001

 色々と面倒な言い回しを考えたところで、僕こと阿良々木暦と千石撫子の関係は、歳の離れた友達以上の何物でもない。
 本来は下の妹、月火の小学校の頃の友達であり、二人が中学生になり別々の学校に通うようになってからは道端でふと出会うことすらなかったのだが、何の因果か僕らは再会し、有り体に言えば紆余曲折を経て、電話番号を交換する程度の仲になった。
 以降、一時行方不明になった忍の捜索を手伝ってもらったり、妹に会わせるためとはいえ自宅に呼んだりもしたわけで、今更だけど八九寺にロリコンと揶揄されても仕方ないと思う。あいつだけならともかく、千石も充分その範疇に入るしなあ……。
 とまあ、世話になりっぱなしな僕は、休憩日である日曜を使ってお礼をしようと思い立った。時期は八月、夏休みの初めに詐欺師との邂逅を済ませ、相変わらずな戦場ヶ原と羽川の(二人合わさることで結果的に硬軟織り交ざった)指導にどうにかこうにか食らいつきながら迎えた第一週の土曜。さすがに夜掛けるのはよろしくないので、それより少し早めの夕方に携帯から電話をする。
 今のご時世では珍しく携帯を持っていない千石の番号は、市外局番も含めて十桁。アドレス帳の中から選び耳に当てると、一拍の間を置いてコール音が響く。それが二回聞こえたところで「はい、千石です」と大人しげな声が返ってきた。
 一瞬だけ戸惑う。前に電話した時は異様な慌て方をしていた千石だが、三度目ともなると多少は落ち着いて反応できるようになったんだろうか。……いや、トーン低いし、出たのは親御さんかもしれない。勿論面識もない年上の人間に友達感覚で話すほど僕は非常識ではなく、なるべく丁寧な口調を心掛けて千石に代わってもらうことにした。

「すみません、阿良々木と申しますが、千石撫子さんはいらっしゃいますか?」
「……暦お兄ちゃん、撫子だよ」
「え、あれ、千石? てっきり親御さんだとばかり」
「まだお母さんは帰ってきてないから。それで、今日はどうしたの?」

 問われ、僕はしばし口ごもる。
 前回の慌てっぷりが頭に残ってたのもあるが、それ以上に澄ました声が千石らしからぬもので、母親と早とちりしてしまった自分が恥ずかしかった。しかし、あの時がおかしかっただけで普段はちゃんと応対できてるのか。度を越した人見知りという認識を今まで持っていたが、少しばかり改める必要がある気がする。
 何にしろ、冷静でいてくれた方が提案もしやすい。予め用意していた言葉を脳裏に浮かべておく。

「いやさ、前に何度も引っ張り回しちゃったりしただろ。迷惑掛けたし、礼をしたいと思って」
「別に、迷惑だなんて思ってないよ。暦お兄ちゃんのお手伝いできるのは嬉しいから」
「そう言ってもらえるのは有り難いんだが……妹達の件でも、まあ間接的とはいえ心配させちまったしな」

 春休みレベルとまではいかないものの、戦場ヶ原による拉致監禁やら火憐との痛快な兄妹喧嘩やら、些かイベントを詰め込み過ぎな感もあった七月二十九日。僕は千石の口から、二人の妹が『おまじない』の発信元、元凶を突き止めようとしていることを知った。月火は千石にも話を聞きに来たらしく、その所為で要らぬ心労を掛けたのは申し訳ないと言う他ない。この場合、妹どもの不逞は兄の責任にもなるだろう。
 家に遊びに行ったのも、半分はふとした思いつき、もう半分は義理を果たすためだった。……こうやって考えると、僕が千石のために何かをしたというのは皆無だ。やはりここはひとつ、千石の我が儘を聞いてみたい。
 控えめな千石がどんなことを言い出すか、気にならないでもないし。

「えっと……じゃあ、お願いしてもいい?」
「ああ。僕にできることなら何でも構わないから、どんと来い」

 うん、という声を最後に、数秒無言の時間が続く。
 受話器からは千石の規則的な呼吸音が微かに届き、僕は自室の椅子に座ってそれを聞きながら、返答の言葉を待つ。静かな分、電話の前で一際大きく息を吸う千石の様子は手に取るようにわかった。

「あのね、その……明日、私とデートして欲しいな」
「デート? つまり、一緒に出掛けるってことか?」
「うん。映画とかお買い物とか、一人で行くのもちょっと、さみしくて」

 そういえば、荒れに荒れた神原の部屋の片付けを敢行した次の日、図書館に向かってた千石と会った時にもそんな話題が出たな。中世の拷問具絡みで本当に面白い話はあったのか、以前に調べ終わったのかどうかも知らない僕には判別の付かないことだが、明日顔を合わせるのなら、その辺もついでに訊いてみればいいだろう。
 それにいい機会だ、変なところで無防備な千石に、軽々しくデートと口にするのがどれだけ危険なのかを、今度こそしっかり教えておきたい。

「よし、わかった」
「え……ほ、本当に、いいの?」
「男に二言はない。というか自分で頼んどいて驚くなよ」
「だって……こんなすんなり頷いてくれるなんて、思わなかった」
「千石なら変なことにもならないだろうしな。ここんとこ慌ただしかったから、僕としても息抜きには丁度いいんだ」
「暦お兄ちゃん……ありがとう」
「礼を言うほどのことじゃないだろ。ま、明日は二人でぱーっと楽しもうぜ」

 意図して軽く言うと、恐縮していた千石はくすりと小さく笑みを漏らした。
 それから待ち合わせの時間と場所を決め、最後にまた明日な、と告げて電話を切る。少し、座りっぱなしで腰が痛い。椅子の背もたれに体重を預け、そのままの姿勢で部屋の時計を見やった僕は、机の上に重ねてあった参考書を手に取った。
 ――とりあえず、夕食時までは頑張るか。
 その気合が長続きしたかどうかは、まあ、語る必要もないと思う。



  002

 明けて翌日、無難な服装を選んで昼前に家を出た僕が向かったのは駅前だった。
 さすが日曜と言うべきか、その辺の道と比べれば格段に行き交う人の数は多い。適当なところに自転車を止め、雑踏を避けるようにして、待ち合わせ場所である背の高い時計下を目指す。時刻は十時半、約束の三十分前だ。自慢じゃないが僕は時間にルーズな方で、普段は三分前くらいに着いていればいいやと考える人間なのだが、世話になった礼をすることが目的な今回、こっちが先に来ていなければ立場がない。
 風雨に晒され続けた所為か微妙に錆びた銀色の柱が視界に入り、どうやら待たせずに済みそうだとほっと安堵の息を吐いて距離を詰める。

「あ……暦お兄ちゃん。こんにちは」

 また待たれていた。
 つーか、何で三十分前に既にいるんだよ。
 待ち合わせの意味がないじゃん。

「また待たれていた、って、ちょっと響きが猫又みたいだよね」
「音が重なってるだけで又という意味はないし、そもそも猫はどこにも出てきてないからな。それより千石、いつからいたんだ?」
「えっと……五時に出て、着いたのが半前だったから……」
「五時間以上じゃねえか! 馬鹿じゃねえのかお前!」

 朝っぱらから身体張った二度ネタなんかすんなよ!

「ご、ごめんなさい」
「こんなとこに始発も出てない頃から五時間もいるとか、明らかに不審だろ……。変な奴に絡まれたりとかしなかったか?」
「……うん、平気だったよ。暦お兄ちゃんこそ、事故に遭ったりはしなかった?」
「ああ。割と死活問題だしな」

 度合いにもよるが、相当酷いダメージでない限り死にはしないだろう。ただ、万が一救急車でも呼ばれると面倒なことになる。忍と付き合っている以上、病院の厄介になるわけにはいかないのだ。

「でも……暦お兄ちゃんは、車を見るとつい撥ねられに行っちゃう芸人の鏡だから心配だよ」
「それはどう考えても余計な心配だな!」
「頭から血が流れるくらいなら、おいしいで済むよね」
「合意の上でなければ傷害事件だ! 問答無用で警察が飛んでくる!」

 轢かれて嬉しいとかどんなマゾだよ。
 神原だってそこまで極まってはいない。あいつの性癖は精神的なものだし。
 俯いて肩をがたがたと震わせる千石の姿は久しぶりに目にしたが、何というか、複雑な気分である。
 ネタを振られると突っ込まずにいられないってのは、ちょっとした病気じゃなかろうか。
 スルーのできない男、阿良々木暦。

「やっぱり、暦お兄ちゃんとお話するのは楽しいな」
「まあ、千石がそれで満足ならいいんだが……今日はどうするつもりなんだ?」

 お互い家からだいぶ離れてはいるものの、待ち合わせ場所として選んだ駅の周辺には、それなりに娯楽施設が集まっている。戦場ヶ原に連れてこられたデパートも近く、遊ぶにしろ何にしろ、不自由はしないはずだ。しかし、昨日の電話で「行き先は撫子に任せて」と珍しく千石が主導権を握ろうとしたので、一任する形になっている。だから僕は、これから千石がどこに向かおうとしてるのかを全く知らないのだった。

「えと、まずは、十一時十分から始まる映画を見ようと思うの」
「ふうん、映画か。無難なところだな。ちなみにジャンルは?」
「ホラーだよ。ちょっと昔の」
「………………」

 いきなり難易度高いなおい。

「終わったら、ちょうどお昼ご飯の時間になるから」
「あんまり高い店は無理だけど、ファミレス程度なら奢るぜ」
「え、でも……」
「遠慮すんな。今日はお前のために来てるんだ」
「……それじゃあ、お世話になります」
「おう。で、その後はどこに行く?」
「確か、近くにデパートがあったよね」
「こっからだと、歩いて十分くらいだったか」
「そこで色々見て回れたらいいかな、って」

 普通の中学生である千石のこと、懐具合はだいたい想像できる。財布の中身は僕も大して変わらないだろうが、年上として千石に負担させるという選択肢はない。そう考えれば、ウインドウショッピングはかなり無難なセレクトだ。
 映画は……そうだな、二時間くらいか。昼食は一時過ぎ、どんなにゆっくり食べたとしても、二時前には店を出ることになる。デパートでどれだけ歩き回るかにもよるけど、そんな遅くはならないと思う。八月は陽が落ちるまで長いとはいえ、ちゃんと千石を家まで送ってやりたいし。

「暦お兄ちゃん」
「ん?」
「今日は、よろしくお願いします」

 礼儀正しくぺこりと頭を下げる千石に、僕は苦笑して応えた。
 年齢相応な素直さ。周囲の人間が持ち合わせていない、いい意味での子供らしさを感じる。八九寺や神原と話してる時のような楽しさはないけれど、千石と一緒にいると和むな。気弱ながらそれなりに懐いた、小動物的な可愛さと言うべきか――なんて到底本人には口にできないことを考えつつ、二人で歩き出した。情けない話だが、僕は映画館の場所を知らないので、大人しく千石の案内を受ける。
 ちなみに、僕の横の位置を保つ千石は、時計下を離れた時からすっと手指を絡めてきていた。実に自然な動きで、そうすることが当たり前であるかのように。さらに付け加えるならば、先日遊びに行った際に見た、あの服装をしている。可愛らしい意匠のキャミソールと上に羽織った薄手のカーディガン、細く青白い太腿を半ばまで露出させた短いスカート。足を包むのは、歩きやすさと可愛さが両立したデザインのパンプス。そして、千石の最大の特徴とも言えるフィルタ代わりの長い前髪が、今度はヘアピンで留められていた。
 あれ、部屋着じゃなかったのか。ってことはまさか、僕と出掛けるからって本当にお洒落を――いやいや。有り得ない。部屋着でなければ、夏の普段着なんだろう。風通しも良さそうだし、単純に過ごしやすいから選んできただけ。それ以外に何があるというのか。
 最近勘違いの多い自分は、どこかで一度気を引き締め直した方がいいかもしれない。これでは千石にも失礼だ。

「着いたよ」

 映画館まで、五分は掛からなかった。
 チケットを買う時はさすがに手を放してくれたが、二枚分を僕が支払うと(ここでも千石は財布を取り出そうとした。うちの妹達に見習って欲しい謙虚さだ)、そこから前の上映が終わるのを待ち、客が出てから席に着くまでの間は、またおもむろに繋いてきた。表に貼ってあったポスターの謳い文句を鵜呑みにするなら、内容はサスペンスホラーらしい。スプラッタ物に比べれば直接的な怖さはないが、こういうのは大抵、精神的にきつい陰惨な展開が続く。人一倍気弱な千石が怖がるのも無理はないだろう。

「入っといて何だけど、嫌なら出てもいいんだぞ」
「ううん。これにしようって言ったのは撫子だし、暦お兄ちゃんがいてくれれば、大丈夫」

 ああ、そういやチョイスしたのは千石だったか。ならこれ以上は言うまい。
 何となく視線を周囲に向ける。放映開始してもうだいぶ経つからか、あるいはただ人気がないからか、席は半分も埋まっていない。ばらけた客はほとんどが二人一組で、しかもあからさまにカップルばかりだった。……今更だけどすげえ場違いな気分だ。
 ひっそりと溜め息を吐き正面に向き直ると、照明が一斉に落ちる。非常口を示す緑色の光がやけに目立つ空間の中、特に前置きもなくスクリーンに絵が映し出された。二、三分ほど退屈な宣伝が流れ、制作会社らしきロゴが派手に動いてからようやく本編が始まる。
 絶海の孤島と、そこに建つ古い屋敷に集まった数人の、どこか寒々しく息苦しい関係の説明が冒頭に入る。次に船が来るのは三日後という典型的なクローズドサークルで、予想通り翌日の朝に一人が殺され、残った皆が徐々に自分以外の人間を疑っていく様を克明に描いていた。
 最初に死体が映った瞬間、右隣の千石は小さく声を上げてこちらに寄り掛かってきた。以降も登場人物が凄惨な殺され方をする度に「ひゃうっ」と悲鳴を漏らしては僕の右腕を抱き、顔を伏せながらもちらちらとスクリーンを見やる。どうしても直視はし難いのか、不安げな瞳で時折こちらの様子を窺っていた。演出の上手さもあってか死体はいちいちグロテスクで、恐怖心を煽ることに関しては成功してると言っても過言ではないと思う。もっとも、如何に残酷な状況を作るかに苦心した結果、他の部分が疎かになってしまっていたが。
 だって、一時間経たないうちに展開読めたんだもんなあ。
 そんな風に一歩引いて鑑賞していた僕とは正反対に、千石はとにかく怖がった。一番酷いシーンではほとんど飛び掛かるような形で身を寄せてきたものだから、腕に年相応の大きさを持った胸が押し付けられて少し焦ったのだ。顔の間近にあった髪からは仄かに甘い匂いが漂ってきて、不謹慎にもドギマギした。千石はただ反射的にそうしただけで、決してホラー映画にかこつけて直接接触してきたわけじゃないというのに。
 いかんいかん。女の子はみんな自分に気があるなんて勘違いをし始めたら、それは男として最悪じゃないか。
 僕を気遣って飲み物をひとつしか買わなかったのも、全部は飲みきれないからと半分を残して渡してくれたのも、あくまで千石の優しさから来るものであって、きっと他に思惑や意図はないのだろう。

「……終わったか」

 犯人も含め全員が死亡するという何とも後味の悪い締めでスタッフロールが流れ、観客が少しずつ席を立ち上がっていく。まだひっついていた千石をやんわりと離し、僕達も揃って映画館を出る。二時間ぶりの外は陽射しが眩しかった。

「まあ、あんまり評判になってないってのもわかるな。千石はどうだった?」
「え?」
「映画の出来」
「あ、えっと……やっぱり怖かった、かな。特に、男の人が白目剥いて逆立ちで迫ってきたところとか……」
「んなシーンはなかったぞ!?」
「ご、ごめんなさい、違ってた……。犯人さんが、箪笥の角に小指をぶつけて事故死したところだった」
「それも見た覚えはない! 勝手に話を捏造すんな!」

 怖いってよりも痛え。色んな意味で。
 しかし、内容がおぼろげなのも無理はないのかもしれない。途中からはもう僕の胸に顔を埋めてたし。それで本当に楽しいのかはさっぱりわからないが、千石は満足そうな表情をしているのでわざわざ訊く必要もなさそうだった。

「さて、んじゃ次は昼ご飯だな。どっか行きたい店とか食べたいものはあるか?」
「ううん、暦お兄ちゃんに合わせるよ」
「って言ってもなあ。この辺はよく知らないし」

 適当に探すのは些かリスクが高い。デパートまで行けば食事できる階もあるだろうし、そっちに向かうのもありっちゃありなんだよな。あるいは無難にファミレスかファーストフードで済ませるか――などと悩んでいると、不意に足下、昼の短い影から潜められた声が飛んできた。
 お前様、と。相変わらずの、尊大な口調で。

「これから食事に行くのであれば、儂に提案があるのじゃが」
「……忍、いきなり話しかけんなよ」
「ふん、心配せずとも周囲の者には聞こえんよ。極力声は絞ってある。仮に聞こえても空耳と思われるだけじゃろう」
「それじゃ完璧僕が怪しい人じゃねえか」

 宙空に向けて独り言を呟く人間なんて、どう考えても不審者だ。
 僕だったら確実に引く。勿論事情を知らない誰かが見ても、同じ反応をするだろう。

「知らん。儂には関係のないことじゃからの。――で、じゃ。一通り話を聞いておったが、迷っておるならミスドに行け」
「……そういうことか」
「こんな真昼に目が覚めたのも、元はと言えばお前様が騒がしくしていたからじゃぞ。賠償を要求してもよかろう」
「ったく……わかった。ついでに買っておく」
「うむ。では、儂は二度寝する」

 そう言い残し、忍は口を閉ざした。全く、狙ったようなタイミングで割り込んできやがって。
 つーかお前、現代に毒され過ぎだろ。さらっとミスドとか略してんじゃねえよ。

「……暦お兄ちゃん」

 と。
 隣に並び歩いていた千石が、僕を心配そうに見上げていた。
 いや、見上げるってほど身長差はないんだけど。

「あの、撫子、暦お兄ちゃんが危ない人でも、嫌いになったりはしないから」
「断じて違うから弁解をさせてくれ」

 過剰な信頼が痛い。
 自分で言うのも何だが、危険人物を見かけたらすぐにでも逃げるべきである。

「忍がさ、ミスドのドーナツを食いたいって言ってきたんだよ」
「暦お兄ちゃんの、影の中にいる?」
「ああ。一応ドーナツ以外にも色々あるし、確か結構近いから、選択肢としては悪くないと思う。千石、どうだ?」
「いいよ。席、空いてるといいんだけど……」
「日曜だとちょっと混んでるかもしれないな。ま、その時はお持ち帰りで買って食べるか」

 納得してくれた千石と一緒に、適当な徘徊を止めて徒歩でミスタードーナツを目指す。
 駅前に建っているのは、国道沿いの店舗より若干大きく、その分客の出入りも激しい。といっても長蛇の列になるほどではないので、すぐに注文が済んでテーブルも確保できた。映画館とは比べ物にならない人口密度だからか、千石は少し居心地が悪そうだった。
 自身を守るシャッターとして機能していただろう前髪を取り去った千石は、頬だけでなく首元も赤く染めていて、恥ずかしさのあまり気を失ってもおかしくない様子をしている。よくよく考えればここまで来ただけでも相当の、精一杯の勇気を振り絞ったんだろう。
 ちゃんと、頑張っている。千石も成長している。

「なあ、千石」
「え? な、何かな、暦お兄ちゃん」
「こっからも、めいっぱい楽しもう」

 僕のその言葉に、うん、と頷きが返ってくる。
 そうして千石が浮かべたのは――今日初めての、柔らかく可愛らしい笑みだった。



  003

 で、食べ終わり店を出て五分後。
 デパートに続く道の途中、正面から見慣れたシルエットが歩いてきているのに気付いた。
 向こうも僕達を認め、目前まで来て立ち止まる。

「阿良々木先輩と千石ちゃんか。奇遇だな」
「どうもお前から奇遇という言葉を聞くと疑いたくなるんだが……今回はまあ、奇遇だな」
「こ、こんにちは、神原さん」
「ん。……ところで千石ちゃん、何故阿良々木先輩の後ろに隠れている?」

 神原が視界に入った瞬間、電光石火の速度で千石は僕の背後に回っていた。背中の服を握られている感覚がある。どうやら不特定多数の人間に見られるのはまだ我慢できるものの、知り合い相手だと碌に顔も合わせられないらしい。
 この姿の千石を神原に見せるとどうなるかわからないので、無理に引きずり出そうとは思わないが。

「それよりも神原、休日にこんなところで何してるんだ?」
「女の子の匂いがしたので飛んできたのだ」
「………………」
「というのは半分冗談で」
「半分はマジなのか!?」
「家の中に篭もっているのも飽きたのでな、腹ごなしも兼ねて散歩をしていた」
「散歩にしては随分遠くまで来てるな。お前の家から距離あるだろ」
「考え事をしていたらいつの間に――といった感じだ。はっと気付いたところで、二人を見つけたのだが」

 珍しいな。
 いったいどんなことを考えていたのか、気にならないと言えば嘘になる。

「最近マンネリ化してきたから、どうやって私の変態ぶりをアピールしたものかという悩みを」
「もういい黙れ」
「神原駿河。好きなものは阿良々木先輩の全裸だ」
「全裸に限定すんじゃねえよ! お前はこれ以上キャラ立てしようとすんな!」

 こいつのキャラが強過ぎて、さっきから千石が僕の後ろに隠れたままだ。
 久しぶりの出番で嬉しいのはわかるけど、ここは自重してくれと言いたい。

「では話を戻して、二人は何故こんなところに? 千石ちゃんがそうしているのにも関係があるようだが……」
「千石には色々世話になったからさ、お礼っつーことで遊んでるんだよ。さっきは映画見てきた」
「……阿良々木先輩、それはいわゆるデートではないのか?」
「まさか、」
「うん、デートだよ」

 唐突に話に割り込んでくる千石。
 こころなしか語気が強かったんだが、やっぱりデートというものに対して、年頃の女の子らしい幻想を持っていたりするのだろうか。
 だとすれば、頭ごなしに否定してしまうのもよくないかもしれない。
 僕だって、進んで千石の微笑ましい夢を壊すつもりはないのである。

「……私は阿良々木先輩の将来が心配になってきたぞ」
「大丈夫だ――とは言えないところが我ながら悲しいな……」
「だが安心して欲しい。阿良々木先輩がどれだけ愛人を作ったとしても、私の気持ちは変わらないとここに誓おう」
「さも自分が彼女みたいな言い回しをするな! あとさり気に人聞きが悪いわ!」
「ふふふ、照れなくてもいいのに」
「照れてねえー!」

 と、コントはこの辺でストップ。
 正直滅茶苦茶楽しいが、話は一向に進まないのだ。

「デパートに行くんだよ。千石の要望でな」
「なるほど。具体的に何かを買ったりはするのか?」
「そこまでは決めてない。良さげなものがあればそうしてもいいけど」
「そうか。千石ちゃんは?」
「え?」

 急に振られて焦ったのか、背後から慌てた気配が伝わってくる。
 縋るように僕の腰辺りを掴み、それで多少は落ち着いたらしく、細い声でえっと、と囁いた。

「服とか、ちょっと見てみたいかな、って……」
「ということは、まずは靴下か」
「お前が敢えて靴下を挙げた理由が僕にはわからない……」
「む、阿良々木先輩ともあろう者が珍しい。その慧眼も時には曇ることがあるのだな。仕方ない、普段の阿良々木先輩になら語るまでもないのだが、僭越ながらこの私が説明しよう」
「いや、しなくていい。むしろすんな」
「柔らかく小さな少女の足を優しく包む靴下には、金に代え難い価値があるものだ。具体的には欲情の対象になる」
「すんなっつっただろ! 頼むから黙れよ!」

 お前今日は本当に絶好調だな!

「阿良々木先輩にはわかるはずだ。女の子の使用済み靴下を食べたいと思う気持ちが」
「そんな変態的思考は持ち合わせていない!」
「靴下のためなら死ねる」
「命を懸けられるほど好きなのか!?」
「あ、あの、暦お兄ちゃん、神原さん……」

 控えめに。
 僕達の名前を呼ぶ千石が、ここまでの会話を余すところなく聞いていたことに遅まきながら気付く。
 大人しい連れの少女を放置して、後輩との靴下談議に熱中する変態。
 どう見ても僕だった。

「よく、わからないけど……二人とも、前にも増して仲良しなんだね」
「それはそうだ。阿良々木先輩と私は日毎に睦まじくなっている」
「日毎ってほど頻繁には会ってないだろ」
「私は会っているぞ。一方的にだが」
「まだストーカー続けてたのか!?」
「阿良々木先輩を遠くから見つめるのが日課なのだ。そう、恋する乙女のように」
「お前のそれは恋でも乙女のようでもねえよ!」

 駄目だ、神原とエンカウントしたら最後、どうしても本題から逸れていってしまう……。
 今回の主役はあくまで千石、神原とは元々会う予定すらなかったのに。
 ということで、名残惜しくはあるが切り上げ。

「……神原、そろそろ行かなきゃいけないから」
「ああ、呼び止めてしまってすまなかった。私も帰るとしよう」

 そう言って僕達に背中を見せ、走り出しかけ――さっ、と振り返る。

「何というか――今日の千石ちゃんは、いつも以上に恥ずかしがり屋なのだな」
「ご、ごめんなさい……」
「僕が言うのも変だけどさ、勘弁してやってくれ。これでも千石は精一杯頑張ってるみたいだから」
「わかった。千石ちゃん、いつか私にも、そのおめかしした姿を見せてくれると嬉しい」
「……う、うん」

 今度こそ、振り返らずに神原は駆けていった。恐ろしい速さでトップスピードに乗り、あっという間に角で曲がって視界から消える。その数秒後、申し訳なさそうに僕の隣に移動した千石が、再度ごめんなさいと口にした。

「ま、いきなり何でもやれっていう方が無茶だしな。次は神原の前にも出られるようになればいい」
「……暦お兄ちゃんは」
「ん?」
「暦お兄ちゃんは、そうなった方が嬉しいの?」
「そりゃあ、千石が自分に自信を持てるんならいいと思うよ」
「ううん、そうじゃなくて……」
「他に何かあるのか?」

 どうも煮え切らないので訊ねると、千石は静かに首を横に振った。
 言葉の代わりに僕の右腕をこれまで以上の力で抱き、催促をしてくる。

「行こ、暦お兄ちゃん」
「そうだな。話し込んじゃって悪い」
「気にしてないよ。それに、暦お兄ちゃんと神原さん、芸人のコンビみたいで面白かったから」
「誉められてる気はしないな……」

 そんなこんなで、十分程度の時間を神原とのどうでもいい会話に費やした僕達は、真っ直ぐデパートに向かった。人気の少ない路地を選び、道中千石と最近の近況について雑談をしながら歩くこと八分弱。駅前ほどではないものの、かなり賑わった通りに出る。
 戦場ヶ原とも以前来たことのある場所。あれ以来足を運んでいないので、久しぶりということになる。
 四階に水着売場が存在しているのは覚えていたが、あの時の印象が強過ぎて、他の階のことはさっぱりだった。エレベーターが降りてくるのを待つ間、小さく書かれている案内を確認する。とりあえず千石の希望に合わせて――と、婦人服売場は三階か。
 地下から上がってきたエレベーターに、人影はなかった。同じく待っていた見知らぬ数人と共に乗り込み、さっとボタンを押して端に移動。千石を壁に追い詰めるような形になったが、密閉空間なのをいいことに何かをしてやろうというような意図は勿論なく、多少なりとも周囲の視線をシャットアウトできればと思っての行動だ。しかし、こうしてると本当に兄妹みたいだなあ……。
 結局千石は「暦お兄ちゃん」って呼び方を変えなかったし。
 なんて考え事をしているうちにエレベーターは再び停止、二人並んで誰にもぶつからないよう外に出る。

「んじゃ、適当に回るか」
「あ……こ、暦お兄ちゃん」
「今度はどうした?」
「この階、靴下も売ってるんだって」
「……おい千石、それを僕に言って、いったいどうして欲しいんだ」
「えっと、神原さんとあんなにお話盛り上がってたし、買いたいのかなって思って……」
「だとしても、婦人服売場で僕が買ったら変だろ」
「そうかな?」
「そこはすぐに否定してくれよ!」
「暦お兄ちゃんがどうしてもって言うなら、私が代わりに買っても」
「前提が違う! 僕に買う気は一切ない!」

 千石が僕をどんな風に見ているのか、ちょっと不安になってきた。
 八九寺や神原ならともかく、こいつは本気とギャグの境目がわかりにくいからな……。
 表情は読めても、心情は読めない。
 難しいところだ。
 ――で、ここからは千石に任せることにする。そもそもの目的はウインドウショッピングだが、さすがに僕は婦人服売場で無遠慮な視線をそこかしこに送るつもりはない。あくまで千石の付き添い、お出掛けのお相手として来ているわけだし。

「……それにしても、服ってのはどうしてこんなに高いんだろうな」

 十把一絡げ、平凡のひとことで表現できる容姿の人間は、大抵自分を飾ることに執着しないもので、美形なんて言葉からは程遠い僕もそのカテゴリに入る。年上の親戚のお下がりやセール品の安い衣服しか身に着けてこなかったような奴が、平然と五桁を超える金額の品物が並ぶ場所で高揚感を覚えるはずもなく、千石の半歩後ろから付いていくだけで精一杯だった。
 ただ、戦場ヶ原や神原、それに羽川もそういう部分には無頓着――とはいかないまでも、あまり気にするタイプじゃないから、新鮮ではある。
 もしかしたら、僕の知り合いの中で一番普通の女の子っぽいのは千石かもしれない。

「なんかいいのは見つかったか?」
「可愛いなって思ったのは、いくつかあったけど……どれも高いし、そこまで欲しくはないかな……」
「ふうん……試着とかは?」
「む、無理だよ……。店員さんがいるから」

 確かに、この類の店にいる営業員は異様に積極的というか押しが強いというか、時折妙な迫力を感じることすらあるが、そんな理由で避けてたら、お前どこにも行けないだろ……いや、今日は特別か。
 どうやら前髪と帽子は、僕の想像よりも遙かに、千石にとって重要なものらしい。
 でもそうなると、何でここを行き先に選んだのかがわからないな。
 千石のことならよく理解しているなんて自惚れは持っていないが、それにしても――うーん。謎だ。
 だがまあ、気にしていてもしょうがない。頭を切り替えよう。
 二人して店の区域には踏み込まず、離れた場所から陳列された商品を眺めつつ、フロアをぐるりと一周する。途中他の空間とは明らかに雰囲気の違う、ある程度の距離を置いてさえ近寄り難く感じるスペース――要するにランジェリーショップを通りがかった時、何故か千石は立ち止まって僕を上目遣いで見つめ、

「男の人って、みんなセクシーな下着が好きなのかな」
「別に誰もがそうってわけじゃ……って、ちょっと待て、どこからそんな情報を得た」
「クラスの女の子達が、前にそういう話をしてたのを聞いて」
「最近の女子中学生は随分早熟なんだな……」
「暦お兄ちゃんも、そうなの?」
「その質問に答えても、僕には何のメリットもないと思うんだが」

 むしろデメリットしかない。
 色々な意味で立場が危うくなる。

「じゃあ……胸は、大きい方がいい?」

 質問と同時、右腕を抱きしめる力が強くなった。控えめな千石の胸がカーディガンとキャミソール越しに押し付けられる。二枚の服のさらに奥、そこに以前はなかったものの存在を知り、今日はブラをしてきてることに気付いた。
 遊びに行った日は、家を出る予定がなかったから着けてなかったのか。だとすると本当、変なところで無防備だなこいつ。
 こうやってきてるのも、たぶん無意識なんだろう。わざと密着して僕に意識させようとしてるなんてことはまず有り得ないし、どこか不安げな表情をしているのだって、僕が変態だったらどうしようというような、可愛い心配から来るものだと思う。
 重ね重ね、いい子だよな。本気で妹じゃないのが勿体無いくらい。

「……こだわりはないよ。大きいのは嫌いじゃないけど、だから小さいのが悪いってわけでもないだろ?」
「でも……」
「千石だってまだ中学生なんだし、あんまりそういうのは気にすることもないって」
「そ、そうかな……うん、そう、だよね」

 気持ち嬉しそうに頷いて、千石は腕の力を少し緩めた。
 僕としてもこの辺りに長居はしたくなかったので、自分から歩き出す。
 そうして三階を後にする直前、比較的良心的な値段が並んだところで、またぴたりと千石は足を止めた。店の一角に視線を向け、微かに悩む仕草をする。僕も釣られて見てみると、やたら多種多様な靴下が掛けられていた。
 ここで神原との会話を思い返してしまったのは、決して責められることではないはずだ。

「靴下、買いたいのか?」
「え、べ、べつに撫子はそんな……」
「お金のこととかは考えるな。欲しいか、要らないかを言ってくれ」
「あ、う……うん。ほ、欲しい……な」
「よし」

 上着とかはともかく、靴下ならさほど値も張らないだろう。僕の所持金でも充分払える。
 今日のホストはこっちなんだから、最後まで世話を焼きたい。

「悪いけど、一足だけで頼む」
「……暦お兄ちゃん」
「申し訳ないとか、そんな風に気にする必要はないからな。僕がそうしたいからそうしてるんだよ」

 完全に、自己満足ではあるけれど。
 千石が喜んでくれるのならそれだけで、充分な報酬じゃなかろうか。
 その後、お金を出すんだからと僕が選ぶことになり、けれども普段他人の靴下に注目した覚えがないのでどういうのが似合うかなんてわかるはずもなく、結果適当に決めたものを、千石は素直に受け取った。
 袋を胸元に抱え、大事にするね、と。
 そう言った時の千石は、僕の記憶が確かなら、今日一番の笑顔だった。
 残りの出来事は特に語るまでもない。他の階をぶらぶらと回り、デパートを出てから近くの静かな喫茶店に入って他愛ない話をしただけだ。
 デートと言うにはやはり、色気のないものだと思うが――健全で楽しい一日だったのは、確かである。



  004

 後日談というか、今回のオチ。
 翌日、夏休みであるにもかかわらずいつものように容赦がない二人の妹、火憐と月火にちょっぴり早く叩き起こされ、眠たげな頭をどうにか覚醒させて、少し余裕を持って外出の準備をする。ほぼ一日置きのペースで足を運ぶ図書館への道程は最早行き慣れたと言ってもいいもので、もうこの辺で目新しい展開には出会わないだろうな、などと考えながら歩いていたところ、偶然にも羽川と鉢合わせた。

「阿良々木くん、おはよう」
「ああ、おはよう、羽川」

 筋金入り、芯から真面目なこいつは、挨拶を忘れると真顔で窘めてくる。
 さすがに初っ端から指導を受けたくはないので、片手を軽く挙げて僕は羽川の隣に付いた。
 肩と肩が触れ合わない程度の、気楽な距離。色ボケ猫と忍の一件以降、互いに気まずくなるかもしれないと覚悟していたこともあったのだが、文化祭が終わり『いめちぇん』をした羽川の態度は、全く変わらなかった。それを不思議に感じず、今の関係を続けていられるのは、僕達の間に、確固たる友情が成立しているから――と言い切ってしまっても、この場合は、いいのかもしれない。
 僕にとって羽川は恩人であり、尊敬すべき友人でもある。
 現状がいくら動いても、そういった根本の部分は揺らがないのだ。

「しかし、珍しいな。こんなとこで会うなんて……というか、羽川が僕と同じ時間に出てるってのが」
「そう? 阿良々木くんこそ、もっと遅いと思ってたんだけど」
「昨日は思いっきり遊んじまったからな。気合を入れ直したんだ」
「へえ。私はてっきり、妹さんに普段より早く起こされて、手持ち無沙汰になって仕方なく出てきたんだとばかり」
「………………」

 まるで見ていたかのような発言。
 恐ろしいのは、寸分違わずその通りだということである。
 常々思うんだが、こいつは千里眼か何かの特殊スキルを所持してるんじゃなかろうか……。

「ま、まあ、とりあえずゆっくり行こうぜ」
「……どうして急にどもるのかな」
「朝は舌が上手く回らないんだ」
「ふうん……。阿良々木くんが言い張るのなら、そういうことにしておいてあげる」

 あっさり見抜かれていた。
 蛇がいるとわかってる藪をつつくつもりもなく、しばらく無言で歩いていたが、ふと羽川は「そういえば」と前置きし、

「千石ちゃんと、昨日二人で何してたの?」
「…………え?」
「喫茶店で、楽しそうにお喋りしてたよね。しかも千石ちゃん、すごく可愛い感じだったし」

 その声に責める色はなかったが、僕は全身から汗が滲むのを感じた。
 後ろめたいことなんて、どこにもないはずなのに。

「あと、出てくる時には、仲良さそうに腕を組んでたけど――」
「もしかしなくとも大きな勘違いをしてると思うので言っておくが、僕と千石はお前が想像してるような関係じゃない。最近千石には色々迷惑掛けてたから、そのお礼ってことであいつの行きたいところに一日付き合ってたんだ。それ以上の意味はなかったし、行き先も極めて健全だった。お前のおっぱいに誓ってもいい」
「そんなものに誓われても困るから。……でも、嘘は言ってないみたいだね」
「当たり前だろ」

 仮に嘘を吐いたとしても、羽川相手じゃすぐバレる。
 僕は、こいつにだけは隠し事ができない。
 じっとこっちの顔を見つめ、やがて離れてから、羽川は嘆息した。

「わかった、信じる。だけど、あんまり千石ちゃんに優しくしちゃだめだからね?」
「ん? 何でだ?」
「阿良々木くんが気付いてないのなら言えない。私が話しちゃうのはアンフェアだもん。ただ――阿良々木くんって、誰にでもそうだから。優しいことと、傷付けないこととは違う。前にも言ったけど、それは忘れないでいて欲しいかな」
「……ああ。肝に銘じておく」

 弱くて薄い、と。
 そう言われたのを、僕はまだ覚えている。
 どうにか、していかないとな。
 他の誰よりも、戦場ヶ原のために。

「……って、なあ羽川、お前、いつ頃僕達を見たんだ?」
「四時半くらいだったかな。散歩の途中にふっと目に入って、ちょっと気になったから様子を窺ってたの」
「うわ、全然気付かなかった……」
「阿良々木くんはこっちに背を向けてたじゃない。千石ちゃんは私をそんなに知らないし。勝手に覗いてたことに関しては、ごめんね」
「いや、別にお前が謝る必要はないだろ」
「でも趣味は悪いでしょ。千石ちゃん、すっごいおめかししてたし」
「もしあいつに会ったら、昨日のことは訊かないでくれよ。恥ずかしさのあまり倒れてもおかしくない」
「その前に、逃げられないようにならないといけないんだけどね……」

 当然っちゃ当然だが、校門で初めて見かけた際、脱兎の如き勢いで走り去られたことを未だ引きずっているらしい。
 しかしまあ、いい機会かもしれないな。いくら照れ屋な千石だって、ちゃんと話せる状況を作れば大丈夫だろう。
 羽川は、僕の自慢の、友達なのだから。

「さて、そろそろ図書館も近いので、気持ちを切り替えましょう」
「了解。今日も頼む、羽川先生」
「任せなさい。阿良々木くんが無事合格できるよう、しっかり教えてみせます――なんてね」

 肩の力を抜いて、小さく笑い合う。
 目的地まではあと僅か、涼しい室内とこれから待ち受ける勉強漬けの時間を想像しながら、僕は素直に、楽しいな、と思った。

 何だかんだで、充実した毎日だ。











 趣味を仕事にできる人が世の中にはいます。それはおそらく幸福なことで、生きるためにしなければならない仕事を楽しんでできるというのは人生に於いて物凄い得なのかもしれません。ですが現実はそうそう甘くないのも確かで、楽しんでやっていたつもりが気付けばうんざりしていたなんてこともよくあるのでしょう。いつの間にかそれを義務にしていた――なんて経験は、誰にでもあるのではないかと思います。
 ということで、この『なでこソックス』は決して百パーセント趣味で書いたものではありません。少なからず義務感めいたものを覚えていたのも間違いないですし、作者は人の目をやたら気にする小心者故に出来上がった話を手元に置いて自分だけで楽しもうというような考えは一切なく、誰かにせっつかれるよりも早く公開してしまう、人並みに欲を持つ人間です。なら書いている間全然楽しくなかったかと言えばそういうわけでもなかったりで、百パーセント趣味で書いたのではないですが、百パーセント義務で書いたのでもない、まあだいたい割合としては七:三程度の気持ちでつらつらと文章を積み重ねた結果完成したのでした。
 以前に比べ掛けられる時間が減り、ペースも落ちてしまっていますが、どうにか日の目を見ることができたのはやはり作者として嬉しいものです。はじめましての方も、万が一、億が一に、長らくお待ちくださった方もこの物語を読んで楽しんでいただければという思いは、以前と変わりありません。前三作に続く化物語(下)の二次創作『なでこソックス』でした。
 余計なあとがきにまで目を通した皆様に、今回も感謝を。



何かあったらどーぞ。



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