数学の時間はとても静か。
先生が厳しい人で、変な挙動をする生徒には怒号が飛んでくる。
そんなだからかもしれないけど、授業内容も凄く難しい。

必要以上にまわりくどい説明だから、って友達は言う。
確かに、専門用語で溢れかえるこの五十分は、念仏か呪文を聞いてるみたいだ。

ノートに数式を書き連ねる音。
かりかり。かりかり。妙に耳に残る。

時折教室のどこかで机が揺れて、軽くがたんと鳴る。
それだけで何故か、心臓が跳ね上がるような気持ちになって。
自分が何かしたんじゃないか、今すぐ教壇から怒声が向かってくるんじゃないかと錯覚してしまう。

教科書を横目で捉えてみると、ずらっと数式や説明的な文章が並んでいた。
何度見ても、考えても、わかりにくい。どうしてこんな複雑な言い回しをするんだろう。

……それにしても進むのが早い。
黒板にある文字がすぐに消えてはまた増えていく。
いつものことだけど、トロい私じゃ追いつけない。
あっという間に置いてかれて、だから友達を頼るばかり。

申し訳ないなぁ、と思う。
どうしてもこれ以上鉛筆は速く動かせなくて。
その分読める字だって、周りからの評判はいいんだけど。

「……ああ、もう時間だな。122ページの問四、次の時間までにやっておけ。日直、号令!」
「起立、礼」

全員が腰を折ったと同時に鐘が鳴った。
昼休みを告げるチャイム。みんな、思い思いに散っていく。
私はお弁当。一冊の本を持って、外へと向かう。

廊下にも、実に色々な人がいる。
急ぎの用か何かで走って通り過ぎる誰か。
購買のパンを口にくわえながら話し合う男子生徒。
「もう帰ろっかなぁ」と一人呟く名も知らぬ人。

その誰もが私を目に留めない。
全ては空気のように流れていく。

「…………あ」

途中で、知った顔を見つけた。
できる限り自然に、私はその人―――― 彼の横を歩き過ぎる。
彼は友達らしき生徒と話し込んでいて、無論私のことなんか目に入っていないようだった。

階段に差し掛かり、何気なく、自分が通った廊下の方を振り向いた。
雑多に溢れる人、人、人。一枚の絵みたい。焦点をどこにも合わせず見ると凄く味気なく感じる。

「………………」

視線を逸らすように、私は階段を降りるために一歩を出した。
さっきよりも俯いて、見えるのは足下だけだった。










校庭の隅には花壇があって、そこには園芸部が植えて育てている途中の草花がある。
でも今は秋だから、ほとんどがもう枯れていて、鮮やかな色が見当たらない。
そのすぐそばに立っているのはイチョウの木。周りにはたくさんの実が落ちていて、臭いが凄い。
いくつか割れているのもあるから、誰かが踏んでしまったんだろう。
かくいう私も、現在進行形で踏みそう。足下に気をつけながら先を行く。

校舎裏はお気に入りの場所だ。
裏だから日陰だと思われがちだけど、実は結構陽が当たる。
何故だか古ぼけた木製の椅子がひとつあって、私はそれに座りながらご飯を食べている。
初めて見つけた時は随分汚れていたから、次の日雑巾を持ってきて拭いた。それからはここでの昼食が日課。

友達と話しながら食べるのも、勿論楽しい。
でも、こうしてひとりで静かに食事している方がどうやら性に合っているらしく。
とても、落ち着く時間を過ごせている。滅多に人が来ることもないし。

「いただきます……」

一人呟いてお弁当の蓋を開けると、いつもより少しだけ質素な中身が現れる。
ちょっと寝坊をしてしまって(それほどではないんだけど)、手間の掛かるものを作っている時間がなかったから。

友達にお弁当を見られると決まって「これ少ないよ」と言われる。
確かに私は少食だけど、そんなに気になるほどの量なんだろうか。
むしろ、弁当箱いっぱいに詰まったご飯やおかずの数々を食べきれるみんなの方が凄いと思う。
……それに、私は食べるのも遅いから、誰かと一緒に食べていると相手を困らせてしまう。
必ずと言っていいほど待たせることになる。そんな理由もあって、だからここで一人きり。

「あったかい……」

陽射しは穏やかに、風は届かずに。
木枯らしさえなければ、秋の外も寒くはない。
喧騒も遠く、長くここにいたら学校だってことを忘れてしまいそう。

空は青くて眩しくて。
運動が苦手な私でも、ちょっとは走り回ってもいいかな、なんて思ったりする。
そんなことをしたらきっとすぐに息が上がってしまうのはわかってるけど。

考え事をしているうちに、弁当箱は空っぽになっていた。
ごちそうさま、と呟いてから、丁寧に箱を仕舞う。

それから、どこかでつまずいて転ばないくらいの駆け足で、私は教室へと戻る。
この場所にいて感じる唯一の難点は、時計が見えなくて時間がわからないこと。
あんまり長居すると、午後の授業の始まりに間に合わなくなってしまうかもしれないから。


廊下まで来たところで、予鈴の音が響いた。










放課後、図書室にはそれなりな数の人が集まる。
私の通うこの高校の蔵書量は結構多く、広さを考えるともう図書"室"と言えるのかどうかは怪しいけど。
とにかく、本を求めて来る生徒は決して少なくないので、図書委員はあまり暇を持て余さない。

返された本をチェックして所定の場所に戻し。
貸し出し希望の本は、二週間以内に、と念を押して渡す。
期限以内に返さない人はたまにいるから、管理側としてはとても困るのだ。

今は十月。図書室のテーブルには受験生の姿をよく見る。
真剣な表情ばかりを目にすると、何だかこっちも気を引き締めなくてはいけないように思えてくるのは不思議。

「よし、頑張ろう」

意味もなく自分に気合を入れて、作業を続けた。
他の図書委員と一緒に、さくさくと溜まっていた本を片づける。

四時半。閉室まで三十分を切ったところでだいたいが終わり、一息。
毎日こんな感じなので格段に疲れるというわけでもないけど、なかなか大変ではある。

何気なしに窓から外を眺める。
ここから見えるのは校庭で、視界に映るのは部活動の様子だ。
今日は確か――――

「…………あ」

眼下にはテニスコート。
といっても、ネットを張っただけで元はただの校庭。
三階から目に入る生徒達は結構小さく、テニスボールなんて豆粒ほどにしかわからない。

たぶん一年生だろう、まだぎこちない様子で打ち返す女子がいた。
その反対側にいるのは馴れた手つきでラケットを振り切る男子。
一年生が返ってきた球を逃し、ボールはコートを越えて後ろに飛んでいった。

……そして、それを拾うジャージ姿の男子生徒。二年生。
ボールを一年生の女子に手渡してから、的確な(だと思う)アドバイスをしている。

視線が留まる。逸れない。動かない。
固定されて、目が離せなくなっている自分がいた。

こんな遠くからじゃよくわからなくて。
一挙一動を追うようにしても、近くで見ることには敵うはずもなく。
やがて、窓に映る景色からは消えてしまう彼の背。

「………………」

薄く、溜め息が漏れる。
もう少し見ていたかった、と。

「すいませーん、この本、貸し出しお願いしまーす」
「はーい」

情感に浸る間もなく、図書室を利用する生徒の声に呼ばれる。
仕事を途中で放棄しようとは思わない。私は、中断していた図書委員の活動を再開した。


まだ、頭の中には、ひとつの景色を残したまま。



next