「あんちゃん、ここでいいのかい?」
タクシーの運転手は青年に向かって快活にそう話しかけた。こんな時間に長く乗車する客は珍しい。料金メーターはとうに4000を越えている。
最近はタクシーも需要が少ない。仕事の停滞ぶりに意気消沈していた所に、この青年が乗り込んできたのだ。
だが、当の男は黙ったまま。せっかくこちらが明るくいい気持ちでいるというのに。なんだかなぁ。
「降りるのかい?」もう一度聞いてみた。今度は彼を振り向いて。・・・青年は首を少し傾け、料金を払って外へと出て行った。










「・・・・・・。」ちょっと蒸し暑い。
天気のいい初秋の午前十時、上条 悠は楓街に足を踏み入れた。









最初に街に来た時の感想は“森の中みたい”だった。いや、どっちかといえば森という表現は正しくない。都会と呼ばれるような
建物も共存しているから。でも、自然が豊かなことに変わりはなかった。


なぜ、自分はここにきたのか。少し心に問いかけてみる。・・・目的があったわけじゃない。今までだってそうだった。自分は自由だ。
束縛するものは何もない。道連れもいない。・・・ただひとつのギターを除いては。






このクラシックギターは僕のかけがえのない親友であり、失いたくない恋人であり、両親であり、生きがいだ。
これがない人生など考えられないし、考えたくもない。今までそうやって生きてきた。そしてこれからも。


いくら何となく生きていたからとはいえ、辛いことも今までいくつかあった。それは通常の人からみたら些細なことなのかもしれないけど。
でも僕にはこれがあったからやってこれた。人間はみんな、支えとなるものを何か持っていると思う。
僕の場合それがこの楽器である、ただそれだけ。




さて街に着いたのはいいが、これからどうしよう。別にやりたいことはないけど、何もしないわけにもいかない。
とりあえず仕事と寝床、これが最優先。今は夏だからなんとか野宿もできなくはないけど、正直つらい。
一年前はなるべく稼いだお金を使いたくはないと、一週間ほど連続でやってみたことはあったけど・・・もうやりたくはない。
仕事の場合はもっと切実で、やはりこれがないと生きてはいけない。早く、見つけなきゃ。






内藤恵美は走っていた。夏も終わったばかりなのでまだ真っ暗ではないけど、そろそろ暗くなり始めている。
今日は学校に長くいてしまった。図書委員会の予算打ち合わせでみんなと議論しあっていたのだ。
「ああもう、なんであんな委員会に入ったんだろ」
急いでいる事情からつい本好きの自分は普段絶対に言わない言葉が出てくる。
「6時30分には面会時間終わるんだっけ」・・・急がないと。


「・・・・っ・・・っ・・」息切れが激しい。そういえば、最近運動らしい運動を体育の時間以外していない。
「もう少しなんかやらないといけないかな・・・」そうつぶやきながら中に入っていく。ここ、皆川病院へ。


「すいません、面会したいんですけど」ナースステーションの顔見知りの看護婦にそう告げる。
「あら、恵美ちゃんじゃない。今日はずいぶん遅かったのね。幹人君待ちくたびれてるわよ」
「すいません、今日委員会があったんです、私だけ抜けるような感じでもなかったので」
いろいろと大変なのね、そう看護婦さんは言って紙に私の名前を書いた。私は大急ぎで幹人の病室へと向かった。


「幹人っ」元気よく入っていく。一応個室なので多少は騒いでも平気だろう。
「おそかったね、もうこんなに暗くなっちゃったよ」外を見るとあっという間に漆黒の闇が近づいて来ていた。
「まあ、今日はこれがあるから勘弁してね、少しは退屈しないですむでしょ」そう言って一冊本を取り出す。
“ケフェウス型変光星の神秘”  私が図書室で見かけたと言ったら借りてきてとせがまれた本だ。
「どもどもー」そう冗談っぽく本を賞状を受け取るみたいに取り、枕元に置いた。
「あんたも本当に好きねー」弟が星が好きなのは入院する前からで、しょっちゅう空を見上げていた。
弟に言わせると、神秘的な光が何かを思わせるとかなんとか。
私も星は好きだけど、そこまではいろいろ考えない。ただ「きれいだ」と思うだけ。
ある意味才能なんだなぁなどと思いながらお茶を淹れて飲んでみる。とても、あたかかった。





一時間ほど話し、そろそろ帰ることにする。
「じゃ、また来るから」おきまりのように言って帰ろうとすると、
「うんっ」・・・元気よく返事した。我が弟ながら中学生にしては幼いと思うが、そんなことを口にすると怒るのでやめておこう。





・・・やはり一筋縄ではいかない。これもいつもどおりだ。
なんとか寝る場所は見つけた。比較的周りに木がある小さいアパートで、窓からたいして大きくはない公園が見える。
大家さんは入居をすんなりと快諾してくれた。自分が言うのもなんだが、よく自分のようなよくわからん男が入るのを許してくれたもんだ。
ここらへんの人は他人を信じやすいのかもしれない。
まあ別にいいだろう、そういう人達に囲まれても悪い気はしない。どうせ関わらないのだから。
仕事は、どうなんだろうか。少し不安がたちこめてくるが、
まあ大丈夫だろう、今までだって何とかなってきたんだからと考えを打ち切り、
ギターを持って公園の方向へと歩いていった。