目を開けて――――

「おはよう」

生まれて初めて見た景色は、とても広い空とわたしに向けられた笑顔でした。





にじのむこうのおはなし





そのころ世界は変わらない青空と一面の草木だけで、他にはわたしと彼だけが存在していました。
彼はわたしより大きく、同じような姿でしたがまだわたしが知らないようなことをいっぱい知っていました。
生まれたばかりの小さなわたしを彼は連れ出し、たくさんのものを見せ、教えてくれたのです。

最初は喋ることさえできなかったわたしも、少しずつ言葉を覚え、ものの名前を覚え。
それまで彼がしていた多くのことを自分でもできるようになりました。

時間が経つにつれて、いろいろなことが変わっていきます。
百年でわたしの背は彼の半分ほどまで伸び。
さらに五百年もすると、その差は頭二つ分のところまで縮んで。
けれど結局一度も並ばなかった目線は、いつも優しい彼の口元ばかりを捉えていました。
どんなに自分自身が成長しても、わたしにはずっと、彼しかいなかったのですから。


世界は何だか寂しくて可哀想だったので、わたしたちは色々なところを回り、そこで事ある毎に何かをつくっていました。
背中の羽根を一枚むしると、それはぐにぐにと柔らかくなって別のものになります。
できあがった何かを風に乗せて遠くへ飛ばし、時にはすぐ近くに放して、少しずつ、世界にものを増やしていったのです。

それらを彼は「こどもたち」と呼んでいました。
わたしが「こども」って何? と訊くと、彼は静かに微笑って、

「ぼくらが愛するべきものだよ」

と答えました。
愛がどんなものか、まだわたしにはわかりませんでしたが、その時はそういうものなんだろうと納得して終わりました。



三千年が過ぎた頃には、もうほとんど世界はわたしたちの手を必要としていませんでした。
だからいつしか、彼と一緒にひとところに留まり、どこにも行かず暮らすようになったのです。
二人でつくり、長い年月の果てに育った森の中で毎日を穏やかに過ごしました。

時には走り回り、花を探して。
時には羽ばたき、大気を感じて。
時には寝転がり、草を編んで。

わたしは彼に抱かれながら話を聞くのが大好きでした。
いつも決まって空が暗くなると、彼は懐かしむような目をしながら昔を語ってくれました。

世界がはじまった瞬間の景色。
まだ何もなかった頃のまっさらな大地。
水を注ぐように生命を蒔いて、広げていく日々。
生まれゆき、生きていくこどもたちのこと。

たくさん、たくさん教えてくれたのです。
その全てをわたしは心に刻み、忘れないでいようと思いました。
彼がわたしに向けた言葉は、きっと、大切なものになるだろうと感じたから。


ある日、湖をひっくりかえしたような激しい雨が降り、止むと、空に大きな虹がかかったのです。
それを見てはしゃぐわたしに、彼は言いました。

「この虹の橋を越えた向こうには、何があると思う?」

わたしは、わからない、と答えました。
そしてまだその時は、わからなくてもいいと思っていたのです。

ただ、虹はとても綺麗だったから。
七色の橋が空に溶けるまで、いつまでも、いつまでも魅入っていました。



やがて、二人の日々は終わりを告げました。
緩やかに彼が、弱っていったのです。

好きだった空の散歩も、
楽しみにしていた夜のおはなしも、
わたしに向けてくれる笑顔さえ、途切れてしまって。

ついには立ち上がれなくなった彼を、わたしは必死にどうにかしようとしました。
けれど彼は静かに首を振って、いいんだ、とそれだけを呟きました。

たぶん、わかっていたのでしょう。
自分の役目がもう終わったのだということを。
枯れ果ててしまう時が来たのだということを。

でもわたしにはわかりません。わかりたくもありません。
だって、彼のいない世界なんて少しも想像できなかったのですから。

走り回って、彼のためになる何かを探して。
眠っていても夢に見るのは、元気にわたしの隣を歩く彼の姿でした。
あの毎日が戻ってくるのならどんなことでもするから、だから。
一日たりとも、その願いを絶やすことはなかったのです。


最後の日。
空を見たいと、彼は言いました。
もう一人では満足に歩けすらしない彼に肩を貸し、外に連れていくと、ゆっくり彼は空を見上げ、そして、

「…………ああ」

涙を流しました。
どうして泣いてるの、と訊ねても、何も答えてくれません。
一粒。二粒。雫は落ちて大気に流れ、風の波紋を作り、草木を揺らします。
そのうち涙に吸い取られていくように彼自身が淡く、薄くなっていって、わたしはようやく、別れの時を知りました。
彼の背中の羽根が散ります。だんだんと視界の全てが覆い隠されて、その中で、微かに、声を聞いた気がしました。

「ありがとう。ぼくはこれからもいつも、君を見守ってるよ――――

涙から生まれた風は散りゆく羽根を高らかに舞い上げ、羽根たちは無数の種子へと姿を変えて、世界中に飛んでいきます。
それらはいつか地を満たし、鮮やかな花を咲かせるでしょう。
空に消える彼の名残を見つめて、わたしも涙を流しました。

ぽたり、頬を撫でた雫は、風も生まず、ただこぼれるだけでした。





彼がいなくなって、わたしは飛ぶことを止めました。
地上で生きるものたちと同じように毎日を過ごして、何かをつくることもしなくなりました。
そんなことをせずとも、十分に世界は賑やかだったからです。

日々の間に、愛というものの意味も僅かながら理解することができました。
わたしから生まれた「こどもたち」は、どれもわたしを優しい気持ちにしてくれたのです。
その気持ちが愛だとわかるまでに、花は数え切れないほど枯れ、また咲きました。
こどもたちはみんな、きっとわたしよりずっと強いのだと知ったのも、その頃でした。


さらに多くの時間が経ち、わたしは二度目の虹を見ました。
その時、ふと思い出した彼の言葉。

『この虹の橋を越えた向こうには、何があると思う?』

―――― 初めて自分から、何かをしたいと思いました。
今までずっと彼の後ろに付いて回って、見様見真似で同じことをして。
でも一人になって、彼のいない世界を歩いて、彼の残したものをひとつひとつ辿っていたわたしが。
たった一度だけ投げかけられた問いの、その答えを知りたいと思ったのです。

わたしは背中の翼に力を入れて、羽ばたこうと大地を蹴り、……そして、気づいたのです。
いつの間にか、あんなにもいっぱいあった羽根が、もう一枚もないことに。
地上で生きていくことを選んだ代償として、翼は散ってしまったことに。

ああ、こんなにも綺麗な虹が空にはあるのに。
どうしてわたしは翼を失くしてしまったんだろう、と。
これでは、

「虹の向こうに、辿り着けない――――

その事実がすごく、すごく悲しくて、わたしは泣きました。
枯れることなく、声を張り上げて、ぼろぼろと、わんわんと、ずっと泣き叫び続けました。

そうして流した涙は地を満たし、波と共に広がり、海を作り、やがて雨を降らせて、新しい虹を生みました。
いくつも。いくつも。数え切れないほどたくさんの虹が空を渡り、七色に世界を染めました。

けれど、どれだけあっても、意味がないのです。
手を伸ばしても、見つめても、頑張っても届かないから。
それを思うことが悲しくて、またわたしは涙を流します。


雨が肌を濡らしても。
太陽が虹を輝かせても。
わたしのからだに、緑が芽吹き始めても。


いつしかわたしは大地を見下ろす大木になっていました。
足下には流した涙でできた海と、遥か遠くまでを埋め尽くす一面の草花が広がり、この世界を潤わせていました。

泣き疲れたわたしはしばし呆然としてその景色を眺め、そして気づきました。
あんなに遠くて、届かなくて、諦めていた虹が、すぐ目の前に現れたのです。

『この虹の橋を越えた向こうには、何があると思う?』

わからない、でも、それを知りたいから――――
わたしは古くぼろぼろになったからだを、手足を、懸命に、前へ、前へと動かしました。
高みで吹く風が木の皮を剥がし、生っていた実が揺れて落ち、ぎしぎしとひび割れた音を立てながらも、 壊れてもいいと、わたしの全てを懸けて、一歩を踏み出し。

その瞬間、確かにわたしは空を飛びました。
虹の向こうまで。七色の光を越え、彼の答えを知るために。
そこに……彼がいれば、待ってくれていたらいいと思って。



―――― にじのむこうには、まっしろであたたかなひかりがありました。



わたしは知ったのです。
それが、彼の愛した世界の姿だということを。

すぐ先に彼が立っていました。夢でも、構いません。
強く、しっかりと伸ばした手を、彼は笑顔で、懐かしい、優しい笑顔で、握ってくれました。

後ろを向くと、天に届きそうなほどの大木が崩れ始めていました。
わたしのからだだったものは、灰になって風と一緒に舞い上がります。

ひとかけらは海へ。
ひとかけらは土へ。
ひとかけらは空へ。

世界のあらゆる場所へと、わたしのかけらが還ります。
地に積もっては草花を育て、沈んではそこにいるものたちの糧となり、空に浮かんでは雨と降って虹を作りました。
わたしたちがいなくなってからも、命持つものは形を、色を変え、こどもたちを増やしていき、星は生命で満たされたのです。



今も、この世界を、わたしは彼と見守り続けています。
全てを育む、愛しいこどもたちが住む、この世界を。











ということで『にじのむこうのおはなし(edit)』。オリこん3にて52/79位でした。そんなもんだ。
むしろこれを不特定多数に晒す私の神経がどうかしてるって感じですが、おかしいのは元からですしね。

アダムとイヴ、あるいは世界樹が蒔く種、親と子。
向こうの作者掲示板で語るべきことは全部語っちゃったので、こっちじゃ何も思いつきません。
えっと……誰か絵本チックにこのおはなし纏めてくれません?(マテ

結局のところ、『なにかのおはなし』のアウトナンバーなんですが。
加筆前のバージョンはこれ
正直、特別綺麗だとかは思えません。だって、この程度の美しさ、世界には溢れてるでしょう?
だからこそ、綺麗という感覚は鏡のように、自分のフィルタを通して映したものに抱くわけで。
私が美しいと思うものも、大概美しくなかったりするものです。

そんなおはなし。あなたの鏡は、いったい何を映すんでしょうね。