「…………いこい」 耳の奥に響く声。 叱る時も、褒める時も、笑う時も、悲しむ時も、まず最初に名前を呼んで。 それから何か大切なことや、他愛のないことを話してくれた。 もう何度も何度も、心が覚えてしまうまで繰り返し聞いた声。 でも。その声で名前を呼ばれることは、これから先、永遠にない。 ―――― 祖母が亡くなった。 卦報が届いたのは学校で現代文の授業を受けていた頃。 突然担任の先生に職員室まで来るよう言われ、そこで知らされた。 急いで帰ると、テーブルの上に病院の住所が書いてあって。 数回ほど行ったことのあるところだったから、迷わず着いて。 導かれた個室に、目を閉じた白い顔の祖母と、泣いている両親がいた。 私は、どうすればいいのか、わからなかった。 齢八十を越していた祖母は、最近になって心臓を患っていた。 酷い場合は救急車で運ばれることもあって、その度にぎりぎりの線で命を繋いでいたんだと思う。 本当に…………ぎりぎりだったのだ。 いつ終わってしまっても、おかしくなかった。 だからみんな、失うことを恐れていて、その"いつか"に対して身構えて。 祖母はとても愛されていたから。訪れた悲しみはきっと、深かった。 次の日には葬式だった。 火葬もあっという間に行われ、屍は人の形すら留めず灰になり。 そうしたら、写真にしか祖母の面影なんて残らない。 知らない人も知ってる人も……祖母に関わりその死を悲しむ全ての人がそこにはいた。 親戚。血縁者。友人。こんなにも自分を悼む者がいるとわかったら、いったい祖母はどんな顔をしただろう。 ―――― その答えも、二度と出ることはない。 経を読む声が聞こえる。 誰かのすすり泣く声が聞こえる。 どうして、と問う声が聞こえる。 それら何もかもが遠くて、世界はまっさらで、私は目を閉じて心を沈めた。 静かに。言葉にはせず、ただ形のないものに訊ねる。 涙が流れるのなら、それは悲しいから? だったら私は、こうして祖母の死を前にして、どうして欠片も泣けないのか。 泣いてしまうほど…………悲しく、ないから? もしかすれば祖母は答えてくれたのかもしれない。 あるいは、ただ笑って何も口にはしなかったかもしれない。 少なくとも―――― 隣でぽろぽろ泣いている母も、俯いて表情の窺えない父も、答えられないだろうと思った。 「十鐘さん、おはよう」 「おはよーいこいちゃんー」 通学路の途中で。下駄箱で。教室で。 クラスメイトや顔見知りに挨拶され、私も笑顔で返す。 中には気遣うような視線や言葉を向ける人もいて、そんな場合は平気だと言って安心させた。 ホームルームが始まると、担任はいつも通りのことだけを伝え、他のクラスの授業があるからすぐに出ていく。 去り際、私は名指しで呼ばれて、行ってみると大丈夫かどうかを訊かれた。 「大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」 私の表情を見て、先生はそうか、とほっとしたような声色を残して歩いていく。 遠くなる背中を前に、心配されたことに対する感慨は別になかった。 昼休み、どこか腫れ物を触る感じでみんなが接してくる。 声が掛けづらいんだろう、そう思う。私が自分みたいな人を相手にしたら、きっと言葉を探すから。 でも、関わられて困ることはない。迷惑だなんてこともない。 だから私はみんなに言う。机を囲んで、一緒に食べよう、と。 ―――― それは、普段と全く変わらない日常。例え昨日葬式があったとしても。 家に帰ればまだ両親は悲しみを引きずっていて、少し腫れた目で母は笑う。 塩加減を間違ったのか、夕食のおかずはほんの少ししょっぱかった。 代わりに、味噌汁が薄かった。 私はちょっと出かけてくる、と言い残し、外に出た。 徒歩三分。すぐ近くに祖母の家はある。 そこはしっかりと戸締まりがされていて、勿論玄関の鍵も閉まっていた。 けれど慌てることはない。懐から合鍵を出し、開ける。 前に祖母からもらったもの。使ったのは今日で二度目だ。 夜も深い。 照明の点いていない室内は暗く、ほとんど何も見えない。 スイッチをオンにすると、ぱちりと音がして廊下の景色が鮮明になった。 進む。部屋の明かりをひとつずつ増やしていって、最後に辿り着いたのは小さな和室だった。 障子を開けると縁側に続く、祖母のお気に入りの場所。 幼い頃はよくここで、御伽噺や思い出話を聞かせてもらった。 祖母がいつも座っていたところに腰を下ろす。 七月の温い風が頬を撫でて、懐かしい記憶を運んでくる。 ……いつかの春のこと。 庭に植えてある桜が花を咲かせ、ひらひらと舞う中、祖母は隣の私に微笑んで、それから桜を眺めていた。 「いこい」 「なに?」 「この桜を、綺麗だと思う?」 「うん」 「この桜を、好きだと思う?」 「うん」 「なら、わたしは綺麗だと思う?」 「うん」 「わたしが……好き?」 「うん」 「……いこい」 「なあに?」 「あなたは、もう随分と大人なのね」 その時の祖母の言葉を、未だに私は理解できていない。 いつになればわかるのか、それすらもわからない。 確かなのは、この部屋にもう誰も来ることはない、という事実だけ。 それが悲しいのかどうかも……答えの出ない、問いだった。 next |