腐臭がする、と思った。
 酷く甘やかで、どろどろに溶けて腐り落ちた果実のような――見るだけで奈落の底に引きずり込まれていくような。
 そういう、死と破滅の匂いが、彼女からはした。



「……何してるの?」
「見ればわかりますでしょうに。ふ、ふふ」

 いつ頃意識が閉じたのか、思い出せない。
 シーツの乱れたベッドに横たわっていたぼくは、シャツの前面を剥かれていることに気付いた。
 腹の辺りに跨った彼女が、ぼくの胸に舌を這わせている。
 何故、と聞く必要もない。
 彼女はしたいからそうしているだけであって、明確な理由も、意図も、そこには存在しないのだから。
 赤くぬめる舌が、官能的に蠢く。
 首を起こしたぼくに、情欲で濡れた目を向けて、細める。
 静かで、細く空気を漏らすような笑い声。
 半ば掠れているのに、耳について離れない。

「ふ、動かないで、くださいまし……ん、ふふ、ちゅ……」

 何度も何度も、執拗に同じ箇所を責められると、理性をちりちりと炙られる錯覚を得る。彼女は男を“その気”にさせる術を知り尽くしているのだと、短くない付き合いの中でぼくは嫌と言うほど理解した。
 好き勝手に舌先でぼくを弄んでから、緩やかに彼女は身を起こした。
 体型のみを見れば、決して女らしくはない。
 細過ぎる腰は逆に痛々しくすらあり、腹にも手足にもまるで肉がない。肋には骨が浮き、ともすれば病人と見間違う身体付きをしている。
 一秒たりとも陽を浴びない肌は青白く、皮膚に浮いた血管が見える。地に付くほど長い、和人形のおぞましさを彷彿とさせる黒髪に、異様な紅い唇。覗き込むとそのまま心を持っていかれそうな、黒々と濁った瞳。
 美しさに種類があるのだとすれば、彼女のそれは、壮絶だ。
 常世の存在ではないとさえ思う。

「れろ……、最近は、抵抗しませんのね」

 その方が好きじゃないのか、と問えば、彼女は嬉しそうに笑う。それならそれで、楽しむだけですの。
 鼓膜を震わせる囁きに、ぼくの身体は勝手に反応する。
 随分前から、主導権は彼女のものだ。
 初めて会った時より、奪えたことは一度もない。
 細く、骨の硬さを感じる指先が、ぼくの頬に伸びてくる。愛おしげに撫でる傍ら、もう片方の手は下腹部を手繰り、絡みつく。
 綻ぶ彼女の瞳は、相変わらず澱んでいた。
 そしてそこに、ぼくも沈み込んでいる。



 黒羽と呼んでくださいまし、と彼女は名乗った。
 それが本当の名前かそうかは、今でもわからない。嘘でも見抜きようがないし、実際はどうであれ、彼女がそう言うのなら、ぼくにとっては黒羽という響きだけが彼女を示す記号だ。
 ぼくたちの世界は、いくつかの部屋の中に限定されている。寝室と、食事をするための居間と、トイレと風呂場。玄関らしき扉はあるが、ノブも鍵も見当たらない。他の部屋には仕切りなんて洒落たものはなく、一応風呂場だけは普通のドアが付いている、くらい。
 食事は彼女が作ってくれる。というか、絶対ぼくを台所に入れようとしない。やたら大きな冷蔵庫には大量の食材が詰め込まれていて、おそらく定期的に補充されている。誰が、というのはわからないし教えてもくれない。
 着替えは朝になると真っ白なシャツと下着が寝室の隅に置かれている。もっとも、お互い一日の半分は裸だから、なくても困らないと言われればそうかもしれない。それでも起きたらぼくも彼女も服を着るし、きっとこれからもそうするだろう。
 窓もなく、時計もなく、果たしてここはどこなのか、高いところにあるのか地下にあるのか、今が朝なのか昼なのか夜なのか、外はどんなことになっているのか、ぼくはずっと知らずにいる。
 彼女は何も言わず、ただぼくのそばで鳴く。

「あなたはここにいてくれさえすればいいんですのよ」

 その言葉通り、不自由ない生活を与えてくれた。食事も、寝床も、彼女自身の身体も――およそ彼女が差し出せる全てを、ぼくは惜しげもなく得ることができた。
 だから代わりに。
 ぼくは、ぼくの人生を差し出したのだ。



 初めて彼女を見た時から、ぼくの人生は始まったと言ってもいいだろう。
 昔の記憶がぼくにはない。
 歳も、仕事も、家族のことも友達のことも――そもそもそんな上等なものを持っていたのかも、みんなどこかに置き忘れてしまったらしい。
 きっとそれはとてもとても不幸なことで、ぼくは可哀想だと指差される人間なのかもしれないけれど、たぶん幸いなことに、彼女は一度も可哀想だとは言わなかった。

「黒羽はあなた以外要りませんのよ」

 毎日毎日、耳元で彼女は囁きを繰り返す。
 片時も離れず、溶岩のように熱く粘ついた情欲と愛を、あの奈落にも似た瞳に乗せてぼくへと投げかけてくる。
 彼女が語る、あるいは行動で示す愛情は明らかに重過ぎるものだったけど、不思議とそれが嫌ではなかった。
 空のグラスに色水を注げば、グラスも同じ色に染まって見える。
 たぶんぼくも同じで、仮に記憶があったなら、すぐにでもここから逃げたいと思ったのかもしれない。
 あくまで仮定の話。
 このままずっと飼い殺しにされるのだとしても、ぼくはもう構わなかった。何だかんだで、今の不自由な不自由のない生活にも慣れた。彼女には充分以上に中てられて、染まった。
 変質した。
 ぼくの腹の上で形のいい尻を歪めながら、一心不乱に胸元をべたべたの唾液まみれにしている彼女に対しても、恨むような気持ちは全くない。
 緩慢な堕落へと誘う彼女は、外見の異様さもあって、人間よりも悪魔の類と言った方がしっくり来るくらいだけど。
 彼女は結局、どこまで行っても彼女だ。

「……唇が寒そうですのね」

 すぅっと顔をおもむろに近付けてきた彼女が、覆い被さるようにして唇を奪ってくる。吐息は熱いのに、触れた箇所は冷たく、まるで血の気がない。ぞっとするほどの紅さとは正反対で、こればかりは何度しても違和感を禁じ得ない。
 当然の如く舌先が唇を割る。ぼくはそれを受け入れ、流し込まれる唾液を素直に飲む。熱く粘りの強い、蜜の味。彼女の体液は腐臭に似て酷く甘い。
 ぼくの身体と精神を犯す、毒のようだと思う。
 近過ぎてぼやけた彼女の目は、弓なりに細められていた。笑っている。嬉しそうな、大好きで大好きでたまらない玩具を手に入れた子供の稚気を連想させる目。

「あぁ……ふ、ふふ、感じますの? いやらしい黒羽の、とろとろになったここが」

 わざと尻を後ろに引きずって、彼女は背を反らし上半身を起き上がらせる。白いおとがいと、お世辞にも大きいとは言えない胸。痩せて肉のない腰。およそ女らしさの欠ける、だからこそおぞましい色気を漂わせる肢体。
 ぼくと彼女の境界は、溶け合うことを望むようにぬかるんでいる。
 だからそうした。
 本当はどっちが欲しがってたかなんて、その時にはわからなくなっていた。



 ぼくの上に彼女がいる。
 痩せ細った身が揺れる度、重い水音が頭に響く。
 だらしなく開いた口元から涎が落ち、肌に浮いた汗と混じり合う。繋がりから共に腐り果てていく感覚。
 喘ぐ声の中に、細く奏でる笛のような笑声が聞こえる。貪欲に腰を振り、幾度も熱と命の欠片を搾り取っては嬉しげに。
 繰り返し繰り返す。
 ぼくがからからに枯れるまで、彼女が倒れて動けなくなるまで。
 腐って、溶け合って、それでもひとつになりきれないぼくらは、繋がったままに眠り続ける。
 朝も昼も夜もなく、目覚めては重なり、蕩けては果て、疲れては眠り――ぼくと彼女は、おそらくそうやって完成した。

「何も考えなくていいんですのよ」
 「ただ」
  「ただあなたが、黒羽のものでいてくれれば」
   「それで」
    「それ以外は望みませんの」
     「あなたもそうでしょう?」
      「だって」
       「だって黒羽は」
        「ずっとあなたのものですもの」

 ここがいつかもわからない。
 いまがどこかもわからない。
 ぼくのそばで彼女はさえずる。
 濡れて、浸って、濁った瞳でぼくを絡め取る。

 気付けば腐臭は、ぼくからも漂っていた。
 けれどそれすらも、もう――



 ――世界の終わりまで。











 まっくろでぐちょぐちょな話が書きたかった。後悔はしていない。





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