001 八九寺真宵がブルマーだった。 ……ああ、いや、間違えた。混乱して頭が上手く働かなかったらしい。 訂正しよう。八九寺真宵が、ブルマーを穿いていた。 気まぐれに家を飛び出して始めた、散歩途中でのことだ。適当に、当てもなく歩いていると、見慣れた背中――というより、見慣れたリュックサックを見つけた。相変わらずはち切れそうな、重量過多の荷物である。中身を拝見したいと常々思っているのだが、本人に頼んでも一蹴されそうな気がする。それ以前に、会話が忙しなくて頼むのも忘れそうではあるけれど。 ふらふら揺れるツインテイル。尻尾が二つ――否、あいつの場合は、触覚が二本、だろう。 浮遊霊。蝸牛に迷った少女。自縛霊でない以上、今は怪異、迷い牛としての力を失って――最早怪異ですらない、一幽霊として、以来一所に限定せず、色々な場所で会うようになった。それを開放されて自由になったと見るべきか、あるいは居場所さえも失くした本当の迷子になったと言うべきかはわからない。まあ、当人があまり気にしてないようなのだから、当人ですらない僕が気にしても仕方ないだろうと思う。 ともあれ、八九寺は幽霊である。そも幽霊がどういうもので、どういった定義をすればいい存在なのか、その辺の知識がない僕には皆目検討が付かないのだけど――触れられるものだから、ついそうであることを忘れてしまう。身体が透けてもいないし、地面から浮いても、創作のイメージにありがちな、容器から箸で引っ張り上げた水飴のような下半身で漂ったりもしていない。 他の幽霊はもっと一般的な、想像通りの姿をしていて、八九寺だけが特殊であるという線を完全に否定は出来ないが、そう滅多に会うこともなくまた個人的にこれ以上変な知り合いが増えても困るだけなので、そこは無理に結論付けなくてもいいだろう。 ……話を戻す。 ここで重要なのは、僕の前を歩く八九寺が、何故かブルマーを穿き、往来をスカートも着けず、惜しげもなく太ももを晒しながら平然としているということだ。着替えられたのか、という疑問はさておき(いつも八九寺は同じ服装をしていた)、ブルマーである。絶滅危惧種である。 正直に言って――僕は声を掛けるのを、躊躇っていた。滞りなく文化祭も終わり、七月に差し掛かったこの時期。薄着でいることが当たり前になってきて、長袖を強要される道行く会社員に同情の視線を投げかけるような暑さ。そんな中、八九寺も涼を取るためイメチェンがてら夏服に変わったとしてもおかしくはないのかもしれないが―― しかし、ブルマーだ。ブルマーはないだろう。ぶっちゃけ、近寄り難かった。 暇を持て余している僕にとって、馬鹿馬鹿しくも楽しい八九寺との会話は大変魅力的なのだが、例え人通りの少ない場所と言えど、ブルマー姿の小学生と二人きりで話している、そんな光景を誰かに見られようものなら、首を括ってしまいかねない。 少しだけ悩み、見なかったことにしようと反転したところで、 「…………?」 八九寺が振り返った。僕が逃げ去ろうと背中を向けた、その瞬間だった。 「おや、唐揚木さんじゃないですか」 「人のことをジューシーなおかずみたいな名前にするな。僕の名前は阿良々木だ」 こいつの引き出しには底がないんだろうか。いつまで続くか、興味深いところではある。 「失礼。噛みました」 「違う、わざとだ……」 「噛みまみた」 「わざとじゃないっ!?」 「嗅ぎました」 「僕はそんなに揚げ物臭いのかっ!?」 早速だった。 最近は暗黙の了解染みて、このやりとりに落ち着きすら感じるほど。 「お久しぶりです。だいぶ暑くなってきましたね」 「あ、ああ、そうだな」 「陽射しも強くなってきましたし、阿良々木さんは暑さ対策などしているのでしょうか」 「特にはしてないな……。なるべく外では日陰を歩くようにしてるけど」 「きちんと水分を取らないと、倒れてしまいますよ。破傷風で」 「この時期には流行らない! 熱中症だ!」 「運動には熱中しないのが肝心です」 「うまいこと言った!」 相変わらずキレのある切り返しだ。これで小学生なのだから末恐ろしい。 しかし、破傷風はいくら何でも古過ぎるだろう……。 「ところで、散歩ですか?」 「今日は戦場ヶ原が用事らしくてな。自分で勉強してたんだが、行き詰まって」 「それで奇聞編纂というわけですね」 「違えよ。それに僕は国語が苦手なんだ」 正しくは、気分転換。 まあ確かに、僕のこれまでの体験は他人からすれば立派な奇聞に違いないが。 編纂したら本の一冊や二冊、ポンと出来そうだ。 「なるほど。つまり、阿良々木さんは頭が悪いのですね」 「そこはちょっと否定出来ないが……」 「阿良々木さんは頭が弱いのですね」 「人をスポンジ脳みたいに言うな!」 「頭が足りない」 「同じだ!」 「では、頭が足りなくて力が出ないというのは」 「僕の頭は食用か!」 割と、八九寺との会話はギリギリだと思う。主に著作権的に。 あと言うまでもないことだが、僕の産まれは人間の病院であり、断じてパンを焼く窯ではない。 「ですが、受験の方は大丈夫なので?」 「優秀なコーチがいるからな……。これから先は、さらに死に物狂いになると思うよ」 なるというかならざるを得ないというか。 受験の結果次第では僕の方が大丈夫じゃなくなる。 僕の専属コーチは、それはもう厳しくも恐ろしいのだ。 もし一緒の大学に行けないなんて事態になろうものなら、僕は死を覚悟しなければならないだろう。 ――戦場ヶ原、マジで容赦ないからな……。 「本当に大丈夫でしょうか。わたしは一抹の不安を覚えずにはいられません」 「お前なあ……これでもちゃんと頑張ってるんだぞ」 「阿良々木さんが受験前に学校を退学にならないかと」 「それは余計な心配過ぎる!」 「ああ、申し訳ありませんでした。阿良々木さんは退学などにはならない方です」 「よっぽどのことしないと逆に難しいぞ、退学は……」 「言い直しましょう。受験前に留年が決まらないか心配です」 「それこそ大丈夫だよ! お前僕を何だと思ってるんだ!」 「とにかく、カバラ木さん」 「他人をユダヤ教の神秘主義思想信仰者みたいな名前で呼ぶな。僕の名前は阿良々木だ」 「失礼、噛みました」 「絶対わざとだ……」 「噛みまみた」 「またわざとじゃないっ!?」 「買いました」 「僕は売り物なのか!?」 早くも本日二度目。 余談だが、ユダヤ教、カバラに於ける世界創造の過程を表した象徴図を、 もし意図的に木と樹を引っ掛けたのだとしたら、流石な手並みだ。 ていうかこいつ本当に小学生なのか。八九寺がいつから幽霊をやっているのか僕は聞いたことないが、微妙に――異様に偏った知識量からして、下手をすれば僕より実年齢は高いのかもしれない。 「………………」 「どうしましたか阿良々木さん。わたしをそんな熱の篭もった目で見て」 「いや、ちょっとな」 「さては―― わたしと一緒に組体操がしたいのですね」 「したくねえよ」 「そんな激しく見つめられるとぎっくりします」 「お前の腰は柳腰か!」 「阿良々木さん、どうでしょう、一人扇」 「それは組体操じゃない!」 八九寺真宵、初の身体を使ったネタだった。 勿論、そこにいやらしい意味は一切含まれていない。健全な性癖を持つ僕は、小学生に欲情したりしないのである。 ついでにもうひとつ言えば、ぎっくりするという使い方は間違っているわけでもなかった。 ……いや、話、逸れ過ぎだろう。 そろそろ本題に入らなければならない。楽しい会話で危うく忘れそうになっていたが、僕は八九寺に大変重要なことを訊こうとしていたのだ。 「あのな、八九寺」 「今度は何ですか阿良々木さん。ついに自分がポリゴンであることをハミングアバウトですか」 「僕はそんなカクカクしてねえよ。それと、機嫌良さそうに鼻歌も歌ってないからな」 ロリコンであることをカミングアウト。 その誤字には些か無理があると思うぞ。何がアバウトなんだ。 「失礼。ですが、公言しなくとも阿良々木さんは既に充分ロリコンだと思いますよ?」 「その発言が失礼だ!」 「いやらしい目でわたしを見ていましたから」 「まずお前は自分の姿を鏡で見てみろ!」 「そんなっ、いやらしいにも程があります阿良々木さんっ」 「今の台詞のどこにいやらしい要素があった!?」 「わたしが鏡に映る自分に見惚れている間に、背後から胸を鷲掴みにするつもりですねっ」 「しねえよ! ていうか見惚れるのかよ!」 ナルシストにも程がある。 「……伝えたいことがあるんだ。僕は、八九寺に」 「な……何でしょうか」 妙な間が出来た。 真剣な――真摯な表情で見つめる僕を前にして、微かに頬を赤らめる八九寺。 僕は八九寺の顔辺りに向けた視線を、ゆっくり、確かめるように下へと移した。 そして、 「どうしてお前は、こんな往来でブルマーを穿いて歩いてるんだ」 静寂。 八九寺も、頭を下げ、僕が指差した位置を注視する。結わえられた二つの髪も一緒に垂れ下がるが、それを気にする様子はない。 そのまま無表情で頭を上げる八九寺。数秒硬直。 「………………」 「………………」 「がうっ!」 唐突に噛み付かれた。 「痛え! 事実を言っただけなのに何故切れる!」 「阿良々木さんにデリバリーがないからです!」 「まあ、ないっていうかしてないけどな……」 デリカシーも、確かにないかもしれないが。 しかしそれでも今回は、僕に非は一切ないだろう。 相変わらず鋭い八九寺の噛み付きだ、犬歯のおかげでぐっさりと、見事なまでに負傷箇所の手の甲には穴が二つ開いていたが、僕の治癒能力も相変わらずなので、傷はすぐ塞がっていく。視認出来るほどの速度で、じゅくじゅくと、じゅるじゅると。 中途半端な、吸血鬼の性質。太陽に焼かれることも、十字架を嫌うことも、 こういう時には、有り難いとは思う。が、僕がこんなだから八九寺も遠慮容赦なく噛み付いてきたのかと考えれば、損得で勘定した場合、かなり損なのではないだろうか。 いや、治る治らないに関係なく八九寺が噛み付いてくる可能性は、全く否定出来ないが。 とにかく、今度こそ、ブルマーの件である。 「ずっと訊きたかったんけどな、それ」 「なるほど、阿良々木さんはブルマー姿のわたしを見て浴場していたのですね」 「してないからな。それと、浴場じゃなくて欲情だ」 ほとんど誤字だ。 発音は同じなので実に突っ込みにくい。 「では阿良々木さん、一体わたしから何を聞き出そうとしていたのですか」 「さっき言った通りだよ。どうしてお前は、こんな往来でブルマーを穿いて歩いてるんだ」 「今は耐寒訓練中だからです」 「嘘をつけ!」 「間違えました。避難訓練中だからです」 「理由になってねえよ! どこの小学生が避難訓練だからってブルマーに着替える!?」 「それは、体育の授業をしていたからではないでしょうか」 「有り得る!」 納得してしまった! 「何を隠そう、わたしのリュックサックには着替えも入っているのです」 「そうだったのか……」 「ちなみに使用済のものがほとんどです」 「洗えよ! 汚えよ!」 「ですので申し訳ありませんが、ロリコンの阿良々木さんに差し上げるブルマーはありません」 「要るかっ!」 一向に話が進まない。牛歩というか、一歩進んで二歩下がるというか。 八九寺との会話は正直滅茶苦茶に楽しいが、すぐ横にすっ飛んでいくのが困り物と言えば困り物だった。 「まあそれは嘘ですが」 「どっちが嘘なんだ! リュックサックの中身か!? それとも使用済の方か!?」 「阿良々木さんは笹身なことを気にする方ですね」 「僕は笹身より手羽中の方が好きだけどな……」 笹身ではなく、些細。 ちなみに、手羽中とはチューリップとも呼ばれる鶏肉の翼の一部位であり、よく一般家庭でグリル焼きとして食べられる。 「巴投げ」 「何故ここでそんな単語が出てくるのかがわからない……」 「わたしが何故ブルマーを穿いているのか、説明しましょう」 ともあれ、ようやくだった。本題に入るまで、長過ぎるにも程がある。 そう―― 改めて言うが、八九寺真宵はブルマーを着用している。上半身はいつも通り、見慣れた服装なのに、腰を包んでいるのは紺色の布。小学生にしてはそれなりに発育が良い八九寺のサイズに合わせぴっちりとしたそれは、幼さを多分に残す健康的な太ももを、惜しげもなく晒すのに一役買っていた。 ……正直、年齢的な問題に目を瞑れば、いかがわしい店の女の子みたいだった。勿論、口には出さない。 「ええと……あの、何という名前でしたか。一時期阿良々木さんをストーキングしていた……」 「ああ、神原な」 神原駿河。僕の彼女である、戦場ヶ原ひたぎの後輩にして――まあ、一言では言い表せないような奴だ。 「で、あいつがどうかしたのか?」 「あの方が楽しそうに阿良々木さんの名前を連呼しながら歌っていたのを見かけましたので、一度やってみたかった、尾行というものを仕掛けてみたのです」 「仕掛けるな! ていうか歌ってるのは止めなかったのかよ!」 「すると、何かをポロリと落とし、そのまま気付かず歩き去ってしまい、戻って来る様子もなかったものですから、お財布なら懐に仕舞おうと近づいたのですが」 「財布だったら追いかけて返せ! ……それで、もう先が読めるんだが、神原の落とし物は何だったんだ」 「フェルマーでした」 「………………」 「失礼。間違えました。ブルマーでした」 どうやってポロリと数学者を落とすのか、実行出来る人間がいるのなら是非見てみたい。 しかし神原、お前は何て物を持ち歩いてるんだ……。 「スクール水着も一緒に落ちてましたが」 「あいつとは絶対並んで歩きたくねえ!」 うっかりそんな変態道具を道端に忘れ置いてしまう奴の隣にいようものなら、社会的な立場が危うくなる。 ……ていうか、どう考えてもその二つは千石の時のあれだよなあ。セットなところが余計に怪しい。 「しかし八九寺、どうやって手に入れたのかはわかったんだが、肝心のお前が穿いてる理由を説明してないぞ」 「まだわからないのですか阿良々木さん。ここまで来ても答えに辿り着けないなんて、阿良々木さんは本当にニートなのでしょうか」 「高校生だよ! それにお前に馬鹿にされる謂われはない!」 「馬鹿って言った方がカバーなのです」 「え、カバー……? 何をカバーするんだ?」 「『昭和枯れすすき』などはどうでしょう。阿良々木さんにぴったりかと」 「すまん、僕はよく知らないんだが……どんな曲なんだ?」 「貧しさに負けたー、いえ、世間に負けたー」 「何が言いたい!?」 嫌がらせにしか思えなかった。 「いくら何でも脱線し過ぎだ……。強引に話戻すぞ、それで八九寺、何故ブルマーを?」 「それには、語るも涙、聞くも涙の複雑な事情がありまして」 「ふうん……八九寺がそんな顔をするんだったら、本当にそうなんだろうな」 「阿良々木さんを誘惑するためです」 ――今、僕の耳はおかしくなってしまったんだろうか。 軽く、コンコン、と側頭部を叩き、小指を入れて掃除してみる。 その上で、もう一度言ってみてくれと頼んでみた。 「阿良々木さんを誘惑するためです」 「………………」 聞き間違いじゃなかったのか……。 「どうですか阿良々木さん。わたしの姿を見て、興奮してきたでしょう。いいのですよ、大人の色香を今この時も振り撒いているわたしに劣情を覚えるのは、決しておかしいことではありません。ですのでさあ、手始めに靴を舌で舐めて磨いて下さい」 手で掴んで脱がして投げた。 「ああっ、何てことをするんですかっ」 「誰が舐めるか!」 「絶対におかしいです、ロリコンである阿良々木さんがわたしに興奮しないはずはありませんっ」 「突っ込みたいところはいっぱいあるがとりあえず、大人の色香とロリコンは正反対の単語だからな」 「今日は折角勝負下着で挑んだのに、相手にもされないとは」 「勝負下着って……」 「ちなみに阿良々木さん」 「何だ?」 「わたしはブルマーの下に何も着けてはいませんが、それでも駄目なのでしょうか」 「勝負下着はどこへ行った!?」 素肌に直接ブルマーらしい。 これで僕がロリコンだったら、確実に、完璧に、落ちていたのかもしれないが――当然一切そんなことはなく、むしろ引いた。ドン引きだ。捨て身過ぎる。捨て身過ぎて、逆に恐ろしかった。 ふと神原と八九寺を重ね合わせてしまったのは、この場合、決して間違いではないのだろう。 「残念です。このわたしの魅力で阿良々木さんを虜にして、カステラ蒸しパン一年分を奢って頂くつもりだったのですが」 「そんなこと考えてたのか……。ていうか、まだ諦めてなかったのかよ一年分」 「一日五個が希望でした」 「増えてるっ!? そんだけ食ったら太るだろ!?」 「申し訳ありません、阿良々木さんの経済力を少々甘く見積もり過ぎていました。一日十五個が希望です」 「三食カステラ蒸しパンじゃねえか!」 「巴投げ」 「今度は何だよ」 「いえ、巴投げって決まると格好良いですよね」 「どうでもいいよそんなこと!」 「阿良々木さんにはあの素晴らしさがわからないのですか。それだけで人生の一厘は損をしていますよ。負け犬人生ですね」 「一厘程度なら全然構わねえよ! ていうか何で巴投げ一つでそこまで言われなきゃならないんだ……」 「それは――阿良々木さんから負け犬オーラが出ているからかと」 「僕は自分を勝ち組だと自覚してる! 自覚……いや、どうだろう、勝ち組……なのか?」 「わたしのような、ブリティッシュな知り合いがいる阿良々木さんは勝ち組ではないでしょうか」 「お前はどう見ても日本人だけどな……」 ブリティッシュではなく、プリティー。 いや、そうかと訊かれても反応に困るのだが。 慇懃無礼。口調を基準にして考える限り、そこに小学生らしい可愛さは全くない。 「ともかく、だ。八九寺、拾ったブルマーとスクール水着はちゃんと神原に返しておけよ」 「わかりました。少々お待ち下さい」 僕に待機の言葉を掛け、八九寺はたっ、たっ、たっ、と駆けていった。 奔放に跳ね揺れる二つのお下げを眺めながら見送る。路地を右に曲がり、僕の前から姿を消した八九寺。おそらく、神原の家に向かったのだろう。あるいは途中、どこかで着替えてから行くのかもしれない。返すべき物を着たまま返せるはずは、ないのだから。 ……会話に熱中して先ほどまで気にならなかったが、七月の陽射しはかなり強い。右腕の時計に目をやると、八九寺と話し始めてからもう一時間以上経っていた。まっこと、時が過ぎるのは早いものである。ちなみにこれも余談だが、まっこと、とは土佐弁で「本当に、実際に」という意味だ。並列して僕の出生出身地は昔と変わらずこの町であることを記しておく。 さて、八九寺が一体どれだけの時間戻って来ないかが不明なので、その間僕は手持ち無沙汰だ。一人だから当然会話の相手もいるわけがなく、移動した日陰に改めて入りながら、僕は八九寺との掛け合いを心底楽しんでいることを知った。 会う度常々思うんだが、規格外とはいえ小学生に癒されてる僕って実は相当まずいよな……。 「只今戻りました」 「って、え? ちょっと早過ぎないか?」 唐突に、背後に現れた八九寺は、少しも息を切らしていない。 僕がぼんやりして気付かなかっただけかもしれないが――どうやら復路は歩いて来たようだった。 視線をおもむろに下へと移す。ブルマーは……よし、もう穿いてない。いつも通りの、スカート姿。 「着替えて、返してきたんだな。些か戻って来るまで短過ぎるのが気になるっちゃなるんだが」 「いえ。返してはいませんよ?」 「は? じゃあ何で戻って来たんだよ」 言うと、八九寺は背負ったままのリュックサックに手を突っ込んだ。 位置関係を考えるに、随分器用な仕草である。ごそごそと、探る音。 そして目的の物を見つけたのか腕が引き抜かれ、 「阿良々木さん、こちらをどうぞ」 反射で僕も、犬がお手をするように差し出した。 掌に上から何かが置かれる。特徴的な、布の感触。 ――錯覚でなければ、ブルマーとスクール水着だった。しかもブルマーは妙に生温かかった。 小学生からそんなものを受け取る高校生。誰であっても誤解する。どころか、誤解では済まない、見つかればすぐにでも通報されそうな構図だ。その場合、まず言い訳弁解は意味を成さないと思われる。 躊躇わず、僕は掌のそれを力の限り地面に叩きつけた。 「お前は僕を犯罪者に仕立て上げる気か!?」 「ブルマーは脱ぎたてですよ」 「そんな注釈は要らない!」 「その方が阿良々木さんは喜ぶと思いましたので」 「普段お前はどんな目で僕を見てるんだ!? 洗えよ! 汚えよ!」 後半は一文字違わず二度目の台詞だったが構わない。 ちょっと会話を楽しんでいられる状況じゃなかった。 周囲の警戒を怠ってはならない、こんな現場、誰かに見られようものなら、僕の人生は間違いなく終わってしまう。 「どうしましたか阿良々木さん。まるで挙動不審者みたいですね」 「誰の所為だ誰の!」 「はて、誰でしょうか。わたしには皆目見当付きませんが」 「鏡を見ろ鏡を!」 「阿良々木さん、物は大事にしないといけませんよ」 「正論だ!」 その通りだった! 二度ネタのオンパレード。 ともあれ、僕は仕方なく下に投げつけたブルマー(使用済)とスクール水着(たぶん未使用)を拾い上げる。 ……これをこのまま神原に返したら、喜びそうだよなあ。千石が洗濯してきたことを伝えた時、即座に「なんてことを!」と絶叫したし。出来ることなら、もう思い出したく、思い返したくない記憶だったが……。 「まあ聞いて下さい。いいですか阿良々木さん、わたしはあの方と面識がありません」 「ああ、確かにそうだな……。お前と神原を会わせたら面倒なことになりそうだしな……」 神原駿河は百合である。 年下の女の子ならば十秒以内に口説ける自信があるらしいので、そんな奴に八九寺を会わせるのは、猛獣の檻の中へ小動物を投げ込む行為に等しい。 「ですので、阿良々木さんから返していただければ万事丸く収まるのではないかと」 「何かそう言われると、正論のように聞こえるのはどうしてだろう……」 「人チックさんがロリコンだからではないでしょうか」 「理由になってねえよ! お前は何が何でも僕をロリコンにしたいのか! あとその呼び名は懐かし過ぎる!」 使うタイミングが最悪だった。ロリコンは人間じゃないと言わんばかりだ。 「わたしは阿良々木さんを信用しているのですよ」 「そんな信用は欲しくなかった!」 「辛抱すればきっといいことがあります」 「心臓が先に参りそうだ……。はあ、わかったわかった。これは後で神原の家にでも行って渡しておくから、せめて袋か何かに入れさせてくれ。八九寺、今丁度良さそうなの、持ってないか? コンビニのビニール袋とかでもいいんだが」 「手提げならお貸ししましょう」 「サンキュ。……ん? 何故僕はお前に感謝してるんだ?」 「気にしては負けですよ」 「気にするだろ普通……」 再びごそごそ。張り詰めたリュックサックから、手提げが取り出される。 渡されたそれは、小学生らしく厭にファンシーなデザインで、端にリュックサックと同じ筆跡で「5−3 八九寺真宵」と書いてあった。 可及的速やかに問題の物を入れ、出来る限り小さく、コンパクトに丸めて小脇に抱える。中身は当然ぐしゃぐしゃ、皺も付いてしまうだろうが、ここで大事なのは僕がブルマーやスクール水着を所持しているところを誰かに見られないことである。絶対に、気付かれても悟られてもいけない。 「そう考えると、どこぞの工作員みたいだな……」 「これから重要な淫夢と言うわけですか。格好良いです、阿良々木さん」 「どんな夢だそれは」 ていうか、小学生が淫夢とか口に出すな。 「では、ここでお別れですね」 「ん? 八九寺、何か用事でもあるのか?」 「わたしには大事な指名がありますので」 「誰のだ!?」 「幼女偏愛趣味の阿良々木さんにはもう構っていられません」 「遠回しにそれはロリコンって意味だろう!」 「今月は『ロリコンに厳しく』がクラスの標語です」 「お前の学校は異常だ!」 最後まで。 八九寺との会話は、一瞬たりとも気が抜けない。 しかし、嵌ればそれがいいと思えてしまうのだから――全く、重ね重ね、楽しい奴だ。 「では、阿良々木さん」 「おう。八九寺も元気でな」 「次からは背後を取られないよう気をつけます」 「別に気をつけなくてもいいけどな……」 駆けていく八九寺。 残された僕は、小脇に危険物を抱えたまま――これから行くべき場所、会うべき相手のことを考えて、複雑な、憂鬱な気分になった。 さて――神原には、どう弁解したものか。 002 後日談というか、今回のオチ。 翌日、いつものように二人の妹、火憐と月火に叩き起こされ、これまたいつものように朝食やら着替えやらを済ませて学校に行こうと玄関を出ると、戦場ヶ原が制服姿で待ち構えていた。ご丁寧に、腕まで組んで。仁王立ちで。 激しく嫌な予感がしたのだが逃げること叶わず(そもそも逃げられるとは微塵も思っていない)、二人で登校しましょう、という言葉に従って、並んで歩き始める。さながら十三階段を上る死刑囚の心境で、僕はただ戦場ヶ原の次の一言を待つしかなかった。 「神原に、落とし物を届けたそうね」 「ん……ああ。まあな」 「あの子、随分とあなたに感謝してたわ。失くして困っていたので本当に助かった、って」 傍からすれば日常会話、当たり障りのない内容なのだが、内容に聞こえるのだが――当人たる僕には、脊髄に冷水でも流し込まれたかのような恐ろしいプレッシャーが感じられる。戦場ヶ原ひたぎ。冗談のような嫉妬深さを持つ、僕の恋人。 「それはいいのだけど――阿良々木くん」 「はい」 「ブルマーが、人肌で温められていたそうなのよ。汗で湿っている、とも聞いたわ」 「………………」 「それをあの子はとても嬉しそうに語ってくれたけど」 「嬉しそうだったのか……」 「阿良々木くんなら、その理由……いえ、原因が、わかるのかしら」 冷や汗だらだら。 どうやら僕は、戦場ヶ原に仔細隠さず昨日の出来事を話さねば、ならないらしい。 事実関係も含めて正しく、誤解を招く言動をせずに伝えることが出来たなら、想像するのも恐ろしい未来は訪れないと信じたい。信じたい、けれど――徹底したその無表情っぷりを見る限り、それは、回避不可能なようだった。 ……わかっちゃいたけど神原、お前戦場ヶ原相手だとすっげえ口軽いのな。 「さあ、勿体ぶろうなんて思わず、委細正直に吐きなさい。でないと、明日辺り神原がスクール水着にブルマーを穿いた姿で阿良々木くんの前に現れ抱きついてくるわよ。『暦お兄ちゃんの言った通りにしたから……褒めて』って言いながら」 「そんなことになったらもう二度と学校には行けねえよ……」 スクール水着の上にブルマーという発想がまずマニアック過ぎる。あと、神原はそんなキャラじゃない。どちらかと言えば千石だ。精々一致してるのは口調だけだが。 ついでに、戦場ヶ原の声真似は相変わらず全然似ていなかった。 「もし、もし阿良々木くんが特殊な趣味の持ち主だったら、私はちょっとこれからの付き合い方を考えなきゃいけないと思うのよ」 「全く以ってそういう事実はないから安心しろ」 「え? 今度裸エプロンで起こして朝食を作ってくれって言ったのは嘘だったの?」 「言ってねえよ! 僕を勝手に倒錯した欲望を持った人間みたいに語るな!」 「夏休みには実行しようと思ってるのだけど」 「頼むからやめてくれ! 前にも言ったがその現場を家族に見られたら確実に家庭崩壊するわ!」 「まあ、阿良々木くんにはそんなことしてくれなんて懇願する度胸はないとわかってたわ」 「度胸以前に懇願する気が微塵もないからな……」 「後でこっそり頼むつもりなんでしょう?」 「お前は僕を何だと思ってるんだ!」 「恋人よ」 「う……」 ――本当に、直截的。飾るということをしない。 そういうところも含めて好きと言えば好きなのだが、また八九寺とは別の意味で、気の抜けない相手である。 ともあれ――僕が学校に着く前までにしなきゃならないのは、戦場ヶ原をどうにか説得して納得させる、べらぼうに難易度の高いミッションらしかった。 まあ。 大変でも、こういう日常は――悪くない。 ロリータこんぺ2に出したもの。13/25位でした。 もうやりたい放題やれたので満足です。もしかしたら、続きを書く、かも。 だとしたら次は『ひたぎエプロン』。これもきっと駄目なおはなし。 |