「…ただいまなのです、リキ…」

 大切な人の名前を呼ぶ。
 別れてから一月もたってはいなかったが、久しぶりに呼んだ彼の名前はひどく懐かしく感じた。

「うん。お帰り…クド」

 彼の心地よい声色から発せられたその名前に…自分は、本当に帰ってこれたんだと実感した。

「リキっ!!!」

 彼に…最愛の人に向かって走り出す。
 手にしていたマントも、帽子も汚れてしまったけど――
 彼は気にせず、お別れのときよりずっとずっと強く、そして優しく抱きしめてくれた。


「リキっ…! あぁ…よかった…もう一度会えて…本当にっ…!」

 いつの間にか、頬に一筋の涙が伝っていたと思うと、もう自分では止められなかった。
 会えたら、話したいことは沢山あったのに頭の中は真っ白で何一つとして声に出ず、本当に伝えたかった思いは言えず、ただ「リキ…リキ…」と最愛の人の名を反芻するだけだった。

「…クド…」

 その時、ふと唇に何かが触れた。
 不意な出来事で驚いたが、私も求めるように、柔らかな衝動に身を任せ彼を感じた。

 嬉しさも 悲しさも

 気持ちや 言葉も

 互いの体温と共に重ね合わせた


 そして永遠のように感じられたキスだったが、

「おーい! 理樹いぃ!! 何処行っちまったんだよー!?」

 私が落ち着く頃には、井ノ原さんの声でさえぎられることとなった。

 私達は慌てて唇を離した。
 そして名残惜しそうにお互いを見つめ合う。

「…いこっか? クド…」

 リキがクドの手を引いて走り始めた。
 クドもそれに引かれて後追う。



 …っと、さっき一つ言うのを忘れていました!




「リキっ…」

「何?」

 クドは満面の笑みで言った。


「大好きですっ!」


「…僕もだよ! クド!」




 繋いだ手をぎゅっと握り締め、より一層早く走り出した。



「おお! 理樹やっと見つけた…ってクド公!?」
「募金活動にご協力お願いしまーす…あっ理樹くんもクーちゃんもおは…ってえええ!?」
「くそっ…さらば樋口ぃ!! ってどうした?」
「うおおおおおおおぉぉっ!! 英世が4人しかいない!!? …どうした神北?」
「…ばかばっかりだ。 おお、理樹もクドもおはよう………ってなにぃ!?」
「何だ? 騒々しい。…あぁ、成る程。 おかえり、クドリャフカ君」
「…どうも、能美さん、お帰りなさい」
「ん? なになに? おぉクド公! ……おおクド公?  …おおお!? クド公!?」


「皆さん! ただいまです!!」


 この日、私は世界に、リトルバスターズに、…リキに「ただいま」と伝えた。



 物語はきっとここから始まる。

 過酷を書き終えたその1冊の本に私はこれから、楽しくて、かけがえのない物語を。

 …最愛の人との平穏な日々を記していこう。
















  たとえその本の残りのページが、
         
         後もう少しで尽きてしまうとしても

















 それはとても幸せな夢 / 蒼泉市役所





 前編 / 〜めくれないページ〜
 


  7月

 春から夏に季節が移り変わる6月、大陸の冷たい高気圧と太平洋の暖かい高気圧がぶつかり2つの高気圧がせめぎあい、勢力のバランスがほぼつり合っている。
 結果、大気の状態が不安定になり、日本で言わずとも名の知れた“梅雨前線”が…つまりあの憂鬱しい“梅雨”がこれでもかと言うほどわがもの顔で居座り続ける中々鬱陶しい季節も過ぎて、時期としては今はもう梅雨明けの季節である。

 しかし、今年は気象庁が6月の中旬に日本の梅雨入りを発表してからと言うもののただの一度も雨が止んだことがなく、ジメジメとしたスッキリとしない毎日が続いている。
 昔の人はこの時期は湿度が高くかびが生えやすいことから「黴雨ばいう」と名づけたのが語源と言う説は、中々共感できるものがある。

 さて、世の中はこのように毎日心身共にすっきりとしない毎日だが、我々の日常はそんな逆境においても何一つ変わることなく、毎日同じように続いている。

 他人の幸せの為、生きる糧を得る為、何かを学ぶ為

 太陽も、動物も社会人も
 皆、それぞれ思いは違えど、皆一様にこの雨の中日常を過ごす

 それは、学生達とて例外ではない。




 ぴぴぴ…ぴぴぴ…ぴぴぴ…

 無機質な電子音が綺麗な等間隔で朝の訪れを知らせる。
 クドは早い内に特徴的なシャトルの形をしたデジタル時計のボタンを押し同じルームメイトの西園美魚を起こさぬようにそっとベッドから出た。
 まだ時刻は6時半と部活の朝練がない生徒が起きるには少しばかり早い時間であり、この部屋はおろか、女子寮の全体がとても静かであった。
 クドがこの様に早く起きることは別段珍しいことではないが、帰国以来、以前よりも早起きに徹している。
 残り少ないこのクドの世界を一分一秒でも長く楽しみたいのか。
 それとも、遠足前の子供のように、毎日の“今日”という日が待ち遠しい為か。
 どちらにせよ、あの日からクドは楽しい日々を送っていた。

 …唯、そんなクドにも一つだけ気にかけている事があった。
 クドはそっと南側に取り付けられた窓のカーテンの隙間から外を覗く。
  
 …雨だ

 6月の中旬から降り始めた雨は、今日で16日目となるのに一度も止むことはなく、空の一面覆う鉛色の雲の所為でいつまで経っても太陽が姿を現さず日照時間が短いため、梅雨冷が起こり気温の上下が小さく、最近朝方にかけて肌寒く感じることが多くなった。
 今年は陰性の梅雨なのかあまり強くない雨が長く続いているようだが、此処まで来るとどうも恐いものがある。
 …いや、梅雨の季節に雨が降り続けること自体はおかしくは無いのだが。

 気のせいでしょうか…? ここ最近、雨の降り方が…変わらないというか…

 クドは自分の胸に過ぎった嫌な思いを振り払うように目一杯首を横に振る。

「…って気のせいでしょうね。 今年の雨は長いだけです」

 自分に言い聞かせる様にそう言うと、クドは窓のカーテンレールの端に括り付けてある特製の“てるてる坊主”を一度取り外し、もう一度願いを込める様にしっかりと括り付けた。

「明日は晴れになるといいのです!」




 クドの起床から一時間ほどがたった。

 しっかりと準備を整え訪れた学食は多くの生徒達によって溢れかえっていた。
 朝はあれほど静かだった学園がまるで違う別次元の世界だったのではないかと思わせるような活気っぷりである。
 クドは食券を買うために混雑している列の最後尾に並んだ。
 朝食を載せたトレイを持ち席に戻ろうとする人が多かった為、混雑はしているものの列自体は10人程とそれほど長くなかった。
 ふと前に目をやると列に並んでいる雑談に興じる女子生徒や、眠そうに欠伸をする男子生徒より少し先の前から3番目辺りに彼の後姿を見つけた。
 クドは後続に人が並びそうでもなかったので、とたとた、と走って彼に挨拶をしにいった。

「リキ〜! ぐっもーにん〜!」

 リキはクドの声に気付き笑顔で返した。

「やぁ、おはよう。 クド」

 互いに梅雨の憂鬱しさを感じさせないような機嫌の良さである。
「きっと戻ってくる」そんな約束を果たしたクドが学園に戻ってきて間もなく、
 理樹とクドはもう一度正式に付き合い始めた。
 それ以来毎日のようにあの家庭科部の純和風な部室に一緒にいる。
 もちろんリトルバスターズとして恭介の指令などに参加はしているが雨が続いているということもあって野球も出来ず、更には最近恭介のミッションもめっきり少なくなりリトルバスターズは現在半休止中状態である為、放課後はいつも二人で一緒にいる。

「今日も元気だね、クド」
「はいなのです! …リキ、今日は一人ですか?」
「うん。…真人が中々起きなくてね、先に真人の分も買ってるんだよ」
「そーなのですか」
「…で、後で呼びに行こうと思ってるんだけど…」


「ちょっと!」

 理樹が言葉を最後まで話す前に、それを遮る様に直ぐ後ろに並んで雑談していた女子生徒のグループの一人が声をかけてきた。

「後つっかえてるんだから、早くしてよね」

 よく周りを見ると、理樹とクドは食券を買う列の先頭に立っていた。
 どうやら会話に興じている間に自分達よりも前に並んでいた生徒達が大分前に買い終えていたらしく、クドたちは後ろの生徒達の邪魔になっていたようだ。
 理樹は「ああ…ごめん」と後続に謝ると二人分の食券を買う為に販売機へ向かった。

「あと、あんた列に横入りは禁止」

 クドは、理樹に挨拶をする為に来ていたのだが話が少し弾みそのまま列の先頭にまるで横入りをした様に居座ったままであった。

「!? わふー! ごめんなさいです! そんなつもりは決して…!」

 もちろんその言葉に偽りはなく本当に勘違いである。
 見たところ女子生徒も半分理解して冗談を交えて言っているようなのだが、生真面目というか純粋というか、クドはその言葉を言葉通りのまま受け取ってしまい、自分の失態で皆に迷惑がかかっていると思い込んでいた。
 そんなクドを見た理樹はその冗談に合わせる様にクドに諭すように言った。

「駄目だよクド。列に横入りしちゃ…」
「そんなっ!?」

 理樹の言葉に、クドはガーンという古典的な効果音が鳴りそうなほどショックを受けていた。
 そんなクドを見て理樹は、あははと笑い取り繕った。

「あはは、クドってば冗談だよ」
「じょーくですかっ!? リキ…ひどいです」

 今度はしょんぼりと俯いた。

「ごめんねクド。お詫びに僕が食券買ってあげるから」
「え…? でも」
「いいの。もう一度並び直すのも面倒臭いでしょ? …それに僕はクドの恋人なんだし」

 理樹の“恋人”というワードにクドは顔を赤らめた。
 まだ付き合ってから1ヶ月も経っていないからか、クドはまだ免疫が弱く、二人でいるときもよく顔を赤らめる。
 まぁそれは理樹とて同じで“恋人”と自分で言っておきながらクドの初々しい反応に少し気恥ずかしさを覚えている。

「じゃ…じゃあ、おねがいするのです…」

「え…、あ、うん…」

「理樹は再び食券の販売機に向かった。
 …しかしクドはやっぱり可愛いな、とそんなことを思いながら3人分の食券を購入する。
 ふと、こちらの言葉の一つ一つにまるで小動物のように可愛らしく反応するクドを思い出した。
 彼女が自分の恋人であるのを誇らしく思う気持ちで溢れる一方、心の隅に眠るあり得ない程の好虐心をくすぶられていた。
 このクドを、子犬のような可愛らしい声で鳴かせてやりたい。
 やっべ俺の中のS魂が今目覚めてちまったぜ!
 げっへっへ、今日は家庭科部の部室で…ひゃっほーーーう! こいつぁ」
「思ってないよ!? 思ってないからね!? というかいつの間に!?」

 理樹は急に現れ、地の文風にあることないこと吹き込む来ヶ谷に突っ込みを入れた。

「なんだ? 此処からが良い所なのに…あぁすまんな少年。
 君は鳴かせる側ではなく鳴かされる側だったな。お姉さん失念していたよ…」
「違うから! 僕は普通だから!」
「なんだ、面白味の無い無味簡素な少年だな」

 全くひどい言われようである。
 
「大体考えてもみろ、相手はあのクドリャフカ君だぞ?
 そもそも発狂しない方がおかしい…いや失礼と言っても過言ではない」

 そもそも発狂するのに礼儀作法も何もあったものではないが…

「クドリャフカ君のあの容姿、声色、あの性格!
 このスペックに大概のSはイチコロ! …あぁ、いっそ私がこの手で…」

 来ヶ谷がそう熱く語っていると、流石に後方が痺れを切らしたのか「何してるんだ!?」という不満の声が所々で上がっていた。
 理樹は急いで3人分の食券を買い、その内の一つを先程とは違う理由で顔を赤くしていたクドに手渡し、彼女を連れてそそくさと販売機を離れた。どさくさに紛れて横入りで自分の食券を購入していた来ヶ谷も悠然と後を追った。



 その後、朝食を食べ終わったリトルバスターズの面々は、それぞれ各教室に…とはいえ葉留佳と学年の違う恭介の2人以外は同じクラスなのだが…朝のHRの開始を告げるチャイムが鳴る前に席に着いた。
 今日も大切な日常が始まる。
 学生の大抵は憂鬱しいと思うであろう勉学も、クドには後ろから好きな人がパワーを送り続けてくれる限り、今日も一日きちんと背筋を伸ばして、楽しく受けることが出来る。何だって出来る気がする。
 …まぁこの後、4限目の英語の授業で英文訳を当てられ右往左往している所を見ると、理樹のパワーはやる気の上昇にはなろうとも学力の上昇に一役を買うことは無かっ様だが…


 4限目の授業が終わり昼食の時間となる。
 いつもなら各々屋上や中庭の芝生、はたまた簡素なテラス等、好きな場所で昼食を摂るのだが、如何せん外は弱いと言えども雨が降り続いている為、ここ最近は自動的に教室や学食等で昼食をとることを余儀なくされている。
 その為か、いつも行く売店が身動きが取れないほど混んでいた。

「うわぁ…すごい行列…」
「雨だからってここまで人が集まるものなのでしょうか?」

 クドの言う通り、この人混みの量はこの学校の学生の殆どが集まっているような大人数だった。
 同じく理樹もそのことを不審に思い、小さく背伸びし売店のレジ辺りを見ると、なにやら「竜太パン」という怪しい代物が新発売されていた。

「どーでしたか?」

クドに訊ねられ、理樹は渋々と答えた。

「…なんか…“竜太パン”って言う商品が新発売されてた…」
「“竜太パン”ですか!? なにやら蟲惑的な名前の響きですっ!!」

 クドはどうやら“竜太パン”をいたく気に入ってしまったようだ。

「…そうかな? 購買部がただ“竜田”と“竜太”を書き間違えただけだと…」
「フッ…理樹はまだまだだなぁ…」

 不意に理樹の後ろで声がした。

「恭介!?」
「理樹は甘いっ! 甘すぎるっ!! どの位かって言うと元々甘いココアにシュガーを投入したヤツよりも甘いっ!!!」
「そんなに甘いの!?」
「あぁ…バニラの上に黒蜜なんて目じゃないぜ…ってそんなことはどうでもいい!」

 恭介は話が逸れていっている事を察し、強引に元に戻した。

「いいか理樹…この“竜太パン”は…竜田揚げなんかとは一切関連が無い。
 なんでもどこかの進学校で発売されて大人気になったと言う信憑性の無い噂と、
 “竜太パン”という名前しか明らかにされていない謎だらけのパンなんだ。
 味はおろか食感、見た目、中の具でさえ購買部から一切公開されず、
 とりあえず“竜太”さんと言う人が造ったパンだということになっている謎の新商品だ」

「…そうなんだ」
「で、今回のミッションはこの“竜太パン”を手に入れること。…ミッションスタート!」
「…そうなんだ…ってえええ!?」

理樹が気付いて前を見たときは既に遅く、恭介は人で構成された荒波の中へと身を投じていた。

「仕方ない…行こうかクド」
「らじゃーなのですっ!!」


………

……





 放課後、私はいつもの様にリキと二人っきりで家庭科部の部室にいました。
 外の空模様は相変わらず雨が続いていた為、今日もリトルバスターズの活動は無しです。
 …まぁ、2時間ほど前に十分活動していたんですけど。
 ちなみに“竜太パン”争奪戦はあの人混みの騒乱の中私達が奮闘していると、あまりの騒ぎに駆けつけた佳奈多さん率いる風紀委員会が鎮圧にはいってノーゲームになってしまいました。
 結局用意していた罰ゲームも執行出来ず、恭介さんは悔しがっていました。
 他の皆も久しぶりの活動だったのでちょっと心残りがあるような面持ちでした。
 私も心残りがありました…。

 …“竜太パン”、どんな味なのでしょう?

「また明日…買うのですっ!」

 そう自分自身に誓うと、クドは家庭科部の備品である“おかき”と紅茶を理樹の隣まで持っていった。
 クドは机に散乱した英語の単語帳やテキストを端へやり、お盆の上から丁寧にそれらを並べた。

「粗茶ですが…」
「うん。ありがとう、クド」
 
 ところで、何故にいつもきっちりしているクドがこの様に机の上を散らかしているかと言うと、
 近々英語の小テストが実施される為、それに備えて目下勉強中なのである。
 まぁ小テストなのでそこまで気合を入れて臨む必要は無いが、クドは「目指せ! あい・ごっと・とぅー・ふるぽいんと! なのです!!」という目標を掲げている。まぁ、既に目指すと言う未来、仮定の話なのにgot=とった、と言う過去形を使っている辺り満点は遠そうである…。
 しばらくして、理樹はクドが入れてくれたお茶を飲みながら机の上にあった英単語帳を手に取った。

「じゃあクド、単語テストいくよ」
「ばっちこいですっ!!」

“pleasure”
「喜ばせるです!」

“value ”
「価値なのですっ」

“ring”
「わふー…えっと、鳴るですっ!」

 高校英単語の問題。
 3問を矢次ぎ早に出題された問題に対して多少なりと突っかかった部分もあったが、クドは勉強の成果か、苦も無く理樹の問いに答えていった。
 …ただ答えると言う行為は、別段なんともありはしない。
 問題はこの答えが合っているか否かである。理樹は神妙な顔で英単語帳の裏を見ている。
 そんな重苦しい空気の中、クドはごくりと理樹の口元を緊張した面持ちで見つめる。

「――うん! 正解だよ!! すごいねクド、勉強の成果が出てるよ!!」

 実は紅茶を淹れる前に見ていた英単語帳が、恐らく今理樹が開いてるであろう単語帳であったということ…つまりほぼ偶然だったと言うことはクドしか知らない。
 その後もクドは幾つかに渡って正解し続け、タネの知らない理樹は感嘆の声を上げた。

「うん。 単語はもう問題ないね。 …じゃあ次は」
「リキ、私はぐっどでしたか?」
「そうだね…クドは良く頑張ってるよ」

 理樹は「えらい、えらい」とクドの頭を優しく撫でた。
 クドはわふーと気持ち良さそうにしていたが、

「…なら、がんばってるご褒美に…きす、してほしいです」

 えぇ!? と一瞬呆気にとられた理樹だったが、しばらくすると了承した。
 クドは恋人やそういった単語にはすぐ顔を赤らめてしまうのだが、ことキスに関すれば驚くほど積極的で、時折理樹が気後れすることもある。

「…わふぅ…リキ…」

 クドは目を瞑り、顎を上げ理樹のキスをせがんでいた。
 そんな、ご褒美を待つ子犬の様なクドの姿に顔を赤らめた理樹は一度大きく呼吸を整えると、自分のすぐ横にもたれ掛かるようにしていたクドの身体を優しく支え、約5秒程、そっと唇を重ね合わせた。
 キスが終わるとクドは名残惜しそうに理樹のほうを見つめた。

「リキぃ…やっぱり“大好き”って言ってもらってからのほうがよかったかもです」

 そう言うとクドはもう一度理樹の左腕にしがみつく様にして、甘い声でそう訴える。
 一方理樹ももう少し唇で彼女を感じていたかったのか、先程とは打って変わって積極的にクドの顔を寄せた。
 額にかかった綺麗な艶のある亜麻色の髪をそっと退かし、クドの小さな唇に先程よりも長く唇を重ねた。
 クドもそれに答えるようにぎゅっと愛しい人を抱きしめた。

 もう何処にも行かない…と

 もう何処へも行かせない…と

 ずっと一緒にいる、ずっと一緒に生きていく…と


 お互いがちゃんとここにいるということを確かめ合う為に



 二人は永遠ともとれる程長い間、愛しむ様に互いの唇を重ねた。



「…りゅびーむぃ・もい」


 クドがぼそりと呟くように何か言葉を紡いだ。

「? 何か言った?」

 クドが呟いた何かを聞き取れず、何と言ったのかと聞き返す理樹に、

「わふー。 内緒なのですっ! …えへへ」

 クドは満面の笑みで返した。



………

……




「じゃあねクド。 また明日」
「はい! リキー。しー・ゆー・れいたー、なのです」

 私は目一杯大きく手を振りました。
 また明日元気一杯出会えるように、元気一杯にお別れする、諺で言うところの“終わりよければ全て良し”なのです。

 そんなことを思いながら、理樹が男子寮に入っていくのを見届けると、クドもてくてくと帰路に着いた。
 時間はまだ夜ではないのだが、空一面を覆う鉛色の雲が太陽の光を遮断している為か、もう夏も近いと言うのに空は夜の様な薄暗さを見せていた。
 雨は今日も一度たりとも止むことは無く、じっとりとした空気と微妙な肌寒さは天気はおろか気分すらもどよんと憂鬱しくなるだろう。
 しかし、クドの表情は長雨の憂鬱しさなど微塵も感じさせぬような晴れやかな笑顔だった。今にも口笛を吹いてスキップをし始めるのではないかと思うようなご機嫌さだ。

「…今日も楽しかったのです」

 クドは誰に言うでもなく呟いた。
 ただ、自分自身が今日という日に満足したという、なんでもない日常。
 それでもクドは嬉しかった。

 今日も皆と一緒に楽しく勉強しました…英語はちょっぴり出来なかったけどまた頑張ります。

 久しぶりに恭介さんのミッションをしました…結果は引き分けだったけど精一杯遊んで楽しかったです。

 理樹と一緒に放課後を過ごしました…今日もいっぱい、きすしました。


 他人から見れば別段大したことではないのかもしれない。
 でも…クドはそんな小さな、皆といる幸せが、クドはとても嬉しかった。

「あーした天気になーれ♪ ですっ♪」

 クドは踊るようにくるくると回りながら、明日こそ晴れますようにと、そう願いながら女子寮まで向かった。












 …それでも、今書き連ねている一冊の本のページは…









 女子寮内部に繋がる階段の下、そこに一人の人影が確認できた。
 雨で視界が悪いので良く見えなかったが、近づいていくごとに序所に輪郭がはっきりとしてきた。
 接触が悪いのか時折点滅する蛍光灯の白い灯りに照らされていたその人は、恭介だった。
 クドは何故こんなところにいるのだろう? と疑問に思った。
 そろそろ生徒は外出禁止になるし、というより男子生徒が無闇に女子寮に近づくのは禁止されている。
 例え恭介といえども、女子生徒の誰一人にも気付かれずUBラインを突破するのは至難の業だし、さらに女子寮前の目に付くところでたむろしているなどもってのほかだ。
 そう不審に思ったクドは恭介の元まで走った。

「恭介さーん! こんな所でなにをして…恭介さん?」

 駆け寄り、恭介を近くで見たクドは少し違和感を覚えた。
 恭介は女子寮の入り口の壁に力無く、身を預けるように座っていた。
 目には生気こそ宿っていたものの、その顔はまるで長距離を走りきった陸上選手の様に、昼間の元気の良さ等全くない、酷く疲れきっていた表情をしていた。

「…恭介…さん?」

 クドはそんな姿に動揺し、おどおどと、もう一度恭介の名を呼んだ。

「…ああ。能美、やっと戻ってきたか」

 恭介はクドの声にやっと気付いたようで、いつもの元気さとは程遠いが疲れきった体に無理に鞭を入れるようにして、ゆっくりと立ち上がった。

「…恭介さん? …なにをしていたのですか?」
「…お前に少し話があってな…」

 恭介はクドを真剣な眼差しで見つめた。

「能美…この際だから、単刀直入に言わしてもらう」

 その雰囲気からは、どう考えてもこれが遊びや冗談とは考えられなかった。

「能美…このせか」
「きょ、恭介さん! …あの、そ、そうだ! 昨日私のお爺ちゃんから美味しいお菓子が」
「能美」

恭介はクドに“喋るな”と言わんばかりに強い口調で言った。

「…っ。…あ、あれ? 洋菓子はお好きではありませんでしたか? じゃあ」

そう言ってクドは小走りで階段の踊り場まで向かっていった。

「能美!」
「それではこちらに持ってきますので少々おまち」





「話をきけ! 能美!!」





「嫌なのですっ!!」





 互いが互いを遮る様に叫んだ。
 場に冷たい沈黙が流れる。
 クドは恭介が言わんとしている事が、既に分かっていた。…いや、最早、嫌と言うほど分かりきっていた。
 だからこそクドは恭介が伝えようとしているこの話を、聞かされたくなかった。
 階段の手すりを掴み断固として振り向こうとしないクド。
 そのクドを睨むように見据える恭介。

 …そんな沈黙の中、最初に口を開いたのは恭介だった。

「この世界はもう終わる」
「……っ」

 階段の手すりを掴んでいたクドの手が目に見て取れるほど震える

「正確には、“俺が”この世界を終わらせる。 …まぁどちらにせよこの能美の世界はあと1ヶ月ももたないんだがな」

 きっと、ずっと不審に思っていた長雨は、それを表していたんだ。とクドは思った。
「晴れればいい」きっとそんなことを言っている時から、自分は薄々感づいていたのだ。
 この世界がバランスを崩し始めているのではないか、と。 …理樹と一緒にいられるのも、もう後僅かなのではないかと…。
 それでも、嫌なことは忘れよう、考えないでおこうといつの間にか心の隅の方へと追いやってしまっていた自分が居た。

「明日が終わるまで…つまりあさっての0:00…この世界は恐らく最後の世界へと向かう」

 期限はあさって…自分が思い描いていた結末よりもずっとずっと早かった。

「…能美、礼を言う。お前のおかげで理樹はもっと強くなった。今のあいつならば、鈴と一緒に生きていけるだろう。
 だから、次で最後だ。…俺はこの繰り返す世界を終わらせてみせる」

 そう言って、恭介はクドに眼を合わせることも無く男子寮の方角へと歩いていこうとした。
 それでも、クドは納得できなかった。

「…なんでですか… なんでなんですか!? なんでじゃあ後一ヶ月でも一緒に居させてくれないのですか!?」

 心からの叫び。…それでも恭介は淡々と事実を告げた。

「この世界はもう限界なんだ、無駄に日にちを費やすわけには行かない」

 普段温厚なクドだったが、恭介のその一言で激昂した。

「無駄なんかじゃありません!! …あなたに…恭介さんに私とリキの何が分かるって言うんですかっ!!?」
「…わかるさ、…俺はあいつの親友で、お前の仲間だからな」
「知ったようなこと言わないでください! そんなの…」

 クドは激昂しながらも、その先を紡ぐ事は決して出来なかった。

 クドにとってこの仲間は…リトルバスターズは、いつまでも大切な仲間たちなのだ。

「そんなの…そんなのぉ……っ…」

 泣きながら激昂していた反動か、クドは糸の切れた人形のように力なく階段の踊り場の上に膝をついてしまった。
 クドは先程までとは打って変わって、それでも本当に気持ちを露にしたまま、泣いて懇願するように、恭介に尋ねた。

「…でしたら…仲間なのでしたら……どうして? …ひどい…です」

 自分でももう分かりきっていること、これ以上話しても、ただ自分が傷つくだけだというのに――

「酷いと言われたって構わない。 俺はあいつ等を元の世界に戻す。それだけだ。
 …その為なら、たとえ親友の想いでも、大切な仲間の願いでも、俺はなんだって踏みにじってやる」

 彼はリーダーだから、自分を捨てて、他人を犠牲にしてまでもミッションを乗り越えなければならないのだ。
 …例え、どんなに大切な仲間でも泣いて切らなければならないのだ。そんな悲しい立場なのだ。
 そんなことはカッとなって失念していたとはいえ、クドも重々承知していた。 

 …それでも、この悲しみが消えることは、無かった。


 クドはフラフラとした足取りで女子寮へと入っていった。
 いつもなら聞こえてくる楽しそうな声も、水を打ったようにしんと静まり返っていた。
 まさか…皆も既にいなくなったんじゃ?
 そんな恐怖に駆られクドは急いで自分の部屋へと駆け込んだ。
 壊れてしまうのではないかと思うほど目一杯にドアを開け、暗闇に包まれた部屋の中に叫んだ。

「西園さん!? いますか!? 西園さん!!」


 …が、返事が帰ってくることは無かった。

 クドは急いで自分のベッドの傍にあった携帯電話をかけた。

 西園さん、来ヶ谷さん、葉留佳さん、小毬さん

 誰も消えてなんかいない、きっとかかるはず。
 そうだ、すぐにこの電話は繋がって、何事も無かったような声で皆さん「何かあったのかと」そう聞いてくれるはずだ、きっとそうだそうだそうにちがいないそうにちがいないそうに、


「…この電話番号は、現在使われておりません。 電話番号をご確認の上…」


 ――背筋が凍りついた。

 本当に終わりが近づいてきていることを知り、えもいわれぬ恐怖がクドを襲った。
 クドはその恐怖から逃げるようにして、ベッドの掛け布団を頭から被せる様にして潜り込んだ。

「いやだ…いやだいやだいやだ。もうリキと離れ離れになるなんて…っ」

 まるで子供が駄々をこねるように、無理と分かりつつもクドは別れたくないと懇願していた。

 大切な仲間と、好きな人との時間を一緒に過ごす日常を…これからもずっと。

 例え…叶わないと…分かっていても。



 この幸せな日常が始まったときから、覚悟していたはずだった。

 いつかこの世界にも終わりのときが来るのだと。

 例えどんなに楽しい夢でも、…夢とはいつか醒めてしまうからこそ“夢”と言うのだということを。


 …それでもいつからか別れが辛くなってしまった


「リキ…リキ…リキ…リキぃ…」

 愛する人の名を呪文のように反芻する。








 …それでも、今書き連ねている一冊の本のページは…
 …気付けば、もうめくることが出来なくなっていた…








 クドは布団の中で誰に言うでもなく願っていた。

 別れたくないと。一緒に居たい…と。



 それでも無情な秒針は

  無機質で虚しい音と共に

      刻一刻と時を告げる


 約束の時間が近づく。別れの時間が迫る。


 後悔からか恐怖からか、それとも別離の悲しみから。

 どうしようもないほどとめどなく、ぽろぽろと涙が頬を伝っていった。




    「…リキ…たすけて…」




 クドは布団の端を堪える様に握り締めた。




















雨は…まだ止まない

















前編 / 〜めくれないページ〜


〜Fin〜



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