ノックをするも反応はなく、冴子がいるにしても一番奥の部屋まで音が届かないのは当然と言えば当然なので、とりあえず健一は玄関扉のノブに手を掛けた。手のひらに鍵を持ちながらだったのだが、すんなり開いてそれを使う必要はなくなった。どうやら既に帰ってきていたらしい。靴を脱ぎ、廊下に踏み出すのと同時、確認の意も込めて冴子の名を呼ぶ。
 と、意外に近い場所から返事が聞こえて少し驚いた。
 てっきり奥にいるとばかり思っていた健一は、様子を窺うように居間を覗き込む。

「……有馬さん?」

 落ち着いた、静かな声色から得た想像とは些か違い、椅子に座った冴子はテーブルに突っ伏していた。
 足下には鞄が倒れ、格好も制服のまま。着替えるだけの余裕がなかったのか、それとも他に何らかの理由があるのかはわからないが、あまり調子が良いとは言えなさそうである。その姿を見る限り、先ほどの返事も弱々しいものだったんじゃないか、と考え直して、健一は冴子に近付いた。
 床が立てる軋みに反応し、ゆるゆると冴子が頭を上げる。
 昔住んでいた家と全く同じ様相の空間に、これまで接点のなかったクラスメイトと一緒にいるという現状は、どこか異常だと思った。

「えっと……今晩、みんなで有馬さんの歓迎会をやろうって話になってるんだけど、どうかな」
「……私の?」
「まあ、正確には僕と有馬さんので、八雲さんが洗濯機を見つけられたお祝いも兼ねてたりするんだけど」

 後半の言葉に冴子は首を傾げたが、肝心の歓迎会に関しては、楽しそうね、と肯定的なコメントを呟いた。
 また少し身体を起こし、微かに頬を緩ませる。

「それは、参加するってことでいいのかな?」
「絹川君が構わないなら。私には、特に用事もないもの」

 ――君がそれで良いと言うなら、私は構わない。
 先ほどの刻也の発言が脳裏に浮かび、同種の違和感を覚えた。
 しかし、何故、どこがおかしいのかまでは判別できず、健一の胸には靄のような感情のみが残る。

「でも……絹川君は平気なの?」
「え? 何がです?」
「家に帰らなきゃいけないんじゃなかった?」

 釈然としない気持ちを抱えていると、ふと冴子に指摘された。そこで初めて健一は蛍子のことを思い出す。確かに、夕食をここで済ませるなら連絡しなければまずいだろう。幸い今日の食事当番は自分ではない。慌てて戻らなくても大丈夫なはずだが――

(そういえば、まだ機嫌悪いんだよなあ……)

 昨晩に比べれば多少マシになったとはいえ、ここで下手を打てば冗談抜きで帰れなくなる。
 とりあえず電話くらいはすべきだと思い、冴子に断ってから廊下に向かった。
 木製の台上に備え付けられているのは、当時でもかなり古かったダイアル式の黒電話だ。現在の絹川家にあるのはFAXも使えるプッシュ式のものなので、見るのも触れるのも久しぶりだった。ちらっと受話器の後ろに目をやり、ケーブルが通っているのを確認して、十三階の不思議さを改めて実感する。鍵を持っている人間しか来れない、外界から断絶している空間なのに、当然のように線が繋がっていて、十中八九電話も掛けられるのだろう。
 いったいどんな番号を入れればここに連絡できるのかは全くの謎だが、片道でも使えるのは便利を通り越して怖くもある。

「絹川君のご両親って、厳しいの?」
「え、あ、いや」

 余計な考え事をしていたためか、心配そうに冴子がそう訊ねてきた。

「そんなことはないんだけど。二人とも放任主義というか、僕達が何をしてても全然気にしないような人なんで」
「僕達?」
「姉が一人いるんです。蛍の子って書いて、けいこ、っていうんですけど」
「ああ……ご両親が放任主義なら電話しなくてもいいんじゃないかなって思ったんだけど、お姉さんがいるのなら必要よね」
「ホタルはあんまり自分で家事とかしないから……あ、ホタルっていうのは姉の綽名で」
「お姉さん、煙草吸うの?」

 段々話が逸れていく。
 差し挟まれた唐突な疑問に一瞬困惑するものの、健一は頷いて答える。

「まあ、結構吸います。……でも、どうしてわかったんです?」
「ホタル族って知ってる? 由来はそれじゃないかなって、何となく」
「そういえば、父さんが昔、ベランダで吸ってるホタルを見て言ってました。僕が付けたんじゃないですけど、たぶんそれも由来の一つじゃないかと」
「昔ってことは……絹川君のお姉さん、随分年上なの?」
「そんなことないですよ。三つ上の、美大の一年生です」
「……本当にゆるゆるなのね、絹川君のご両親」

 未成年の喫煙をさらっと見逃しているのだから、その評価は間違っていない。
 健一が苦笑いを返すと、小さく笑っていた冴子は電話を指差し、しなくていいの、と目で訴えた。
 つい会話に熱中してしまっていたのを心中で反省し、改めて受話器を手に取る。
 指をダイアルに差し込み、家の番号を順に入れていく。じーこ、じーこ、と懐かしい音が八度響き、コール音が聞こえた。
 後ろで冴子に見つめられながら、どうにも微妙な空気を感じる。

『……もしもし、絹川ですが』

 四回半の呼び出しで繋がり、朝と同じ、低く不機嫌そうな蛍子の声が耳に届いた。
 このまま無言で切ろうかとも考えるが、もしそれでバレようものなら間違いなく後で自分の血を見る。
 僅かに息を吸い、

「健一だけど」
『お前か。で、どこをほっつき歩いてるんだ』
「ほっつき歩いてるって……いや、今日はちょっと、知り合いと外で食べることになったんだよ」
『そうか。こっちは飯を作る気も食欲もないから、夕食の準備をどうしようかと思ってたところでな。丁度いい、好都合だ。当番はパスさせてもらう』
「別にいいけどさ、昼は食ったの?」
『何も』
「……じゃあ夕食は少しくらい食っといた方がいいと思うけど」
『ほっとけ。お前はそんな心配なんかするな』
「あのなあ、人が心配してやってるのに……」
『それよりだ。その友達ってのは、例のあの女か?』

 そこで思わず口を噤んでしまったのが、健一にとって最大の失態だった。

『やっぱりか……。まあ、うるさく言うつもりはないが、張り切るのも程々にしろよ』
「……勘違いしてるみたいだけど、二人っきりじゃないからな。だいたい張り切るって何だよ」
『そりゃあお前、あれだろう。セッ』
「言わなくていい! 全く、ホタルは俺のことを猿みたいに思ってるんじゃないのか……」
『否定はしないな』
「ぐっ……」
『で、飯はともかく、家に帰ってくるのか?』
「遅くなるかもしれないけど、ちゃんと帰るよ」
『なら別に帰ってこなくていい。私はさっさと寝るから、そこで物音立てられても迷惑なだけだ』
「はいはいそうですか、じゃあ静かーに帰宅させていただきますよ」
『そうしてくれ。じゃあ切るぞ』
「ああ」

 些か荒い動作で受話器を置いた健一は、盛大な溜め息を吐く。
 実の姉とは信じたくないほどの恥じらいのなさに、軽く頭が痛くなってくるのを感じた。

「……絹川君、お姉さんと仲がいいのね」
「そうなんですかね……。自分じゃ全然仲がいいとは思えないんですけど」
「だって、私と話す時には『僕』って言うのに、お姉さんと話す時には『俺』って言ってたもの。気を許してないとそうはならないと思う」
「……なるほど」
「お互いに飾らない、ほとんど素のままでいられる関係なのかな。ちょっと、羨ましい」
「いや、あんまり褒められるようなものじゃないんで、羨ましいっていうのはどうかと」

 少なくとも、一般的な姉弟の関係ではないだろう。普通は実の姉を襲いかけたりしない。
 もっともそんなことを口にできるはずもなく、誤魔化すように健一は話題を歓迎会の食事内容に変えた。

「有馬さんは、辛い物とか大丈夫です?」
「平気。私、好き嫌いは特にないから」
「チゲ鍋にしようと思ってるんですよ。夏なので逆にそういうのを食べればさっぱりするかな、と。それに、鍋ならみんなで適当に取り分けられますし。どうでしょう」
「今の時期に食べるカレーみたいなものね。うん、いいと思う。チゲ鍋なら私も前に作ったことあるし、手伝えるかも」
「あ、気にしなくていいですよ。僕が準備はしちゃいます」
「でも……買い出しくらいなら私一人で行けるけど、駄目かな? それとももう終わってる?」
「いえ、これからですけど……その、正直意外でした。有馬さんがそういう提案をするなんて」
「一応こう見えても私、お母さんと一緒に住んでた頃は料理担当だったのよ」
「なるほど、経験はあるんですね。……じゃあどうしましょっか」

 予定の時間まではまだ余裕があり、材料調達や調理は健一だけでもどうにかなる作業量だ。
 行為に甘えない理由もないのだが、何となく躊躇いを覚えるのも確か。
 ただ、四人分ともなると食材はかなり必要だろう。そう考え、

「一緒に行きます?」

 訊ねた瞬間、冴子の表情が目に見えて強張った。
 あからさまに態度が硬化し、健一は戸惑う。恐る恐る顔を窺うと、意図的に感情を封殺した冴子の声が聞こえる。

「……ごめんなさい。一緒は、駄目」
「え、どうして……ですか?」
「聞きたいの?」
「いや……言いたくないことなら、訊きませんけど」

 暗黙の了解。固有のルール。洗濯機を運んだ際、刻也が言っていた『沼』のことを思い出す。
 人にもそれぞれ踏み込んでほしくない領域が存在し、おそらく、冴子のそれに健一は触れてしまったのだろう。
 気まずい空気を打開する意味も込めて、健一は小さく頭を下げた。

「すみません。買い物は僕が行ってきますから、有馬さんは休んでてください。疲れてるでしょうし」
「……うん、そうさせてもらうね」
「それじゃまた後で」

 力ない、けれどさっきよりは明るく聞こえる声に送られ、1303を出る。
 かちゃりと音を立てて玄関の扉が閉まり、ノブに手を掛けたまま、しばらく健一は固まった。
 振り返る間際に見た冴子の表情が、頭から離れない。

(どうして、あんな――)

 悲しそうな、顔だった。
 二人では行けないと明確な拒絶をしたことに心を痛めたのか。それとも、他に思うところがあったのか。
 どちらにしろ、今の健一にはわかるはずもないことだ。考えるだけ無駄だとは、理解している。
 けれども、何かが……そこにとても大事な何かが隠れているような気がしてならない。

「…………はあ」

 溜め息をこぼしても、一度沈んだ気分は簡単に持ち直せるはずもなかった。










 歓迎会での出来事を要約すれば、冴子と刻也が互いに意外な面を発見し合った、というものになるだろう。
 四人が集まった頃には、既に冴子の様子も戻っていて、むしろ隣に座っていた綾よりも機嫌が良さそうにさえ見えた。健一が買い物に行ってから準備を終えるまでの間に、どんな心境の変化があったのかは謎だが、ともあれそれは望ましいことだと思う。

「……君は、有馬冴子があんなにも明るい女性だと知っていたのかね?」

 学校では絶対にしないような柔らかい表情を浮かべる彼女を前に、刻也がそう漏らしたのも当然だった。
 幽霊めいた、と表現される人間なら、穏やかに談笑したりはしない。あまりにも印象が違い過ぎて、もしや別人じゃないかと疑いたくなってくる。勿論そんなことは有り得ず、おそらくこちらの方が冴子本来の性格なのだろうが、実際のところはわからなかった。
 刻也と二人で首を傾げていると、不意に綾が「ねえねえ、何話してたの?」と会話に割り込む。とはいえ内容は特に面白くもないので、健一は珍しく悪戯心を込めて爆弾を投下した。

「いえ、八雲さんが、有馬さんはこんなに可愛い子だったのかって」
「ぶっ! ごほ、ごほっ」
「あれ、管理人さんどうしたの? いきなり咳き込んで」
「絹川君、誤解を招くような言い方は止めてくれ……。私はただ、今みたいに明るい女性だとは知らなかったと言っただけだ。断じて、可愛いなどという評価をした覚えはない」
「じゃあ可愛いとは思ってないの?」

 あからさまにうろたえる刻也の希少な姿を見て、綾がさらっと追撃する。

「……それに答える義務はありません」
「でもでも、気になるよね。ね、冴ちゃん?」
「気にはなりませんけど……八雲さんが意外にお茶目な人みたいで、ちょっと安心しました」

 いつの間に打ち解けたのか、気軽にそう呼ばれた冴子が素直にこぼす。
 そこで耐え切れなくなった刻也がヒートアップし、声を荒げて反論しては墓穴を掘る、という流れがしばらく続いた。
 とはいえ半分天然半分故意で刻也を責めるのは綾の役割、健一は話を繋ぎ、それに冴子が相槌を打ったり綾に振られて答える形だ。これまで綾は何かと自身の行動に関して刻也に叱られていたので、恨みを返す目的が多分にある。女の子に興味がないんじゃなくて、実はまともに話すこともできない寂しい……いやイタい男の子だったんだやーいやーい、みたいな煽り方をすれば、普通は腹が立つだろう。結局健一が場を収めるしかなく、どうにか刻也が落ち着いた時にはチゲ鍋もだいぶ煮立っていた。
 散々叫んだり笑ったりした反動か、全員黙々と食べ始める。しかしすぐに静寂が耳に痛くなり、折角四人でテーブルを囲んでいるんだからと無難な方向で再び話をするものの、綾が参加することでまたもや逸れていってしまう。

「そういえばさ、健ちゃん」
「はい?」
「健ちゃんは知り合いに女の子っていないの? 私や冴ちゃん以外に」
「一応いますけど……それが何なんです?」
「いや、管理人さんに紹介してあげればいいんじゃないかなって」

 瞬間、部屋の雰囲気が氷点下へと変化したのを感じた。
 恐る恐る健一が振り向いた先、刻也は努めて冷静を装っていたが、徹底した無表情が逆に怖い。

「余計な気遣いは無用です」
「欲しくないの? 彼女」
「もういますから」

 え、と言いかけた健一は慌てて口を塞ぐ。
 対する綾は信じられないようで、じとーっと疑いの目を刻也に向ける。

「そんな嘘吐かなくてもいいのに」
「嘘ではありません。事実です」
「だって、今までで一番説得力ないよ。ね、健ちゃんもそう思うでしょ?」
「ちょっと綾さん、最悪のタイミングで僕に振らないでくださいよっ!」
「ほう……。絹川君も、私の発言が虚偽だと疑っているのかね?」
「思ってません、本当です、全然疑ってなんてないですから」
「えー、でもムッツリスケベで女の子とまともに話もできないような人に彼女なんているわけないって」
「だからそうではないと何度言えば……!」
「……私は、いると思いますけど。しかも、すごくその人を大事にしてる気がします」

 ――もう駄目だ。
 健一が頭を抱えそうになった時、一歩離れて見ていた冴子が綾の言葉に答えた。
 全く正反対の、それもかなり正直な声色の意見に三人は二の句を告げなくなる。

「……冴ちゃんって変わってるね」
「そうですか?」
「あんなに怪しさ抜群なのに、彼女がいてしかも大事にしてる気がする、だなんて言うんだもん」
「八雲さんが、もっと早い段階で自分からいるって言っていれば、ここまで話がこじれることもなかったと思うんです。でも、冷静になれなかったからかもしれませんけど、ギリギリまでそれをしなかった」
「本当にいないから、じゃなくて?」
「きっと、八雲さんは自分が笑われるより、彼女が笑われるのを避けたかったのかなって。実際はどうかわかりませんけど……そっちの方が素敵じゃないですか。だから、私はいるって思います」
「なるほど……うん、その方が素敵だよね。じゃあそういうことにしよう」

 釣られるように、というわけではないが、綾も何とも感情的な理由で納得する。
 つい先ほどまでこめかみに青筋を浮かべていた刻也は、場を見事に収めた冴子の顔を半ば呆然と見つめ、それから綾に視線を向けられていることに遅まきながら気付いて嘆息した。

「ごめんね、管理人さん。彼女さんを馬鹿にしようとして」
「いえ、それはもう構わないのですが……私を馬鹿にしたことに対する謝罪はないのですか?」
「あ、そっか、じゃあそれもごめんね」
「全く誠意は伝わってきませんね……。ですが私も大人げなかったですし、もう良しとしましょう」

 そんな風に両者が和解し、談笑しつつチゲ鍋を完食した後、片付けと並行して共同生活に関する話になった。
 発端は冴子が母から受け取っているらしい生活費を懐から出したことで、皆が持ち寄って諸々の費用を負担するという案には、今や自他共に認める十三階管理人の刻也も賛成できるものだった。
 元々、最初期の住人である刻也と綾は、ほとんど接点を持っていなかった。何かとだらしない綾に刻也が注意をすることは多々あったものの(その気真面目さが主に綾から管理人と呼ばれる所以)、互いに己の領域を自室から広げることはせず、健一が現れるまでは碌に話もしてこなかったのだ。食事内容についてもそれは同じで、以前に綾はまともに三食摂ってもいない。ちなみに刻也は一応料理もできなくはないが、一人暮らしを始めてから覚えた付け焼き刃程度の腕前なので健一には到底及ばない。
 が、さらに冴子も加えて住人が四人になったと考えれば、各々役割を分担するのも一つの手だろう。今日のように複数人で食事をする機会も増えてくるのなら、刻也がバイトで稼いでくる給料だけでは色々と厳しくなってくる。歓迎会の名目故、今回の費用は刻也の全負担だが、毎度奢っていてはあっという間に財布の中身が尽きてしまう。勿論本人にもそのつもりはなく、食材等の消費度合いを考えて、とりあえず冴子は二万、綾は二万五千円を毎月刻也に渡すということで纏まった。
 ただ、健一は些か特殊な立場にいる。他の三人のように十三階に居着いてはおらず、帰る家があり、バイトをしていないのであまり懐は温かくない。その辺りの事情を鑑み、生活費を支払わなくていい代わり、こちらに来た時には料理番をすることで労働力になってほしい、と刻也が提案した。これまでと何ら変わらないため、健一の負担にはならず、また刻也にとっても(綾は言うまでもない)メリットのある解決策。結果として話は固まり、ついでに綾のパンツ白衣姿が議論の対象になったが、今のままがいいと主張する綾、どちらでもいいと中立の冴子、矯正するにしても少しずつの方がと控えめな健一の三者に囲まれ、あえなく流れる。十三階の風紀問題は、まだしばらく改善されそうにないらしい。

 一通りの話を終え、1303に戻ったところで、冴子は火が消えたかのように元気を失くした。
 明らかに足取りは覚束なく、化粧っ気のない顔の眼下には深い隈が目立つ。玄関から廊下に踏み出したところで傾いだ身体を慌てて支え、肩を貸しながら健一は居間まで冴子を運んだ。歓迎会の準備をしている間、てっきり眠っていたとばかり思っていたのだが――

「有馬さん、大丈夫ですか?」
「……私、鈍感らしいから。みんなといた時は調子良かったし、さっきまで気付かなかったみたい」

 ソファに座らせ、台所で水をコップに汲み、さっと手渡す。
 冴子の力なくも細い手がそれを受け取り、ゆっくり唇を付けて、こくり、こくりと少量を飲んだ。

「病院に行った方がいいなら付き合うけど……」
「ううん。病気とかじゃなくて……ここのところ寝てないの」
「え、昨日は?」
「うん、寝てない」
「どうして……」

 徹夜で起き続けるには、かなりの体力を使う。よほど何かに集中しているか、起きていようという意思がない限り、普通はどこかで眠ってしまうものだ。しかし、冴子にそうしてまでやるような趣味や作業があるとは考えられない。もし何かがあったとしても、例えば体調不良を理由に学校を休んだり、欠席を取られるのが嫌なら出るだけ出て授業中に寝るといったやり方だって選択肢に挙げられる。
 それをしないのは何故か。

「……どうしてだろう。懺悔、してたからかな」
「窪塚さんの、こと?」
「それだけじゃない。本当に色々……一晩中でも終わらないくらいの、懺悔」

 後悔の色が濃く滲んだ声。
 詮索されたくない、でも言葉だけは聞いてほしいという矛盾した感情を察知し、健一は悩む。
 あまり踏み込むべきではないと自らの心は訴えていて、結局無難な返事を選んだ。

「僕にはよくわからないけど、有馬さんはもう寝た方がいいと思う」
「……うん。それはわかってるの」
「だったら……あ、いや、僕が邪魔してるのか。ごめん、帰るね」
「待って」

 冴子からコップを受け取り、台所に置いた健一はそのまま玄関を目指しかけ、呼び止められて振り返った。

「邪魔ってことはないから。むしろ、いてくれた方が有り難いかもしれない」
「……じゃあ、寝られるまで一緒にいようか?」
「絹川君さえ良ければ」
「ならいるよ。……布団は敷く?」
「平気。いらない」

 冗談めかした言葉と共に訊ねると、あっさりした答えが飛んでくる。
 こうやって話していればいずれ眠れる……とは到底思えなかったが、冴子を放って帰ってしまうのも心苦しい。かといって立ちっぱなしでいるのも変なので、確認を取ってから冴子の隣に一人分の距離を空けて座った。

「………………」
「………………」

 どうにも会話の糸口が見つからず、互いの間に何とも言えない空気が漂う。
 疲労の色が濃い冴子に声を掛け難いこともあり、気まずさで健一がそっぽを向きながら頬を掻いていると、肩に重みが掛かったのに気付いた。離れていたはずの冴子が、控えめに体重を預けてきている。
 触れた箇所より伝わる彼女の体温は低く、さらりと流れるきめ細かい黒の長髪からは仄かに柑橘系の匂いを感じた。それがかつて、この家に住んでいた頃蛍子が使っていたシャンプーと同じものであることを思い出す。お風呂には入ったんだ、と困惑した頭で考え、もう一度指で頬を掻いた。

「……重い?」
「いや、別にそういうことはないけど……このまま有馬さんが寝ちゃったら、動いた時に起こしちゃうかなって」
「寝たらきっと起きないと思うから、気にしないで」
「……わかった」

 またしばらく無言の時間が続くが、一向に冴子が眠れる様子はない。
 無表情で目を閉じる姿は人形めいていて、だからこそ顔色の悪さが際立つ。

「ねえ、絹川君」
「はい」
「お姉さんは煙草、いっぱい吸う方?」
「まあそうですね。父親に禁止されてからはベランダでですけど、一箱くらいは一日で吸い切っちゃいます」
「ああ……そっか、だからなのね」
「何がですか?」
「絹川君はあんまり煙草臭くないなって、それだけ」
「……そんなに臭います?」
「ううん。全然」
「……矛盾してません?」
「私、煙草の臭いにだけは敏感なの。たぶん、絹川君から感じる臭いは普通の人にはわからないと思う」
「それでも、有馬さんにはわかるんですか」
「ほんの少し、この距離まで来てようやくわかるくらい。……だけど、それが落ち着くの。強過ぎると嫌」

 常日頃煙草を吸う人と一緒に暮らしていたのかもしれない。
 穏やかで静かな部屋に響く、微かな物音のようなもの。冴子にとっての煙草の臭いは、一種の精神安定剤なのだろう。
 臭うと言われていい気分はしない。だが、結果的に冴子のためになるなら悪くもない。

「……うん。落ち着く」

 一人呟いた冴子の身体から、目に見えて力が抜けた。
 薄く瞼を開いた彼女はどこか安らいだ笑みを浮かべていて、無意識に健一の心臓がどきりと跳ねる。
 端正な面立ちに宿る、儚げな美しさ。今までで一番無防備な表情。

「えっと……もう寝られそう?」
「どうかな。随分楽になったけど」
「どうせ帰ってこなくてもいいって言われてるし、有馬さんがちゃんと寝られるまで付き合うよ」
「駄目。お姉さんはきっと、帰ってきてほしいんじゃないかと思うから」
「……かなりはっきり言われたんだけど」
「だから戻ってきてほしいっていう気持ちの裏返しよ、それは」
「……じゃあ、帰ってきた時に物音立てられても迷惑なだけだ、っていうのは?」
「今すぐ帰ってこいって意味だと思う」

 もし冴子の言い分が本当なら、素直じゃないにも程がある。
 とはいえ信じられるかどうかは別の話で、以前に全ては過ぎたことであり、十中八九蛍子は床に就いている。これで(故意ではないにしろ)警告を無視して起こそうものなら、先日から続く不機嫌さに輪が掛かるのは間違いない。
 どちらを選んでも悪い方に傾くのであれば、あとは健一の気持ち次第だろう。
 そして今の健一に、冴子を残して帰るという選択肢はない。

「でも、まだしばらくはいるよ」
「……私は眠れないから、もう付き合ってくれなくても平気。絹川君は帰った方がいいよ」
「一人になったら眠れないんじゃなくて? 懺悔してたのは?」
「暇潰し。そうしたい気持ちも勿論あるけど、どうしても眠れないと時間が余るから」

 ……何故?
 前々から抱いていた疑問は声にも表情にも出さなかったが、冴子はそれを察した。
 故に――



「私ね、セックス依存症ってものなんだと思う」



 ――ずっと隠し、隠したままで済めば良かった、その問いに対する答えを、告げた。



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何かあったらどーぞ。