みーんみんみんみんみん……

灰色の世界でも、蝉は騒がしく鳴いている。
でも、周りに木がないからって電柱にしがみつくのはどうかと思うのだ。

みーんみんみんみんみん……

いったいどこからそんな大音量が出ているのか。
ご多分に漏れず虫と名が付くものを毛嫌いする女性の青海は昆虫図鑑なんて開いたことがない。

「あつーい……」

蝉の声を聞くと余計暑く感じるのはどうしてだろう。
直射日光の激しさに、思考力がどんどん削られていく。
彼女のかなり素な呟きに、隣の蓮華は小さく頷いた。

頬を伝う汗。手の甲で拭いながら、とぼとぼと二人歩く。
目指す場所は、青海にとって初めての行き先だった。










「お邪魔しまーす」

適当に選んできたサンダルを玄関で脱いでいる間、蓮華は電気を点けながら前を行く。
リビングらしき部屋に入っていく背中を見て、それから靴を揃える。
何となく周りに視線を向けた。置き物の類はまるでなく、けれど整理が行き届いた感じ。
微かに自分を呼ぶ声を耳にして、青海は彼の歩いた道を追った。


特に理由なんてなかった。
ただ、言い出しにくい気持ちがどこかにあって、ずっとその選択肢を作らずにいたというだけのこと。
当の本人も何も言わないし、強要する必要もないし。
そうしておよそ半年、一度も「行こう」とは思わなかった。

今、二人がいるのは緑里家だ。
場所自体は青海も知っていた(いわゆるストーキングをしたのを蓮華は知らない)が、入ったことは当然なかった。
これまで蓮華が早川宅を訪問することは多々あれど、その逆は一度たりとも実行せず。
春が過ぎ、夏になっても、結局足を踏み入れることはなくて。

だからではないが、ここにいる事実が青海にとっては不思議なものだった。
三月。初めて二人が出会った時は、欠片も想像していなかった光景。

「…………むぎちゃでいい?」
「うん。私麦茶好きだし」
「よかった」

飾り気のないシンプルなデザインのコップを手に持ち、中に入った液体を喉に流し込む。
冷蔵庫で冷えていたそれは、勿論美味しかった。
ぷは、と口を離すと、向かいに座る彼の視線に気づく。

「……何?」
「ううん。なんでもない」

そう言う顔は、ちょっと嬉しそうで。
よくわからないけれど、釣られて嬉しくなる。

リビングはかなり広く、ソファ、テレビ、テーブルに椅子がよっつ。
ベランダに続く窓は網戸の側が開いていて、外の傾いた陽射しが見える。
落ち着いた部屋だ、と言えばよく聞こえるだろう。
でも、

……どこか息苦しい。

家の中は静かだ。
人が住む場所には、生活感がある。あたたかみがある。
家族ならば、一人で全てをすることもない。炊事、洗濯、掃除。色々な仕事を、助け合いながらしていく。

この家は広いのに。一人でいるにはあまりにも広いのに。
どうしてこんなにも寂しく感じるのか。

「……ホントはあんまり気が進まないんだけど」
「…………?」
「蓮華くんの両親って、」
「かえってこない。もうずっと」

きっぱり言われた。
その迷いのない台詞に、きゅっと心が痛む。

両親の不在。
それが当たり前のことになるまで、当たり前と納得してしまえるまで、どれだけの時間が掛かったのだろう。


もう一度麦茶を飲む。さっきよりも、苦く感じた。










とりあえず彼の部屋はどこかと訊いてみた。
廊下に出てさらに奥。木製のドアを押すとフローリングの茶色が見える。
室内にあるのは机。ゴミ箱。ほとんど空っぽの本棚。箪笥。おそらく閉まった押入れの中には布団が畳んであるのだと思う。
リビングに似て、殺風景な内装だった。

「………………」
「……どこか、へん?」
「まぁ、変って言えばかなり」
「………………そう」
「あああごめん謝るからそんな悲しそうな顔しないで」

しかし、青海の言葉もあながち間違いではない。
机は使い古した雰囲気こそあるものの、教科書やら辞書やら小中学校の卒業アルバム以外には収納しておらず。
本棚に据えられているのは絵本らしき薄い書籍や児童文学が数冊、しかもだいぶ表紙がくすんでいる。

彼に確固とした趣味がないのは知っているが、こうもまざまざと見せつけられると何だか、そう、嫌になってくる。
自分とは違うのだということを、思い知らされるようで。

「ねえ蓮華くん、趣味のひとつでも見つけようよ」
「でも……よくわからない」
「楽しい、って思うこと、ないの?」
「たのしい………………」
「例えば読書とか料理とかスポーツとか」

蓮華は首を傾げる。
真剣に考えてはみたが、彼女の挙げた例はどれも違う気がした。

「…………あ」
「何かあった?」
「はやかわさんといっしょにいると、たのしい」

がたん。ごすっ。

「っー………………」
「……だいじょうぶ?」
「だ、大丈夫」

物凄い不意打ちだった。
思わず座っていた椅子ごと倒れてしまい、青海は側頭部を強打した。

「ちょっとまってて。つめたいタオルもってくる」

そう言って遠ざかっていく背中。
廊下の向こうから響いてくる足音を聞きながらぶつけた部分をさすると、もうぷっくりとこぶができていた。
情けないなぁ、と思い、けれどどうしても笑みを抑えられない。

……嬉しいに決まってるじゃない。

確かな言葉を聞けただけで、こんなにも舞い上がってしまう自分がいる。
それが変わっていくことなんだと気づけるのは、進歩なのだろう。


蓮華が戻ってきたら、とりあえずひとつ。
今日は、夜までいるよ。そう言おうと心に決めた。


それならきっと、この日だけは寂しくないだろうから。



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