古来より、龍と呼ばれる存在モノが在った。
 その圧倒的な力を以って、彼らは長らく生物の頂点に君臨していた。大地を蹂躙し、空を支配する、それこそが龍たる所以。ただ生物として優れているが故に、決して彼らは捕食される側に回ることがなかった。
 しかし、人間が世に栄え始めると、世界の覇者たる彼らの立場は途端に危うくなった。本能のままに暴虐の限りを尽くすのではなく、知恵と勇気を使って戦う――他と同じく奪われ、虐げられる側であったはずの人間は、そうして次第に己が領土を広げていった。
 ……やがて彼らは知ることになる。
 脆弱な者どもを傲慢に見下ろす時代は終わりを告げたのだと。
 自らもまた、生命を脅かされるようになったのだと。

 ――これは、過酷な世界に生きる人々の物語。
 あるいは、英雄と呼ばれる一握りの強者ではなく、数多い狩り手ハンターの中に埋もれた、そんな二人の物語。










“Partner”










 常冬の雪山に程近いポッケ村は、春を迎えても肌寒い。そこかしこに積もった白雪は貴重な水源でもあるが、嫌と言うほど目にすれば、視界に入るだけでうんざりしてくる。
 煙る吐息をこぼしながら、麻の袋を抱えた青年は、隣で楽しげに話しかけてくる友人に相槌を打っていた。

「しっかし、こないだのクエストはきつかったよなー」
「まあ、それには同意するけど……」
「モノブロスなんてあの時見たのが初めてだったけどさ、やっぱ正面から行くもんじゃねえな。ぶっとい角で跳ね上げられた瞬間、ああ俺今回はマジで死んだかなー、って思ったし。つーかロイの援護なかったら死んでたな、うん」
「笑い話じゃないって。リオは時々危なっかし過ぎる」
「結果的に助かったんだからいいじゃん。それに、俺はロイを信じてるからな」

 ロイと呼ばれた青年が再び溜め息を吐くと、リオと呼ばれたもう一人の青年にばしばし肩を叩かれる。
 何度言っても聞かないのだ。もっとも、それが彼の良いところだと知ってもいるので、あまり強くは窘められない。
 背負った麻袋の紐を右手から左手に持ち直し、強張った肘を伸ばした。

「リオ」
「ん?」
「それなら、リオを助けるために使った分の弾、調合を手伝って。それで貸し借りなしにするから」
「うわ、また面倒な……。あ、いや、嘘だって! 喜んで手伝わせていただきます!」
「よし、言質は取った。ご飯食べたら早速頼むね」
「うぇーい」

 如何にも面倒だと言わんばかりの返事だが、しかしリオの足取りは重くない。
 険悪さのない、気心が知れているが故のやりとりは、十数年にもなる長い付き合いから来るものだ。
 そうしてロイの自宅に向かっていると、不意に横から声が掛かった。

「二人とも、元気にしているかの?」
「村長。こんにちは」
「いやあもうおかげでピンピンっすよ。なんで次も割のいいクエストをお願いします」
「ヌシは相変わらず調子が良いのう……。ま、死なん程度に頑張りなされ」

 何か用事があるのか、集会所の方に歩き去っていく村長の後ろ姿を見送り、リオが小さく呟いた。

「あれで数百年も生きてるってんだよなあ」
「治りたてのリオよりはよっぽど元気かもしれないね」
「俺はとっくに全快だっつーの。何なら今からクエスト受けに行っても構わないんだぞ」
「その前にちゃんと調合は手伝ってもらうけど、終わってから行く気力はある?」
「……どう考えても残ってそうにないな」

 苦笑。
 軽く頭を掻き、せめてもの意趣返しだというように、ロイの前にリオは出る。
 先ほど雑貨店で購入した、ボウガンの弾用の調合素材が大量に詰まった麻袋をロイから奪い取り、

「置いてくぞー!」
「あ、ちょっと!」
「悔しかったら追いついてみろーっ!」

 大人げない台詞を言い放って、全速力で駆けていった。
 一拍遅れ、ロイも後に続く。
 表情に呆れの色を滲ませながらも、楽しそうに。





 ハンターズギルド、というものがある。
 各地の個人、あるいは団体からの依頼を統括し、所属するハンターに、ギルドが定めたランクに応じてクエストを提供する組織だ。基本的に全てのハンターはギルドへの登録を義務付けられ、見返りとして様々な情報の提供、活動に関する補佐、一部提携店での割引などが約束される。
 ギルドに参加を表明した場合、村や街に支部の役割を果たす集会所が作られ、そこで全てのやりとりが行われることになる。現在ポッケ村にはリオとロイ以外にも数人のハンターが在住しているが、彼らは主にギルドを介して依頼を請け負い、それを達成して得られる報酬で生計を立てている。例外は、村長が個人的な繋がりから持ってくるクエストだ。村人の簡単なお使い代わりを初めに、ギルドと同じく、数をこなしていけば提示される依頼の難易度も徐々に上がっていく。総じて村長の依頼の方が、報酬が低い分楽なので、リオとロイはそちらをメインにしてきた。
 数日前、村長の知己だというココット村の長より、砂漠地方で暴れていた一角竜モノブロスの狩猟を頼まれた。無事に果たしてこれたならもう少し難しい依頼を持ってくる、という言葉に従い、二人はおよそ三日の期間を掛けて何とか討伐したのだが、かなりの大仕事だったので、使用した道具や弾薬、回復薬の総額を報酬から引くと、ほとんど残らなくなってしまった。リオが怪我を負ったこともあり、しばらくの間クエストを控え、素材集めに専念してきた結果、今に至る。
 当然のことながら、既製品を店で買うよりも、自分で調合した方が安く上がる。ハンターの理念は自給自足。満足なサポートが得られない過酷な環境の中では、あらゆるものを現地で調達するスキルが求められる。例えば食料が切れた時、毒性のない植物やキノコ、食用として知られる草食種を狩り、自身の手で調理できるように。必要な知識さえあれば、自然に存在する素材を組み合わせて大抵の道具は作成できるものだ。保存食用の肉、薬草、爆発物の調合には必要不可欠な火薬草やニトロダケ、多岐にわたる木の実の類、その他諸々。それらを効率良く入手するのも、ハンターにとっては必須の技能と言える。

「にしたって、ロイはよくやるよなあ。俺一人だったら絶対途中で投げ出すぞ、これ」
「もっとお金あれば楽できるんだけどね。まだ私達は高額報酬の依頼を受けられるようなレベルじゃないし」

 ロイの自宅で、向かい合った二人は両手の指を細かく動かしていた。
 床に広げられているのは、カラの実とハリの実。前者は固い殻が特徴で、後者は名前通り針のような鋭さを持つ、非食用の木の実である。またそれとは別に、赤い粉の入ったすり鉢が傍らに置かれている。
 大型の獣や竜種の狩猟クエストに挑む際、リオとロイはそれぞれ前衛と後衛に分かれる。対象の懐に飛び込み注意を引きつけるリオの獲物は、切断力に特化した太刀。一方のロイは、火薬と発射機構の力で各種弾丸を射出するボウガン、その中でも片手で取り回せるライトボウガンを武器としている。
 斬れ味が鋭い代わり、デリケートな扱いと細かな手入れを要する太刀だが、基本は砥石ひとつで事足りる。しかしボウガンの場合、いくら本体の状態を万全にしたところで、弾がなければ何の役にも立たない。

「……んしょ、っと」

 カラの実とハリの実から作成できるのは、一般に最もよく使われている通常弾だ。ギルドが格安で提供しているものもあるが、素材の質があまり良くないのか、威力は雀の涙に等しい。かといって既製品をそのまま店で買えば、個数によっては結構な値段になるので、こうして自作を心掛けているのだった。
 手順はさほど多くない。まず、外殻の役割を果たすカラの実を弾の形に加工する。雷管に当たる部分にはすり鉢で粉末状にした火薬草を詰め、弾の先端はハリの実で補強。後は射出口に合うよう細部を削って調整し、保管用の箱に仕舞っていけばいい。
 さすがにロイは手慣れたもので、作業も速かった。弾薬の調合とほとんど縁のないリオは苦戦気味だったが、以前ロイが買ってきた調合書とにらめっこをしながら、慎重な手付きで火薬を流し込んでいく。
 二時間近く掛けて、麻袋の中身は空になった。お疲れ様、と疲れの色を隠さないリオを労い、汚れた床の上をロイは掃除する。ほんの少し余った火薬草の粉で囲炉裏の火をおこし、鉄の薬缶に水を足す。

「沸騰したらお茶淹れるから、それまでゆっくりしてて」
「おう」

 ロイが席を立ち、茶葉などを取りに行っている間、リオは調合書を本棚に戻して、保管用の箱をいつもの場所に置いておく。長い付き合い故に、その辺りはいちいち言わなくてもわかることだった。
 やがて薬缶が甲高い音を響かせ、湯が沸いたのを知らせる。
 太刀と同じ、東方由来の急須で蒸らした茶は、深い苦みと渋みを持つ人気の嗜好品だ。二人で軽く飲み、一息。

「そろそろまた村長が依頼持ってくる頃かね」
「たぶん。そっちはもういけるの?」
「とっくに全快だって言ったろ。そう言うロイは大丈夫なのかよ」
「できればもうちょっと素材を集めておきたいかな。これからまた厳しくなるんだろうしさ」
「よし、じゃあそこで俺から提案がある」

 だいたいリオがそういう風に話を切り出すと、碌でもない展開になるのは目に見えている。が、とりあえず聞くだけ聞くことにして、ロイは続きを促した。曰く、

「最近集会所には顔出したか?」
「行ってないね。出かけても雪山と家を往復するくらいだったかな。で、それがどうしたの?」
「いやさ、ついこないだのことなんだけど――」

 集会所の方とは別に、村にも個人経営の雑貨店がある。前者が完全にハンター向けの品揃えなのに対し、後者は日用品なども提供しており、村民との繋がりが深い。ほぼ毎日通りがかるため、リオとロイも店主とは顔馴染みで、時折割引が利いたりもする。
 大抵店番をしているのは、三十半ばの、おばさんと言える年代の女性なのだが、もう一人そこで働いている青年がいる。元ハンターの祖父を訪ねてきた彼は名をヨルンと言い、生まれ持った童顔と気さくな人格で、小さな村の中では多くの年寄りに可愛がられていた。
 現在ハンターをやっているリオと言わばハンター見習いのヨルンは、歳が近いこともあってか仲が良かった。会えば他愛ない話に花を咲かせる程度には気が知れていて、その日も軽い散歩がてらに立ち寄り雑談に興じていたところ、そういえば、とヨルンが教えてくれたのだ。
 どこの場所でも、応対職は男性が極端に少ない。集会所の受付も多分に漏れず、ギルドから派遣されてくるのはほとんどが若い女性だった。ポッケ村では娯楽が皆無なこともあり、新しく来る受付嬢は必ず話題になる。そして、多数の人間が訪れる雑貨店ではそういった噂が耳に入りやすい。
 つい最近勤め始めた件の人物は、どうやらとびきりの美人らしい、と。それを聞くや否や、リオは軽い礼の言葉を残してダッシュで集会所に向かった。ヨルンの弁では今が勤務時間だそうなので、無駄足になることはあるまいと判断しての、即決即断。寒気が入るのを防ぐために閉じられた門戸を開け、入って左手にある受付のテーブルに視線を移し、
 ……その時、確かにリオは胸を撃ち抜かれた。
 一目惚れだった。

「………………」
「勿論ライバルは多いわけだが、俺は足繁く通った。毎日買い物するふりとかクエスト吟味するふりとかしたりしてさり気に色々聞き出した。そして、ようやく重大な情報を得られたんだ」
「……一応訊くけど、それは?」
「最近女性ハンターの間で、メラルーガジェットが人気らしくてな。欲しいんだけどなかなか手に入らない、って言ってた」

 メラルーガジェット。分類としては片手剣に属する武器で、二足歩行する猫とも言うべきメラルー族が所持している棍棒だ。ファンシーな見た目とは裏腹に、麻痺効果が付与されたその性能はかなり高い。実用的かつ見栄えも悪くないので、女性に人気だというのには頷けた。件の受付嬢が求めているのも、わからないでもない、とロイは思う。

「だから俺は必死に材料を集めた。今まで採取してきたのとかで結構賄えそうなことに気付いたんだが――ひとつだけ、どうしても入手できない材料がある。ぶっちゃけ俺一人じゃ取りに行くのはしんどい」
「それってまさか、ネコ毛の紅玉?」
「おう。よく知ってんな」
「ライトボウガンにも素材に必要な奴があるんだ。でも、相当希少だって話だよ」
「少しくらい障害は大きい方が燃えるだろ。物知りそうな人に片っ端から訊ねて、どうやら森丘の奥にあるメラルーの集落で見つかるのがわかったんだけどさ。ほら、俺って病み上がりみたいなもんだし」
「こんな時だけ都合のいい……。要するに、付き合えって言うんでしょ?」
「さっすがロイ、話がわかるぅ!」
「まだいいとは言ってないんだけど。……まあ、採取を手伝ってくれるんなら構わないよ」
「それくらいならどんと来い、だ。んじゃ早速出発するか!」
「いやいや、ライバルを出し抜きたい気持ちは酌んであげるけど、いきなりは無理。準備はしておくから、そうだね、明日の昼前に出よう。明るいうちに素材集めは済ませて、本題は夜にってことで」
「了解。その辺の細かいところは、いつも通りそっちに任せる」

 面倒事を放り投げる気満々なリオに、ロイは返事代わりの苦笑を見せた。
 前衛後衛の役割分担と同じく、互いの得手不得手に関してはそれなりに理解している。長身で俊敏、体力もあるリオは荒事や力仕事に優れ、対するロイは体格で劣る分、知識を増やすことで頭脳労働に秀でるようになった。
 作戦を考えるのは自分の係。面倒だと思っているのは間違いないだろうが、命を預けられているのも確かだ。それが信頼から来るものだと知っている以上、妥協だけは決して許されない。
 自宅へ戻るリオを玄関で見送った後、考え得るあらゆる事態を想定して、明日の予定を組み立てる。
 ――その日は深夜まで、居間の明かりが消されることはなかった。










 登録時に定められた規約として、ハンターは依頼者が出している全報酬の一割をギルドに支払っている。組織にとって所属するハンターは最も重要な顧客でもあり、故に彼らには可能な限りのサポートを約束している。そのひとつが、ギルド固有の交通経路の使用権だ。主だった場所に小支部を置き、そこに至るまでの道を舗装して整え、人に慣らした草食種に引かせた車で荷物と人間を運ぶ。ギルドがそうしたルートの確立を最優先で進めた結果、交通の利便性と安全性はぐっと増した。日に数回、各地域を往復する足がポッケ村にも存在し、ハンターライセンスを持つ者は例外的な状況を除けば無償で利用できる。
 武具と道具一式を荷台に乗せた二人は、予定通り南中より前に村を出発した。目的地に着くまでの間は、体力温存のためにも寝ておくのが通例だ。両手を頭の後ろに回しながら見上げた空は、清々しい青さだった。

「いい天気だ。昼寝日和だな」
「寝過ごさないようにね」
「大丈夫、さっきアイルーに着いたら起こしてくれって頼んどいたから」

 欠伸をこぼし、気楽な声でリオが言う。
 それに応える形で、前の方に座る白毛の猫――アイルーがこくりと頷いた。
 手癖が悪いメラルー族と違い、ある程度ではあるが人語を解し、また人懐こく協力的なアイルー族は、ハンターにとっても馴染み深い。今回の行き先、森丘のキャンプで働く仲間に物資を持っていくのだという彼は、陽射しの眩しさでなかなか眠れないロイの良い話し相手になってくれた。
 そうして揺られること一時間弱。結局一緒に寝てしまったアイルーの代わりにリオをロイが叩き起こし、現地での依頼素材引き渡しなどを受け付けているギルドの小支部で手続きを行う。話を通すことで、万が一戻れないような状況に陥った場合、ギルドが捜索隊を派遣してくれるのだ。一晩を過ごすためのテントセットも借り、アイルーに別れを告げて、まずは水場に程近い場所へと向かう。
 テントを張り、そこをベースキャンプにしてからようやく行動開始。

「さて、じゃあちょっくら飯の調達でもしてくっか!」
「こっちはしばらく採取を優先するよ。ついでに食べられそうなのは拾っとく」
「集合場所はここでいいだろ?」
「うん。陽が沈むまでには戻ってくる」

 作業効率を良くするためには、分担して動いた方がいい。キャンプを出て左手、緑の深い森の奥にロイは入り、一方のリオは右手、草茂る平坦な道を選んだ。前者は視界が悪い代わりに様々な種類の植物が根を生やしており、今回ロイが目的とする素材もほとんどはそちらで回収できる。逆に後者はそういった調合に使えるようなものはあまり見受けられないが、豊富な食糧を目当てに群れている草食種、アプトノスがいるので、食事用のあれこれを調達するには丁度良かった。ちなみにキャンプの付近では魚も釣れる 。火山や砂漠などのより過酷な地域に比べれば、森丘はかなり過ごしやすい。

「お、いたいた」

 少し歩くと、すぐにアプトノスの団体と遭遇する。
 リオは物陰で息を殺し、相手の警戒が緩み切るのを待った。草食種の中でもアプトノスは大人しい部類で、敵意を察すると迷わず逃げてしまう。さして足は速くないとはいえ、四方に散らばられると面倒だ。可能なら一撃、一瞬で仕留めるべし。同じ命を狩るのなら、与える苦しみは少ない方がいいだろう。そうリオは思う。
 視線の先、狙いを定めていた一匹が口元を地面に落とした。ゆっくりと草を食む。周囲で様子を窺っていた他の仲間も、続いて食事を始める。向こうの意識が緩んだのが、手に取るようにわかった。
 背負った太刀の柄に指を掛ける。リオの身長ほどもある鉄の大太刀、銘は神楽。最低限の装飾のみを施された実用性重視の長物は、慣れた者が使えば強固な生物の骨すら一刀の下に斬り伏せる凶器と化す。
 今。
 一歩で彼らの目前に躍り出たリオは、最早一切の気配を隠さずに直進する。向こうの反応は遅く、それは致命的な隙だった。二歩。靴の裏が草を擦る。三歩。顔を上げたターゲットがようやく逃げようとする。四歩。そこは既に間合いの内だ。右手が鉄刀を引き抜く。鞘鳴りの滑らかな金属音が響き、頭上に掲げられた柄を左手が掴んだ。そのまま、呼気と共に大上段からの振り下ろし。垂直に立てた刃は鮮やかにアプトノスの首元を断ち、地を削る寸前で止められる。
 激しく流れる赤い血液は、その一撃が致命傷であることを物語っていた。
 当然群れの多数は走り去っていくが、わざわざ追いかけるつもりはない。二人で夜を過ごす分には、この一匹だけで充分だ。刀身に付いた僅かな血糊を拭い、腰に差したナイフで解体する。硬く食べるのにも向かない皮の部分を剥ぎ、柔らかい肉を適度な大きさに切り分け、持参の生肉用袋に詰め込む。どうしても臭いが移ってしまうので、他と一緒に運ぶわけにはいかない。それなりの重さになった袋を肩に担ぎ、リオは残った死体に軽く一礼した。
 ――自分達は、自分達以外の命を糧にして生きている。ならば、感謝の気持ちを決して忘れてはいけない。かつて大人が教えてくれたある意味では当然の事実を、ハンターとなってからは殊更深く受け止めるようになった。

「墓作ってやる余裕ねえのは、悪いけどな」

 いちいちそんなことをしていては陽が暮れる、というのもあるが、それ以上に、血の匂いは獣や竜を呼ぶ。どこから嗅ぎ付けてきたのか、遠く離れたところで青い鱗の影がちらりと見えた。
 鋭い爪と牙を持つ鳥竜の一種、ランポス。攻撃的かつ群れでの狩りを好む性質はかなり厄介で、一匹ならともかく、数匹まとめて相手にするのはなるべく避けたい。余計な荷物があるので尚更だった。
 幸いと言うべきか、狙いはこちらのおこぼれ・・・・だろう。貪欲な彼らは、食糧を腐らせる真似をまずしない。死骸の処理を任せ、リオは生肉を置きにベースキャンプへ戻った。
 まだまだ、やることはいっぱいだ。










 頭上を高い木々が覆う、昼でも薄暗い森の只中をロイは進んでいた。ところどころに生物の気配を感じるものの、襲い掛かってくることはない。深い緑に姿を隠す獣達は総じて警戒心が強く、大抵はこちらを察すると逃げていく。勿論一部例外もあるが、とりあえず過剰に神経を尖らせる必要はなさそうだった。
 腰に差したライトボウガンをいつでも抜ける状態にしつつ、慎重に採取を続ける。この辺りでは強風や雨で落ちた大量の葉が腐葉土となり、多くの植物が逞しく育つので、ロイのように素材集めを主とするハンターがよく立ち寄るルートだ。微かに陽が指す場所に生えた薬草を摘み、細い木枝と岩壁の間に張られた巨大なクモの巣を棒で絡め取る。自然の段差から垂れ下がるツタの葉をナイフで切り、日陰でひっそりと自生するアオキノコを根元から引き抜く。
 一見共通点のないものばかりだが、例えばアオキノコには増強作用があり、薬や特定の虫と混ぜ合わせると、回復剤や栄養剤が作成できる。ツタの葉はクモの巣と合わせて上手く編み上げることで、短い間ながら中型の竜種の膂力でも千切れないほど強靭なネットになる。採って困るようなものはほとんどない。

「……このくらいかな。一旦戻ろう」

 大量に採取をするならば、キャンプとの往復が不可欠だ。身の安全が掛かれば面倒とは言っていられない。
 ゆっくりと立ち上がりかけ、そこでロイはぴたりと動きを止めた。
 耳を澄ませる。自身の呼吸音と葉擦れの音に混ざる、地に落ちた枝を折る足音。
 素早く物陰に身を隠し、気配の出所を探る。距離はさして遠くない。視認可能な範囲だった。

「ブルファンゴか。一体だけ、だね」

 割とどこででも見る、それなりに厄介な獣だ。とにかく気性が荒く、強烈な突進と長く鋭い二本の牙は、狩り慣れていても鬱陶しい。群れられると手が付けられなくなるのだが、どうやらはぐれ者らしかった。
 なら、これ以上の好機はない。仕留めるには絶好の機会。
 腰から抜いたライトボウガンを構え、静かにうつ伏せの姿勢を取る。警戒の糸を周囲に張り巡らせながら、予め装填していた散弾と通常弾を入れ替えた。翡翠の色を基調とするそれは、翠水竜の鱗で装飾を施した汎用性の高いボウガン、ジェイドストームだ。多種多様な弾丸に対応すると共に、通常弾の速射機能を備える、ロイの優秀な相棒。使い続けて長く、故に信頼の於ける武器と言える。
 装填数は三発。狙いを過たなければ十二分に足りるだろう。空気の流れを読み、相手の挙動を読み、手元のブレさえも計算に入れ、極力反動を殺した持ち方で、引き金を引く。
 瞬間、雷管に詰められた火薬が爆発し、続け様に三回、くぐもった射出音が響いた。サイレンサーで抑えられた音量は、向こうに位置も気付かせない。斜め前から正確に眉間を撃ち抜き、悲鳴を上げる間もなくブルファンゴは絶命した。
 巨体が横に倒れたのを見て、ふぅ、と一息吐く。額に滲んだ汗を手の甲で軽く拭い取り、ボウガンを再び腰に。完全に仕留めたかどうかを念のために確認してから、先ほどツタの葉を刈ったのとは別のナイフで死体をてきぱきとばらしていく。
 毛皮。肉。牙。余った部分は腐葉土を上から被せた。鼻の利く獣なら、それでも目敏く見つけるだろう。
 剥いだ皮で血の滴る肉を包み、リオが持つ物と同じタイプの袋に詰め込む。

「………………」

 ふと、遙か高みから甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。
 複数の羽ばたきがささやかな風の流れを生み、小さく頭上の枝葉を揺らす。
 何かが――何かが引っ掛かる。それはあまりにも曖昧で、説明もできない違和感だったが、これまでに培ってきたロイのハンターとしての勘が囁いていた。
 おかしい。
 久々に来た所為でそう感じるからだと思っていた。けれど、違う。

「……森が、静か過ぎるんだ」

 モス、という豚がいる。背に苔などの菌を纏う彼らは、アオキノコを主食とし、キノコが放つ特定の匂いを追うことでその自生場所を正確に嗅ぎ当てる。陽射しが届き難く、それなりに湿度もある森の奥ではよく見かけるのだが、今日に限ってロイは一匹たりとも出会っていない。
 この状況を偶然のひとことで済ますのは、些か危険だ。捕食される側は、弱い代わりに高度な危険察知の能を持つ。モスだけではない、他の獣の姿も見受けられないというのなら――。

「リオに伝えておかなきゃ」

 胸中で膨らむ、嫌な予感。
 外れればいいと、願わずにはいられなかった。










「気のせいじゃね?」

 ベースキャンプで合流し、森で抱いた違和を伝えたところ、リオは軽い口調でそう言い放った。
 膨れ上がった荷物を地面に置き、現状では必要ない採取物を細かく仕分けしていく。帰りは荷台に載せることになるので、分量に関してはあまり気にしなくてもいい。ひとしきり纏め終え、まだ不安げな表情を解かないロイに「気のせいだろ」と繰り返す。

「ま、警戒しておいて損はないだろうけどさ。そんな難しく考えなくてもいいと思うよ、俺は」
「……ならいいんだけどね。とりあえず、ご飯の用意をしよっか」
「あいよ」

 まずは近場で乾いた木枝を拾ってくる。先ほど採取のついでに多少は集めてきたものの、それだけだと夜更けまで過ごすには些か心許なかった。土が剥き出しになった僅かな窪みに適度な量の枝を積み重ね、後は火を点けるだけになる。

「ほい、ニトロダケ」
「ありがと」

 全体的に赤い色をしたそのキノコには、一定以上の刺激を与えることで高熱を出す性質がある。ロイが普段から持ち歩いている火薬草の粉と併用すれば、木枝を燃やすのは造作もない。あっという間に炎が上がり、ぱちぱちと火の粉が弾け始めた。そこにアプトノスとブルファンゴの肉を、よく水に濡らした木製の串に刺して近付けておく。大きめに切り分けたそれらは焼けるのに時間が掛かるので、火の加減をロイが調整する。
 一方のリオは、テントのすぐそばにある池に釣り竿を垂らしていた。飲み水の汲み場として主に使うところだが、食用の魚も釣れる。ミミズを餌にじっと待っていると、竿を持つ手に微かな重みが加わった。しかし、まだ引かない。澄んだ水面に映る魚は、一瞬針をつついただけで離れてしまっている。焦りは禁物。再び相手が油断するまで、静かに今の姿勢を保つ。
 やがて興味深げに餌の周りをうろついていた一匹が、俊敏な動きで食い付いた。手指に来る確かな感覚。即座に竿を振り上げ、必死に逃げようとする魚の勢いを徐々に奪っていく。そして抵抗が薄れるタイミングを狙い、一気に引っ張った。
 飛沫と共に飛び上がった身が、地面に叩き付けられる。元気良く跳ねるその胴を掴み、口元からそっと針を外して、リオは手早く串を喉に押し込んだ。鋭い先端が尻尾の辺りを抜け、数秒の間に大人しくなる。
 それをロイに渡し、続けて三匹ほど同じように釣った。全て焼き魚にしてしまっては単調な食事になるだろうということで、半分は刺身に。ナイフの刃を腹に入れ、二枚に開いて血を洗い、骨は取り除いて柔らかな身を薄く切り分ける。
 野菜代わりに食べられる木の実を並べ、完成。栄養は偏っているが、無駄にボリュームのある夕食だ。

「先食ってるぞー」
「うん。こっちも準備できたら食べるから」

 汁の滴る肉にかぶりついたリオを尻目に、木の枝と空の麻袋を組み合わせてロイは簡易燻製器を用意する。あまり大量には作れないが、保存食はあって困るものでもない。火を絶やさないよう見張り続け、一通り食べ終わって片付けも終えた頃にできた、よく燻された肉を二人で分けた。
 日没の時間は既に過ぎている。が、ネコ毛の紅玉を取りに行くにはまだ早い、という結論に達し、少し仮眠することに決めた。リオが木の板と藁で組まれたベッドに体を横たえ、早々に寝入ったのを見届けて、ロイは僅かに残った火種の前で、あるものを広げた。
 ……もし自分の勘が当たるなら、おそらく“これ”が必要になる。
 念には念を。警戒はしておくに越したことはない。
 ロイが短い眠りに着いたのは、それから一時間ほど後だった。










 深夜。
 闇に包まれた森を、慎重に二人は歩いていた。
 昼間は木漏れ日が心地良い道も、夜が更ければ月明かりの届かない、一寸先さえ見通せぬ暗緑の世界と化す。いつも以上に気配を潜め、周囲に己が存在を悟らせないよう足を進める。
 弱い火種が閉じ込められた小型の角灯を片手に、ギルドから支給された地図をロイは眺めた。昼にも一度来た場所だ、迷うはずもない。若干遅れて付いてくるリオにも、危なげな様子は見受けられなかった。
 飛び越えるには些か高い段差を協力して上り、一息。

「もうちょいだっけ。確か川の上流っぽいところの奥に行けば」
「目的地に到着、かな」
「お目当てのもんが上手く見つかりゃいいんだけどなあ……ってロイ、何やってんの?」

 不意に立ち止まり、しゃがみ込んでごそごそと地面をいじり始めたロイの様子にリオは首を傾げた。積もった葉の山が優しく払われ、真っ黒な土が大気に晒される。手探りでかなり広い範囲の堆積物をどかしたロイは、そうして露わになった足下を淡々と折り畳みスコップで掘り起こし、何かを設置した。ぷしゅ、という空気の抜けるような音が聞こえ、また辺りが静けさを取り戻す。

「一応ね。もしもの時のためにだよ」
「つったって、トラップなんか準備しても、こんな夜に大物が出てくるか?」
「だから念のためだって」

 ロイが仕掛けたのは、主に竜種の捕獲用に使用される落とし穴だ。一定以上の重量が掛からなければ発動しない仕組みを持っており、嵌れば強靭な網に絡まれて、しばらくの間は抜け出せない。起伏の激しい場所では役に立たないが、全体的に平坦な道の多い森丘では使いどころも多い。
 最後に掘った分の土を上から被せ、スコップで軽く固める。一見ではわからなくなった。

「よし、行こう」
「了解」

 そうしてさらに奥へ向かうこと五分。
 ――澄んだ沢に程近い拓けた空間に、恐ろしいほどの巨体が横たわっていた。
 信じ難い光景にリオが絶句する。思わず声を漏らしかけ、慌ててロイが口を塞いだ。呼吸を極限まで抑え、心臓の高鳴りを落ち着け、抜き足差し足でその鼻先を通り過ぎる。幾度も挙動を窺いながら、永遠に等しい時間を掛け、どうにか危険地帯を突破した。そこでようやくロイはリオの口から手を離す。

「っ、ま、マジでいた! リオレイアじゃねえか! 聞いてねえよ俺!」
「静かに。もうちょっとだけ声のトーン落として。……こっちも確率は半々だと思ってたけど、昼に森が静かだった理由もわかったよ。おそらく、最近になって住み着いたんだろうね。たぶん遭ったのは私達が初めてじゃないかな。貴重な経験だ」
「んなこと知っても全然嬉しくねえー……。で、どうすんだよ。さすがに今の手持ちじゃ冗談抜きできついぞ」
「刺激しないのが一番。さっと行って帰ろう」

 天を駆ける一対の翼を持ちながら、驚異的な脚力と膂力で地を這うあらゆる生物を蹂躙する、大地の女王。飛竜種の代表とも言える存在で、空の覇者、リオレウスとは雌雄の関係にある。熟練のハンターでも数日がかりで仕留めるような相手だ。正攻法で立ち向かって敵うものではない。
 つがい・・・でないのは不幸中の幸いだが、一匹でも、触らぬ神に祟りなし、である。
 気を取り直して移動再開。滑りやすい岩場を殊更慎重な足取りで乗り切り、細い獣道を抜けると、二人の目前に奇妙なオブジェめいた何かが見えた。異様に幹の太い巨木、そのところどころが歪な円の形にくり抜かれ、木板で作られた蓋で覆われている。おそらく窓の役割を果たしているのだろう、標準的な体格の人間がギリギリくぐれそうな複数の穴は、全てぴっちりと閉じられていた。また、巨木の根元には暗い空洞があり、そこが出入口の役割を果たしているらしかった。
 人が暮らすには狭過ぎる家だが、小柄なアイルー族やメラルー族には丁度良い。近付いて耳を澄ますと、微かな寝息が聞こえた。中には夢見の悪い者もいるのか、低く呻く声も混ざっている。気の抜ける状況に少しだけ余裕が出来、リオとロイは顔を見合わせて微笑した。

「さーて、捜索開始すっか」
「うん。焦らずにね」

 手癖の悪いメラルー達には、ハンターから物を盗み棲家まで持ち帰る習性がある。もっともそれを有用することはほとんどなく、だいたいは適当な扱いをされているので、山と積まれたガラクタの山を捜索すれば、盗難品が見つかったりもする。気まぐれな彼らは何かと飽きやすく、それ故人間にとっては貴重な素材などに関しても、さしたる興味を示さない。
 リオの求めているネコ毛の紅玉というのは、要するに毛玉だ。鑢のようにざらついた自身の舌を使って毛繕いをする猫は、その際に引っ掛かった抜け毛を飲み込んでしまう。大半は吐くか便として外に出るが、一部の毛は胃に残り、時間を掛けて塊を形成していく。
 大概の猫はある程度の大きさになると耐え切れず吐き出すが、極稀に長い間溜め込み続ける者がいる。そうして胃液によって溶け合い、磨かれた毛玉は、自然が育んだ宝石の如き輝きを得る。
 ガラクタに埋もれていても、闇に紛れていても、噂に聞く美しさは決して損なわれることがない。腐食し始めたタルの残骸を除けた下、淡い月光を受けて煌めくそれを、リオは見つけた。
 そっと掴み、持ち上げる。

「お……おおお、あった! ロイ、あったぞ!」

 艶やかな、深みのある紅色。完全な球体ではないが表面は滑らかで、想像していたよりも柔らかい。
 質の良い紅玉は相当な高値で取引されるというが、納得だった。これは確かに、魔性だ。
 ロイが静かに近寄り、リオの掲げる紅玉を一瞥する。小さく頷き、

「絶対、とは言えないけど、十中八九本物だと思う。やったね、リオ」
「今日の俺は間違いなく幸運だな! 何でもできる気がするぜ」
「その調子その調子。じゃあ戻ろう」

 ――最大の目的を果たし、二人は安堵していた。
 だからこその、普段なら有り得ないミス。リオが一歩を踏み出した瞬間、足下で「ふぎゃっ!」と短い悲鳴が上がった。
 靴裏に伝わってくる、血の通った生物の感触。
 恐る恐る俯く。
 地面で寝ていたメラルーの一匹が、あからさまな敵意を以って睨んでいた。

「やっべ……!」

 思いきり踏みつけた尻尾から反射的に足をどかした直後、メラルーが猫の俊敏さを以って跳躍した。リオの手元にあった紅玉が早業で掠め取られる。逃げられる、と判断したロイが集落の出入口にすかさず回り込み、足止めを食らったメラルーに今度はリオの方が飛びかかった。二つの手が紅玉を掴み、せめぎ合う。
 拮抗が保たれたのは、短い間だけだった。
 ほぼ無言での応酬はリオに軍配が上がる。強引に奪い返した反動で、勢い余ったメラルーは派手に背中を強打した。罪悪感を覚えないでもないが、しかしみすみす盗まれるわけにもいかない。これ以上刺激しないように立ち去ろうと一歩を踏み出し――その、僅かな油断を突かれた。
 起き上がった小柄な影が、四つ足でロイの脇を駆け抜ける。振り向いた時には既に遅く、黒い姿は闇に紛れていた。
 ……沢の方角へ走っていたメラルーの意図に、ロイは即座に気付く。
 この森で暮らす全ての生物にとって、リオレイアは最も警戒すべき対象だ。あれだけの巨体がすぐ近くで眠っていることを彼らが知らないとは考え難い。にもかかわらずわざわざ危険を冒してまで向かったのなら、それは、こちらに対する報復に他ならないだろう。
 つまり、

「リオ!」
「わかってる!」

 一刻も早く追いつく必要があった。
 最早足音を殺す余裕もない。靴が濡れるのにも構わず沢から溢れる水を踏み散らし、全速力で雌火竜の正面を横切る。見ればロイの予想通り、丁度メラルーがリオレイアの鼻先を叩いたところだった。
 最悪だ。

「あんにゃろ、仕返しするにも限度ってもんがあるだろ……!」
「まずい、来るよ! 耳塞いで!」
「くっ!」

 胡乱な頭を覚醒させるかのように身を震わせ、女王は逃げ去ろうとする二人の姿を認めた。
 上体を逸らし、凶悪な顎を開く。巨大な火球を生む口から吐き出された竜の咆哮が、森そのものを揺らした。両手で塞いだ耳の隙間に入り込む、心臓を縮み上がらせる鳴き声。止まりかけた足を叱咤し、二人は死に物狂いで駆け抜ける。
 背後を振り返る余裕はない。丸太めいた二本の脚が地を穿つ度、腹の底に響く音を聞く。凄まじい脚力を駆使した突進は、その巨体故に速く、何より重い。捕捉されれば最後、決して逃げ切れない一撃だ。
 ……だからこそ、チャンスはある。
 彼我の距離を計算しながら、ロイはただ真っ直ぐその場所を目指していた。たった一度振り返り、間近に迫ったリオレイアの移動コースを確かめる。問題ない。いける。カウント、三、二、一、

「……よし!」

 鈍い轟音。勢い余って前に倒れ込んだ二人の僅か三歩後ろで、翼を広げた女王がじたばたと暴れ狂っていた。
 行きにロイが仕掛けた落とし穴。全身に絡んだネットは、もがけばもがくほど拘束の度合いを増す。無論時間稼ぎにしかならないが、危機を脱するには充分過ぎるだろう。しかし、念には念を。可能な限り、手は打っておくに限る。
 ボウガンに三発の弾を装填し、立て続けに射出。顔面に直撃したそれらは睡眠作用を持つ白い霧を周囲に散らし、やがて竜の動きを止めるに至った。再びいびきを立て始めた雌火竜は、刺激さえしなければしばらく起きてこないはずだ。

「間一髪、だったね」
「今回ばかりは本気で死ぬかと思ったー……。いや、さすが参謀役。助かったぜ」
「もう一度って言われても絶対嫌だからね」
「わりぃ、今度飯奢るからさ」
「その言葉忘れないように。……とりあえず、ここは離れよう」
「おう。こんな奴のそばにいたら、命がいくつあっても足りねえわな」

 波乱もいくらかあったものの、これにて目的達成。
 祝杯を上げるには、良い空だった。










 狭苦しいテントの中で一夜を越し、明けて朝、ギルドの小支部に帰還を告げた二人は、往路と同じく荷車に揺られてポッケ村へと戻った。村の入り口では何故か知り合いの先輩ハンターが迎えてくれたので、何かあったのかと問う。

「いや、どうやら最近になって、森丘の方につがいの火竜が棲みついたらしくてな。それをこっちが知ったのは昨日の昼過ぎだったんだが、お前らが向こうに行ったって話も一緒に聞いたんだよ」
「運がないというか、間が悪いというか……よく生きて帰ってこれたなあ……」
「ま、結果的に心配する必要はなかったみたいだが、無事戻ってきてよかったぜ」
「うす。わざわざさんきゅーっす」
「土産話はまた今度聞かせてくれよ」

 出遭ったのが一匹だけだったことを幸福と見るべきか、それは微妙なところだった。
 ともあれ、予定外のことに疲労もピークを迎えていたが、まだ休むわけにはいかなかった。重い荷物を自宅まで運び、その足で武具店に向かう。肉球のスタンプ、タルの蓋、マタタビ、アイルー食券、ドス大食いマグロ、そしてネコ毛の紅玉。リオが揃えた全ての素材と、加工に要する料金、手数料を合わせて渡し、後はメラルーガジェットの完成を待つばかりとなった。
 受け取りは翌日。採取してきたものの整理も忘れ、それぞれの家で泥のように眠り続けた二人が再び顔を合わせたのは、村の集会所が受付を開始する朝方だった。

「おはよう。よく眠れた?」
「布団入って気付いたら、また陽昇ってんでやんの。半日以上潰しちまったよ」
「こっちもそんな感じ。今日からしばらくはまたひたすら調合かなあ……」
「まあ頑張れ。俺はこれから男になってくるぜ」
「はいはい。まず武器を受け取ってきてからね」

 カウンターの前で腕を組んでいた店主に訊ねてみると、待ってましたとばかりに品物を奥から持ってきた。長い孫の手にも近い形状の、先端にデフォルメされた猫の肉球が付いた棍棒。一応片手剣の仲間だが、外見は武器というよりも玩具だ。もっとも、これで飛竜種を実際に狩ったハンターもいるらしいので馬鹿にはできない。

「結構強力なんだよね、これ」
「見た目はアレでも性能は一線級だからな。武具屋のおっちゃんもいい仕事するもんだ」
「……本当にあげるの?」
「当然。男は細かいことを気にしない!」

 長い付き合いだからこそ、本気でリオが言っているのがわかる。
 処置無しだ、と嘆息し、そんな奴の一部始終を見届けようとしている自分も大差ないと知って、ロイは小さく笑った。

「こんちわーっす!」

 喜び勇んで勢い良く集会所の扉を開けたリオは、奥で営業スマイルを振り撒く件の受付嬢の姿を目敏く捉えた。後ろ手にメラルーガジェットを回し、ゆっくりと近付く。当人は浮かれていないつもりらしいが、どう見ても隠し切れていなかった。爽やかな青年を演じる幼馴染の背後を陣取り、失礼にならない程度にロイは女性の横顔を覗く。
 なるほど、噂になるのも、リオが熱を上げるのにも頷けた。端正な面立ちは離れていても良く映える。色恋沙汰に疎いロイでも可愛らしいと思うのだから、相当な美人と言ってもいいのだろう。
 一瞬目が合い、にこりと微笑みかけられたので会釈を返す。そこで彼女の目前に到着したリオの動きが、ぴたりと止まった。釣られてロイも同じ方向を注視する。二人分の視線、その行き先に気付き、柔らかな笑顔を浮かべたまま受付嬢が説明してくれた。
 ――ついさっき、親切なハンターの人に頂いたの。わたしが欲しいって言ってたの、聞いてたのかな。
 同じプレゼントは二つも要らない。例え渡したとしても、何のアドバンテージにもならないだろう。ライバルに先を越され、これまでの苦労が全て無駄になったのだと理解したリオは、辛うじて引き攣りかけた表情を崩さずに保った。無難に会話を切り上げ、不自然な後ろ歩きでそのまま集会所を出ていく。
 ……何というか、最初から最後まで一人相撲だったとはいえ、さすがに少し不憫だった。

「マジかよ……。今日から俺、何を希望に生きてけばいいんだ……」
「その……うん、元気出して、ね?」

 あからさまにしょぼくれるリオを前にして、ロイは懸命に慰めの言葉を探そうとした。
 その時、ふっと正面を横切る細身の影。濡れた黒髪を靡かせた、女性のハンターが通り過ぎる。

「えっと、あのさ、リオ、」
「ちょっとそこのお姉さん! そうそうあなたですよ、いやあ実にお美しい! もしよければ今度一緒にクエストを――」
「………………」

 次に泣きついてきた時は、絶対力を貸すまい、と心に決めたロイだった。



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何かあったらどーぞ。