色々あったけど時間が過ぎるのはあっという間で、もう高校生活も二年目に入ろうとしている。
今は三月。あと数日で先に三年生が卒業し、それから終業式と春季休業の後、新しいクラスでの日々が始まるのだ。

早川青海はクラス委員長である。
無軌道になりがちな約四十人をひとつに纏め上げ、物事を成功させる大仕事だ。
それをおおよそ九ヶ月、皆に認められる結果を残し、仕事をこなしてきた。
もう委員長としての責務はほとんどない。
大きなイベントはあらかた終わってしまったのだから。
卒業式も終業式も、どちらかといえば教師陣が苦労するもので、青海はそこに一生徒として参加するだけである。

……やるべきことは、全てやったのだ。

しかし青海には、ずっと気になっていたことがあった。
頭の隅で燻り、ちりちりと残るような違和感。
そしてそれが何であるかも、わかっている。

教師が黒板をチョークで突く音を聞きながら、真っ直ぐ前を向いていた視線を少し横にずらす。
窓際の前から二番目。そこに、一人の生徒が座っている。

「………………」

少年と呼んでも差し支えのない、幼い顔。
表情に明確な色はなく、何を考えているのかは読めない。
小さく細い手指で機械的にノートを取っている。鉛筆の滑りは速く、しかし先日ちらりと盗み見た字は綺麗だった。

真面目な子、という印象がまず先に来るだろう。
実際周りは学期末試験も終わって気が抜けているらしく、他のことをしている生徒も多い。
それに振り回されず、自分のペースを頑なに守るというのは、なかなか難しいことだと思う。

くるん、と指で鉛筆を回しながら、青海は少年を眺め続ける。
その横顔を。動く手先を。小さな姿を。


彼の名は、緑里蓮華。
このクラス内の一番の模範者で、そして問題児でもある。










入学式のことだった。
別に行きたいところもなく、近いからという理由で選んだ―― 二番目に近いのは町ひとつ向こうだ―― この高校。
大半の生徒はそうなんだろうな、とぼんやり考えつつ、小学校でも中学校でも変わらない校長の長話を右から左へ聞き流し。
気づけば式はさっくりと終わっていて、流されるまま着いた教室には知らない人間が溢れていた。

ああ、ここで私は一年間過ごすんだな、と青海は心中で頷き、自分の席に座る。
すぐに担任らしき教師が来て、高校生活最初の出席を取り始めた。

連続する返事。
早川、という名字は二十五番目とか三十番目とか、とにかく微妙な位置になる。
青海の出席番号は四十二人中三十一番目。名を呼ばれ、その通りに返事をした。

そして最後、四十二番目。
ろくさとれんげ、と高らかに読み上げる教師の意図を外すかのように、声は返ってこなかった。
しかしそれは予測されていたことらしく、姿だけを確認して担任は納得し、

「それじゃあ一年間、よろしくなー」

少し気が抜けたトーンで挨拶をしていた。
その時の違和感はほんの些細なものだったから、誰も、青海も、気に留めることはなかったのだ。


蓮華の不可思議さ、異常さが露呈するのに、あまり時間は掛からなかった。

まず、生徒達は輪を作ろうとする。
繋がりの輪。交友関係。
他愛もない話をいくつもして、同じ趣味を持つ者がいれば共感し、そこから共通点を探り出していく。
勿論そこに言語は不可欠だ。彼ら彼女らは思い思いに話し合い、関わり合い、繋がり合う。
青海もその一人で、しかし共通の話題をあまり持たない彼女は、いわゆる係決めの時に脚光を浴びた。
誰もが面倒臭がってやろうとしないクラス委員長に立候補したからだ。

小学校からを含めておよそ九年間、そういう役職に就き続けてきた青海からすれば、ある意味では当たり前の話で。
事実だけを言うならば、立候補者が一人もいなかったから、という後ろ向きな理由なのだが。
とにもかくにも、彼女はクラスの人間に受け入れられた。それから青海が進行役になり、順調に欄が埋まっていき、

……蓮華は、最後まで何も言わなかった。手も挙げなかった。
残った枠に、流されるように、導かれるように、入った。
それも……きっと、青海が「緑里くんはここでいい?」と訊かなければ、出ない結果だっただろう。

体育祭。試験。夏季休業。文化祭。冬季休業。その他諸々。
いくつものイベントがあり、クラスメイト達が団結した。
けれど、その輪の中に、蓮華はいなかった。一度たりともいなかった。

彼の言葉を聞いた者は―――― 存在しない。

噂は数多あった。
失語症だとか、単純に何か理由があって喋らないだけだとか。
それを確かめるために、あるいは純粋に友達になろうとして話しかける人間はそれなりにいたが、誰もが同じ結果を得た。
かくいう青海も一回だけ、個人的に会話を試み、見事に無反応で終わってしまったのだ。

そして、皆は彼から遠ざかった。
できる限り触れないように。近づかないように。

当の本人はというと、まるで気にする様子もなく。
一年間もの間、碌にクラスメイトとの関わりも持たずにいた。

青海は思う。
少なくとも自分には、絶対にできないことだと。
孤立。孤独。ひとりでいるのは、とても怖いから。

何故彼が喋らないのか。それはわからない。
ただ、放っておけないと思った。だから。

「ねぇ、緑里くん」
「………………」
「緑里くーん」

鮮やかに無視された。
授業の終わり、去っていく背中を見送って、はぁ、と溜め息をひとつ。


……もし、見間違えでなければ。
彼は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、首を傾げていたのだ。



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