鍵原ツバメは、まず自分の耳を疑った。
 次に携帯が壊れてるんじゃないだろうかと思い、軽く振ってみる。
 しかし部品が外れているような音も全くせず、結局電話の相手、千夜子に訊き返した。

「えっと……嘘、よね?」
「ううん。申し訳ないけど……今日の話、なかったことにしてほしいの」

 それは、放課後の時間まで遡る。
 帰りかけていたツバメを呼び止めた千夜子は、人気のないところで話がしたいと言い出した。
 その表情があまりにも真剣だったので素直に従い教室を離れると、千夜子は告白をしようと思ってる、と口にした。
 相手は絹川健一。ツバメにとってはただのクラスメイトで、特別仲の良い友人というわけでもない。
 千夜子に至っては、挨拶以外の言葉を交わしたことがあるかどうかすら怪しかった。まるで接点がないのだ。
 なのに千夜子は健一が好きだと言う。どうして、と訊いてみると、特別な理由はないの、と返された。

「お友達の人と話してる時に、窓の外で飛んでる鳥を眺めてて……何でそっちを見てるんだろうって思って」
「それで目で追ってたら、いつの間にか気になって仕方なくなってた?」
「……うん」

 ツバメにもそういう経験はある。理解もできる。『恋多き女』の称号は伊達ではない。
 控えめな千夜子の性格では、自分で呼び出すのも難しいだろう。
 友人の一大決心、応援してあげたいという気持ちもあって、ツバメは仲介役を買って出た。

「え、でも、ツバメにそんな迷惑は掛けられないよ」
「大丈夫だって、あたしに全部任せなさい。どうせ千夜子じゃ公衆の面前呼び出す勇気もないだろうし」
「うう、それはそうだけど……」
「今日はもう絹川も帰っちゃったみたいだし、明日の放課後、そうね、瓶井戸中央公園を決戦の場所にするわよ」
「……そこで、告白、するんだよね」

 自らの決意を確かめるように胸に手を当てた千夜子は、ツバメの目を正面から見た。

「うん、頑張ってみる」
「そうそう、その調子よ。可愛いんだし、千夜子なら絶対いけるって」

 少し茶化したツバメの言葉に、顔を赤くしながらも、千夜子は頷いた。
 長い付き合いで、それなりに彼女の性格は知っている。やると決めたら千夜子はやれる人間だ。
 そうして密約を交わし、まだ半日も経っていないうちにさっきの発言。当然ながらツバメは納得できない。

「ちょっと待ってよ千夜子、絹川に告白するっての、あれ冗談だったの?」
「本気だったよ。でも……」
「でも?」
「私、外で偶然見たの。絹川君が、その、背の高い女の人に連れられて、マンションの中に入っていくのを」
「……それ、本当?」
「ツバメは信じられない?」
「だって、絹川でしょ? 特に浮いた話も聞いたことはないし、その女の人ってお姉さんとかじゃない?  ほら、そこが絹川の家でさ、仲のいい姉弟が一緒に帰ってきただけ、みたいな」
「そんな雰囲気じゃなかったよ。女の人は絹川君に似てなかったし」

 だんだん千夜子の声のトーンが下がってきている。
 一拍の間を置いて、

「もしかして絹川くん、あの人と付き合ってるのかな……」

 ツバメも考えていたことだったが、あながち有り得ないというわけでもなさそうだ。
 しかし、それはあくまで最悪の想像。まだ絶対にそうと決まってはいない。

「……考え過ぎだって。偶然道端に倒れてた人を助けただけかもしれないでしょ。諦めるにはまだ早いわよ」
「だけど、もし本当に絹川君とあの人が付き合ってたら、私の入り込む余地はないよね」
「う……まあ」
「だからツバメ、ごめん。今は、告白しようって気にはなれないの」
「ってことは、まだ一応告白する気はあるのね」
「うん」
「じゃあしばらく様子を見る? あたしから絹川に話しかけるから、千夜子も一緒に話の輪に入ってさ。 それでさり気なく色々探ってみればいいと思う。お友達から始めましょう、ってのも悪くないんじゃない?」
「……気、遣わせちゃってるよね」
「折角千夜子が恋してるんだから、応援してあげなきゃって思ったの。何、この恋愛の達人に任せなさい!」

 大船に乗ったつもりでいなさい、と薄い胸を叩き、ツバメは得意顔でそう言い放つ。
 恋愛の達人っていうのはどうだろうと千夜子は思ったが勿論口には出さなかった。
 その後、明日から早速接触することに決まり、そこはかとない不安を感じながらツバメとの会話は終わった。
 力ない動作で受話器を置き、千夜子は大丈夫かなと呟く。
 こういう時、積極的な性格のツバメは頼もしくもあるけれど、勢いづき過ぎて暴走する危険性も十二分にあるのだ。

「お友達……」

 ふと、健一の顔を思い浮かべた。
 そうすると何故か胸がドキドキして、自分が告白することを想像すると、ちょっともうくらっと倒れそうになってしまう。
 週一ペースで恋をする、ツバメの姿はそれこそ飽きるほど見てきた。でも彼女の気持ちだけはどうしてもわからなくて、 自分は本当に誰かを好きになることなんてあるのかと悩んだりもした。
 ――そんな私が、絹川君に恋をしてる。
 少しでも近づきたい。声を聞いて、話をして、彼のことをもっと知りたい。
 今は、彼女になれないのだとしても……お友達になれたら、それだけでどんなに嬉しいだろうか。

「……うん。ちょっとずつ、頑張ろう」

 現状、全てが勘違いであるという事実を、千夜子はまだ知らない。






 1304号室に、押し殺した泣き声が響いていた。
 キングサイズのベッド、その上で横になっている健一と綾は、一糸たりとも纏っていない。
 泣いているのは健一の方で、綾は健一の頭を撫でている。
 ベッドにはところどころに濡れた跡があり、白く濁った、粘ついた液体が飛び散っていた。

「……うぅ」
「確かに襲ったのは私だけど、そんなに泣かなくても。それに途中からは健ちゃんの方が張り切ってたんだし、 私だって初めてだったんだから、私ばっかり悪いってわけじゃないと思うんだよ」
「わかってます。別に僕は綾さんが悪いなんて言うつもりはありません」

 発端は、綾がお風呂に入ろうと言ったことだった。
 十三階と拾った鍵に関する説明を受け、僅かな罪悪感と、怒らせてはまずいという自己保身から蛍子に連絡を入れた後 (どんなに遅くなっても絶対帰ってきて唐揚げを作れと半ば命令に近い口調で言われた)、三日も入ってないから、 という理由で綾はそう宣言したらしいのだが、何故自分も一緒に入らなければならないんだろうか。
 無論、健一とて人並みの、正常な男子だ。姉と母を除けば、までの人生で一度も女性の裸を目にしたことはないし、 もしそんな状況に立ち会ったのなら、己の中の獣を抑え切れる自信は正直ない。
 それに、健一はあまり相手の美醜を気にする性格はしていないのだが、綾は控えめに見ても美人だった。
 理解し難い言動や行動をするのはともかく、人前でズボンもスカートも穿かず白衣とパンツだけの姿でいて平気なところもともかく、 色艶の戻った顔やすらりとした背、見慣れたホタルのとは違う、ふくよかで柔らかそうな、大きな胸。
 特殊な性癖を持っていない限り、否応なしに男の劣情をそそりそうな外見を綾はしているのだ。
 しかも困ったことに、その自覚がまるでない。少しでも羞恥の気持ちがあるなら、まだ出会ってほとんど時間も経っていない、 知らない部分の方が多い男を相手に、一緒にお風呂入ろうなんて提案しないだろう。
 健一はどうにか回避しようと試みたのだが、綾はやっぱりどこかズレていて、そして妙なところで頑固だった。
 健ちゃんが一緒に入ってくれないならもう一生お風呂入らない、と小学生のような反抗をされ、 これはどうにもならないと諦めた健一は仕方なく、本当に仕方なく承諾した。
 当然、風呂に入るというのは服を脱ぐことであり、脱衣所で何の躊躇もなく綾は白衣とパンツ、 それに健一が頼み込んで穿いてもらったズボンも脱ぎ捨てた。わかっていたけどノーブラだった。 タオルで身体を隠すことすらしない。
 この時点で既に予感めいたものはしていたが、状況に流されるまま健一は綾に続く。 下半身はちょっと目を逸らしたくなるような具合で、 早くも健一の理性は危険水域だったりしたのだが勿論綾にそんなことはわからない。

 事に至るまで、綾は自分のペースでしか話を進めなかった。
 その結果が、二人揃って、全裸でベッドにいるという現状だ。風呂場での会話を思い出せば一応綾が健一を襲ったことになるが、 実際は明らかに健一の方が張り切っていた。初体験で五回は言うまでもなくやり過ぎである。
 両者共に体力が続かず夜も更けてきた頃にダウンしてから、健一はようやく理性を取り戻した。
 酔っ払っていたわけでもないので、自分が何をしていたかくらいはわかる。というか、飛散した液体、 綾の身体に浮かぶ珠の汗、乱れたベッド、身体の芯に残った気だるさと、否定しようのない証拠が目白押し。
 全てを自覚した瞬間、健一の脳裏に過ぎったのは、ただ情けないという気持ちだった。

「本当は自制しなくちゃいけなかったのに、その場の雰囲気に流されてしまった自分が情けないんです」
「それで泣いてるわけ?」
「だって……こういうのって、軽い気持ちでしちゃいけないですよ」
「え? 軽い気持ちだったの?」
「我慢できなくなったからだなんて、まるで盛りのついた獣じゃないですか」
「そうかなあ。じゃあ健ちゃん、どういう気持ちでならエッチしてもいいのかな」
「それは、その……僕もよくわからないですけど、でも、こんな風にしてしまうのは、きっと駄目なんです」
「そっか。ねえ、健ちゃんって好きな人、いるの?」
「……いませんけど」
「じゃあさ、私が健ちゃんの彼女になってもいいかな」
「……は? 綾さん、今何て言いました?」
「だから、私が健ちゃんの彼女になってもいいかな」

 健一は思わず間抜けな顔で訊き返してしまった。
 一言一句違わぬ綾の言葉に、健一の頭は酷く混乱する。
 何故この状況で、このタイミングでそんなことを言うのか。というか、

「えっと……僕、今告白されました?」
「そうだよ」
「今更なんですけど……」
「うん」
「普通、逆ですよね? 告白して、付き合って、それからエッチってするものですよね」
「そうなの? 男の人と付き合ったことないからよくわからないなあ。で、どうなのかな。さっきの返事」

 催促され、冗談ではないらしいと知り考える。
 しかし綾とは知り合ったばかりだ。なのに彼氏とか彼女とか、そういうのは早過ぎるんじゃないかと思う。

「……すみません。僕はまだ綾さんのことをほとんど何もわかってませんし、 なのに付き合ってって言われてもピンと来ないっていうか」
「じゃあ駄目ってこと? 私のことは嫌い?」
「いえ、そういうことじゃなくてですね……。例えばですよ、綾さんが道端で知らない男の人に出会って、 いきなり付き合ってくださいって言われたらどうします?」
「相手が健ちゃんだったら頷くかな。あ、でも私、外に出るとすぐふらふらしちゃうからあんまり表は歩かないよ?」
「そういうことでもなくて……とにかく、知り合って一日も経ってないのに答えられないです」
「そっかあ。ちゃんと彼女になれば健ちゃんも私とエッチしてくれると思ったんだけど、まあいいや」
「………………」
「でも健ちゃん、また今度エッチしよう?」
「しません!」
「えー」

 不貞腐れたような口調で不満を漏らす綾。
 そんな彼女を見て、健一はいつの間にか先ほどまでの情けない気持ちが薄れていることに気づいた。
 何だかんだで綾も色々気遣ってくれていたのかもしれない。もっとも、あれが素だった可能性も否定はできないが。
 もし、綾が辛そうな、苦しそうな顔を見せていたのなら、健一は激しい罪悪感を抱いていただろう。
 なのに、加害者だがある意味では被害者でもある綾は、エッチしたことに対して全く後悔や苦悩をしていない。
 落ち込んでいたのは健一だけだ。まるで一人相撲をしているかのようだった。

「あ、そうだ」
「わあっ!」
「どうしたの、いきなり叫んで」

 唐突に綾が立ち上がったので、思わず健一は視線を横に逸らした。
 事後、とりあえずティッシュで肌に跳ねた白濁は拭ったものの、流した汗で心なしか艶かしく見える綾は当然ながら全裸。 脱ぎ捨てた服はベッドの傍らにぞんざいに放ってある。
 改めて目にした綾の艶姿はやっぱり健康な男子には毒だ。最中の情景をつい思い出してしまい、余計に恥ずかしくなる。

「綾さん、服を着てください!」
「む、さっきまでは触ってたのに、もう見るのも嫌なわけ?」
「冷静になったら恥ずかしいんですよ。察してください……」
「そうかなあ。別に私は健ちゃんに見られても恥ずかしくないけど」

 言いながらも、綾はベッドの掛け布団を手に取り、胴に巻いて裸体を隠した。
 そうしてまたベッドに戻り、四つん這いの姿勢でじりじりと健一に近づく。胸元がしっかり見えて困る。

「健ちゃんって可愛いよね」
「……男に言うことですか、それ」
「だって健ちゃん、私より年下でしょ? 別におかしくないはずだけど」

 健一が無意識のうちに枕を引き寄せ抱きしめると、綾は健一の頬を指でこつんと突いた。
 それから再び立ち上がり、下に落ちた服を取って脱衣所に向かう。
 と、ドアの前で綾が振り返った。

「あれ、健ちゃんも着替えるんじゃないの?」
「そりゃあ、着替えようと思ってますけど……」
「何で一緒に来ないのかな」
「……僕はこっちで着替えときますから」
「……健ちゃんって本当に可愛いね」

 今度は否定するより前に、綾は脱衣所へと消える。
 溜め息を一つ吐き、健一はようやく脱いだ服を拾うことができた。
 その中からトランクスを選び、足を通そうとしたところで、ふと脱衣所の方に視線をやる。
 急いで腰まで上げてから、つかつかと健一はドアの前に立った。

「綾さん」
「あ、バレちゃった?」
「何覗いてるんですか……」
「健ちゃんはじろじろ見られるのが嫌そうだったから、こっそり見ればいいかなって」
「良くないです。閉めますよ」
「エッチしてた時より小さくなってたね」
「そういうことを言わないでください!」

 おちおち安心して着替えもできないらしかった。



 backindexnext



何かあったらどーぞ。