―――― 明日なんてものは、あるんだろうか。
わからない。そんなこと、僕にはわからなかった。





冬が来た。吹く風は冷たく、大気は乾き、ぽつぽつと植えられた木々は葉を完全に落としきって寒々しい。
凍えるような昼の空の下を歩きながら、運命について考えていた。 それは希望なのか、あるいは絶望なのかと。
人間は生きていて、どんな瞬間でも無数の選択肢を抱えている。
あの時ああしていれば、この時こうしていれば。
そんな風に振り返るというのは後悔の類でしかないだろうが、 仮定した分、仮想した分、もしかしたらそれ以上の未来が存在していたのかもしれない。
でも、今こうしている自分はたったひとつの可能性しか選ぶことは出来ていない。
どれだけの分岐点があったとしても、複数の道を同時に歩くことは無理なのだ。
決まった未来。決まった道。決まった可能性。
枝分かれしているように見えるのは錯覚で、本当の行き先は他になくて、 ただ僕達は否応なく進み続けているだけじゃないのか。
そして、例えどんな生き方をしても、どんな決断をしようとも、 最後には等しく同じ結果が待っている。
誰もが生まれ、死んでいく。誰もが生きて、果てていく。
その輪から逃れることも出来ずに。一握りの例外もなく。
それは希望なのか。あるいは絶望なのか。

「…………どう思う?」

答えはない。初めから期待もしていない。答えてくれる相手の一人も僕の隣にはいないのだから。
上着の前をきつく閉めて、北風を避けるように歩いた。
ほんの僅かまだ枯れ木の枝に残っていた葉が飛ばされていった。
流されていく、その様子を僕はぼんやりと眺める。
視界から消えてしまうまで。
微かな秋の名残が、なくなってしまうまで。





屋上が僕のお気に入りで、春の晴れた日なんかはよく寝転がってひなたぼっこをしたものだ。
校庭で騒ぐ生徒達の遠い喧騒を子守唄に、制服が汚れることも構わずに。
けれど今は、涙が出そうなほど寒い。指先の冷たさに顔をしかめながら、 下から持ってきた毛布に包まって横になる。
陽射しの温かさを相殺して余りあるくらい冬の風は厳しく、直に体が震え出す。
それでも僕は屋上から動かず、季節外れのひなたぼっこをし続けた。
辛くても、辛くても。こうしていれば何かが見つかるかもしれないと、 必要としているものが見つかるかもしれないと思って。
……僕は、つまらない子供だった。
多くのものから目を背け、多くのことから逃げ出して、生きている意味を失っていた。あの枯葉のように、流され続けてきた。
昔の僕にとって、未来なんてものは、明日なんてものは、絶望でしかなかったのだ。
時が経たなければいい。世界が凍ればいい。何もかも、壊れてしまえばいい、と。
だからこれは、この世界は、そんな僕に対する罰そのものなのだろう。
失ってからようやく、その意味を知った自分自身が言うことなのだから間違いない。

「僕は、ひとり。ここにひとり。たったひとり」

呟いても仕方ない。言葉を向ける相手もいないから。だから答えもない。答えてくれる人がいない。
この場所にあるのは、ささやかなぬくもりと、それを覆い尽くす大気の冷たさだけ。僕の求めている物なんてひとつもない。
否定ばっかり。苦笑しながら立って、重い扉を開けた。もう、空腹に耐えられそうになかった。





いつからかはわからない。どこからかもわからない。気づいたらそうなっていた、というのが一番正しい。
目覚めたら孤独だった。気持ち悪いほどに静かな朝を迎えて、違和感を覚えた僕は家の中を走り回って。
キッチンに立って朝食を作っているはずの母も、椅子に座りながら新聞を読んでいるはずの父も、 いつもギリギリの時間に起きては慌てて支度をする弟も、どこにもいないことを知った。
初めは何かの冗談だと思って外に飛び出し、パジャマ姿のままで、靴も履かずに大通りまで行き着いて、 けれど誰も、本当に誰もそこには居らず。認めざるを得なかった。
自分以外の何者も存在しない世界を。自分以外の全ての未来が失われた世界を。
あの時僕は、帰らなきゃ、と思った。家へ。そこが戻るべき場所だと信じて。
裸足で歩くのは凄く痛かった。あまりのアスファルトの冷たさに足裏の感覚は麻痺して、 薄い寝間着の裾や袖から入る空気も泣きそうになるほど。
それでも足を止めなかった。家まで帰った。一人きりで、一日を過ごした。
これが夢ならいいと。醒める悪夢であればいいと。
―― 朝は来た。幻でない世界がまた僕の前に現れた。
次の日を迎えて、でも今が「あした」なのかはわからなかった。
時間の経過を判断するのは、いったい何であろうか。
気温の上下、空の色、自分の体調、そして自分以外のモノの流れ。
時計の針が、数字が、本当の世界と比べて欠片もズレていないと誰が言える?
疑えばキリがない。終わりがない。全てが嘘に思えてくる。
そう、果たして、僕のいるこの場所に「あした」は来るのか。
本来当たり前であるはずの「あした」は約束されているのか。
疑問。疑問は尽きない。尽きないけれど、答えは出ない。
これは自分が解決できる問いではないのだ。だって……僕は、観測者じゃなくて当事者だから。
滑稽な姿を、嘲笑われる方だから。
どうしてこうなったのか、理由を考えたこともあった。
例えば建物や自然は残っていて、人間や動物は残っていない。それは何故なのかと。
あくまで一般的な高校生レベルの知識しか持ち合わせていない僕には、 馬鹿馬鹿しくありふれた仮定しか導けなかったけど、結局そんなのは無意味で。
過程が何であろうと関係ない。「こうである」という結果が一番冴えた結論だった。
今まで、僕の生活は固定されていた。朝目覚めて母が作った食事を急いで消化し、着替えて学校へ行く。
つまらない授業を聞き流し、
友人と呼べる人達と他愛ない話をし、
昼になれば誰もいない場所を探して一人の時間を過ごし、
放課後になれば部活もせずに真っ直ぐ帰宅する。
適当に宿題を終わらせ、仕事で疲れた父の小言と家事に疲れた母の愚痴を右から左へと耳も傾けず。
風呂はシャワーでそこそこに、布団で緩やかな眠りに就く。多少の差異はあれ、同じような日々の繰り返し。
それががらっと変わってしまった。そもそも、一日の半分を消費する学校に行く意味を失ってしまったのだから。
電気ガス水道は完全に止まってしまったので、まず僕は水を保存する手段を模索した。
濾過機を作り、運良く徒歩三十分ほどの場所にあるそれなりに綺麗な川から必要な分を取ってくる。
次は食料を調理するためのもの。物置に仕舞ってあった持ち運べるサイズのガスコンロを引っ張り出し、 小型ガスボンベをコンビニで頂戴した。包丁や鍋などの器具は家にあるもので。
最後に明かりだけど、これは大量の蝋燭を集め加工して使った。
最初はレトルトやインスタントで満足できた。でもすぐに味に飽きて、少しずつ料理を覚えていって。
思えば、随分と刹那的な生き方をしていると思う。
致命的な怪我をしても、手術が必要な病に罹ってもそこでお終い。
それはそうだ。病院だって便利な施設も人ありきなのだから、無人の病院なんて役立たずもいいところだろう。
……まあ、その時はその時。死ぬ時は死ぬ。そんなドライな考えがついたのも此処最近のこと。
僕の暇潰しの手段は、読書か考え事のふたつに限定されている。
一人で出来るスポーツなんて高が知れてるし、 テレビやラジオやインターネットといったものは全て電気に依存していて問題外。
他人との会話も勿論望めない。そもそも選択肢が皆無な訳で。
そのおかげかどうかはわからないけど、今では立派な哲学者だ。
過去のソフィスト達と討論したら引き分けに持ち込める自信もないとはいえ、 毎日必死に生きている人からすればどうでもいいようなことばかり飽きずに考えられるくらいにはなった。
やることがある、というのは素晴らしい。余計なことを考えずに済むから。
なのに今の自分にとって、するべきことがいったいどれほどあるというのか。
最低限死なない程度に食事をし、睡眠時間を取り、運動不足にならないよう歩き回る。それくらいだ。
一日は24時間。食欲と睡眠欲を満たすだけでは、多量の時間が余ってしまう。
その空隙を埋めるために出来るのは、知識を増やし思考の海に沈むことしかなかった。
人は何のために生きるのか。与えられた人生を、食い潰すためだけに生きるのか。
時の経過と共に疑問ばかりが増えていく。
そして、そんなくだらないことを考える余裕が僕にはあった。それだけの話。
でも、ひとつはっきりとわかっている。
馬鹿みたいに足掻いても、もういいと諦めても、結局僕がここにいるのに変わりはないんだ、と。
それで「あした」が「あした」でなくなるわけではないんだ、と。





二ヶ月を過ぎて、もういい加減月日なんて概念を忘れてきた頃。
僕は初めて、自分以外の声を聞いた。何気なく歩いていた細道の陰にうずくまる姿。
小さく、弱く、儚く鳴いていたのは、一匹の黒猫だった。
近づいても、抱き上げても抵抗しない。為すがままに腕の中へと収まり、あったかい、と思った。
湿った感触がてのひらに伝わる。獣の匂い。今までなら不快であったはずのそれも、まるで気にならなかった。
五分ほどだろうか、腕が疲れてきたので降ろすと、猫は逃げずにまたうずくまる。
辺りに他の猫はいない。どうやらこいつも一人らしい。いや、一匹と言った方が正しいのか。
とにかく僕は、自然と笑顔になるのを抑えられなかった。
嬉しくて嬉しくて。ただ、こんな暗い場所で猫と出会っただけなのに嬉しくて。 理由なんて知らない。どうして僕と、こいつだけなのかなんて知らない。知ったこっちゃない。
これは理屈じゃないのだ。現実は現実。喚いても叫んでも、揺るがない現実。
だからこそ、僕とこいつが一緒にいる、それが何より有り難かった。
ずっと一人でいたから、言える。寂しいのはもうごめんだ。
自分のエゴであるのを理解しながら、僕は猫を連れ帰った。
抱いた腕に感じる命のぬくもりが、おそらくは一人と一匹を繋ぐ唯一の糸だった。





子猫ではないとはいえ、弱っていたので猫缶と水を用意しながら取ってきた本と格闘した。
お湯を張って温めたり、死なないように頑張ってみた。その努力が実ったのかどうかはわからないけれど、 数日後には元気になって、僕の手を引っ掻くくらいには回復したみたいで。
恩人に向かって何するんだ、なんて文句が通じるはずもなく、 薬局から持ってきた消毒薬を吹きかけて染みる痛みを我慢しながら苦笑した。
それからは、猫と過ごす時間が増えた。
ボールを与えてじゃれる様子を眺めたり、
一緒にご飯を食べたり、
潰さない程度の力で抱いて布団の中で眠ったり。
少しずつ、猫のことを考えるようになった。
今日は何をしようか。たまに引っ掻くのは勘弁してほしい。お前抱きしめると気持ちいいなぁ。
そんな他愛ない、昔の自分ならどうでもいいと言ってしまってたことを。
過ぎていく日々の中で間違いなく僕は、安らぎを感じていた。
孤独でないことがこんなにも有り難かっただなんて、思いもしなかった。
だから、錯覚してしまったんだ。この時間が永遠に、永遠に続いていくものなんだと。





月の明るい夜だった。蝋燭の灯火を頼りに、僕は小さな毛布を探す。
一度転んだ。二度頭をどこかにぶつけた。軽いたんこぶを作りながらも足は止めない。
見つからないから焦る。焦るからまたつまづく。悪循環。傷が増える。痛い。冷たい風が染みる。
無様で、不恰好で、滑稽な姿を晒して。それでも探す。僕は毛布を探す。
必要だから。今、何よりも必要だから。どこに置いただろう。あそこだったか。こっちだったか。
ボロボロになったから捨てたんだったっけ。覚えてない。僕の使っている布団は少し冷たくて、 猫を寝かすには向かないから。だから見つけないと。見つけないといけないんだ。

「…………あ」

あった。投げ捨てられた形で床に広がっていたそれを、僕は踏みつけていた。
すぐに足をどかし手に取る。汚れを落とす。また来た道を戻るのは大した苦労じゃなかった。
もともと自分の家なんだから、焦って転ぶ方がおかしいのだ。
寝室まで今度は無事に引き返し、ゆっくりとしゃがむ。
音を立てないように、床を揺らさないように、そっと身体を動かして、毛布で包んだ。
微かに震えたのがわかって、僕は歯噛みした。
意味のないことだと知っていながら、それでも悔しいと、悲しいと、苦しいと感じずにはいられない。
……緩慢な、実に静かな進行だった。何の前触れもなく訪れた現実。
まず散歩に行かなくなった。長い時は二時間も帰ってこないほど好きな散歩に行かなくなった。
その分なのか、眠る時間が殊更に増加した。起きることが段々と少なくなり、 そして、餌を食べなくなった。缶を開けて前に置いても全く反応を見せない。 あるいは、鼻が利かなくなったのかもしれないと思えるくらいに。
食事をしなければ当然衰弱する。目に見えて痩せ細り、遂には水さえ飲まなくなって。
僕はただ、そんな様子を見守ることしか出来なかった。
どんなに毛布で包んでも、優しく抱き上げても、そっと頭を撫でても、何も変わらない。
淡々と、名前もない黒猫は死に近づいていく。原因もわからない。
あまりにも理不尽な、日常の崩壊。
それを運命と言うのなら、神様の悪戯と表現するなら、やはり絶望なのだ。
来るべき「明日」に待っているのは、絶望でしかないのだ。僕は誤解していた。
運命がここまで呪わしいものだとは思いもしなかった。
―― こんな明日なら、来なければいい。来なければいいのに。
そう、願った。本気で願った。だけど心の奥底ではしっかりと理解していて。
必ず、必ず今日が過ぎて、明日がやってくると。すぐに終わりの時を迎えるのだと。
認めたくないのに、認めていた。
でも、そこまで来ても僕は、自分が思考したことの本当の意味を、わかっていなかったのだ。





両手に抱いた小さな身は骨の手触りを強く感じるほどに細く。
生きている証とも言える肌の熱も、燃え尽きかけた炎のように儚く薄れ始めている。
まだ声は聞こえるのか、僅かながら話しかけると耳を動かしてくれた。
……こいつは、今どんなことを考えているんだろう。
僕に猫と会話するなんて芸当はないし、そもそも会話の出来る状況ではないけれど、 もし言葉が通じたら何を聞けただろうか。ひとつだけ問いが許されるならば、僕は教えてほしい。
君には明日があるのか、って。答えはそれこそ想像しかできない。ただ、僕はこう考えている。
猫に明日、という概念はなくて、ずっと今日しか存在していないのかもしれないと。
明日なんて不確定な未来に囚われず、自由な今日を生きているのかもしれないと。
そうであるなら……羨ましい。だってそこに、絶望する気持ちはないだろうから。
時が経って、空の色が移ろって、僕は立ったままで、猫はゆっくり終わっていった。
窓を抜けて床に射す光が橙に変わった頃。一人と一匹の日々が、音もなく潰えた。
壊れ物を扱う手つきで地面に下ろし、僕は膝を着いて、死にたいと思った。 自分で死ぬ勇気もないくせに、死にたいと思った。だけど生きていかなきゃ、そう思った。

―― 瞬間、文字通り世界が崩れた。

建物が、空が、地面が、僕のいるこの場所がひび割れて壊れ始めた。
まるで、あの黒猫の死を皮切りにしたように。全てが等しく消えていく。
……今まで僕は、自分こそが世界の中心だと信じていた。けれどそれは、あまりにも酷い思い違いだったのだ。
生きてただけ。僕はここで生きていただけ。僕の世界が終わるまで、生かされていただけ。
なのにそんなことにも気づかず、覚悟のひとつも持たずに最期の瞬間を迎えてしまった。
もう遅い。時間は、絶対に戻らない。
足元の床が消失した。立っているという概念を失い真っ逆さまに落ちていく。
そのうち上下左右の区別もつかなくなって、僕以外の何もかもがなくなり、 そして……僕も、消える。死ぬ。死んでしまう。

「嫌だ、まだ、まだ死にたくない……っ!」

嘘だから。こんな明日なら来なければいいなんて願いは嘘だから。 明日に行きたいんだ。続きたいんだ。生きていきたいんだ!
必死に、手を伸ばす。ほんの微かな、有り得ない望み。
誰かが僕の手を掴んでくれることを祈った。

―――――― !』

一瞬、懐かしい声を聞いた気がして。指先に触れる感覚。あったかい何かの感覚。
でも、届かない。遠ざかる。そのぬくもりが遠ざかる。
眠くなってきた。抗えず、緩やかに閉じていく意識の中で、思う。

―― あしたなんてものは、あるんだろうか。
わからない。ただ、僕には最早縁のないものだ。





「……ご臨終です」
その日、一人の少年が息を引き取った。唐突な交通事故による、およそ三ヶ月に及ぶ昏睡状態の末に。
彼の母が手を取り名を叫んだ時、少年は一筋の涙を流したという。
閉じた世界の中で彼が何を思ったのか、家族にはわかるはずもない。

ひとつ、確かなのは―― 彼にもう未来あしたは約束されていない、それだけだった。





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こちらはYahoo文学賞に応募したもの。時効だしいいよね。
たまーにこういう妙に暗い、救いのない話を書きたくなったりします。
いえ、救いがないというより、やっぱりその、どこにでもあるようなおはなしなんですが。
ほとんど最初から最後まで、ぶっちゃければ夢オチという全く以って容赦のない内容w

割とある意味では『なにかのおはなし』に近い衝動だったりします。
ぱっと光が煌くような一瞬、私の中のさらに深い"わたし"が語りかけるストーリー。
そんなおはなしをいつでも書ければな、なんて思いますが、そればかりは時の運というかひらめきなので。

悲劇は悲劇だからこそ共感を得やすい。
奇跡は陳腐だからこそ同情を得やすい。
日常は当然だからこそ誰も気づかない。

傍から見ればすぐわかる悲劇でありながら、ほんの些細で陳腐な奇跡は誰にもわからない。
"あした"が来ないという日常も、世界には吐き気がするほど溢れている。

当たり前が当たり前でしかない、そういうつまらないおはなしでした。