ぴっちりと閉めきった窓がガタガタ揺れ、真っ暗な外では冗談のような強風と豪雨が吹き荒れている。
 昨日、上陸する予定だと天気予報で言っていた台風は、昼過ぎ三時半頃から唐突に猛威を振るい始めた。最近外す日の方が多いくせに、こういう時だけ見事に的中させるのはどういうことだろうか。
 幸い今日は土曜、授業は午前中で終わり、正午の時点で既に怪しかった暗雲立ち込める空の下を走って帰ってきたんだが、その頃から嫌な予感はしていた。都会は台風だとか雪だとか、そういうのに凄く弱い。案の定と言うべきか、電話のコール音がけたたましくリビングに鳴り響いたのは、五時を少し過ぎた辺りだった。
 相手が誰か、予想はできていたので嘆息しながら受話器を取る。

「はい、村山です」
賢人まさとか?』
「何だよ親父」
『すまんが今日は帰れなくなった。母さんも一緒だ』
「……一応聞くけど、理由は?」
『台風の影響で電車が動かなくてな。ついでに仕事もまだ残ってるから、会社に泊まってく』
「どうせ仕事の方が本命だろ」
『おっと、母さんが伝言あるそうだから変わるぞ。……もしもし、賢人? お父さんの言った通り今日は帰れないから夕御飯は適当に食べといてね。洗濯物は明日の朝に帰ってきたらまとめてやっておくから、それじゃよろしく』
「おい、ちょっとそんな適当な、」

 切りやがった。
 親父もさらっと逃げたけど、おそらく二人で喜々として働いてるんだろう。
 職場恋愛の末に結婚し俺を産んだ両親は揃って大の仕事好き、それなりに有能なのもあって会社では働き手として重宝されているらしい。楽しみながら金を稼げるのはいいことだと思うんだが、親として尊敬に値するかは微妙なところだ。
 まあしかし、考えようによっちゃ誰もいないってのは気楽でいいかもしれない。夕飯を自分で作らなきゃならないのは些か面倒だが、そこにさえ目を瞑れば今日一日は何をやっても許される。
 ソファに寝転がりリモコンを手前に寄せ、飲み物も用意して自堕落な時間を過ごしてやろうと気を抜いたその瞬間、唐突に玄関の方からインターホンの電子音が聞こえてきた。それも一度ではなく連打で。ピポピポピポピポひたすらにやかましい騒音は開始十秒もしない内に俺の平穏を破り、正直かなり苛つきながら表のドアを開けてやる。

 予想通り。
 そこには、隣の家の幼馴染が立っていた。










 賢人の恋










 /1



 その少女は祝福を受けて産まれた。三ノ瀬夫婦が、夫、俊雄二十三歳、妻、加代二十二歳の時に、互いの両親の反対もなく望まれて誕生した娘。当然ながら子を得るのは初めてだった二人は、幸せの絶頂にいた。ふっくらとした可愛らしい女の子。そんな我が子が将来大きく育つ姿を想像し、揃って頬を綻ばせた。
 生後二日目、幼児には美衣子みいこという名が付けられた。天使のようなこの子が、美しく素敵な人になるように、と願いを込められて。加代は母に教わりながら、退院後自宅で幼い娘の世話に勤しんだ。専業主婦である彼女は育児に専念できたし、夫も家に帰る度寝入った娘の顔を見るのが楽しみで仕方なかった。
 加代の母は言う。美衣子は全然泣かないわね。ちょっと大人し過ぎるけど随分いい子みたい。確かに、加代が美衣子の夜泣きに悩まされたことは一度もなく、驚くほど家の中では静かだった。食事の時も、おむつを替える時も、決してむずがりはせずに、むしろきゃっきゃと笑っていることの方が多かった。その姿に違和感を覚えることもあったが、微かに湧き上がった疑問は、母の言葉通りいい子だからという解釈で頭の片隅に追いやった。

「本当に美衣子は泣かないな」
「ええ。……そういえばこの子、何だかいつも天井を見つめてぼんやりしてるのよ」
「特別おかしいとは思わないが……こうも大人しいと、ちょっと心配にもなるな」

 そんな会話も、適度に慌ただしい日常の波にすぐ埋もれてしまった。
 出産から一年が経過し、やはり美衣子が泣く日は、少なくとも加代が知っている限り一度もなかった。絵本を読んで聞かせたり、娘が喜びそうなことを色々と試してみたが、美衣子は無邪気に笑うだけで、全て同じ反応だったものだから、本当に喜んでいるのかはわからない。買い与えたおもちゃも、最初に幾度か触れた後は、そこに存在しないかのように放っておかれるのだった。
 三ノ瀬夫婦は、次第に不安を募らせるようになった。美衣子をベビーカーに乗せ、公園まで散歩に連れていくこともあったが、同じく子供を連れてきた近所の母親達とは親しい付き合いもなかったし、良くも悪くも騒がしい幼児の輪に入っていくのは何故か躊躇われた。あまりにも静かな美衣子は、その中では浮いてしまうと思ったのだ。

 二歳半の時、美衣子が喋った。
 まあそれだけなら、加代達も驚くことはなかっただろう。初めて口を開くには些か遅い年齢だが、個人差はあるものだし不思議ではない。しかし、美衣子が唐突に、舌足らずな口調ですらすらと語り出したのは、一年ほど前に加代が読んで聞かせた絵本の話だった。一言一句間違えず、誰も気付きはしなかったが、加代の声と全く同じトーンで。 それを俊雄に教えると、返ってきたのは驚愕と怖れの入り混じった、震えた声だった。

「あの子は……もしかして」

 その先を続けはしなかったが、夫が何と言おうとしたかは理解できた。
 あの子は、もしかして――普通じゃないのか?
 言葉にできるはずがない。それを口にすれば最後、本当にそうなる気がしたからだ。

 当然だろう。
 誰だって、自分の子が異常だとは思いたくはない。










 ずぶ濡れの馬鹿が俺に抱きつこうと飛び掛かってきたので横に一歩動き躱す。勢い余り倒れそうになるところで襟首を掴み起き上がらせ、今バスタオル取ってくるからしばらくそこで待ってろと言い聞かせた。勝手に入ってこられる前に急いで持ってくる。
 一瞬自分で拭かせようかと考えたが、こいつにそんなことを期待したらこの場で服を脱ぎかねない。結局最低限俺がタオルで拭いてやり、水の滴りがなくなってから室内に招き入れた。洗面所兼脱衣所で直立不動のまま再び待たせ、その間に今度は着替えを探しに行く。
 笑えない話だが、我が家にはあの馬鹿、三ノ瀬美衣子のために衣服が用意されているのだ。それは前にも今日と同じようなことがあったからで、つまり、何故美衣子が訪ねてきたのかもだいたい想像できてしまう。適当に選んだ上下と、なるべくなら手に取りたくなかった下着を抱えて美衣子のところへ。着替え一式を投げ入れてすぐに引き戸をぴしゃりと閉め、出てくるまで少し離れて待機する。

「……着替えたか?」
「ううん。ねえねえまーくん、きがえさせて」
「お前なあ……それくらい一人でできるだろ」
「まーくんにやってほしいのー」
「………………」
「やってくれないの……?」

 泣きが入り始めた。こうなるともう、俺に選択権はない。
 美衣子に聞こえない程度の音量で舌打ちをしてから、若干荒い仕草で引き戸を開ける。案の定こいつは全く服を脱いでおらず、勿論そっちの方が俺としては目のやり場に困ることもないし有り難いんだが、これからすることを考えると頭を抱えずにはいられなかった。
 溜め息ひとつ、気持ちを決める。なるべくじろじろ見ないようにしながら、美衣子に万歳をさせ水で少し重くなった上着を脱がす。まだ白いインナーが残っているので、目を逸らすほどじゃない。取り去った服は洗濯機に投げ入れ、手の動きが鈍らないうちにインナーも美衣子の身体から抜く。上げた両腕を胸の前くらいまでに下ろさせ、脱げかけた服をするりと引っ張れば白い肌が露出する。幸いと言うべきか、今日はブラジャーを着けていた。学校があったからだ。窮屈だからと学校がある平日以外はブラジャーを決して着けようとしないこの馬鹿の所為で、俺は何度困り果てたかわからない。ただでさえ、無防備過ぎるのに。
 羞恥心という言葉をまるで知らないような美衣子は、柔肌を晒しているにも拘らず笑顔。あまりにも無垢なその表情を見る度複雑な気分になるが、湧き上がる衝動を抑えて地面に転がった服を足の指で摘まんで蹴り上げた。空中に浮かぶそれを掴み、ほれもっかい手上げろと命令する。素直に従う美衣子に薄手のセーターを被せ、とりあえずこれで第一関門は突破だ。しかし残念ながら問題はまだ残っている。

「下脱げ」
「うん」

 我ながら誤解してくれと言わんばかりの会話だなと思いつつ、美衣子がロングスカートのホックを外した。すとんと落ちる。子供らしい下着が露わになり、俺は反射的に横を向いた。どれだけ見慣れていても、恥ずかしいものは恥ずかしい。どうしたの、と今まで幾度聞いたかわからない問いかけを無視し、美衣子の後ろに回り込んでショートパンツを穿かせる。秋のこの時期だとちょっと寒いかもしれないが、どうせ後でまた脱ぐことになるのだ。着替えにすら手間取るこいつにわざわざ面倒なものを着させる必要はない。

「終わったぞ」

 俺がそう言うと、美衣子は嬉しそうに「えへへ」と笑った。何がそんなに楽しいのか。
 でもまあ、家が隣で本当によかった。おかげで下着まで脱がせずに済んだのだから。
 じゃれつこうとする美衣子を引っぺがし、肩を押すようにしてリビングまで連れていく。椅子に座らせ、正直予想が出来過ぎて問い質さなくてもいい気はしたが、一応何故こっちに来たか理由を訊いてみた。

「あのね、お母さんが、今日はお父さんもかえってこられないからまーくんのいえでおせわになりなさいって」
「俺は何も聞いてないんだが」
「まーくんのお父さんとお母さんはだいじょうぶだって言ってたって」

 畜生確信犯じゃねえかあの馬鹿親。
 電話入れた時点でおばさんから連絡があったんだろう。どっちも帰れないもんだから俺に任せておけば安心だ、って感じか。
 別に三ノ瀬の夫婦二人に文句はないが、意図的に美衣子が来ることを言わなかった馬鹿親どもには言いたいことが山ほどある。
 明日帰ってきたらねちねちしつこく愚痴ってやると復讐を見えもしない星に誓い、俺は改めて美衣子に目をやった。
 久しぶりにこの、面倒の塊とどうにか一晩付き合わなければいけない。心を決めろ村山賢人、と。

「おはなしはおわった?」
「……ああ。よーくわかったよ」
「じゃあまーくん、きょうはなにしてあそんでくれる?」

 俺を悩ませている張本人は、こっちの心の機微なんて知ったこっちゃないのだ。










 /2


 三ノ瀬夫婦の心配を余所に、美衣子はすくすくと育っていった。
 娘が浮かべる無垢な笑顔に二人は安らぎと喜びを得たが、同じくらいの不安も抱き続けた。
 成長と共に、奇行が目立ち始める。じっとテレビを見ていたかと思えば、ニュースキャスターの読み上げに対し輪唱するかのように繰り返す。言葉の意味がわかっていないのは誰の目から見ても明らかだったが、それよりもあの一瞬耳にしただけで完全に記憶しているというのは、普通では考えられない。
 字も書くようになった。鉛筆を持つ手は拙い握り拳で、文字もよれよれではあったが、ほんの十分前に読んだ絵本のそれを躊躇いもなくノートに作り上げていく様子に、加代は感心するよりも一種の寒さを感じた。自分の時はどうだったのか、それは母に訊いてみればすぐに判明することで、電話越しの母は加代の唐突な問いを訝しく思いながらも、あんたが三歳の時は全然まともな字なんて書けなかったわよ、と答えてくれた。

 本当に、悩んだ。夫に相談し、両親にも相談し、認めたくない現実を嫌々ながら受け入れるのに半年の期間を要した。
 美衣子が三歳になり、幼稚園に行かせようかという頃、夫婦は娘を病院に連れていった。外科の類ではなく、心療内科に。美衣子を診た医師は二人に色々なことを訊ね、不安がる加代達に親切な言葉を投げかけ、しかし、無情な決断を下した。……知的障害の疑いがある、と。
 検査の結果が出るまでには、少し時間が掛かった。

「三ノ瀬さんは、サヴァン症候群、という単語を知っているでしょうか」
「いえ、知りませんが……先生、いったいどういうものなんですか?」
「日本ではあまり有名なものではありません。そもそも非常に珍しく、全世界でも症例はほとんど見られないのです」

 先天的、あるいは後天的な知的障害を持つ人間の中から稀に現れる、特定の分野で卓越した、異常とも言える能力を発揮する者をそう呼ぶ。一般的には(もっともサヴァン症候群自体一般的ではないのだが)カレンダー計算を代表する凄まじいまでの計算力や、ピアノに触れたこともないのに一度聴いた曲を一片の間違いもなく再現する聴力と音感、音楽性。目にした光景を他者より遙かに長い時間像として記憶できる直感像による、恐ろしく写実的な絵を描き上げる芸術性。そして、流し読むように目を通した本の内容、それこそ一字一句に至るまでを完全に覚え、朗読し、任意の知識を掬い上げられる機械めいた記憶力など。特殊な脳の状態から発生する、と言われているその症状を持つ数少ない人々は、そのほとんどが自分一人では社会に適合できず、どころか日常生活すらも危ういレベルの知能障害を抱えている――そういうことを、加代は丁寧に説明された。

「事故により脳に損傷を負った人が、重度の知能低下と共に類稀な計算力を得た、という症例もあります。……失礼ですが、娘さんがそういう事故に遭ったことは?」
「ないです。散歩に連れていくこともありますけど、そもそも美衣子は外に出ようとしないんです」
「それは、どうして?」
「わかりません。ぼんやりしていることが多い子ですし……」
「娘さんが突然痙攣を起こす、といったことは」
「それもありません。もしそんなことがあったらすぐ病院に連れていきます」

 怒気を含んだ口調で加代が答えると、医師は申し訳なさそうな顔をしながら首を傾げた。
 いいですか、と前置きをし、

「自閉症患者の中に、時折サヴァンが現われるとも言われています。奥さんは、自閉症に関してはご存知でしょうか」
「あまりよくは……。その、自閉症というと、全然喋らないとか、そういうものですか」
「いえ、言葉の意味からそう捉われがちですが、一般的に、言語の発達の遅れなどを代表とする、主に先天的な知能障害のことを指します。私も今までそういった患者を見てきましたが、自閉症患者は総じて人とのコミュニケーションを取るのが非常に困難で、相手の言葉に鸚鵡返しで答えたり、反復的な行動を繰り返したり、それぞれ独自の行動理念で動いている……例えば、あるひとつのものにだけ異様な執着を見せる……といったものが特徴で、何も知らない人からすれば、奇特に見えるのです」
「奇特に、見える……」
「現段階では、美衣子さんを自閉症と判断するには一致していない点が多過ぎます。ですが、私が見た限り――」

 ――彼女は、サヴァンだとしか思えない。
 その冷静な声に、加代は、静かに背筋を震わせた。










 執拗に美衣子が繰り返す遊んでコールを、機嫌を損ねない程度にさらっと流しながら俺はこれからどうするべきかを考えていた。
 野放しにしておくと疲れるだけで碌なことがないのは、身を以って知っている。精神年齢だけで言えばこいつは小学生、見方によっては六歳児にすら劣るわけで、正直親戚の糞餓鬼どもよりも状況次第じゃ遙かに性質が悪い。あいつらはほとんど喚くだけだからどうとでもなるが、美衣子はもっと特殊で、厄介で、比べ物にならないほど危険なのだ。
 精々俺にできるのは、被る痛手を少しでも減らすことくらい。それもどこまで行けるかは怪しい。

「さて、ホントどうしたもんかな……」

 布団の中でおやすみなさい、がゴールだとして、その以前にやらなきゃならないことは当然いくつもある。
 まず夕飯を作る必要があるし、洗濯は明日帰ってくるらしい馬鹿親に任せればいいが、入浴だってしとかなければまずいだろう。一件隣の家からこっちに来る間とはいえ、美衣子はあの狂ったように雨が降っている外を傘もなしに駆けてきた(まああいつの性格上歩いてはこなかったと思う)んだから、一応身体くらい洗っておいた方がいい。そうでなくても秋の夜風で冷えているはずだ、台風でなくても風呂には入れることになる。
 一人じゃまともに歯磨きもできない美衣子の世話をこれから焼くのかと思うと、軽い頭痛を覚えそうだった。
 ……いや、面倒臭がっても仕方ない。せめてとっとと寝かせてしまおう。美衣子が眠くなる九時頃までの辛抱だ。
 ということでとりあえず、夕飯は何がいいか、と訊いてみた。

「リクエストはあるか?」
「ハンバーグ!」

 また手間の掛かるものを……。
 頭をぼりぼりと掻きながら冷蔵庫チェック。挽き肉やら何やらをひょいひょいと取り出しキッチンに置いていく。
 いい歳してお子様ランチの定番みたいなメニューが大好きな子供舌の美衣子は、俺が食事を振る舞う時は十中八九ハンバーグと言う。別に特別上手く作れるわけじゃないんだが、主観では人並みとしか思えないあんな出来の物が美衣子にとっては一番のお気に入りらしかった。これで俺が全く料理のできない人間だったら、万が一、億が一諦めてくれるのかもしれない。しかし仕事大好きな両親を持ってしまったのが運の尽き、残念ながら料理を含めた家事スキルは毎日の生活に必須となっている。
 小学生半ばまでは冷蔵庫に調理済みの物を用意して、後は温めて食べてね、なんていう母の優しさを味わっていた覚えがあるが、米砥ぎと味噌汁のダシ取りから始まった料理指導が一通り終わった頃、突如『これからは自分で全部作るように』と素気ない書き置きで済ませられた時のあの絶望感は未だに忘れられない。
 それはともかく、ハンバーグに必要な材料はきっちり揃っていた。足りなければ多少は楽になっただろうが、その場合美衣子に泣かれてまた別の苦労をするのは目に見えている。調理の手間と泣いた馬鹿を宥める手間、どっちを選ぶかと言われれば、俺は迷わず前者を取る。

「ま、他は適当でいいだろ」

 大事なおかずさえちゃんと作っておけば文句も出まい。
 ソファに座ってテレビでも見てるよう指示し、ぱぱっと手早く終わらせることにする。どうしても時間は掛かってしまうが作業自体はさほど難しくもなく、中途半端な時間帯のつまらない番組に飽き、美衣子が横になってうつらうつらし始めたところで完成した。白飯と味噌汁とデミグラスハンバーグ、あとは栄養バランスを考え野菜の盛り合わせ。美衣子は好き嫌いが全くと言っていいほどないので、全部残さず食べてくれるのが作り手としてはちょっと嬉しい。
 握り拳で箸を掴み(いくら教えてもちゃんとした持ち方にはならない)、おあずけを待たず食べようとする犬のように食卓に並ぶ料理、特にハンバーグを見て瞳を輝かせる美衣子に俺は目線で指導する。僅かにしゅんと肩を縮めたが、手を合わせた俺の動きを真似、いただきます、と幼い声を響かせた。
 途端、上品さとか女らしさを微塵も感じさせない、乱雑かつ酷い勢いで箸を進ませる。口に運んではぼろぼろとこぼし、仕舞いには頬に米粒を付けても気にせず食べ続ける。こういう姿を見てると、百年の恋も冷める、なんて言葉を思い出す。容姿だけは無駄にいいのでクラスでも割と人気が高いという話を聞いたことがあるが、馬鹿な男どもがこの光景を目にすればまず確実に幻滅するだろうことは容易く予想できた。
 粗方皿の中身を綺麗に片付け、美衣子はことんと箸を置く。ごちそうさま、とは言わず、ふらりと席を立ってソファに寝転んだ。ごろごろごろごろ。もうその辺の礼儀とか嗜みとかを求めるのはとうの昔に諦めているので、俺はあまり気にせず少し遅れて食事を終えた。

「おいこら、ソファで暴れるな。つーかお前頬にご飯粒付いてるじゃねえか」
「そうなの? じゃあまーくん取ってー」
「わかったからそれ以上動くなソファにくっつく。潰れたら取れないんだからな……ったく」

 食べ終わった後の処理をするのは、当然俺だ。美衣子に片付けを期待するのがそもそも間違いだし、些か豪快とはいえ完食してくれた礼とも言える。ついでに頬の米粒も摘まんで取ってやるが、如何にも恋人同士がするシチュエーションとは似ても似つかない。こんな奴の世話を焼くことのどこに色気があるか。

「………………」
「んー」

 何となくしてほしそうだったので頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細める。猫っぽい名前なのに、つくづく犬みたいな奴だ。
 甘いな俺、と苦笑して手を離し、再び片付けに戻る。テーブルに散らばった食べかすをティッシュと布巾で拾い集め、使い終わった皿は重ねて流しに置く。ソースが付いたのは水で流し、白米が盛られていた茶碗は少し浸けておく。乾いたそれが柔らかくなるまでに泡立てたスポンジで皿を磨き、最後に茶碗を強めにきゅっと洗って泡を落とす。家には全自動皿洗い機なんて高尚なものはないので全部手作業だ。食器立てに並べて軽く水を切り、専用の布巾で拭く。終わったら仕舞い、流し場を汚れた布巾で綺麗にしてから最後に絞れば片付けは完了。
 美衣子が横になっているソファに戻ると、待ってましたというように起き上がって後ろから俺に抱きついてきた。
 腰かけた俺の背中に、美衣子の重みが伝わる。本人にしてみれば、それは動物めいたじゃれつきなんだろう。ペットが飼い主に擦り寄る、あるいはある程度気心の知れた、けれど決して恋人関係ではない異性が親愛の情を示す、そんな他愛ない触れ合いだ。しかし俺にとっては笑えない状況で、こいつが軽々しく、平然と背中に押し付けてくる二つの膨らみに意識が集中してしまうのも、男なんだからしょうがないと思いたかった。服越しなのに、とにかく柔らかい。その感触を知ってるとはいえ、幾度経験してもこれは慣れない。
 こいつがどうしようもなく・・・・・・・・持っている女の部分を考えずにはいられなくなる。

「離れろ」
「うー」

 平静を装ってべりべり引っぺがすと、美衣子は不満げな声を上げた。
 しばらく頬を膨らませていたが、ふと何かを思いついたかのように笑顔を浮かべる。
 ……嫌な予感がした。そして、こと美衣子に関するそれは、今までの経験上百発百中に近い。
 そもそも、この状況なら高確率でそうなるだろうと予想はついていたわけなんだが、

「ねえねえまーくん」
「あん?」
「いっしょにおふろ入ろ?」

 ――羞恥心という、年頃の男女なら誰でも持っているはずのものを、三ノ瀬美衣子は知らないのだ。
 それは、あらゆる意味で笑えない話だった。










 /3


 加代の戦いは、そこから始まった。
 自分でサヴァン症候群と、自閉症、知能障害、とにかく医師の発した言葉に関連する事柄を片っぱしから独自で調べ上げた。
 幼稚園に行かせるかどうかはかなり悩んだが、結局不安が勝り、知らない人が溢れている場所に美衣子を置いてはいけなかった。もし問題を起こしたら。美衣子が爪弾きに遭ったら。娘が傷つけられることを想像すると、加代は自分の顔から血の気が引いていくのを抑えられなかった。
 そうしている間にも美衣子は四歳になり、五歳になり、小学校に入ろうかという年齢にまで育つことになる。名前の通り、道行く人がはっと振り返るような、美しく可愛らしい少女へと変貌した彼女は、その天使のような笑顔を無邪気なまま保っていて、加代と俊雄の両親を喜ばせていた。加代は夫以外に、嘘を吐いたのだ。検査の結果は、特になにもなかったと。……自分の子が、彼らの孫が「おかしい」とはっきり言える勇気を、まだ年若い夫婦は持ち合わせていなかった。
 何も知らなければ、美衣子は本当に魅力的だった。昔と比べれば多少言葉が通じるようになったのか、祖父母や三ノ瀬夫婦の言葉にも一応頷き、言われた通りのことをしては褒められる。傍から見れば、人に言われたことをよく聞くいい子だ。しかし、加代と俊雄だけは、決して楽観的には捉えられなかった。鸚鵡返し。まるで美衣子は、自分達をただ真似ているだけのようだ……。

 娘に関して、おかしなところは他にもあった。ぼんやりしていたかと思うと、祖父母に買ってもらった机に向かい、ノートを広げて突然凄い勢いで何かを書き始める。その時の美衣子は加代がいくら後ろから声を掛けても反応せず、異様な集中力でページを黒く染めていく。満足して机から離れた後、加代がノートを見てみると、そこには数字が羅列されていた。初めは訳がわからず色々と考えたが、一見無意味な数字にある規則性を発見した時、加代は戦慄した。3から始まり、最後は六桁にもなるそれらは全て、素数だったのだ。電卓も使わず、己の頭だけでここまでの計算をやってのけた娘に一種の恐怖さえ抱いたことを、誰も否定はできなかった。
 本を読ませると、ぺらららららら、と音がするほどの速度で流し、閉じてからは二度と開かなかった。その内容を美衣子が口にすることはなかったが、そこでも加代は医師の言葉を思い出す。異常な記憶力。サヴァンの片鱗は、生活の至るところに散りばめられていた。

 娘が「おかしい」子でない証明を、加代は必死に探した。一度、サヴァン症候群はほとんど男性にしか見られない、という表記を目にした時は小躍りしかけたが、僅かながら女性にもサヴァンがいたとその後に記述されていて、天国から地獄に叩き落とされる気分を味わった。そもそも、今まで例外がなかったからといってこれから先もないと誰が言えるのか。
 その頃夫の仕事は忙しさがピークを迎えており、ほとんど朝に帰ってくるような日も増えた。必然的に美衣子の面倒は加代が見るしかなくなり、今まで多少は割り振られていた心労が、全て加代にのしかかるということでもあった。それは加代にとって、一番辛い時期だった。
 他人と美衣子が「違う」ことは、学校に連れていくまでもなくわかっていた。この時期になって判明したことだが、美衣子には致命的なものが欠けていたのだ。彼女はサヴァンとしては異例な高い知能を持ちながら、しかしひとつの概念を認識できなかった。
 ――それは、嘘。嘘というものを、美衣子は決して理解しなかった。冗談は通じず、虚偽は少女の中で真実に変わる。親子の悪意ない会話でさえそうなのだから、他人しかいない学校に出ていった時、我が娘はどれだけの嘘を浴びて生きていくことになるだろうか。……ああ、想像するだけで恐ろしい。
 付近の小学校に、特別学級は存在しない。だが引っ越せるほどの余裕はなく、娘を毎日遠い場所に送り届けるのも難しかった。
 それより何より、加代はもう疲れていたのだ。今までノイローゼにならなかったのが、奇跡的なくらいだった。

 そして、一人では抱えきれないような不安を胸に向かった入学式。
 どうにか滞りなく終わり、子供一同が集まったクラスで、美衣子は彼と出会った。










 服を脱がせてと言われた。却下したが目にじわりと涙が浮かんだのを見て、覚悟を決めるしかなくなる。
 脱ぐのは自分一人でもできる癖に、何故か俺がいる時は妙に甘えたがるのだ。こっちからすれば嫌がらせにしか思えないが、本人は満足らしく、着替えを他人に任せる辺り昔の金持ち、貴族めいた待遇のようでもある。もっとも、そんなものより数段厄介なんだがこいつを泣かせると何より近所迷惑なので迂闊に口にも出せない。
 着させた時とは逆の手順で一枚一枚を剥いでいく。当然脱げば脱ぐほど露出が多くなり、下着だけになったところでもう俺の理性の糸はぎりぎりと左右から引っ張られて断裂寸前だった。深呼吸を三度、辛うじてぷっつり切れるのを回避する。そもそもこんなのはまだ序の口で、拷問の本番はここから。参るには早過ぎる。
 リアホックを外し、せめてショーツだけは自分でやれと言うと、一瞬むうっと不機嫌を見せながらもどうにか頷いてくれた。素っ裸になるところは視線を逸らして直視を避ける。どうせ風呂の中に入れば関係なくなるわけだが、だからといって凝視したら人として終わりな気がする。先に行かせ、俺もさっさと裸になった。一応下にハンドサイズのタオルを巻き、脱ぎ散らかしたままのあいつの分も纏めて洗濯機に突っ込んでおく。
 風呂場では美衣子がシャワーを浴びてきゃっきゃと嬉しそうにしていた。流れる水はちゃんと熱を持っている。
 前に一度、同じような状況でこいつが蛇口を捻った時、ガスを点けたばかりで全く温まっていないシャワーの冷たい水を全身で受け、飛び上がって驚き泣いてしまったことがあった。それから美衣子と風呂に入らざるを得なくなった際は、まず先に空出ししておいてガスの熱を行き渡らせるように気をつけている。こういう細かいところでもいちいち手間の掛かる奴なのだ。

「まーくん、かみのけ洗ってっ」
「はいはい」

 風呂椅子に座らせ、目に入らないようシャンプーハットを被せてやる。家では誰も使わないが、それも美衣子のためだけに用意されたものだ。普段は風呂場の片隅で出番なく置かれている。しかし、美衣子の髪はかなり長く(本人が着るのを嫌がるので最低限の手入れだけ。美容院とかも全然行きたがらない)、シャンプーハットを着けたままだとちゃんと洗えない。なので前髪と頭頂部だけをがしがしやってから一度流し、後ろ髪に取り掛かる。三ノ瀬のおばさんがよくいじっているらしく、こいつ自身はまるで頓着していないのに黒い髪には艶があり、枝毛もほとんど見当たらなかった。指で梳くと軽くぷちぷちと千切るような手触りを感じるが、引っ掛かりはしない。本当に世の中は不公平だな、と思いながら、丁寧に束を作り洗う。流す時はシャンプーが残らないようゆっくり。こうしていると美衣子専門の美容師にでもなった気がして、その度想像の馬鹿らしさに苦笑いするしかなかった。

「ほれ、終わったぞ」

 最後に髪が蓄えた水を絞り解放する。
 美衣子はすっきりしたような顔で嬉しそうに頷き、調子を良くしたのかこんなことを言い出した。

「つぎ、せなか洗ってー」
「それくらい自分でやれ」
「むぅ……洗ってよぅ」
「……前は一人でやれよ。じゃないとやってやらん」

 完全な拒否は不可能なので妥協点を探す。まあ背中ならまだマシな方だろう。前をやれと言われたら、俺は全力で壁に額をぶつけて自らを鎮めなければいけなくなる。ただでさえ下半身が大変なことになっているのだ、これ以上は正直ちょっときつい。
 ボディソープで泡立てたタオルを手渡すと、大人しく美衣子は身体を擦り始める。古典的に滑らかで白い肌を表現する言葉として、白磁の肌、なんて言い方があるが、美衣子はそれほどではないにしても、充分綺麗だ。湯の熱で火照り、微かに赤く染まっている辺りは艶めかしくすらある。ぼんやり眺めているといつの間にか俺の手は意識に反し美衣子の背中に伸びていて、慌てて戻した。そんなこっちの葛藤にはまるで気付かず、美衣子の持つタオルはごしごしとその肌を滑っていく。手の位置から、今は胸を洗っているのがわかった。思わず柔らかそうに形を変えるその双丘を想像してしまい、鼻に血が昇るのを感じた。危ない。

「はい、せなかー」

 無事に前が終わったのか、全身で振り向こうとした美衣子の肩を押さえて制止する。手だけ伸ばせばいいからと言って受け取り、つるりとした背中にタオルを当てた。傷つかない程度の力を込め、上下に擦る。泡を塗りつけるように、あるいは延ばしていくように。美衣子は目を閉じ、心地良さそうに時折睫毛をぴくりと震わせる。

「……気持ちいいか?」
「うん」
「そうか。……流すぞ」

 シャワーを持って首周りから泡を落とす。美衣子の肌を滑りながら足下へと流れていく白を見送り、一息吐いた。
 ふと俯くと、風呂椅子の上で潰れた尻と細くくびれた腰が目に入る。……俺はいったいどこを見ればいいんだろうか。
 堂々となれれば楽なんだろうが、こいつの裸を見て平然としていられるようになったら正直男として終わりだと思う。
 ――腹立たしいことに、どうしようもなく、エロい。

「どうしたの?」
「うっさいみー助。早く湯船に入れ」
「ぶー、みーちゃんって呼んでよぅ」
「お前はみー助で充分だ」
「ぶーぶー」

今度は美衣子が洗ってあげる、という申し出を全力で拒否し、俺は水を被りまくる。ただの水道水に禊の効果は期待できないだろうが、身体が冷えると各所の熱も多少は静まったようだった。とはいえやっぱり腰に掛けたタオルを外すのだけはどうしても抵抗があり、一度美衣子に背中を向け、水を絞って再び巻き直す。

「まーくんも入らないの?」
「狭くて二人は無理」
「昔みたいにほら、わたしがまーくんのひざに乗れば大丈夫だよ」
「んなことできるかっ」
「ふぇ……。してくれないの……?」
「……くっ」

 どうしろというんだろうか。そんなに俺に襲われたいのか。
 沸々と湧き上がる暗い欲望を何とか留め、美衣子が大泣きする前に湯船へ足を沈める。わざわざスペースを空けやがった美衣子に複雑な感情を抱きながら正座に近い形で座ると、俺の腿辺りに尻が触れる。見方によっては、口に出すのも憚られるような体勢。こうなっては申し訳程度に下を覆うタオルも役立たずで、いつ勘付かれるかと気が気じゃなかった。美衣子は美衣子で安心したように俺に体重を預けてくるし、最早拷問を通り越して地獄の刑罰に近い。

「あったかくてきもちいーね」
「……そうだな」
「百数えーたら上っがりっましょっ。いーち、にー……」

 無邪気な声のカウントを聞きながら、ジャスト百秒(実際はもっと長い)、危うくのぼせて溺れるギリギリ一歩手前で風呂を出る。あまりの熱さにくらくらするが、俺には休む余裕もない。珍しくきっちり自分で身体を拭いた美衣子は、やはりというか俺に服を着せてと頼んでくる。しかも今度は下着やら何やら全部だ。それくらい自分でやってほしいと常々思っているんだが、一人でやらせてもショーツか寝間着のパンツに足を引っ掛けて転んで壁に頭ぶつけて泣くか、上着の袖に上手く腕を通せなくて泣くかのどっちかだろう。結局他に選択肢もなく、理不尽な現実にひたすら耐えるしかないのだ。
 二人で脱衣所を出た時、俺は精神的に満身創痍だった。そのままソファかベッドに倒れ込みたかったが、勿論美衣子が許してくれるはずもなく、べったりと引っ付きながら何してあそぼっか、なんて無邪気に笑う。天使の笑みもこういう時ばかりは、悪魔の笑顔に見えてしょうがなかった。

「おんぶしてー」
「重いっての。どけ」
「いーやーだー」

 居間に辿り着く前に美衣子が後ろから体重を任せてきた。このまま俺が横に動いたら前倒しになって顔をぶつけるだろうというくらいの預け方で、マジ重い。子供としか思えない口調でたまに忘れるんだが、こいつ自体は普通に背も高いし豊かな身体付きな分体重もある。モデル体型とは行かないまでも女性としては痩せ気味で、ダイエットをしているわけでもないのに確か六十キロはなかった気がする。
 が、五十でも六十でも重いものは重いのだ。俺は邪険に振り払おうとするも、美衣子はこっちの右肩に顎を乗せて完全に力を抜いていた。耳元に感じる吐息は、風呂上がりだからか熱を持って俺の頬を撫で、懇願するような猫撫で声が脳髄を痺れさせる。こうなるともう負けだ。腰砕けにならないうちに折れるしかない。本人に自覚は欠片もないだろうが、実に見事な男殺しの手管だった。

「あー、ったく世話の焼ける奴だな。乗れ」
「わーいっ」

 軽くしゃがんでやると、美衣子はひょいと軽快に飛び乗る。一瞬「うっ」と唸ってしまったが、じわりと滲み出た冷や汗はさっぱり気付かれなかった。美衣子の膝裏に後ろ手を通し、跳ね上げて背負い直す。胸が押し付けられるのは当然として、俺の手が太腿から尻の辺りをずるずる擦るように動いてしまうので、危険度で言えば着替えの時に勝るとも劣らない。居間までの短い距離で満足してくれるのかと思えばしばらく降ろさず歩き回ってと要請され、間抜けなことに俺は自宅の中を何度も彷徨うことになった。
 あまりの情けなさに膝を付きたくなったが、こんな姿ではそれさえも叶わない。
 気を紛らわせるため、おんぶなんてしたのはいつ以来かと考えて、俺はふと過去のことを思い出した。

 ……あれはそう、中学生になったばかりの頃。初めて俺が美衣子を背負うことになった、ひとつの出来事があった。
 小学校から同じように上がってきた奴らも多く、それはつまり美衣子の存在や特異性を知る人間が大半だったということなんだが、若干遠くから通う生徒も決して少数ではなく、入学時の紹介で担任がある程度説明したとはいえ、ほとんど何も知らない奴もそれなりにいて、運の悪いことに数人が美衣子に目を付けてしまった。
 当人の抱える事情を無視すれば、こいつは男受けする、一種あざとい・・・・――しかも容姿は平均水準より遙かに高い女に見えるだろう。出る杭は打たれる。輪を作りたがる女子どもの中でもあからさまに性格と意地の悪いグループのリーダー格は傍目にもわかるほど美衣子を敵視していて、事ある毎にちょっかいを掛けてきた。面倒だが放っておけない俺はさり気なくフォローをしたりもしていたが、所詮俺の目が届く範囲なんてものは教室程度しかなく、ある日、ついに事件が起きる。

 そいつらは美衣子の持つ欠陥だとかはまるで理解していなかったが、都合のいいことに「嘘を本当だと信じる」性質だけはわかっていて、放課後俺を追いかけ教室から出ようとしたあいつに、俺が学校の屋上で待ってた、なんて嘘を吐いた。安易で稚拙な、誰でも騙されそうにない虚言だが、美衣子にはそれを見抜けない。罠とは露知らず、普段は使われていない屋上に向かい、あっさりと閉じ込められた。
 で、俺はそんなことがあの馬鹿の身に起きてるとは想像もしなかったわけで、今日は珍しく一緒に帰るとか言わなかったなと呑気に帰宅していた。
 それから陽が暮れ始め、ようやく異常が露見する。家でゆっくり過ごしていた三ノ瀬のおばさんが心配になり、俺に電話を掛けてきたのだ。

「まだ美衣子が帰ってこないのよ。そっちにいるの?」
「いや、それだったらちゃんと言いますって。というか俺、今日は一緒に帰ってきてませんけど」

 元々危なっかしい奴なものだから、普段美衣子は出歩かない……というか、外に出せない。いつふらっと迷子になるか怪しいのを野に放つのがどれだけ危ないかは、ちょっと考えてみればすぐわかる。夕方になっても戻ってこないこと自体がおかしいわけで、三ノ瀬のおばさんは可哀想になるくらい慌て、そのおかげで俺は逆に冷静さを保つことができた。
 ちょっと外探しに行ってきます、と電話口に告げ、自転車を駆って俺は虱潰しに街中を走り回ったが見つからない。一度自宅に戻り、三ノ瀬のおばさんに再び連絡を入れると、いつの間にか連絡網を使った大事に発展していた。片っ端からクラスメイトの家に電話を掛け、それでもいい報告が得られず、いよいよ警察沙汰になりかけたところである女子生徒から連絡が入る。事の重大さを知り、その重みに耐えられなくなった主犯女子グループの一人だった。
 美衣子の居所と動機やら経緯を吐くそいつは涙混じりの声らしかったがそんなことはどうでもよく、三ノ瀬のおばさんに話を聞いた俺は全速力で学校に向かった。今になって思うと、あんな余裕のないアホみたいな速度の走行で事故らなかったのは奇跡に近い。徒歩十五分の距離を四分半で走破し、職員室でまだ混乱していた先生達に事情を説明して鍵を借りる。息を切らして駆け上がった階段も、この時ばかりは上ることに苦痛を感じなかった。

「あ、まーくん」

 重い鉄製の扉を開けた時の、俺を見つけた美衣子の反応は今でもしっかりと覚えている。
 夕焼けに燃える屋上で、ただずっと立っていたあいつは、自分を閉じ込めた女生徒の言葉も全く疑わず、俺が来るのは当然というかのように、本当に平然と待っていたのだ。
 ――美衣子には、人として大事なものが欠けている。
 俺はあの瞬間、真実の意味でそれを思い知った。

「……まーくん、ねえまーくん」
「ん、ああ、何だ?」
「もうおろしてー」

 四周目の居間で美衣子はそう言った。
 そっとソファに降ろしたこいつの身体は、背負っていた時よりも随分、華奢に見えた。










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 夫婦で、こんな話をしたことがある。
 自分達が死んだ時、美衣子はどうやって生きていけばいいのかと。
 嘘を知らず、見抜けず、料理も作れず、家事もできず、仕事に就けるような素養もなく、性格も向かず、一人きりで生活するのは不可能だろうと医師にも言われたこの子は、頼れる家族が一人残らずいなくなれば、きっと飢えて死んでしまう。例えそうでなかったとしても、娘を理解してくれる人間はどこにも存在しないのだ。ただ孤独なだけなら平気であっても、物理的な援助なしには生きていけない、ある意味ではとてもか弱い子。まるで生まれてくる世界を間違えてしまったかのような、そんな一人娘。
 けれども美衣子は、彼を見つけた。村山賢人。どうして選ばれたのが彼なのかはわからない。小鳥が刷り込みで懐く相手を定めただけかもしれないし、ファンタジックな考え方をするなら、たった一人、運命の男の子を生まれてからあの日までずっと探していたのかもしれない。ただ、美衣子にとって「遊び相手」は、じゃれつく対象は一人でよかったのだろう。もしかしたら自分達親よりずっと、娘は賢人に懐いていた。しかも幸いなことに、彼も少なからず美衣子に好意を抱いているらしく、娘を任せる相手としてはこれ以上ないほど理想的と言えた。

「……私達は、幸福なんでしょうね」
「ああ。それに美衣子も、随分恵まれていると思うよ」

 例え現実がどんな形であったとしても。
 娘が笑顔で、幸せでいてくれるなら、親として他に望むことはない。
 いつか――そう、いつか置き去りにして逝くことになっても、美衣子を愛してくれる人がいれば、安心だ。
 美衣子と同年齢の子供である賢人はまだ色々なものに対する理解が足りていないが、それも大人になっていけば、成長していけば、いずれわかる。遠くない未来で待ち構えている過酷の重さに。自分達夫婦がぶつかったのとはまた違う、巨大な社会の壁に。
 それでも彼なら、娘の手を引っ張って乗り越えていけると、信じたかった。

 ――私達にできるのは、ただ、精一杯愛してあげることだけ。

 幸福に生きて、と。
 今日も、明日も、父母は祈る。










 昔、俺がまだ右も左もわからないような糞餓鬼だった頃の話だ。
 小学校の入学式、仕事の休みを取ってきた母に連れられて行ったそこで、俺はあいつと初めて顔を合わせた。
 その時は家が隣だってことも知らず、今日からみんながクラスメイトだと教室に集められた中、思い思いにはしゃぐ同年齢の子供達とはまるで違う女の子から目を離せなかった。どの輪にも加わらずに、ただぼんやりと、先生の話にも耳を貸さないまま、果てしなく遠いどこかを見つめ続けていた一人の少女。それが当時の三ノ瀬美衣子であり、今とは似ても似つかない……というほどでもないが、快活さや奔放さなんてものが全く連想できなかったのは確かだ。
 それが、俺と目が合った瞬間、ぐるりと反転した――らしい。というのも、後に美衣子の母親、三ノ瀬のおばさんから聞いたことで、帰り道が同じだったあいつから妙に視線を感じたのは覚えているんだが、どうやらそれは気の所為でも何でもなく、実際に美衣子は俺を強く意識していたそうだ。

 ……あの日から娘は変わったのよ。

 そんなおばさんの言葉を信じるのなら、俺の存在が美衣子を成長させたということになる。登校中で、学校で、帰り道で、所構わず俺はアプローチを受けた。ぼんやりしていて何を考えてるのかわからない、なんて第一印象はすぐに笑顔だけは可愛らしい変な奴に取って変わり、邪険にされても素っ気なくしても、美衣子はいつも俺の後ろを付いて回った。腰巾着と揶揄されることもあったし、当時から万人受けする容姿を持っていた美衣子に惚れた男子から直接的な攻撃をされることもあった。俺はその全てを水面下で抑え込み封殺しながら、馬鹿みたいに純粋な女の子のことを次第に好きになっている自分に気付き、一時期は正直凄い悩みつつも、最終的には世話を焼いてやることに決めた。
 とにかくあいつは、放っておけないのだ。担任は予め美衣子の『特殊な性質』について聞かされていたみたいだが、六歳七歳の子供にそんな事情を話しても伝わるはずはなく、まともに授業も受けられない、けれど妙なところで異常に賢く、他人の悪意に致命的なまでに鈍感で、嘘を吐けず見抜けない、子供という概念の都合の良い部分だけを選んで抽出したかのような美衣子のことを、大半の男子は好ましく思い(小さくても男が馬鹿なのは変わりない)、逆に大半の女子は幼い嫉妬や不満を抱き、残った一部の男子と女子はあまり関わろうとしなかった。しかし、みんなに共通していたのは、美衣子があまりにも無垢過ぎて、告白したりちょっかいを出したりするのを躊躇ってしまう、ということだった。
 これはあいつと実際に関わってみなければわからないだろう。……あの純粋さ、無垢さは、人間として有り得ないレベルだ。誰より近くにいる俺は知っている。どんな言葉も、どんな現実も、どんな結末も、美衣子は決して疑わない。一片の曇りも一切の迷いもなく、世界の全てを美衣子は信じているのだ。
 澄み過ぎた水の中には、魚は育たない。疑念という名の生き物は、あいつの中に砂粒ほどの小さな居場所さえ持っていなかった。

 もしも俺と出会わなければ、きっと美衣子は学校にも行けなかっただろう。掛かりつけの医者が言うには、どうしてかは謎だが、俺、村山賢人という他者を認めることによって美衣子の中にある程度の社会性が芽生えたとか何とか、些か難し過ぎてあまり理解できなかったが、とにかく俺が美衣子をあんな風にしたというのは確かだった。自分自身の世話はまるでできなくても、他人とそれなりに会話を成立させられるくらいには、あいつの精神年齢は高い。それでも総合的に見れば十歳前後らしく、中学二年時にその判定が出て以来、美衣子の精神年齢は上がっていない。だから、高校に行かせるのは無茶だろうと三ノ瀬の夫婦二人は思っていたという。
 なのにあいつは、受験をすると言った。俺が行くから。俺がいるから。その所為で三ノ瀬夫婦、特におばさんはかなり苦労したらしい。当時の中学校の担任に相談し、俺もなるべく美衣子の事情に対する理解度が高そうで、かつどうにか自分の些か情けない成績でも合格できるようなところを選ぶようにした。試験当日は美衣子だけ特別に別の教室で受けた。念のためおばさんが同伴し、美衣子のために作られた、一般のものとは違う問題を使って。
 本当にやる気を出せれば、中学卒業程度の問題で美衣子が落ちるはずはなかった。作者の心情を理解しろだとか文法解釈だとか、そういう国語を始めとした問題は全滅だったが、数学と純粋な記憶問題は完璧だったそうだ。プラスマイナスで言えば、プラスの方が圧倒的に大きかった。その結果、学校側の下心もあって無事美衣子は受け入れられ、能天気に毎日過ごして今に至る。

 ――こいつは何も知らない。周りの人間がどれだけの苦労をしても、それを理解できずに生きていく。
 サヴァン症候群、というものを知った時、俺は思った。他の、サヴァンと呼ばれる人々や美衣子は、俺達凡人がどんなに努力したって足掻いたって絶対手に入らない才能を持って生まれた代償に、世界で生きていくために大事な、致命的な何かが欠けてしまっているんだと。
 小さい頃に見た、映画のピーターパン。子供だけの国であるネバーランドに住む彼らは、決して大人にならない。何故なら、大人になってしまえば、ネバーランドに住む資格を失うからだ。子供であり続けることでしかいられない、永遠に閉じた世界。それはまるで、心だけ大人になれない美衣子のようで――

「……まーくん?」
「ん、ああ、悪い、ぼーっとしてた」

 そう俺が答えると、理解したのかしてないのか、美衣子は緩く笑った。
 安心したかのように目を閉じ、それから二十秒もしないうちに、すうすうと穏やかな寝息が聞こえ始める。
 相変わらずな寝付きの良さだと苦笑し、俺は美衣子の頭をそっと撫でた。眠りながらも目を細める仕草は猫めいていて、不覚にも可愛いと思ってしまう。まあ、これくらいはいいだろう。例えこいつにとって今の俺が、そばにいると安心する程度の存在だとしても、何も変わりはしないのだ。
 社会は厳しい。嘘を嘘と判別できない美衣子がもし一人で外に出れば、世に満ちる無数の悪意がたちまち襲いかかるだろう。ハイエナよりも貪欲な奴らは、純粋であることをこれ幸いと美衣子を徹底的に騙して貶めて喰らい尽くす。一介の高校生でしかない俺にだって、そのくらいはわかる。今の美衣子は、恵まれ過ぎているくらいなのだから。
 ――眠っている時の表情は、こんなにも無垢なのに。
 無垢だからこそ、美衣子は社会の中で、あまりにも弱い。
 必ず誰かがそばにいて面倒を見てやらなければ、ネバーランドの住人は、過酷な現実の海で溺れてしまう。
 それもおそらく、溺れていることにさえ気付かないまま。

「美衣子」

 今日初めて、名前を呼ぶ。
 初めて出会ったその頃から、こいつは今と変わらない笑顔を俺に見せた。単純で、馬鹿で、子供心には不思議で理解し難い隣の家の一人娘は、いつだって俺から離れず付いて回っていた。それが時に鬱陶しくもあったが、子犬のような美衣子のことが、俺は結局何より大事だった。惚れた弱みだ。好きになればあばたもえくぼ。俺にも、馬鹿がうつった。
 それからはもう我慢の連続で、日に日に身体だけは成長していく美衣子に対し、俺は考えるのが嫌になるほど欲望に正直な自分を抑えて接した。……もし襲っても、美衣子はそのことを理解できないだろう。生理こそあるものの、性知識は人並み以下だ。何も知らない、と言ってもいい。でも、それで一度箍を外してしまったら、俺は美衣子に二度と顔向けできなくなる。この気持ちが青臭い恋だとするならば、決して、自分勝手に押しつけてはいけないものだ。ましてや、恋や愛なんて言葉の意味もわからないような奴には。

「んん……まーくぅん」

 ふと寝言で名前を呼ばれ、振り返った途端に美衣子の手足が俺の全身に絡みついた。抱き枕になった気分。正直、風呂に入った時と同じレベルで最悪の状況だった。あらゆる身体の部位がぐいぐいと密着し、理性を削り取っていく。かといって暴れてこいつを起こそうものなら、きっと寝惚けて泣くだろう。前にもそういうことがあって、その日は宥めるのに一時間掛かった。翌日俺は寝不足になった。そうなると、俺が取るべき選択肢は一つ。

「……はぁ。全く、甘過ぎるよな」

 溜め息を一つ吐き、この程度の役得は許してくれ、と心の中で呟いて、美衣子の背に腕を回す。
 抱き合う形で触れた美衣子の身体は仄かに温かく、寝間着の生地を押し上げる膨らみからは、とくん、とくんと心臓の音が聞こえた。
 生きている。俺も、こいつも、そのことだけは少しも違わない。
 本能的な欲望が静かに治まっていくのを感じ、代わりに訪れた安らかな気持ちを、心地良いと思った。

 いつか。
 俺の想いを美衣子が理解する日は来るだろうか。
 卒業して、就職して、歳を取って、老人になって、事故か病気か寿命か、とにかく死ぬまでに、この恋が叶う日は来るだろうか。
 何もかもがわからない。未来が不明瞭であるように、明日のことも、俺は全く予知できない。
 ……でも、待つことならできる。明日はいい日でありますようにと、祈ることならできる。
 そういえば、恋とは耐え忍ぶものである、とどこかの誰かが言っていた気がする。全ての恋がその通りだとは思わないが、どうやら俺の恋は、ひたすら耐え忍ぶことを要求されているらしい。どれくらい掛かるかもわからない、根気比べだ。でもまあ、それも構わないと思う辺り、俺は美衣子にベタ惚れなんだろう。

 少し、卑怯だとは思ったが。
 幼い愛しの眠り姫に、俺は優しく口付けた。

 ――おやすみ、美衣子。










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 リテイクです。書き直しです。
 正直掌編の時よりよくなったかどうか、さっぱり自信が持てませんが、一応書きたいことは盛り込めました。
 とはいえ前回の批評を経て、逃げ腰になってしまった自覚はあります。結局容量が足りなかったこと、及び色々と間違っていたことは疑いようもなく、加筆修正した結果ほとんど別物になってしまったのは確かですが、それなりに納得はできました。答えを出せた、というのに近いかも。

 サヴァン症候群について調べた際、私は彼らが「天賦の才能と引き換えに大事なものをなくして生まれてきた」ように思えたのですよ。それは文中で書いた通り、非凡な能力を保ち続けるため、大人になれないままなネバーランドの住人の如く。私達とは違う世界に生き、違う景色を見て、違う音を聞き、違うものを感じてる。本当に言いたかったことっていうのはそれだけ……というと失礼ですけど、私が『サヴァン症候群』というものに対し、素直に感じたことです。
 取り上げたテーマがテーマなので、母親中心視点の三人称で説明を済ませ、賢人くんの一人称部分ではひたすらいちゃいちゃ(二割増)させるという分割方式を取りました。シリアスとほのぼのが混ざると化学反応を起こしかねないので分けましたが、既に起きてる気もします。
 ……というか、語ること全部詰め込んじゃうとあとがきって何も書けないですよね。

 登場人物自体は割と気に入っていたり。
 この量を書くのに性格とかはかなり掴んだので、ぴんと来れば次もある……かもしれません。
 まあその辺は金髪幼女物のハルシェラシリーズと一緒です。何かなければ書かないともいう。

 思惑が成功したのか、前回よりマシになったのかどうかは読んだ皆さんの判断に委ねることとして。
 いつもより短いですがここで筆を置かせていただきます。ここまでのお付き合い、ありがとうございました。



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何かあったらどーぞ。