世界は覚えている。失われたものの全てを。 世界は覚えている。忘れられた存在さえも。 世界は覚えている。消えてしまったというその事実を。 しかし誰も、彼ら以外の誰も、覚えていないのだ。 きっとそれは―― とても、とても、悲しいことだ。 世界は覚えている。けれども、痛みまでは覚えない。悼むこともまた、有り得ない。 前に硝子から虚軸に纏わる話を聞いたことがあった。 修正力、という言葉もその一つ。虚軸は 同じ存在……要するに虚軸と固定剤は修正力に影響されないけれど、そうでない、 虚軸でも固定剤でもない存在はどうしたってそれを避けられない。 消滅した虚軸と固定剤の記憶は、存在してたっていう証拠は、初めから存在しないこととして私達から消えてしまう。 欠落が欠落であることにすら気づかず、悲しみも感じないまま、日常は続いていく。 ……私はそれを聞いた時、なんて歪なんだろうと思った。恐ろしい、とも。 だって、例えば硝子が……想像したくもないけれど、消えてしまったとしても、私はそのことを覚えていないのだ。 どころか、硝子がいたことすら忘れて、硝子がいないことが当たり前な日常に、 本当に、何事もなかったかのように戻るんだろうから。 忘れられるのは、辛い。忘れるのは、怖い。でも、そんな気持ちも感じないのだとすれば―― この世界は、狂ってる。 「速見殊子。それが、あの人の名前です」 泣きながら、ぼろぼろとみっともないくらいに涙を流しながら、硝子は語ってくれた。 人をからかうことが大好きで、軽薄で、調子が良くて、何を考えてるのかさっぱりわからなくて、 こっちを困らせるためなら何でもする、いつも軽薄な笑顔を浮かべてた、私達の先輩。 同性愛者で、何人もの女の子と付き合って、冗談で硝子にちゅー一回なんて要求をするような、私の恋人、だった人。 そして『 「ひめひめは覚えてないでしょう。だけど私は、しっかりと記憶しています。 ひめひめの隣で笑っていた、あの人の表情を。仕草を。声を。何もかもを、鮮明に」 写真はない。アルバムにも、携帯にも、どこにも残ってない。 世界が全部攫っていった。硝子や城島先輩、舞鶴さん、柿原先輩、佐伯先生……彼らの思い出の中にしか、いないんだ。 どんなに愛してたと言われても、愛されてたと言われても、私には顔も思い出せない。 怖かった。心のどこかにある悲しみが忘れてしまったことだけを訴えていて、 けれどそれさえ硝子に教えてもらわなければ知ることのなかったもので。 ……私の悲しみはきっと、硝子のそれには遠く及ばない。 現に、畏れで身体がまだ微かに震えているのに、涙の一粒も溢れてこない。 「人を食ったような先輩でした。自分勝手で、傍若無人で、マスターや私を振り回してばかりで……」 だけど。 普段は人形のような硝子がこんなにも感情を露にして泣いてる姿を見て、私は今この瞬間、確かに悲しみを共有していた。 忘れてる私の分も、可愛いこの子は泣いてくれている。もう二度と泣けない、その先輩の分も。 「……それでも私は、あの人のことが、嫌いではなかったんです」 だから私は、硝子の話を黙ってずっと聞いていた。 せめて、せめて私だけはと。同じように忘れてしまった君子や八重の代わりに。 そして―― 私を愛してくれたという、きっと、本当に大事だった彼女のことを、今度こそ覚えているために。 「ひめひめ。私、こんな感情、初めてです。知らなかった。かけがえのない人を失うのが、これほどまでに苦しいだなんて」 「……硝子」 「生きてくれていたら、何食わぬ顔でまた、私達の前に現れてくれたら、そう、思うんです。思ってしまうんです」 「…………硝子」 「間に合わなかった……! 私が判断を間違えていなければ、もっと頑張れていれば、殊子さんは……っ!」 「硝子っ!」 どうして人は、いつだって後悔しながら生きていかなければならないんだろう。 どうして世界は、この子に苦しい思いばかりさせるんだろう。 そう考えると悲しくて、嫌で、私は子供をあやすように硝子を優しく抱きしめた。 私には何も語れない。語る資格は、たぶん、ない。 それでも言う。悲しいと感じる、この気持ちは嘘じゃない、って。 ただ、私は守られるだけでしかなくて、硝子達が今もいる戦いの中には入れない。 足手纏いだってことは自覚してる。私達は枷だ。日常という名の、枷。 手放す方法を選ばない硝子達と、容赦なく日常を破壊しようとする敵。 どちらかが勝ち、どちらかが絶えるまで、戦いが終わることはないんだろう。 失われたものは、戻らない。 例えどんなに祈っても、決して。 だからこそ、私は祈ろう。この子が、本当の意味でここに帰ってこられるように。 こんなことしか、私にはできないけど。 硝子が今の苦しみを、悲しさを、乗り越えられたらいいな、と思った。 >七巻に凄い心を打たれたので、つい発作的に。追悼の意も含めて。 >あとがきの話には共感しました。ああ、そうなんだな、と。 >愛していなければ、彼らはこんなにも「生きて」ない。 >みっともなく足掻いてほしいと、そう思います。 |