発端は、ヒカルのひとことからだった。

「先生ー、先生ー」
「ん、何だ?」

廊下を歩いている時に呼ばれて振り向くと、駆けてきたヒカルはチラシらしきものを取り出し、

「スキーに行きましょう!」
「…………はぁ?」
「だから、スキーですスキー!」
「いや、それはわかるんだがどうして」
「えっと……わたし、スキーって一度もしたことないんですよ」
「ほうほう」
「それに今冬休みですし、みんなで出掛けたいなぁ……って」

現在師走。ヒカル達学生はもうそろそろ冬季休業へと入り、思い思いに休みを満喫することになる。
教師側としては羨ましい限りなのだが、何も休みはいいことばかりじゃないらしい。
ナギや誉(あと一応まりりん)の顔を見なくなるのは確かだ。

……財布と貯金の中身を考えてみる。
割と厳しいかもしれないが、何とかなりそうだ。

「よし、わかった。俺は土日なら空いてるし、一泊二日程度なら平気だぞ」
「やったー! ありがとう先生ー!」

物凄い勢いではしゃぐヒカル。
そんなに喜んでくれるなら懐を痛める甲斐もあるってものだろう。

「じゃあわたし、みんなに連絡しますね」
「ああ、頼む」

来週の土日に行くことが決まり、それから二十分ほどしてメンバーは確定。
ナギ、誉共に参加で、まりりんの連絡先はよくわからなかった。
……まぁ、たぶんナギから電話か何かが行くだろう。
ちなみに行き先だが、誉が何故か任せといて、と言っていた。
そこは好意に甘えることにし、あとは当日までに体調を崩して台無しにしないよう、無理な行動を避けるだけだった。




木曜、俺は確認の意味で誉に電話を入れた。
訊くべきことはふたつ。旅館の位置と、移動手段だ。

「はい、ただいま代わりました」
「誉か?」
「あ、お兄ちゃん。どうしたの?」
「いや、明後日だろ、旅行。一応確認しておこうと思って。教えてほしいのは、行き先と移動手段なんだけど」
「ちょっと待っててね…………、えっとね、小鳥遊の家が経営してる旅館があるの。住所は―――」
――― よし、メモしたぞ。それと、交通手段だな。新幹線で行くか?」
「ううん。家の車を使っていいって」
「…………明日そっち行くわ。どんな車か確かめたい」
「いいけど……そういえば、お兄ちゃん免許持ってるの?」
――― ああ、持ってるぞ」

取ったの三年前だが。

「わかった。じゃあ、運転手さんは大丈夫だよね」
「大丈夫だ」

たぶん、と心の中で付け加えておく。
……軽く乗り方チェックしておこう。




金曜、仕事を終えて誉の家に向かう。
車庫まで案内され、これなんだけど、と示された先にあったのは、

「………………」

見るからに凄まじい、一般人には触れることも許されないような雰囲気を醸し出す黒塗りの高級車だった。
……もしぶつけたら、そう思うとあまりにも恐ろしい。

「……なぁ、誉」
「なに?」
「やっぱりいいわ。レンタカーで行くよ」
「でも…………」
「気持ちだけ受け取っとくから」

修理代が怖いんですなんてとてもじゃないけど言えそうになかった。










朝早い集合にも関わらず、俺とヒカルが着いた頃には既にナギとまりりん、誉も来ていた。
そして何故か、

「……あれ、シスター?」
「……おはようございます、ひさとさん」
「どうしてここに……というか、教会の方はいいの?」
「あ、その、代理の方にお願いしましたので……」

確かに、行きにちらっと目にした教会には誰の姿もなかった。
それを不思議に思ったのだが、シスターが来るのは少々予想外だった。
まぁ、困るなんてことはなくむしろ嬉しいんだが。

「ぶー…………」

……後ろから殺気を感じる。
振り返ってみると案の定というか、まりりんが頬を膨らませていた。

「ひーさーちー…………」
「は、はいぃぃっ!」

地の底から響くような声。
思わず後ずさってしまい、呆気なく間合いを詰められる。
俺は今更気づいた。獣の世界では、退いてしまった方が負けなのだと。

「なによデレデレしてー! この浮気者ー! 優柔不断ー! スケコマシー!」
「ちょ、ま、待って待ってギブギブギブ……ッ!」
「せ、先生が白い泡を吹き始めたーっ!」
「……ほらまりりん、先生死にそうになってるよ」
「ああっ、ひさちー! 誰がこんな酷いことをっ!」

お前だよ、と返す気力すらなく、意識が遠ざかった。
……結局それから俺が目覚めるまでに三十分ほど掛かり、起きた時にはほとんど荷物も仕舞い終わっていた。

「…………先生」
「ん、どうしたナギ」
「ちょっと荷物を取りに行きたいんだけど……」
「へ? どこに?」
「メカ部」
「……なにを持っていくつもりだ」
「えっと……色々と。だめ?」
「いや、あー……いいけど」
「ありがとう」

微笑むナギ。俺は少しだけ赤く染まった顔を誤魔化すように、メカ部の方角へと向かった。

「あ、ひさちー! どこ行くのー?」
「ナギがメカ部に荷物を取りに行きたいらしくてな。手伝いに」
「……まりりん、手伝ってくれる?」
「うん、ナギとひさちーの頼みならっ!」
「あー、みんな、そういうことだからちょっと待っててな」
「お兄ちゃん、わたし達は手伝わなくていいの?」
「いいっていいって。そんな人手はいらないだろうし」

で、メカ部前。
中に入ったナギは、全く用途のわからない何かをいくつか引っ張り出す。

「えっと、これとこれと、あとはこれ」
「おいおい、こんなにあるのか……。ナギ、どうするつもりだ?」
「……じゃん」

ナギが取り出したのは、手持ちサイズのバッグ。
おもむろにメカをひとつバッグの中に突っ込むと、大きさを無視してすっぽり入った。
どこかで見たような便利物だが、思い出せないのでとりあえず忘れる。

「二人とも、入れるの手伝って」
「わかった」
「りょーかーい!」

ぽいぽいと放り込んでいく。しかしバッグが膨れることはなく、重さも変わらない。
全てを仕舞って、残ったのはそれだけになった。

「……これで終わりか?」
「うん。行こう」

……構造が気になって仕方なかったが、詮索すると碌なことがないのは今までで実証済みだ。
大人しく戻ることにした。……爆発とか、しなけりゃいいんだが。

無事にナギの荷物も収め、さあ行こうってところで助手席に誰が座るかで一悶着起こった。

「まりりんが座るー!」
「えっと、あの、わたしも前がいいかなー、なんて」
「タマは後ろに決まってるでしょー。ここはまりりんとひさちーの"さんくちゅあり"なのー!」
「……ねぇ、まりりんちゃん」
「なに、誉?」
「地図…………読める?」




「誉、こっちでいいのか?」
「うん。そっちの高速道路で――― そうそう、ここまで」

レンタルしてきたのはスタンダードなワゴンタイプで、二列目は四人座ってもそれなりに余裕のある広さだった。
その後ろには各人の荷物が詰まっていて、間違っても陶器とかガラスとかのワレモノが入ってないことを祈るしかない。
何しろ運転なんて久しぶりだ。操作を誤らないようにするだけで必死。
当然後部席の会話もほとんど耳に入らず、視線の先と誉のナビゲートが全てである。

「ひさちーの隣……ひさちーの隣……」

……聞こえない。聞こえないったら聞こえないんだ。

「あ、お兄ちゃん、もうすぐパーキングエリアだって」

順調に、とまでは行かないが、滞りなく高速に入り、だいぶ進んだところで見えた標識。
時間を考えるならなるべく止まらない方がいいんだが、

「どうする? 一回止まるか?」
「先生ー、アンズちゃんが凄く顔色悪いみたい」
「だ、だいじょうぶです……」

蚊の泣くような声。どう考えても大丈夫じゃない。
高速じゃ窓も開けられないし、気持ち悪いのなら一度外の空気を吸った方がいいだろう。
あるいは…………まぁ、生理現象ならそれはそれで仕方ない。かく言う俺もちょっとトイレに行きたい気分だ。

「よし、じゃあ止まろう。えっと、分岐点は……分岐点は……」
「……ねぇ、お兄ちゃん」

囁きに近い音量で、誉が話しかけてきた。

「な……なんだ?」
「もしかして……高速道路、初めて?」
「……はい、初めてです」

冷や汗が頬を一筋流れる。
……正直、ちゃんとそこで曲がれるか自信がありません。

「あ、もうすぐ分岐点」
「わああ、ちょっと待ってー!」

危うく通り過ぎかけたところで、ハンドルを一気に切り曲がる。
あとは気合で車体制御をし、どうにかバンパーも傷つけずにパーキングエリアまで辿り着けた。

「し、死ぬかと思った……」
「せ、先生ー! アンズちゃんが、アンズちゃんがー!」
「きゅうぅ…………」

――― 無事に目的地まで行けるか、心配になってきた。



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