『Первая Любовь〜ピエルヴァヤ・リュボーヴィ〜』 ―――初恋は実らない。 それは、一体誰の言葉だったのでしょうか。 漫画や小説で、ごく当たり前のように言われる一般論。 でも、それは違うと、私はそう思います――― 二度目の修学旅行を終えて。 二度目とは、事故で丸つぶれとなってしまった、本来の学校行事としての修学旅行の穴埋めに、皆が所属するリトルバスターズのメンバーで海に行ってきたものである。 さすがに衣替えも過ぎた十月では、海で泳げるようなものではないが、さんざん騒いで、さんざん遊んで。本来の修学旅行以上に、皆は楽しんだのだった。 全員が揃ったリトルバスターズは、以前にもましてにぎやかな、そして学校全体を盛り上げる中心的なグループとなっていた。 亜麻色の、少し毛先がカールした女の子が、休み時間の賑やかな校舎の廊下を歩く。 小柄なこの女の子は、これでも高校二年生。 とある教室の扉を開け、奥に視線を巡らせる。 目線の先の窓際の席、端整な顔つき男子生徒が本を読んでいた。 逆光の中、ゆっくりとページをめくる。 その姿は、何者にも犯し難い荘厳なものがあった。 まるで、悟りの境地にたどり着いた僧侶のような。 一種の神々しさとも言えるものだった。 彼のこの姿に、恋をする女生徒も少なくない。 すでに廃れてしまった言葉で表すなら、美男子、というものだろうか。 しかし、そんな神の微笑は、突如として爆笑に崩れた。 彼が読んでいた本は、聖書でもなければ文学書でもない。 ただの週刊漫画雑誌だった。 ひとしきり笑ったところで、彼女の方から声をかけた。 「恭介さん、恭介さん」 棗恭介。 このリトルバスターズを率いるリーダーにして、メンバー唯一の三年生。 この学校全体をも引っ掻き回すような『遊び』を提案し、実行する人物。 引っ掻き回しても、それが大した問題にならないのは、彼の技量に寄るところだろうか、それともただの偶然か。 以前には『恭介の一問一答コーナー』なるものを開設したこともあり、学校全体での彼に対する信頼度もなぜか高い。 ただし、そのコーナーでの回答はかなり『?』という代物だったが……。 今回も、その気乗りで気軽にメンバーの相談事を聞く為に向き直った。 まずは、あまりにも漫画に集中しすぎて彼女に気がつかなかったことを詫びることも忘れない。こういう小さな気配りが、彼のカリスマ性を高めている理由の一つとなろうか。 「すまない、つい夢中になっていた。……今日はどうした?」 「えっとですね、お話があるのです」 しかし、彼女からの相談は、一問一答コーナーのような受け狙いのものではなく、至極一般的なものだった。 二学期末の試験に対して、勉強会を開きたい、とのことだった。 まだまだ十分時間はあるのだが、早めに準備をしておけば、その分慌てずに済む、というのが彼女の提案だった。 「ふむ、それは理樹にでも頼めばいいと思うんだが?」 と、恭介はさも当然のように答え、ニヒルに笑う。 恭介は学年が違うし、すでに進学は諦めて就職活動をしている身だ。 勉強のことで相談するのであれば、同じクラスのみんなにお願いすればいいだろう。 メンバーの中では、理樹が一番何かと面倒見がいい。 そう思って、恭介は彼を勧めたのだが。 「えっと……その。……なんだか頼みづらくて……、あはは」 と、亜麻色の髪を揺らして、彼女は苦笑した。 「……喧嘩でもしてるのか?」 恭介は、いつもと違う彼女の態度に眉をしかめる。 理樹と、この子が喧嘩をしたという話は一度として聞いたことも無いし、むしろとても良好な関係だ。 昨日の野球の練習でも、別にそんな兆候は全くなかった。 だから、恭介は面食らう。 「いえ、そんなことは無いです。……ただ、面と向かうとなんだか……」 彼女の視線が泳ぎ、もぞもぞとマントが揺れる。 恭介は、なんとなくその仕草でなるほど、と思う。 それを表情には出さず、恭介は続けた。 「ふーん? まあ、これは次回のミッションにしよう。これは面白いことになりそうだからな。……っと、皆にも伝えておこう」 言いながら、恭介は携帯電話を取り出した。 面白そうとは、勉強会そのものではなく、勿論その後の諸々のことを言っている。 彼女の顔に、屈託のないひまわりの様な笑顔が咲いた。 「メンバー全員となると、部室では狭いな。……放課後食堂に集合のこと、と」 ぴ。 それを送信する。 どこからともなく、着信メロディー。 ……暴れん坊○軍のテーマ音楽(CMへのキャッチフレーズ)だった。 「?」 それは、彼女の携帯だった。 「おっと済まん、能美にも送ってしまったか」 「あ、いえ」 そう答えて微笑む。 「じゃ、ホームルーム終了後、食堂に集合だ」 「はい!」 能美クドリャフカは一礼して、マントを翻して恭介の教室を後にした。 「……ふっ」 と、恭介はもう一度小さく笑い、そして考える。 これまでの、リトルバスターズでの最大のミッションのことを。 それは、理樹と妹―――鈴を育て上げることだった。 その詳しい内容は、忘却の彼方。 何をどうやって、どう導いて今の結果があるのか思い出せないが、今の二人は修学旅行の前後で大きく変貌していた。 見た目には、何も変わらない。……いや、理樹は少し背が伸びたようだが。 大きくなったのは内面、つまり心。 あの事故の時は、二人が率先してクラスの全員を助けたと聞き及んでいる。 そして、恭介自身も彼らによって助けられたことも、後から聞かされた。 もし、心が強くなかったら、あの惨状で絶望していただろう。 我ながら、よく出来た。いや、出来すぎたと思う。 でも。 虚構世界を作り出したということはおぼろげながら覚えている。 だが、そこで誰とどうしてどうなったか、具体的なことは何一つ覚えていない。 いや、と恭介は考える。 覚えていないのはおかしい。とても印象的なことだったという感覚は残っているのだ。 ならばこれは、……忘れさせられている。 つまりそれは、『つじつま合わせ』。 最初から無かったかのように、忘れてしまうのだろう。 贖えないその事実が、悔しかった。 恭介は、バスターズのメンバーのことを、振り返ってみる。 彼の妹、棗鈴――― 臆病で人見知りの激しかった妹。 過去に起こった棗家の事件で、大きなショックを受けてしまったため、暗闇と人を怖がるようになってしまった。でも、誰かと居れば暗闇も怖がらないし、メンバーなら誰とでも気楽に話せるような、そんな女の子になった。 彼らの中でも小毬とが一番仲がよく、二人の間には何ら壁は感じられない。 初対面の人とは、まだまだ人見知りはするが、それでもいきなり逃げ出すようなことも無くなったのは、良い事であろう。 神北小毬――― 鈴と仲良しで、ムードメーカー。 ムードメーカーとはいうが、それはメンバー全員が一癖も二癖もあるものばかり。 言うなれば、彼女は幸せのムードメーカーか。彼女の出す幸せオーラは、周りの皆を幸せにしてくれる、そんな不思議な娘だ。 彼女には、兄が居たらしい。 その兄はもうずいぶん前に他界したらしいが、その死を受け入れるには、並大抵のことではなかったのでは無いかと、恭介は感じている。 これも不思議なことで、どうしてそう感じられるのかは、よく解らなかった。 最近になって、老人福祉施設に入院している彼女の祖父、神北小次郎氏と兄の墓参りに行ったことで、兄のことを受け入れることが出来たのだろうと、そう考えられる。 彼女と鈴は、ときどきその老人福祉施設へボランティアに入っているという。 三枝葉留佳――― リトルバスターズではお騒がせ担当(西園:談)。 事故後、二木佳奈多と双子の姉妹であることが判明、更に長年の確執も氷解し、仲のいい姉妹に戻ることが出来た、らしい。 らしいと付けるのは、相変わらず三枝vs二木の追いかけっこがこの学校内で繰り広げられているからだ。 三枝のイタズラがそれほど悪質でないことが、逆に風紀委員の神経を逆なでしているようだが、二木はしょうがないかという表情で、いやむしろ楽しそうに彼女を追っている。 彼女らからは、二人の取り巻く環境などを聞き出すようなことはしていないし、聞く必要は無いとそう考えている。 西園美魚――― 相変わらずもの静かな印象だが、事故後は良く笑うようになった。 トレードマークの日傘も、今はあまり使うことが無くなった。 もっとも、夏場はやはり日に焼けるのがいやだという理由で使ってはいたが。 理樹たちの教室では、『カゲナシ』と蔑まれていたらしいが、今はそれもない。 リトルバスターズだけではなく、本が好きな女の子同士での新たな友人関係を築いているようだ。それはとても良い事である……が。 何か不穏な内容の同人誌を、来ヶ谷と新しい友人、東夏美とかいう子と一緒に作っているとのうわさがあるが、その内容を知るのが怖いと感じるのは、きっと恭介の本能だろう。 来ヶ谷唯湖――― 彼女も、表情が豊かになった。 だが、それ以上のことは誰にも解らないし、本人も語らない。 おそらく彼女が一番『あの時』のことを覚えているはず、と睨んでいるものの、聞いても、適当にはぐらかされる始末だった。 何にせよ、メンバー全員を見守るその優雅な身のこなしは、いつでも頼もしい。 だが、何か不穏な内容の同人誌を、西園美魚たちと一緒に作っているとのうわさがあるが、内容を知りたいと感じるのは、きっと男の本能だろうか。 そして、能美クドリャフカ――― この春この学校に転入してきた帰国子女。 亜麻色の少しカールがかった髪、澄んだ青の瞳は、まさに外国の人という印象。 学校に来て、右も左も解らない能美に対して、案内を任命された理樹は拙い英語で説明した。説明したのだが。 外国人の風貌からは、およそ予想だにしない英語が苦手という事実に対し、理樹は笑うことはしなかった。 不得意なものはしょうがないよ、と理樹は声をかけたらしい。 ……本来ならその時、鈴も案内をするはずだったのだが、当時の鈴は心が弱かった。 それで逃げたがために、理樹と能美の二人だったというわけだ。 もしその時に鈴が一緒だったら、いい友達になれたのではないかと、そう思う。 今はいい友達だったな、と恭介は考え直す。 彼女の取り巻く情勢は複雑だ。 日本人を祖母に持つ、ロシアンクォーター。 亜麻色の綺麗な髪色をし、深い青い目を持つ彼女は、一見して外国人そのもの。 しかし、英語をろくに話せないことを初めとして、彼女の考え方や好物といったものがとても日本人的で、外見と中身との不一致こそが、彼女自身コンプレックスに感じている。 それが元で、上級生にからかわれていたこともある。 そして、彼女の故郷で起こった大惨事。 ロケットの打ち上げに失敗し、一つの国家が大変なことになったことがあった。 そのロケットの打ち上げにかかわっていた人物こそ、彼女の両親だった。 一時は両親とも連絡が取れない状況だったらしいが、今はもう大丈夫らしい。 それからやっと、彼女は学園生活を心から謳歌している、そんな所なのだろう。 「ふぅ……」 と、恭介は息を吐く。 窓の外は、いい天気だった。 メンバーのことをこうして考えたのは、久しぶりだった。 前は、いつだったのだろうか。 本当に、色んなタイプの人間が集まっている。 だから、今のリトルバスターズは面白い。 このメンバーなら、絶対にただの勉強会では終わらない、きっと面白いアクシデントが起こるだろうと、恭介は考え、ほくそ笑むのであった。 1.ドロドロジュースは、ゲルっぽい。 メンバーの面々は、指示されたとおりに食堂に集まっていた。 恭介を除いた、総勢九人。 これから何をするのかといった連絡がないので、皆彼を待つ。 食堂は、少なからず他の生徒たちがいる。 軽く腹ごしらえをするグループ、雑談をするグループ。 面白ジュースを買ってきて、試していたりする……のは三枝葉留佳。 「ドロッとしていたり濃厚そうな名前のものを買ってみたんですヨ」 言いながら、胸元に抱えるジュースのパックを美魚に勧める。 その数、メンバーの数と同じ十個。 「三枝さん、全部一人で飲んでください」 と即座に、そして明確に拒否する声。 「うわぁ、みおちん相変わらずきついですナ」 と、苦笑する葉留佳に、さらに追い打ちをかける声。 「そんな不味そうなもの、俺もいらないぞ」 「えええっ! 今の謙吾くんだったら絶対飲むって思ってたのにぃ!?」 袴の上に、『リトルバスターズ!』ジャンパー。 なんとこれは彼がチクチクと裁縫をして作ったということだ。 馬鹿も極まれり、と言った格好の宮沢謙吾は、これでも剣道部所属。 因みに修学旅行の怪我やらで、剣道は休止状態。 その弊害で、頭のネジが緩む……という表現は生ぬるく、何本も吹っ飛んで大事な部品をどこかに置き忘れてしまった、というのが妥当だろう。 失われたネジは、未だ補完されていない。 平たく言えば壊れた。あるいは馬鹿になったとも言う。 しかし、詰めの所で正しい判断をするのは、変わらない。 葉留佳は、助け船を求めるように、テーブルに集まるメンバーを順繰りに見ていく。 「あ、姉御は?」 最初に目に入ったのは、来ヶ谷。 「ふむ、いただこう」 言って、来ヶ谷はパックを一つ取り上げる。 背面にあるストローを剥がし、袋から取りだして伸ばす。 そしてそれをストロー口に差し込んだ。 その全ての動きに隙がなく、そして優雅で華麗だった。 まさに、来ヶ谷唯湖クオリティー。 「あ、私も貰うよー」 「私もですっ」 小毬と能美クドリャフカ―――クドが葉留佳の抱えるジュースに手を伸ばした。 「貰おう」 「いただくぜ」 二人が手にしたのを皮切りに、謙吾、井ノ原真人の順に紙パックを手にした。 「謙吾くん、最初嫌だって言ったのにっ」 「ふっ、気が変わっただけだ」 数人が手を伸ばしたことと、実は怖いもの見たさの好奇心が後から膨れ上がったこともあった。 手にした皆が、一斉にストローを紙パックに刺した。 そして、申し合わせたかのようにして、一斉にストローに口をつけ、吸う。 ジュースを手にしなかった皆が注目する中、来ヶ谷の表情がにわかに淀む。 すぐに、小毬とクドも表情をこわばらせた。 謙吾も、目を閉じて何かを耐えるような表情だった。 「これ……吸えないのだが」 「……なんだこれは?」 来ヶ谷と謙吾が、葉留佳を睨む。 「んんーっ、んんーっ!! ……わふーっ、全然吸えないのですっ!?」 「ほわぁあああっ!? 全然吸えないよぅ」 顔を真っ赤にするクドに、情けない声を上げる小毬。 「おお、こりゃ凄えぜ! 飲むだけで深胸筋が、筋肉が鍛えられるぜ!」 「それは真人だけだよ」 理樹の的確なツッコミ。 というか、ジュースを口の中に引き込めたのは、真人だけだった。 ―――飲むのに筋力がいるジュースって一体。 そんなアホらしいことを考える理樹。 「やはは、これはこうやって飲むのですヨ」 葉留佳の脳天気な声に、一同は注目した。 みんなの見ている前で、手にしていた複数のジュースを一旦テーブルに散撒き、その山の中から一つを選び取る。 おもむろにストローをむしり取り、おもむろに伸ばし、おもむろに突き刺す。 その一連の動きに、優雅さ・華麗さは一欠片もない。 まさに、三枝葉留佳くをりちー。 ストローに口をつけ、おもむろにジュースのパックを……押しつぶす! ちゅー……。 「…………」 一同、何とも言えない沈黙の中、葉留佳に注目する。 「お、美味しいですか?」 「うーん、まあまあ、かな? やはは……」 明らかに苦笑している。 「貴様そんなものをこの私に勧めたのか」 「いや姉御、味は確かに美味しいデスヨ、ただ食感と」 「食感ですかっ!? ジュースなのに食感なのですか!? 日本のジュースはとっても不思議なのですーっ!? じーざす! かこーい・すとら゛〜んぬぃ・そーくっ!?」 葉留佳の声に重ねるように、クドが叫ぶ。 「いやいや、これは明らかにジュースの枠を超えていると思うよクド。あと後半意味分からないって」 「じゃなくて、喉越しというか」 いいわけをする葉留佳だが、すればするほどドツボに嵌まっていく。 どんどん騒がしくなるメンバーに対し、一人の女生徒がキッと視線を向ける。 「食堂ではあまり騒がしくしないように」 と、鋭い声が背後からかかった。 「えっ!?」 声に振り返ると、そこにはクリムゾンレッドの腕章。 黄色い文字で『風紀委員』。 獲物を狙う猛禽のような、鋭い視線が皆を凍らせる。 「……なんてね。葉留佳、貰うわよ」 といいながら、その得体の知れないジュースをテーブルからつかみ取る。 「……なに?」 注目の視線に、佳奈多は不機嫌そうに声を出した。 「い、いや、佳奈多君がそれを手に取るのが不思議に思ってな」 来ヶ谷は、頬に汗を一筋流しながら、今の正直な気持ちを言葉にした。 「何言ってるの、これ、美味しいのよ?」 言いながら、紙パックを押しつぶすようにして中身を飲んでいく。 どくっどくっどく……。 ごくごく、という爽快感まるでなしの擬音だった。 「クドリャフカ、ストレルカとヴェルカは?」 ストレルカは、雌のハスキー犬の雑種。 ヴェルカも雌で、スキッパーキ……らしい。 共に、この学校の風紀を取り締まる番犬だった。 二匹ともとても優秀で、毎度お騒がせの三枝葉留佳を、毎度毎度とっ捕まえている。 因みに、能美家―――クドのの飼い犬だったりする。 「あ、はい。もう見回りに出ています」 「そう、教えてくれてありがとう」 「いいえ。お仕事頑張ってくださいね」 「ええ、ありがとう。……ストレルカの調子は?」 「快調ですよー。今度子供たちも見てあげてくださいね」 「ええ、そうするわ。……じゃまた後で」 言いながら、飲み終えた紙パックを片手で器用につぶす。 ほぼ一気飲みだった。 去り際にゴミ箱に綺麗に放り投げた。 かつん。 その縁に当たり、高くバウンドしてからゴミ箱の中に吸い込まれた。 その去り際が妙にかっこいい。 「いやー、相変わらずですネ」 「うむ」 佳奈多が一体何をしに来たのかは、よく解らなかった。 「って、ジュース代貰ってないぃっ!?」 と、叫ぶ葉留佳に、 「なんだと貴様、奢りではないのか」 と呟き、にわかに表情を変えたのは、勿論来ヶ谷だけではない。 「あ、いや、やはは」 困ったように笑う葉留佳、一気に逃げようとして走り出す。 その目の前に、静かに来ヶ谷が立ちはだかった。 まるで、空間を超える技、『瞬動』を会得した忍者のごとく。 「……貴様、この私に得体の知れないものを押し売りとは、いい度胸だな。……フッフッフッ、断罪してやろう」 と凄む来ヶ谷だった。 「よっ、何をそんなに楽しそうにしてるんだ?」 佳奈多と入れ替わりに、恭介が登場した。 「今日はどうした?」 「いや、最近ずっと野球ばかりだったからな。たまには別のことをやろうと思ったまでのことだ」 「ほお、一体どんなことをするんだ? 筋肉関係か!?」 「イヤッッホオオオゥッ!!」 真人が聞くと、何故か謙吾が吠えた。 「うっさいんじゃっ、ボケ!!」 その二人はハイキックで沈黙させられ、すぐにもとの場所へと走って戻る。 「こらこら鈴、だからツッコミにハイキックは使うなと前から言ってるだろ?」 「ふんっ!」 恭介が諭すが、あまり聞く耳を持っていない様子だった。 「きょ、恭介さん、今日は〜、一体、何をするのかな?」 小毬が、一切の流れを遮断するべく恭介に尋ねる。 彼女の後ろでは、断罪(そこに残っていたドロドロジュースを来ヶ谷に口に注がれている葉留佳)の図が展開されている。 それを止めようとする理樹とクドと、逆にその二人を引き留めて楽しんでいる真人と謙吾。傍観者を決め込んでいる美魚と鈴。 姉御私が悪うございました放せ放すなやめてあげてわふーフハハハハハッ!! などという言葉が入り乱れ、騒がしさはピークだった。 小毬の頬に伝う一筋の汗を発見するが、見なかったことにしておく。 多分、それらのどれか一つにでもツッコミを入れたら、何かに負ける気がしたからだ。 その何か……、おそらく、ツッコんだが最後、テーブルの上に一本だけ、意味有りげに置かれているあのジュースを飲まされる羽目になるだろう。 それだけは絶対に避けなくてはならない。 ―――あれは……、つらい思い出だった。 あれはジュースじゃない。断言してやる。あんなものはジュースじゃない! 世間ではゼリージュースとかいう洒落たものはあるがこのジュースはそんな類のものではない、確かに味はそれなりだが、ゲル状のアレを飲むのに筋力のいる――― 真人的発想に陥りそうになり、冷静さを取り戻せた。 恐るべしはこのジュースか。 感謝するぜ、真人……、などと恭介が考えたかどうかは定かではないが。 「あ、ああ。二学期の期末試験までまだあるが、ここらで勉強会をと思ってな」 小毬と同じく、額に一筋の汗を感じながら、そう宣言した。 ピタッと、皆の動きが止まった。 「……頼む恭介、もう一度言ってくれ」 沈黙を最初に破るのは、いつものごとく真人。 「ああ。俺達はあの事故で勉強が遅れてしまっている。それに、一度授業をサボって海にも出かけたしな」 「それはお前の発案だろ、馬鹿!」 鈴がツッコミを入れるが、とりあえず無視する。 「そこでだ。遅れている分を取り戻すため、そして二学期末考査を無事に越えるため! 俺たちは、あえて勉強会をすることにした!」 高々に宣言する恭介。 「こいつ、無視しやがった!」 「うん、いいよー」 「わふーっ、解りました。文武両道、ですね」 「そうですね」 「僕はいいよ」 快諾する小毬、クド、美魚、そして理樹。 「くっ……、仕方ないな」 「……仕方ないな、やってやろう」 しぶしぶながら承諾する謙吾と鈴。 鈴は、えらそうに答えているが。 「嫌だ面倒くさい」 「オレは嫌だね」 「ええー、そんなぁー」 対して、即答する来ヶ谷、嫌がる真人と葉留佳。 いきなりチームの結束がバラバラだった。 リトルバスターズの存続、危うし! 「葉留佳、そんなことじゃ駄目でしょう?」 不意に、風紀委員長が戻って来ていた。 「うわっおねえちゃっ!」 突然の背後からの声に、葉留佳は飛び上がるほど驚く。 「はい、百円。さっき渡し忘れてたから。……なに、今度は勉強会? ……まあ、静かなのは大歓迎だけどね」 と言いながら、佳奈多は百円硬貨を葉留佳に渡す。 引き返しかけて、ふと考えを巡らせる。 「……私も混ぜてもらってもいいかしら?」 と佳奈多が宣言する。 「ぇええー!?」 「お? 鬼に金棒だな。よろしく頼むぜ」 と、葉留佳が驚きの声を上げるのに対し、恭介は快諾していた。 「何勝手に仲間に引き入れてるんだ」 真人が突っ込む。珍しいが、でも当然だった。 相手は風紀委員。 それも、冷たいとか冷酷などといった枕詞を冠され、一般の(特に素行の悪い)生徒たちから畏怖のまなざしで見られている風紀委員長だから。 リトルバスターズも、昼までの校舎内の馬鹿騒ぎだの夜の校舎潜入などで咎められること幾多。バスターズだけではなく、学校全体でも避けて通りたい人ワーストワンの絶対的地位を有するのが、この二木佳奈多であった。 「出来の悪い妹を立派に育て上げるのも姉としての義務よ。そのついでにあなた達の勉強も見てあげる」 「佳奈多さん、よろしくお願いしますーっ」 「よろしくお願いしますなのですー」 小毬とクドは快諾。 「……すまないが、よろしく頼む」 謙吾が割と早く承諾した。 「まあ、剣道部同士、切磋琢磨しようではないか」 「私は幽霊部員よ。……まあ、それについてはあなたも同じね、宮沢君」 佳奈多は、あの事故以来クドと葉留佳以外の皆のことをフルネーム呼び捨てではなく名字+君あるいはさん付けで呼ぶようになった。 葉留佳のことで、少しだけ距離が近づいたということでもあるし、なによりルームメイトのクドを通じて、それなりに交流がある為でもあった。 その半分以上が、風紀を乱す者と取り締まる者との戦いだったりするのだが、それは言わないでおく。 でも。 そう言った意味では敵同士の筈なのに、こうして普通に話してくるのは一体なぜなのだろうか、その時理樹はそう考えていた。 「そうね。私は風紀の仕事があるから、それからになるわ」 「何時頃終わるの?」 「大体九時頃までの時もありますよね。でも非番の時は早いですよ?」 答えたのはクドだった。 「そう言えば、クドは佳奈多さんと同室だったよね」 「それは直枝君、あなたが勧めたことじゃない」 と、呆れ顔で佳奈多は言い放った。 その時、真人は急に俯いた。 「ああ、……最初理樹は、オレを捨てようとしたんだ。今思い出しても……くっ……悲しくなるぜ」 と、真人は眉間にしわを寄せて、振るえていた。 「わ……わふー……」 クドも、その時のことを思い出していた。 こちらは、顔が少し赤い。 いや、それは当然だろう。 「いやいやいや……」 理樹も、あの時はどうかしていたと思う。 なにせ、最初にルームメイト候補として、何を考えたか『僕』だなんて発言したのだから。 あの時はクドが大いに照れまくり、真人が大いに悲しんだ。 勿論それは冗談だったわけで、それを慌てて説明したのだった。 その後、他のメンバーを勧めて実際に相談してみたのだが、結果良好な返答は貰えず。 たまたまその話を聞いた佳奈多が名乗りを上げてくれたお蔭で、クドのルームメイトは彼女となったのだ。 佳奈多の参加が決まったあと、彼女はメンバーに自分のスケジュールを教えてくれた。 昔だったら、こんなセキュリティーにかかわるようなことは教えてくれなかったのだが、それだけリトルバスターズを信用してくれているということなのだろうか。 バカなことはやっても、決して道理に反することはしない。 佳奈多はバスターズのことを、そう思っている。 「ありがとう、佳奈多さん」 「お礼はいいわよ。……そうね、お礼がしたいというのなら、さっきのジュース、今度は直枝君にでも奢ってもらおうかしら?」 と、冗談を言った。 「え、う、うん」 昔と比べて柔らかくなった笑顔を残し、佳奈多は再び食堂から姿を消し……かけて戻ってきた。 「いい? 今の“ミッション”が期末考査の勉強会なのは大いに歓迎するけど、夜中に騒ぎ立てるようなものは、この風紀委員長として処罰しますから、そのつもりで」 宣言して、今度こそ食堂を後にした。 「……おっかねぇ助っ人だな」 「それについては同意しますヨ、真人君」 葉留佳も、苦笑して答えていた。 かくして勉強会は始まった。 「では理樹、お前が班を決めてくれ」 「えー、僕?」 「ああ、……そう、お前だ!」 と、もったいぶるように一呼吸貯めてビシっと指を指して宣言した。 恭介がそう決めたのなら、テコでも意思を曲げないことは、皆承知のことだった。 理樹はしぶしぶ、メンバーを全員見渡すのだった。 しばらくなにやら考えたあと、理樹はよしっと言った様子で頷いた。 あるいは、諦めた、ともいう。 結果、班分けは理樹と真人と謙吾の男三人が班長として、後の二人づつを決定することにした。 「うん、じゃあ僕の班から。ええと……」 誰を指そうか、正直悩む。 初夏に近い頃に行った季節外れの肝試し大会のことを思い出す。 謙吾や真人が、告白大会とか何とかって言い出すものだから、あの時は正直指名しづらかった。 懐かしさを覚えつつ、でもやっぱり悩んでしまう。 あの時は誰を選んだのだろうか。 それを思い出しながら、相手を探そうとする。 不意に、熱い視線を感じ、その方を振り向く。 なんだかその視線に、断りきれない迫力を感じてしまった。 「……ク、クド、いい?」 「はいっ!」 嬉しそうに答えた。 「じゃ、あとは……」 クドは英語が苦手だ。ならば、英語の得意な人を誘って戦力を整えよう。戦力なんて発想、来ヶ谷さんに感化されているかな、などと理樹は思った。ということで……。 「来ヶ谷さん」 「うむ。了解した」 そして、一堂を見渡してみた。 残ったのは、真人、謙吾、小毬、葉留佳、美魚、そして鈴。佳奈多はこの場にはいない。 肝試し大会の時も、理樹の同行のメンバーが決まったあと、選びづらいとか何とか言って結局なかなか決まらなかったという記憶がある。あの時は確か……。 「なかなか決まりそうにないから、あみだくじを」 「作っておいた、こんなこともあろうかと思ってな」 来ヶ谷がすっと紙をテーブルに置いた。 すでに四本の縦線が引かれ、ゴールの部分が折り曲げられていた。 横線は無駄に細かく引かれている。 もはや、ツッコミは入れない。 こう言う流れになるのは、なんとなく予想していただけに、驚きもしない。 リアクションのかけらも見せない理樹に、来ヶ谷は少し寂しそうにする。 「理樹君、突っ込んでくれないのか? おねーさんは寂しいぞ」 「いやまあ……、ツッコミどころが多くてどこから突っ込んでいいのやら」 「なんだと貴様」 「いやいやいや、ツッコミを入れても入れなくてもキレるんだね、来ヶ谷さんは」 「唯ちゃん駄目だよー、理樹君を困らせちゃ」 人差し指を一本たて、小毬が抗議する。 「いや、唯ちゃんと呼ぶのはだな……」 来ヶ谷、沈黙。 そして残った四人はくじを引いた。 あみだくじのゴールには、『真人少年』『謙吾少年』と、書道の師範も驚くぐらい無駄に達筆に書かれていた。 結果、真人、小毬、鈴。 謙吾、美魚、葉留佳。 佳奈多は遊撃手としていずれかに加わる。 運良く、バランス良く班分けは出来た。 とそこで、あることに気づく。 「二人並べると、遥か彼方なんだね」 「やはは。……お母さんがつけてくれたんですヨー、三枝と二木の家に縛られることなく、遥か彼方まで二人手を取り合って歩いていけるようにって」 葉留佳は、昔を懐かしむような目で語った。 三枝と二木の家の内部事情は、何も知らないし、何も教えてもらっていない。 ただ、何かしらの強い柵に翻弄された悲しい事情がある、そんな気はしていた。 どこからそう感じたのかは解らないが、今の葉留佳と佳奈多の関係はそれを乗り越えたところにある。まさに今『はるかかなた』を目差しているのだと、そう思えていた。 「さて理樹、班分けも無事に終わったことだし、早速ミッションを開始するか」 「待って恭介。……恭介はどうするの?」 「俺か? ……さて、どうしたものかな」 と不敵に笑う。 「お前は就活だろボケ」 と、鈴の鋭いツッコミ。 キックも平手も飛ばなかったあたり、まだまだ冷静だった。 理樹は、鈴には優しいツッコミを教えていたからね……と思った。 でも、思い返してもそんな記憶が出てこない。 なぜそう思ったのか、これも不思議だった。 そんな思考を遮る、恭介の声。 「諸君は勉強、そして俺は就職活動。お互い頑張ろう。……では、ミッション、スタート!」 そう宣言した。 2.勉強会、一日目 理樹の部屋。 勉強会の時間は、今回は六時半までとした。 というより、詳しい設定をミッションスタートしてから決めるのも、どこか抜けている。 流石恭介、肝心なところが必ず抜けている、と心の中だけで突っ込んでおく。 「では、まずは保健体育から始めることにしよう。教科書の」 「英語だね、クド!」 「あ、はい、そ、そうですね!?」 理樹の余りの剣幕に、クドは一瞬怯んだ。 何のことはなく、来ヶ谷がエロ話に突入しそうな気配がしたので、先手を打ってみたまでだった。 ちらりと見た、来ヶ谷が開きかけていたページは案の定。 「くっ、……了承した」 来ヶ谷は、断腸の思いという表情で保健体育の教科書を閉じていた。 いや、そこまでのことなのだろうかと、理樹はツッコミを入れたくなるが、ギリギリのところで我慢した。 ツッコミを入れると、深みに嵌まる。 今までの経験から、そう分かっていたからだ。 先ほどだって、ツッコミを入れたら逆ギレしてしまわれたことですし。 理樹とクドは二学期で最初に習ったページを開く。 来ヶ谷はすぐに平静を取り戻す。 「私が読もう。君らは聞くがいい」 そう宣言し、来ヶ谷は暗唱し始めた。 来ヶ谷が、教科書丸一冊を暗記している人だということは、すでに承知のことだった。 しかし、英語の発音もとても流暢で美しく、ネイティブさながらだ。 「……ん?」 「わふー……、来ヶ谷さんは、やっぱり凄いのです……」 と、クドが委縮していた。 「クドリャフカ君、安心したまえ。日々精進すれば、君もすぐこれぐらいにはなれる」 「本当ですか!?」 「ああ、本当だとも」 来ヶ谷は優しく微笑みながら、力強く頷く。 頼りになるおねーさんだった。 「さて、続けよう」 そう言い、再び暗唱する。 一ページ語ると、その文章の意味を、ヒントを交えながらクドに和訳させる。 最初は戸惑っていたものの、何とか和訳に成功すると、大喜びだった。 その喜びが、次のステップに移る原動力となる。 そうしてクドは次々と和訳していくことが出来た。 小毬と一緒に作った単語帳のお蔭もあるし、何よりここで三人で勉強をしていることもあった。 来ヶ谷の説明は本当に分かりやすい。英語圏での生活経験があるのではないかと、そう考えてしまえるぐらいだった。 「では、ここは理樹君」 「うん。……えっと、私たちは……」 理樹も、文章を和訳していく。 「この場合のこの構文は、直訳では少し文面が硬くなる。だからこう和訳する方が自然だ。ページの下の例文を参考に」 「うん」 理樹は、例に倣って和訳をする。 その横から、熱い視線を感じる。 振り向くと、クドがじっと見つめていた。 「……クド、どうしたの?」 「い、いえ、な、なんでもないですよ?」 と、慌てて手をパタパタと振り、なんでもないことをアピールする。 「……ふっ」 来ヶ谷は、不敵な笑みを盛らし、思う。 一つ思い当たったことがあったが、それは秘密にして置いてやろう、と。 とそこで、恭介がなぜ突然勉強会などというものを開いたのか、その真相を早くも読み取っていた。 なるほど、これは面白いことになりそうだと、心の中だけでほくそ笑む。 そんなウキウキした内面を全く出さず、来ヶ谷は続ける。 「理樹君、続きを」 「あ、うん、ごめんね」 「いや、なに」 理樹は和訳を完成させ、それを音読する。 「うん、正解だ。次の文章を、クドリャフカ君」 「はいなのです!」 自信満々に、クドは拳を振り上げて答えた。 その割には、当たらずも遠からずの回答ではあるのだが。 でも、ずっと前の授業中の支離滅裂な文章よりは遥かに進歩している。 それは来ヶ谷の教え方がいいのか、それともクド自身の努力によるものなのか。 どちらにせよ、風はいい方向に流れていると、理樹はそう思ったのだった。 謙吾の部屋。 「……」 「……やはは……」 「……」 「……どうしたの?」 謙吾、葉留佳、美魚が押し黙る中、佳奈多は憮然としながら皆に聞く。 「いや、正直驚いている」 佳奈多は、謙吾の送る視線に気づいた。 「しょうがないでしょ。私は私服はほとんどないから。葉留佳のを借りたのよ」 それも解る。 これは葉留佳しか持ってなさそうな服だから。 しかし、いくつかある物の中からこれを選ぶのか、と謙吾と葉留佳はツッコミを入れたくてしょうがなかった。 入れたら痛いしっぺ返しが来そうだったから何も言えないが。 彼女の姿は、まるでロックバンドのヴォーカリストのような、そんな姿だった。 赤く裾の短いシャツにはドイツ軍のようなマークでヘソ出しルック、黒い短パンに黒いベルトとアクセサリー。 それでいつものように長い髪を大きな玉の付いている髪留めで申し訳程度に縛っている。 風紀委員長二木佳奈多とは到底思えない姿だった。 「……ありです」 ぼそっと、美魚が呟く。 「こほんっ、さて、始めましょうか」 取り繕い、美魚は開始を宣言した。 「そうね。西園さんの言うとおりよ、ほら葉留佳、教科書を出しなさい」 「う、うん」 「それはいいのだが、……何から始めようか」 教科書を出せとは言ったが、教科を指定していなかったのは迂闊だった。 自分らしくなく、少し興奮していることを佳奈多は悟る。 「こ、これよ」 言いながら、物理の本を取り出した。 どんっと重量級の音がテーブルに響いた。 「それ、教科書ではありません」 冷静な美魚のツッコミ。 というか、この状況を楽しんでいる目だった。 「っ!」 赤面しそうな自分を押さえながら、佳奈多は今度こそ物理の教科書を取り出したのだった。 「おねーちゃんどうしたのカナ?」 と、ニヤリと笑い、いたずらっ子の視線を佳奈多に向ける。 「葉留佳、明日校舎裏のゴミ拾いを追加」 「うわひどっ何でぇーー!? と言うか、それは職権乱用だぁーー!!」 「って言われたくなかったら、つまらない考えは起こさないの」 と、妹を諭す。 「……はーい」 でもなんで私の考えが分かるのかな? と葉留佳は考える。 「双子だから当然でしょ。あなたの考えることなんてお見通しよ」 「げげっ、心読んでるぅーーー!? こうなったらお姉ちゃんの心を読んでやるっ!!」 葉留佳は、騒がしかった。 「そんな事出来るわけ無いでしょ」 「では、ここから始めよう」 謙吾は、葉留佳の絶叫を無視し、教科書を開いた。 「念のため聞くけど葉留佳、運動量保存の法則とか、位置エネルギーとか、ちゃんと把握してるわよね?」 「……やはは……」 「覚えていないようです」 「……ふん。じゃあそこから始めるわ。宮沢君、いいかしら?」 「ああ、復習になるから丁度いいな」 と、謙吾は了承した。 相変わらずのジャンパーを袴に羽織ったシュールな姿は、もうツッコミの対象にはならない。 そのまま三十分ほど、佳奈多は葉留佳ほか三人の勉強を見る。 「でもどうして勉強会に参加をしたのですか?」 美魚は、佳奈多にそう聞いた。 相手が謙吾だったら無下に扱ってやるところだが、相手は文学少女。 およそこの馬鹿騒ぎ軍団に身を置いていることが不思議な存在だった。 そっくりその質問を自分にもぶつけてみたいのだけど、とは思いつつも佳奈多は素直に答えた。 「かわいい妹のためよ」 そうきっぱりと言い放つ。 言い放ってから、赤面してしまう。 「……ふふっ」 美魚は微笑み、勉強を再開した。 皆、しばらく無言でノートに鉛筆を走らせたあと。 「心なんて読めるかぁー!!」 「葉留佳、あなたまださっきのこと引っ張ってるの!?」 と、今度は姉妹で大声を張り上げていた……。 鈴の部屋。 ここでは、鈴と小毬、真人が勉強をしていた。 「なんで俺らだけ女子寮なんだ?」 「仕方ないだろ。他に部屋がない」 「恭介の部屋とかあるだろ」 「きょーすけにもルームメイトがいる。その人に迷惑はかけられない」 もっともな意見だった。 というか、就職活動を宣言した恭介が、果たして寮の部屋にいるのかは解らない。 今頃進路相談室やらでいろいろな会社の求人を見て回っているかも知れない。 それに、恭介のルームメイトも三年生。 進学のための勉強を一生懸命しているところを邪魔するのはだめだよ、と鈴が言った。 因みに、鈴がそんな女の子らしいセリフで話すわけが無い。 勿論、理樹に携帯で相談したときの回答を、そのまま口にしただけのことだ。 「ま、しゃーないな」 真人は諦めて、床に座った。 「真人君、こっちだよ〜」 小毬は真人を勉強机へ招待する。 三人並んでも十分の広さを誇るが、この部屋は鈴一人で使っている。 もともと作りが三人部屋用の少し広めの設計だったものを、二人部屋として机やベッドを二つ用意し、それをさらに一人で独占しているのだ。 広いはずだった。 相談の結果、小毬の不得意とする国語関係から始めることにした。 「じゃ、真人君、ノートひらいてー」 「おう」 そこには、薄い水色の線があるだけで、他には何もない。 つまりは、最初から印刷されている線以外の文字は一切ない。 「……真人君、まさか、ノート取ってない……の?」 小毬がそう聞くと、真人は両手を上げ、ニヒルに微笑んだ。 「まあな」 どぐしゃっ!! 「づぁっ!」 という効果音と共に、真人の顔がノートにめり込んだ。 「威張って言うことか!」 真人の一言に、渾身のハイキックツッコミがドタマにめり込んだことは、もはや説明するまでもない。 「うおおおおおおーっ! 痛ってええええええっ!! 鈴! なにしやがるっ!!」 「ツッコミだ!」 真人の文句に、鈴が突っかかる。 「ツッコミにハイキックはなしだって恭介にも言われてるだろ!」 「お前は小毬ちゃんに迷惑をかけたからとーぜんの報いだ! それにきょーすけからはお前にはダメだとは言われてないっ!」 と、目茶苦茶な事をのたまう。 「ほわああああっ、喧嘩はダメだよぉー!!」 小毬が止めようとするが、すでに頭に血が上ってしまった二人はどうしようもない。 力の差がありすぎる。 これがルールに則ったバトルならば小毬にも勝機はあるが、これは巻き込まれたらひとたまりもないだろう。 それでも、果敢に挑むのが小毬の性格。 一歩踏み出し、小毬は声を上げようとした。 ばんっ!! と、勢いよく開かれる扉。 今まさに飛びかかろうとしていた二人の前に、赤い腕章。 猛禽のような鋭い視線が、二人を瞬時に凍りつかせた。 「……あなた達、喧嘩じゃなくて、勉強するのが今のミッションでしょ? 井ノ原真人、あなたは本来なら女子寮に入ったということだけでも厳罰に処されるのを、私があーちゃん先ぱ……寮長に勉強会をするから大目に見てくれと説得したからこそ、ここにいられるのよ? それが解っていないみたいね」 「……すみませんでした」 小さな声で謝る真人。 「私はこれから葉留佳たちのところへ行くけど、今度騒ぎを起こしたらただでは置かないからそのつもりで。……ストレルカ、ここで見張りを」 オンッ! 「げ」 「ストレルカ!」 真人はあからさまに嫌な顔をするのに対し、鈴は嬉々とした表情を見せた。 「くれぐれも、静かになさい」 見た目は、シベリアンハスキーっぽい雑種。 しっぽがパタパタと揺れる。 ただの大型犬と侮ると、痛い目に遭う。 良く訓練された彼女は、これまで風紀委員を支えてきた強力な助っ人である。 鍛えられた真人ですら、このストレルカには敵わないだろう。 今は訳あって力の大半を失っているが、それでもだ。 彼女は賢く、獲物を捕らえる名ハンターなのだから。 「でもいいのか?」 鈴の表情はすぐに心配そうなものに変わった。 「ええ、この時間ならあの子たちは用務員の方が見てくれるわ。じゃ、ね」 「そうか」 鈴はそれで安心したようだ。 ぱたんっと扉が閉められ、佳奈多は行ってしまった。 「……厄介なものを置いていきやがって……」 「そうか? あたしはたのしいぞ」 オンッ! 後ろで鈴に答えるストレルカ。 鈴は、同じ部屋に居るだけでも楽しいらしい。 「じゃ、じゃあ、勉強を始めましょー」 人差し指を立てながら、小毬は宣言した。 「つまり、真人君のお目付けに、ストレルカちゃんを置いてきたのね?」 「ええ。あの子の優秀さはあなたも知っての通りよ」 「つまり、今ここで私が騒いでも取り押さえる犬ころはぶっ!?」 葉留佳の言葉は、途中で取り押さえられたことで終結した。 「大丈夫、そんな心配はないわ。ヴェルカが居るし、私も居るわ」 ヴァウ。 「って、そんなぁーっ!」 「そんなことだから、あなたは駄目なのよ。……ホント駄目ね」 と、佳奈多はため息をつく。 昔なら、このセリフを言うときは、明らかな蔑みの感情をはらんだ冷たい視線だった。 でも、今のこの視線の中には、しょうがないか、と姉が妹を思うものだった。 「駄目な妹だから、私がしっかりと教えてあげなくちゃいけないんじゃないの。……ほら、ここはこうするの」 「……お姉ちゃん……。うんっ」 なんだかんだ言って、佳奈多は葉留佳の勉強を見ている。 「……三枝×二木……。これもありです」 ぼそっと呟く。 誰にも聞こえないぐらいの、本当に小さな声だったはずだった。 「そこ、不穏な気配を出さないこと」 「……こ、これは失礼しました」 冷静に謝罪の言葉を述べるが、内心はドキドキだった。 まさか自分の考えを、気配で読めるとは。 「恐るべしは、風紀委員長二木佳奈多さん、です」 「……」 佳奈多の左目だけが美魚を睨む。 「……ひっ」 非常に怖かった。 そして佳奈多は再び葉留佳に視線を戻す。 「…………」 その間中、謙吾は無言で教科書とノートを見比べていたのだった。 「お、終わりました……!?」 「うむ。まあ予想を凌ぐいい出来だったな」 最後は、理樹とクドでミニテストをしてみた。 結果は二人ともまずまずだった。 「わふーっ! やっぱり来ヶ谷さんの教え方がいいからだと思いますっ!」 右手を振り上げ、元気一杯に吠えるクド。 とっても嬉しかったらしい。 「それに、理樹君の隣だからはかどったのだろう?」 クドの耳元で、来ヶ谷がささやいた。 当然理樹には聞こえない。 「わふっ!? そ、そそそそそそっ、それはえっとその、そんなこともあったりなかったりなんかその……」 と慌てふためきながら、見る見る顔を真っ赤にしていくクド。 「く、来ヶ谷さ」 「俺のクドに何を吹き込みやがるファッキン叩きつぶすぞメーン、と考えているな?」 「いやもう訳解らないから……。僕のでもないし」 とりあえず、最初の一言にだけツッコんでおいた。 来ヶ谷の発言は、たまに目茶苦茶だ。 「いや、なんでもないさ。な、クドリャフカ君」 「そ、そうですよ、な、なんでもないです、はいっ。……あはは……は」 と苦笑するクドだった。 「さて、ここらで一息入れよう」 言って、来ヶ谷が立ち上がる。 「理樹君はカフェオレだったか?」 「うん、って買ってきてくれるの?」 「うむ。堪能させてもらったからな」 何を、とツッコミを入れたくなる。 というか、来ヶ谷さんは何をやってもツッコミどころが満載で、思わず入れてしまいたくなる。 理樹はそんな衝動を押さえる。 おそらく、来ヶ谷の策略でツッコミを入れさせ、入れたら最後深みに嵌められる。 そう邪推してしまったからだ。 いや、邪推ではなく、今までがそうだったから。 「クドリャフカ君は、緑茶で良かったかな?」 「あ、はい。ぷりーずですっ」 「ん」 短く返答した来ヶ谷は扉を開けて出て行った。 理樹とクドは二人同時に伸びをした。 「うんっ……! はぁ」 「んんっ……! はぁ」 最後の息を吐くタイミングまで同じだったので、二人とも思わず吹き出した。 「……ぷっ」 「あははっ。……なんだかおかしいですね」 ひとしきり笑った後。 クドは、少し恥ずかしそうにもぞもぞとする。 「クド、どうしたの?」 「い、いえ、なんでもないです、はい」 とは言うものの、どこか落ち着きがなかった。 何となく、なんだかよく解らない空気に、理樹は何も声をかけられなくなる。 しばらく無言が続き、その空気に耐えかねた理樹は、席を立つ。 「あ、リキ、……どうしましたか?」 「あ、ちょっとね」 理樹も、扉を開けて出て行った。 「わふー……」 浮かした腰を再び沈め、クドは一人、部屋で待つ。 そう言えば、理樹の部屋に入るのは初めてだ、と思い当たる。 クッションから腰を上げ、ちらりと机を見る。 片方はいろんな筋トレグッズでぐちゃぐちゃ。 もう片方は、綺麗に整頓されている。 どちらがどちらかは、一目瞭然。 どちらの机にも飾られている、一枚の写真。 みんなが写っている写真だった。 五月の終わり、リトルバスターズの草野球での初勝利を祝って撮った写真だった。 あの時は、無理に笹瀬川さんに頼んで撮ってもらった。 また皆で写真を撮りたいな、と思う。 ふと思い立ち、クドは携帯を取り出した。 シンプルのストレートタイプのこの機種は、写真を撮る機能はない。 いまさらながら、写真機能が付いているものを買えばよかったかなと思ったが、すぐにそれを否定した。 まずは、これに愛着があるから。 でも一番の理由は、この機種は理樹が勧めてくれたものだから。 出逢ったときから、多分あの時から心に秘めている想い。 今はまだ叶わなくとも、いつか……。 扉が軽くノックされ、来ヶ谷が入ってきた。 「うん? 理樹君はどこに行ったのだ?」 「いえ、解りません、御手洗ではないでしょうか?」 クドは、写真を机に戻す。 「……ふむ。あの時の写真か、まだ五月末に撮ったばかりだというのに、もう何年も昔のように思える」 と、来ヶ谷は微笑んだ。 ごくごく自然な笑みを、クドは見上げていた。 「来ヶ谷さんも、そうやって笑えるんですね?」 と、純粋無垢な微笑みを来ヶ谷に向けた。 「クドリャフカ君、……君は猛烈に失礼なことを言っているぞ」 少しムッとして、来ヶ谷は気配を殺しつつ、その背後へと。 「わ、わふーっ!? ごめんなさいなのですーっ!?」 瞬時に羽交い締めにされ、狭い部屋でぐるんぐるんと回される。 「わふーぅ!?」 そこに、理樹がトイレから戻ってくる。 「ただいま……って、来ヶ谷さん、クドが目を回してるからその辺で」 「俺のクドになんて事しやがるこのスットコドッコイぶっ殺したかったあの夏の夜イントーキョー、という顔をしているな」 「いやいやいや……、というか僕のでもないってさっきも言ったし」 ツッコミどころが満載すぎだった。 スットコドッコイとか意味解らないし、ぶっ殺したかったって過去形だし今は秋だしまだ夕方だしここは東京でもないし。 このどれか一つでも発言してしまうと、来ヶ谷の思うつぼのような気がして、必至にこらえる理樹。 天性のツッコミ担当が耐えるのは、本当に至難のことだった。 「はっはっはっ!」 「わふーうーうーっ!?」 そして、クドは相変わらずぐるんぐるんと回されていた……。 18:30。 本日のミッション終了。 ということで、一同は食堂に集まっていた。 夕食を皆で取りながら、今後を決めるためだった。 「さて諸君。今日の勉強会はいかがだったかな?」 「だいぶ進んだ。良かったと思う。うん、良かった」 「鈴ちゃんは頑張ったよねー」 鈴が最初に答え、小毬が続く。 「俺もまあ、そうだな」 と、真人は自信満々に答えた。 「うそつけ。ストレルカがいなかったらお前逃げてただろ」 オンッ! 「う……くそう、オレが犬如きに負けたなんて、そんなの認められるかー!!」 「うっさい!! 皆に迷惑だろ!!」 どがっ!! 鈴のハイキックがドタマにめり込み、真人は床に沈黙した。 「やはは……」 苦笑する葉留佳。 「葉留佳もまあまあだったわ。あんなことばかりしているからどうかと思っていたけれど、落第にはなりそうもないから一安心よ。……まあ、姉としてはもっと頑張ってもらわないとね」 と、憮然とした表情で佳奈多が答える。 「宮沢さんと私は、その、……進展しました」 「……」 「……」 「ん? どうした?」 美魚の発言は、真人以外の一同を完全に沈黙させた。 「西園……、その、誤解を招くような発言は頼むからやめてくれ」 「冗談です。二木さんが三枝さんを見張っていてくれたお蔭で、とても有意義に進ませられました。……勿論勉強です」 「あ、ああ、そうだな」 謙吾も、今度の発言に肩をなで下ろす。 というか、西園は絶対に解っていての発言だ。 ときどき、この西園美魚という女子は、不穏な発言をして周囲をかき回し、それを楽しんでいる節がある。 それは謙吾も感じていることであるし、皆も知っている。 「で、理樹。お前たちは?」 「それなりに勉強ははかどったな」 来ヶ谷が恭介の問いに答えていた。 「まあ、なかなか進展しないところもあるがな」 と、小さな声で恭介に伝える。 「ほう?」 「それはそれで面白いのではあるが……、ま、そういうことだ」 言って、来ヶ谷は話を完結させた。 理樹が聞く余裕すら与えない。 「わふー……、まだ目が回ってますー……?」 クドは一人、ふらふらとしながら、頭にクエスチョンマークを浮かべるのだった……。 専用掲示板にじゃんぷですー |