一瞬、冴子の姿を見たような気がした。 しかしそれは気の所為だったのか、健一が振り返った時にはもう人影もなく、もしかして本物の幽霊か何かだったんじゃないのかと少し考える。勿論そんなことは有り得ないから、おそらく単なる見間違えだろう。釈然としない気持ちを引きずりつつも、駅前の店の並び辺りまで足早に駆け、適当に一着を見繕って十三階に戻ると、言葉通り綾は1304にいた。どうやらちゃんと片付けを済ませたらしい。 「あ、おかえり」 「とりあえず買ってきましたけど……」 「じゃあ着替えるね」 「って綾さん、ストップ! ストップ!」 そう言って健一の目の前で脱ぎ出した綾を制止し、早速精神的な疲労を感じながら慌てて部屋の外に出る。 健一に見られないことが不満なのか、何故か頬を膨らませていた綾の姿を思い出し、むしろ大変なのはここからだと嘆息した。今日は果たしていつ帰ってこれるだろうか、不毛な思考を廻らせ始めたところで、背中後ろの方から「もういいよー」と声が掛かる。 中に入ると、買ってきた服――グレーのキャミソールに近いワンピースとマリンブルーのTシャツを身に着けた綾が立っていた。目視でスリーサイズがわかるわけでもなし、裸の彼女に触れた経験もあるが、それで数値を測れるような技能も持っていない。なので主観に基づき、比較的サイズの問題が出なさそうなものを選んできた。念のため大きめに見積もったのだが、背の高さか、あるいは胸の大きさか、ともかく丈は余らず、予想以上にぴったりフィットしていて健一は安心した。二度手間は避けられそうである。 そして何より、綾はその服がかなりお気に召したようだった。 健一の前でくるりと翻り、幸せいっぱいと言った感じの笑顔を浮かべて腕に絡まってくる。 「えへへ、何かさ、これからデート行くみたいだよね。健ちゃんが買ってくれた服でお出かけだし」 反論しても無駄と早々に悟り、それとなく綾を急かす。 水を差されても一向に表情を崩す様子はなく、軽やかな足取りで余所行きの準備を終わらせ出発。今回は目的地が若干遠いので電車を使う必要があり、駅までは徒歩での移動だ。とはいえまだ地元、健一を知る他の人間にとっては謎の女性である綾と二人きり、なんて状況を見られるのは色々とまずい。 しかも、綾にはもう一つ不安材料がある。 「ほら綾さん、余所見しないでください。電柱に頭ぶつけちゃいますよ」 「だって、この辺来たの久しぶりで……結構景色が変わってるんだね」 「最後に来たのはいつの話なんですか……。いや、それより、今日の目的はわかってます?」 「私の服を買うことでしょ?」 「はい。……なのにどうしてスケッチブック持ってきてるんですか」 元々、外出時の綾の私物は極端に少ない。無造作にポケットへと捩じ込まれた数枚の一万円札と、話題に上ったスケッチブック、デッサン用のペンだけだ。当然普通に買い物をするつもりなら、お金以外は要らないだろう。だが、 「いやね、これはないと困るんだな」 「思いっきり寄り道する気ですね……」 「そうじゃなくて、道具ないと私、その辺に描いちゃうから。前に何にも持ってなかった時は、自分で指噛み切って血で描いてたし。我ながら後で気付いてびっくりしたなあ」 「噛み切る前に気付いてくださいよ……」 「あはは、私って描こうと思ったらそれしか頭になくなっちゃうからさ」 さすがに流血沙汰は勘弁してほしい。 あっけらかんと笑う綾に呆れていると、不意に横からじっと見つめられた。 「ね、健ちゃん、腕組んでいいかな?」 「さっき出る前にやってましたよね? だいたい、僕と綾さんって付き合ってもいないはずなんですけど」 「まあ、確かにそうだけど……でもほら、私って健ちゃんのはじめての女だし」 「ぶっ!?」 唐突過ぎる爆弾発言に、健一は慌てて周囲を見回す。 ……今の、誰かに聞かれてないだろうか。 あからさまに挙動不審な様子を見せる健一に、綾はよくわからないといった顔で「間違ったこと言ったかな」と呟いた。 「間違ってはないですけど、全然脈絡なくてそれ以前の問題かと」 「そうかなあ。腕組んだら私はずっと健ちゃんを見てられるし、他の物に気を取られなくて済むかなって」 言われてみれば、名案とはいかなくとも多少の効果くらいは期待できるかもしれない。 とはいえ地元で実行するのはかなりリスキーで、そこまですると問い詰められても弁解は無理なんじゃないかと思う。 こうしてないと迷子になるんです、なんて、誰が信じるだろう。自分だったら絶対信じない。 「……やっぱり駄目です、って綾さん!?」 一人頷き横を向いたところで、先ほどまでそこにいた綾の姿が消えているのに気付いた。 いったい何を見つけたのか、前と同じようにスケッチしに行ったのは間違いない。 「本当に、子供みたいというか……外に出られない人だよなあ」 発見しても描き終わるまで待つしかないのはわかっているが、それでも探しに行かずにはいられない健一だった。 本来なら、幽霊マンションから駅まで徒歩十分、そこから電車で二十分弱しか掛からないはずの距離である。 それが綾を連れていくだけで二時間超。着いた時点でもう陽が暮れかけていた。 唯一幸いなのは、雑然とした都会の風景に綾が興味を持たないことくらいだろうか。電車に乗る以前の道程では、やたらと足を止めてスケッチに走っていたのだが、例えばそれなりに健一が利用する商店街と比べて明らかに人の多い繁華街まで来ると、心惹かれるようなものはないらしい。喧噪も手伝い、目的の場所に辿り着くまで寄り道をすることは一度もなかった。 二人が入ったのは、着用物関連の物を取り扱う総合的な洋品店。かなり規模が大きく、四階建てほどで品揃えも凄まじい。綾が来る前から目星を付けていたとは考え難いが、この調子だとここで買い物は全て済ませられそうである。 ということでまずは、目的の小綺麗な格好に見える服。店員さんに綾のサイズを測ってもらい、それに合わせて上下を選ぶ。ただ、健一の美的センスはないに等しく、勿論当人の綾に訊いてみたところでまともな答えが返ってこないのは火を見るよりも明らかなので、ある程度の見繕いも店員さんに任せることにした。 痩せている割に胸だけが大きいという綾のスタイルだと、どうしても選択肢は限られてしまう。そのため全体的にゆったりとしたものがチョイスされ、綾の好みと健一の意見(健ちゃんはどれがいいの、と返事をするまで問いが続いた)を最後に入れた結果、上下セットで五着ずつを購入。ほとんど自分で服を買わない健一にはリーズナブルな値段かどうかの判別は付けられなかったが、さらっと五万オーバーの会計になった。一介の学生なら財布を取り出すのに躊躇する金額だ。それをあっさり剥き出しのお札で支払う姿に、綾がいわゆる金持ちであることを今更ながら再確認する。 上下で計十着ともなると、荷物の量はかなりのもの。ぎゅうぎゅうに詰まった袋を片手に持った健一は、まだ買いたい物があるという綾に従いエスカレーターで上の階へ。しかし、足を止めたところが問題だった。 眼前に並ぶ、色とりどりの下着、下着、下着。 「あの……綾さん」 「ん、どうしたの? 荷物重いなら持とっか?」 「いえ、それは平気なんですけど……綾さんが買いたい物ってもしかして」 「下着だよ。最近ちょっと足りなくなってきちゃってるし、丁度いいからここで買っておこうかなって」 ――どう見てもランジェリーショップである。 思わず無意識のうちに一歩後ろに下がった健一を、綾は腕を掴んで引き止めた。 「僕は下で待ってますから、買い終わったら呼んでください」 「えー、健ちゃんも一緒に選んでよ」 「嫌です。こんな場所に男がいたら場違いじゃないですか」 「そうかなあ。私は健ちゃんに選んでほしいんだけど」 「だいたい、どうして僕が綾さんの下着を選ぶ必要があるんです?」 「だってほら、健ちゃんに見せるのを買うわけだし」 「……見ません」 「えー」 ぷくー、と頬を膨らませる綾の瞳には不満の色が籠っていたが、健一にとってはそれどころではない。 会社上がりなのか、スーツ姿の女性客がかなりいて、入口で小声ながらも騒いでいる二人、それも特に健一の方を時折ちらっと窺っていた。……学生服姿の男がランジェリーショップに来ていたら、怪しく思うのも当然だろう。 綾とアダルトビデオを物色した時も似たような状況だったが、どちらかと言えばあの空間で場違いな存在なのは綾で、今回は真逆の立場だ。健一だけが明らかに浮いている。というか、このままだと通報されかねない。 すぐにでも離れようと振り返りかけ、しかし掴まれた腕が解けずにまた立ち止まる。何度かそれを繰り返し、結局先に健一が折れた。 こうなったら、とにかく早めに買い物を終わらせるしかない。 健一の試練が始まった。 「ねね、健ちゃんは何色が好き?」 「名前を呼ばないでください……」 「え、なんで? 健ちゃんは健ちゃんでしょ?」 「だから……あ、いや、お願いですから早く選びましょうよ」 「そう思って健ちゃんに訊いたんだけど」 「僕の好きな色と下着に何の関係があるんですか」 「健ちゃんに見せるなら、やっぱり健ちゃんの好きな色がいいかなって。あ、でも、脱がせちゃえば色なんて関係ないか」 「……あの、どうしてそういう話に?」 「だってさ、下着の色なんて普通自分で気にしないでしょ? 鏡くらいでしか見ないんだし、そういうのは自分を見てくれる相手のためのものだよね。なら健ちゃんが喜ぶ色の方がいいじゃない」 「それは、そうかもしれないですけど……いやでもおかしいですよね?」 「どこが?」 「…………うーん」 「で、何色がいい?」 「……別にこだわりなんてないですから、何でもいいです」 「そんなこと言わず、正直に教えてよー」 アダルトビデオを借りに行った際、健一が好みの一本を選ぶまで帰らないと宣言したように、綾は妙なところで頑固だ。 シチュエーションこそ違うもののつくづく似た展開だと思い、何で自分はこんなことをしているんだろうと虚しくなった。 長引けば長引くほど、追い詰められていくのは健一の方である。つまり、さっさと答える他ない。 特に深い考えもなく、一瞥して目に付いた色を口走った。 「……じゃ、じゃあ黒で」 「黒!? そっか、健ちゃんは黒が好きなんだ……。よし、黒にしようっと」 「綾さん、別にそんな好きな色じゃないですから、全部黒にしようとか考えないでいいですよ?」 「む、なら他にどんな色が好きなの?」 「それくらい自分で選んでくださいよ……」 「……だったら全部黒にする」 唇を尖らせて拗ねる様子は、駄々をこねる子供そのものだった。 むすっとした顔で、普段より低い声色の問いが飛んでくる。 「健ちゃんは、黒、好きなんだよね? だよね?」 「その……た、たぶん」 「たぶん?」 「あ、いえ、かなり好きです」 「――そっか。じゃ、黒にしよう」 異様な剣幕に押され、反射的に頷くと、綾は一転晴れやかな表情を浮かべて店員がいる方へと向かった。 どうやら相談と交渉を始めたらしく、話し声が聞こえてきたが、とりあえず健一の出番はなさそうだった。 待機すること約五分、手持ちのよりは小さな袋を抱えた綾が戻ってくる。 「買ったよー」 「まだ何かあります?」 「えっとね……そうだ、眼鏡」 「眼鏡、ですか?」 「うん。私って視力悪いし、ないと困るかなって思ってたんだよね」 「コンタクトの方がいいんじゃないですか? 眼鏡だと印象変わっちゃうでしょうし」 「いや、よく外さないでそのまま寝ちゃったりするから、コンタクトだとちょっと怖いかな」 なるほど、これでもかというほど綾のズボラな面を見ている健一には、とても納得できる理由である。 「そういえば、健ちゃんは眼鏡嫌いなの?」 「嫌いってことはないですけど……最近はみんなコンタクトなのかなー、と」 「じゃあ眼鏡も買っちゃおう」 「……随分軽いですね」 「どうせ自分一人じゃ来られないし、欲しいものは全部揃えとこうかなって」 そんな流れで眼鏡も購入し、さらに何故か地下で売っていた水着も買って帰路に就いたのは、西日が眩しい時間帯。電車はラッシュアワーで混雑っぷりが激しく、綾が乗るのを嫌がったのでタクシーでの帰宅になった。両手でもいっぱいいっぱいな量の荷物故、健一としても有り難い。が、仮にも電車で帰れる距離を割高なタクシーで行くのは、節約が身に付いている健一にとって心苦しくもあった。 衣服、下着、眼鏡、水着にその他諸々と、全て合わせれば散財の度合いは半端なく、百万には届かずとも数十万単位の金額を使っていただろう。綾とこのまま一緒にいたら、金銭感覚が麻痺してしまうんじゃなかろうかと健一は半ば本気で懸念しかけた。 寡黙な運転手が操るタクシーの中で揺られながら、ふと、普通という言葉の意味を考える。 「……健ちゃん?」 「あ、はい」 「何か難しい顔してたけど大丈夫? 疲れた?」 心配そうに見つめられ、小さく首を横に振る。 平気です、と言う代わりに、健一は質問で返した。 「綾さんは、普通ってどういうことだと思います?」 「普通? うーん……よくわからないや。でもとりあえず、私は普通じゃないよね」 「………………」 「健ちゃんは優しいね。そこは頷いてもいいのに」 確かに綾は普通の範疇に入らない。羞恥心が欠けていて、ところどころ常識知らずで、作業に集中すると食事さえ忘れて倒れるような人だ。世の中の大多数、ほとんど誰もが持っている物差しに照らし合わせれば、間違いなく彼女は非常識の側に属することになる。 けれども――。 「ねえ、例えばさ、いっぱい荷物がない時でもタクシーに乗るのって、普通じゃないのかな」 「まあ……そうですね。お金がある人は近場でも使うんでしょうけど、大概の人は電車に乗ると思いますよ」 「なら今度は電車にする。その方が、普通なんだよね?」 意図的に普通でなくなろうとする者がいて、同じように、普通でありたいと願う者もいるのだろう。 努力が実るのかどうかはともかく、きっと綾はそんな想いを持っているのかもしれない。健一は、何となくそう感じた。 「はい。また買い物する時は、できる限り僕も付き合いますから」 「本当? やった、健ちゃんとデートの約束だ」 「だからデートじゃないですって」 「デートデート、健ちゃんとデート〜♪」 ……自分はどうなんだろう。 一瞬脳裏にちらついた疑問は、考えなかったことにした。 1301には、洗濯機が存在しない。 光熱費の請求もなく電化製品や水道を自由に使える十三階だが、その特質上、部屋の設備までは自分の意思でどうにかすることができないという欠点がある。つまり必要な物は他から調達してくるしかないわけで、八雲刻也はそれを自ら実践しているらしかった。 綾との買い物から帰宅し、幽霊マンションの長い階段を上っている途中に見かけた刻也が抱えているのは洗濯機以外の何物でもなく、当然ながら、一人で運ぶには重過ぎるサイズの荷物だ。微妙に水色の外装は薄汚れていて、しかも随分型が古い。まるで、捨てられていたのをどこかから拾ってきたようだった。 「えっと……あの、八雲さん?」 「む、君か」 「何ですかこれ」 「洗濯機だが」 「いや、それは見ればわかりますけど……どこから持ってきたんです?」 真顔で答える刻也に苦笑を返し、もう少し突っ込んだ問いを向ける。 「毎回コインランドリーでは不経済なのでな。『沼』からここまで運んできたのだ」 「沼?」 「近所に粗大ゴミの不法投棄所がある。そこから有用な物を見つけ出す者達が、その場所を『沼』と呼んでいるのだよ」 何故そんなことを知っているのか。新たな疑問が噴出するのと共に、如何にも勉強一筋といった感じの刻也のイメージとは違う今の印象に健一は意外さを覚えた。泥臭さ、というのが近いかもしれない。 軽く驚きつつ、申し出をしてみる。 「運ぶの手伝いましょうか?」 「……今の君にそんな余裕はないと思うが。両手が塞がっているだろう」 「あ、そうですね。じゃあ荷物置いてきますから、ちょっと待っててください」 「別にそこまでしてもらう義理はない」 「いえ、二人で運んだ方が早いですし、本当にすぐ戻ってきますから。……綾さんは一緒に待ってなくていいですよ」 「だよねえ。あはは」 刻也の返事を待たずに駆け出しかけ、そこで手持ち無沙汰にしていた綾の存在に気付き声を掛ける。 少し照れ臭そうに頬を掻き、綾は刻也に手を振って健一の後ろに続いた。 1304で大量の荷物を下ろす頃にはだいぶ消耗していたが、早速衣服を引っ繰り返し始めた綾を尻目に、急ぎ足で来た道を戻る。先ほど四階辺りにいた刻也は、ようやく五階へ辿り着こうとしているところで、その足取りは明らかにふらついていた。下から持ち上げる形で一段一段着実に乗せていく刻也の向かい側に立ち、健一の手が洗濯機を五階に引っ張り上げる。 「……本当に君は手伝うのだな」 「そう言いましたから」 後はさしたる言葉もなく、二人で両側から抱え込むようにしてゆっくりと運ぶ。 旧型だからか、予想以上の重さに健一は自分の筋肉がぴきりと張り詰めたのを感じる。 「八雲さん、よくここまで一人で持ってこれましたね」 「マンションの前まではゲンさんが台車で運んでくれたんだが、さすがに階段で台車は使えないからな」 「ゲンさん?」 「『沼』に集まる仲間の一人だよ。本名は私も知らないが良くしてもらっている」 「若い人なんですか?」 「いや、おそらく四十前後だろう。お互いの事情は詮索しない、というのが、あの場所での暗黙の了解なのでな。他にも固有のルールがあって、無知だった私を叱り、それを教えてくれたのがゲンさんだった」 「なるほど……。じゃあゲンさんは八雲さんの師匠なんですね」 思ったことをそのまま言うと、刻也ははっとしたような表情を浮かべた。 「ああ、そうか。確かにその通りだ。ゲンさんは私の師匠なのだな」 「……八雲さんは、そう思ってなかったんですか?」 「今まで私自身、ゲンさんをどう捉えていいのかわからなかったのだが、君の言葉で『師匠』だと気付かされた。ふむ、師匠か……。これ以上しっくり来る表現は、確かに他にない」 そして妙に感心した声で頷き出す。 健一には、どういう流れで刻也がそんな思考に行き着いたのか理解できない。ただ、決して悪いことではないらしかった。 しばらくそこからまた無言になり、十階を過ぎた辺りで刻也が休憩を提案した。 踊り場の床にそっと洗濯機を置き、比較的埃の少ない階段に並んで腰掛ける。 つい口から重い息が漏れ、それが二人同時だったので、示し合わせたかのように顔を見合わせた。 「実を言うと、かなり前からしんどかったんですよ」 「私もだ」 「そうだったんですか? こっちから手伝うって言った手前、途中でもう駄目ですとも言い出せなくて黙ってたんですけど」 「一人でも大丈夫だと言ってしまったので、私が先に根を上げるわけにはいかないと思っていたのだが」 「……じゃあ、お互い無駄に意地張ってたんですね」 「うむ。そういうことになるな」 その事実が何だか可笑しくて、両手を横に付き、天井を見上げながら二人でくすくすと笑う。 と、健一は刻也とこんな風に話すのは初めてだと今更気付いた。 「……私の顔に何か付いているかね?」 「いや、八雲さんが笑ったのを見るのは初めてだなって思っただけです」 「ああ……。そういえば、君とこうして話したことはなかったな。私はさっき、綾さんがちゃんとした服を着ているのを見て驚いたのだが、それと似たようなものだろうか」 「まあそんな感じです」 「む、何故そこで笑う」 「別に八雲さんのことを笑ったんじゃないですよ」 「それくらいわかっている。……しかし、君はいつも楽しそうだな」 「え?」 妙な例え話がまたツボに入り頬を緩ませていると、不意に刻也がぽつりと呟いた。 その評価がどうもしっくり来ず、健一は首を傾げる。 「もっとも、君をそこまでよく知っているわけではないので、それが本当かどうか私には判別できない。第一印象と実際の内面が真逆な人間も世の中には多いものだ、今君がどう思っているかはわからないが……私からすれば、君はそう見える」 「僕は特に楽しいとかってことはないんですけど……同じような話を、昨日綾さんともしたんですよ。八雲さんと同じことを僕が言ったら、自分だって楽しいことばかりじゃないって言われて。きっと、そういうことなんですよね」 「目に見えるものが全てとは限らない、か。君も、私が考えているほど楽観的な性格ではないということだろうな」 「どうですかね……。結構楽観的じゃないかなー、と」 少なくとも刻也と比べれば、自分はそうに違いない。 言外にそんな意図を込めて放ったひとことに、刻也の表情はいつもの神妙なものに戻った。 「では、一ついいだろうか。前にも訊いたことだが」 「はい、何です?」 「君はこんなことをしていて楽しいかね?」 「えっと……それは、八雲さんの手伝いをしていることがですか?」 「今ならそうなるが、もう少し広い意味で受け取ってくれて構わない」 ――他人のために尽力すること自体が楽しいのか。 その問いになら、返す答えは簡単だ。 「楽しいですよ」 「……そう来ると思っていたが、良ければ具体的な理由を教えてほしい。無理に答えてくれなくともいいが、できれば」 「うーん……理由、ですか……。改めて訊かれると考えちゃいますけど、何というか、誰かの役に立てるってことが嬉しいんですよね。実際役に立ってるかどうかはわからなくて、僕の錯覚かもしれませんけど……錯覚でも、楽しければいいかな、なんて」 これまでは、特に意識して人の役に立とうと思っていたわけではない。 しかし改めて考え言葉にしてみると、自分なりの理由がそこにあったことに気付く。 なるほど、と健一が一人で納得する最中、刻也はおもむろに腰を上げた。 「錯覚などではないよ」 「そう、ですか?」 「他がどうかはともかく、今回……いや、私のことに限って言えば、決してそれは錯覚ではない」 健一も追って立ち、洗濯機に手を添える。 「……要するに、君には本当に感謝しているということだ」 「じゃあ、これからも役に立てそうだったら手伝ってもいいんですね」 「その……よろしく頼む」 「はい」 そうして運搬を再開しながら、健一は短い時間で刻也との距離が縮まったかもしれないと思った。 少なくとも、申し出を受け入れてくれる程度には親しくなれたのだろう。 幽霊マンションがそのきっかけを作ったのなら、そこには感謝すべきなのかもしれない、とも。 「ところで、これ、すぐ使えるんですか?」 「修理をする必要はある。肝心な箇所の応急処置で動くのを確認しているので、遅くとも明日には使えるようになるはずだ。これで洗濯に掛かる費用がかなり削減できるのは有り難い」 「洗濯費か……。考えたこともなかったなあ」 普通、大概の一般家庭には洗濯機が設置されているものだ。子供は着た衣服をその中に放り込めばいい。機械を作動させるための電気代、洗濯機の購入時に求められる資金、勿論洗った物を干し、取り込み、畳むのに使う労力も、ほとんどの場合、親が負担している。子供がそれらを明確に意識するのは、親がいない、特に一人暮らしを始めた頃。 全てを自分の手で済ませなければいけない、と知る頃である。 そして健一は、労力こそ費やしているものの、費用に関して気にする環境にはない。 「……八雲さんはすごいですよね。こうして一人暮らしして、ちゃんと色々考えてて」 「私もまだ自立しているとはとてもじゃないが言えないよ。バイトで稼いでいるといっても生活費だけだ。学費は親に出してもらっているし、家賃や光熱費はここに住んでいる限り払わずにいられる。学生の身分とはいえ、私は未熟だ」 「そうなんですかね。僕と比べればすごい現実と向き合ってるんじゃないかって思いますよ。あ、いや、僕なんかと比べても仕方ないでしょうけど」 「……私からすれば、君の方が自立できる素養はあると思うのだが」 「うーん……正直、もし今すぐ一人で暮らしてみろって言われても絶対無理ですよ?」 「そうだろうか。君ならどうにかしてしまいそうな、そんな風に感じる」 どうやら自分は刻也に随分評価されているらしい。 ちょっとした気恥ずかしさを覚え、苦笑いで言葉を濁す。 滲んできた汗で滑る手を洗濯機の下に戻し、軽く後ろを見やると、十一階が間近だった。 「絹川君」 「は、はい?」 「手伝ってもらっていて申し訳ないが、もう一つ頼まれてくれないだろうか」 唐突に名字で呼ばれた。あまり慣れていないからか、返す声が上擦ってしまう。 それを気にする様子もなく、些か申し訳なさそうに刻也は続けた。 「今日の夕食を作ってほしいのだ」 「えっと、それくらい……というか、改めて言わなくても、いつものことじゃないですか」 「いや、私のだけではなく、君や綾さんの分もだ。洗濯機を調達できたお陰でいくらかお金が浮いたのでね、遅ればせながらではあるが、君の歓迎会をしたい」 「僕のですか?」 「食事を作らせておいて君の歓迎会だ、というのもおかしな話なのはわかっているが、私や綾さんが用意するよりは君の方がお互い満足のいくものになると思う。予算は私が出すので、買い出しと料理をお願いしてもいいだろうか?」 なるほど、そういうことなら――と言いかけ、 「構いませんけど、こっちからも一つお願いがあります」 「何だね?」 「有馬さんも誘っていいですか?」 「……有馬さん、とは、有馬冴子のことか? 彼女にどういう関係が?」 その疑問ももっともだろう。健一自身どうしてそうなったのかは未だにしっかり理解していないが、出会った経緯は省略し、彼女が鍵を持っていたこと、それが1303、つまり健一と同じ部屋のものであったこと、昨日から住み始めたことを順に説明する。刻也は話が終わるまで無言で聞き手に回り、最後にそうか、と頷いて、健一の頼みを承諾した。 「予算の方は大丈夫です? なるべく変わらないようにしてみますけど」 「そこは気にしなくてもいいのだが」 「……他に困ったことでもあるんですか?」 「いや……何でもないよ。君がそれで良いと言うなら、私は構わない」 微妙に引っ掛かりを覚える。歯切れの悪い刻也の発言からは、何故か健一を気遣う色が込められていた。 しかし追及するわけにもいかず、違和感を頭に留めて、健一は1303にいるかもしれない冴子を探しに行った。 back|index|next |