて、綾にあるもの。
 綾になくて、蛍子にあるもの。
 きっとどちらもないものねだりで、どうしようもない二人の違いが、今の状況を作り出している。
 誰も優しい解決策を用意してはくれない。円満な結末を導く答えは、どこにもない。悲しそうに訴える綾を、蛍子は罵ることしかできなかった。そんなの知るかと突き放して、逃げるようにその場を去ることしか、できなかった。



 結局、蛍子は返却された作品を捨てずにいる。
 例えば今は押入れの奥に仕舞われたそれを、荒幡教諭から受け取ってきたのは宇美だ。彼女は自分のために顧問の彼と喧嘩をして、心配して、絵描くの止めないでね、と言った。作品と一緒に渡された封筒には、荒幡教諭の手紙が入っていた。
『すまない。でも、君自身のことも、この絵も、どうか嫌いにならないでほしい』と筆で書かれた文。綾の作品を選んだことは、確かにある意味では裏切りだったのかもしれない。が、もう、彼が悪くないと蛍子は知っている。彼だけでない、綾も。
 要らないから捨ててしまおうと考えていた絵は、何故か健一が欲しがった。ここにも一人、認めてくれている人間がいた。
 当人の前では悪態を吐いたけれど、部屋に戻って、静かに泣いた。
 嬉しくて、救われて、自分にはやはり絵しかないのだと再確認できた。

「……はぁ」

 なのに、こうして健一が帰ってこないことに苛立っているのは、どうしてだろう。
 自問すれば結論はすぐに出る。甘く、苦しい恋慕の情が、満たされたいと叫んでいる。
 それは無理だとわかっているのに。抑えの利かない気持ちは、憎らしくすらあった。

「私は――」

 無意識に唇をなぞる。
 日常が崩れ去らないように、明日も蛍子は口を閉ざす。










 大海千夜子は、突出したところのない、本当に平凡な人間だった。
 非日常に憧れることもなかったとは言わないが、今の生活で満足していたし、不満にも思わない。平穏とはある意味とても得難いもので、そして彼女はその得難いものを失わずに生きてきた。温かな家族、騒がしくも優しい友人、退屈ながらそれなりに楽しい日々。
 そんな中で、千夜子は恋をした。初恋は甘く、切なく、苦しい。胸の内側で日毎に膨らむ想いを、告白しようと決意し諦めたあの頃からずっと、持て余し続けている。

 目が冴えて眠れない時もあった。心臓の高鳴りが治まらなくて立ち眩みがしたこともあった。
 健一と視線が合うと、いつも心がきゅうっと縮まって、頭が真っ白になってしまう。普段通りの自分でいようと努めてはいるけど、上手くできているかは自信がない。声を聞けばくらくらして、見つめられるとぽうっとして、こんな風にしていられればいいやなんて、現状に満足してしまいそうになる。
 世界で誰が一番幸せかを客観的に決めるのは不可能だ。
 だが、今の千夜子は、誰にも負けないほど幸せだと思っている。あと一歩が踏み出せないもどかしさも、あれこれ世話を焼いてくるツバメの過保護さも、なかなか思うようにいかない現実も、千夜子にとっては愛すべきものだった。

「……健一さん」

 彼を前にしては決して口にできない、その名前をぽつりとこぼす。
 夜、ベッドに入ってから一人呟くのは、彼女の日課だ。そうして望む未来を夢想する。二人並んで歩く通学路、まだまともに料理の作れない自分が、彼に教わって手製の弁当を食べてもらう昼休み。途中まで一緒の帰り道、またねと言って別れる夕方――もしかしたら、小さな勇気があれば、既に手に入れられたのかもしれないもの。
 けれど千夜子は一度折れた。低い可能性に懸けるより、着実に歩み寄る手段を選んだ。

「私、ともだち、って、思ってもらえてるのかな……」

 だったら嬉しい。望む形とはまだ違うけど、それでも好意的に見られているのなら。
 健一の少しぼんやりした笑みを脳裏に浮かべ、ほわりと自分の心が温かくなるのを千夜子は感じる。
 恋ってすごいんだから、というツバメの言葉にも、この気持ちを知った今なら頷ける気がした。

「……うん」

 明日もいいことが待ってますように、と、そう願って瞼を落とす。
 例え一歩で近付ける距離は僅かでも、頑張っていればいつか届くだろう。ゆっくりと、自分のペースで行けばいい。



 ――仄かな幸せと、淡く甘い痛み。
 奇しくもそれは、彼女達が共通して抱いた感情だった。



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何かあったらどーぞ。