「お疲れ〜っす!」
まだまだ雨は多く、ビルの合間にわずかに見える空にも低く懸かる雨雲。
6月の都会の午後5時半。ナチュラル気味な茶髪の青年は、入社以来ほんとに久しぶりに、定時に会社を後にした。
「おう、お疲れ!」
「お疲れさまっした〜!」
青年は、声を掛ける先輩社員の横を滑り抜けつつ挨拶を返す。
巨大なビルの合間から地下鉄までのそれなりな距離を、縫うように駆け抜け駅を目指す。
「珍しいな。あいつが定時に上がるのなんて久々に見たぜ?」
「いいんじゃないの?元々ルートなのに別んとこもやらされてんだからタマにゃストレスぐらい抜かせてやれよ。」
「オンナか?」
「かもな。一応居るんだろ?彼女。」
「見たことはないけどな?」
先輩達は、そうして顔を見合わせると、コトの顛末を次の飲み会で白状させることを約しつつ、それぞれの持ち場へ戻っていった。
今ひとつ冷房の効かない地下鉄の湿気と熱気は、青年の癖のある髪を容赦なく痛めつけ、体中の水分をようやく馴染んできたスーツに与える。
はっきり言って鬱陶しい。もう5年目の慣れてきた都会も梅雨空の下では話が別だ。
それでも今日は行かなくちゃ。
囲まれる湿気と汗と整髪料、シャンプー香水エトセトラをものともせず、青年−北川潤は目的の場所の至近の駅名を睨め付ける。
Pied Piper
地上は大雨だった。たたきつけるような大雨は、家路を急ぐおばさんも営業途中のサラリーマンも学校の終わった女子中学生も等しくその足を釘付けにする。
ご丁寧に響く遠雷は、駆け出すココロを怯ませてくれる。
「・・・まいったなあ。」
北川はひとりごちる。先輩の予想は外れておらず、今日は自宅から3つ遠い駅の近くに暮らす、一つ年上の彼女の24回目の誕生日。
一年遅れて就職した自分の給料で贈る、最初のバースデープレゼントを買いに行く途中での思わぬ足止めに、正直憂鬱な北川だった。
「コッチから先にすっか。」
北川はやむ気配のない雨に見切りをつけて、駅ビルの端っこの通用口から隣のタワーCDショップへと向かう。
高校時代を過ごした北の街。これまで生きてきた人生の中で、数少ない親友と言える存在の青年と盛り上がったバンドの新譜の発売日が今日だったのだ。
「えーと、T・・・T・・・。と、」
北川は、CDのラックを指でなぞる。マイナー故に平積みされない、目的のイニシャルをインデックスの中に探しながら。
・・・・どん。
「きゃっ。」
「あ、ごめん!」
集中していた北川は、同じラックの横で捜し物をしていた女性にぶつかった。
女性は、弾みで持っていたトートを取り落としてしまう。
北川は謝罪するとトートを拾い、女性に渡す。
女性はすまなそうにそれを受け取ると、丁寧にお辞儀をする。
「こちらこそ、すみません。さがしもの、しちゃってて、」
落ち着いた淡いパステルのスーツにブラウス、セミロングの髪を後ろでまとめ、ふちのない眼鏡の美しく、愛らしい瞳の女性。
「・・・・・・・!!」
女性はお礼を述べると、不思議そうに自分を見ている北川の顔をまじまじと見つめる。
・・・忘れられるはずもない。覚えている。はっきりと覚えているのだ。
「・・・み・・・・さか?」
思わず、声に出てしまう。それは、記憶ではなく、存在の確認。
「き・・・・たがわくん?」
あのころと変わらない、驚く仕草。
梅雨空の下のCDショップは、予期しない再会の場所になった。
「・・・でも、びっくりしたわよ。コッチで就職したとは聞いてたけど、まさかこんなトコで遇うなんて。」
美坂、美坂香里と北川は同じCDショップの屋上のカフェレストで向かい合って座っている。
香里はミルクティ、北川はエスプレッソを注文し、偶然を肴に会話を楽しんでいた。
「ほんと、そうだよな。」
北川は、香里の立ち居振る舞いや雰囲気に落ち着きを感じつつも、相変わらず変わらない口調と豊かなその表情に、懐かしい昔を重ねながら答える。
左手の指に光る指輪と、耳を飾る控えめなイヤリング。それにナチュラルなリップとマニキュアが自分の知らない香里の時間。
「相沢のヤツ、どうしてる?」
今度は北川が尋ねた。目の前にいる女性と進路を同じくし、そしておそらくは生涯を共にするであろう北の街の親友。
一月前連絡が付いた時には、ヤツも新人研修の真っ最中でろくな話も出来なかった。
「・・・相っ変わらずだわ。あのバカ。」
口調こそココにいない親友にイヤミたっぷりだが、その声色に素直じゃない彼女のノロケを感じさせる。
一瞬ヨコシマな期待を抱きながら、それでも一応確かめておきたいまだまだ若い北川だった。
「・・・うまく、行ってるのか?・・・その・・・相沢とは?」
「行かせてるわよ。・・・全く。」
困ったようにため息をつきながらも、手のかかる愛し子を見守る母親のような、嬉しそうな表情の香里。
なんとなく安心したようなガッカリしたような、複雑な思いで香里を見つめる北川。
「・・・コッチに告白させたんだから、プロポーズくらいはアッチにしてもらわなきゃ。」
視線を窓の外の雨雲に向けながら、呟く香里。限りなく独り言に近いその声は、それでもはっきりと北川の耳に届く。
「・・・・・・・・・。」
いつもツルんでいたあの頃から、確実に流れていった季節。
見つからない言葉に会話の糸口を探す。
「・・・北川君は、カノジョできたの?」
突然、尋ねられた。
興味津々、好奇心いっぱいの香里の視線。
北川は一瞬考え込んだが、口を開くことなく首を縦に振った。
「そう・・・・。どんな人?」
「大学の先輩だったんだ。おなじサークルのね。」
穏やかに、探るような視線からココロをそらすように。
そのままを、答える。
「おとなしくて、やさしい人だよ?誰かさんと違ってな。」
極力軽く、冗談めかせて。
「あ、ひどーい!」
「まあまあ、美人なのは美坂と一緒だぞ?かわいいんだからな?」
・・・表情を暗くさせるようなことは、やっぱり出来そうにない。
はにかんだように、明るく笑う香里の顔は、空港に見送りに来てくれたあのとき、親友と一緒に見せたあの笑顔と全く同じだった。
「あ、そろそろ行かないと、飛行機に間に合わなくなっちゃう。」
とりとめのない時間は夢のように過ぎた。
香里がトートの中の懐中時計ををちらちら気にしだしたのが2杯目のエスプレッソをオーダーした頃。
香里は申し訳なさそうな表情で北川に言うと、伝票を持って席を立とうとする。
北川は黙ってそれを制し、そのまま香里をエスコートするようにレジを済ませる。
「相沢によろしく言っといてくれよな。」
・・・お礼を言う香里に笑顔で答えながら、北川が言う。
空の色の明るさはネオンのもの。
香里があの街にたどり着くのは日付の変わる直前だろうか。
「うん、祐一、今日迎えに来てるはずだから、そう言っとくわね?」
香里は、トートの中のCDと、航空券を確認すると、一瞬考え込んだように立ち止まった後、北川の方を振り向く。
「あ、それと、あんまり無闇に女の子待たせちゃダメよ?これは、昔からの友達としてのチ・ュ・ウ・コ・ク♪」
えへっ、と眩しそうに微笑みながら、おどけた口調で北川を指さす仕草の香里。
オシアワセニ、の心からの香里の表情が、北川をほんの少し寂しくさせる。
あのときからわかっていたことだった。香里の心の何処にも、自分の場所なんか無かったってコトは。
「それじゃ、またね!」
ばいばい、と手を振りながら、カワラナイ、軽快な、力強い足取りで駅の方へ向かって歩き出す香里。
「あ・・・・それと。美坂・・・・!」
何か考えていた訳じゃない。でも、彼女を呼び止めさせたのは、自分の中のいったい何だったんだろうか。
「・・・何でもない・・・・元気で!」
ムリヤリ呼び起こされた感傷を、演じる自分で強引にねじ伏せて、明るく元気に手を振ってみる。
香里は一度だけこちらを振り向いて大きく手を振ると、空港への電車に乗り遅れないように駆けだしていった。
北川は、香里の後ろ姿が、人混みに見えなくなるまでその場所に佇んでいた。
「・・・さ、友達の忠告には従っておきますかね。」
時計を確認してみる。
約束の時間までに辿り着くのは、確実に無理な15分前。
多分彼女は、困ったように微笑んで許してくれる。
いつだって、そうだった。
でも、4度目のバースデーを共に過ごす夜に、あまり悲しい顔はさせたくない。
それを後回しにしてしまう自分に、悲しい罪悪感を感じながら。
小器用なつもりだった。
とても不器用だった。
俺は、あの頃から成長なんかしてない。
「心のままに」なんか、とても生きられそうにない。
−ケリをつけたつもりかい?なにも変わっちゃいないだろ?
だから、どーなの?どーなるの?
どーにもなりゃしないさ。
何も選べなかった。
答えも求めなかった。
そのツミカサネの上にいるだけさ。
変にワカッタつもりになるぐらいなら。
−それでも今は壊せない。
それでイイや、と北川は思う。
結局ずっとアオいまんまの、こんな自分にいてくれる、
−水のような、空気のような、もう、日常の一部な年上の彼女。
そんな彼女の笑顔のために、小降りになった雨の中に駆け出す梅雨の季節の都会の夜だった。
おしまい。
Rodmateさんから戴きました、Kanonで北川くんのお話。Back
実に深いです。仕事を抱えた北川くん、彼女と付き合いながらも香里さんのことが未だに忘れられない。
香里さんが祐一くんと付き合っている今でも、彼女の中に自分の居場所を探して。
きっと彼は、これから少しずつ育っていくのでしょう。
一歩一歩でいいから、先に進んでいってもらいたいものです。
Rodmateさん、どうもありがとうございましたー。