その日、一人の女性が霧ノ埼市に足を踏み入れた。 交通手段は電車。大きめのトランク、それと腰に巻くタイプのポシェットだけが荷物。 一見するとただの旅行者であり、実際はいわゆる旅人だ。 だが、見ず知らずの人間にその事実を伝えても、おそらく信じないだろう。 ……何故なら、彼女は浮世離れした容姿を備え、保っているのだ。 旅をする人間は普通、ひとところに定住する者よりも何かと不便を負うものである。 しかし彼女にはそんな雰囲気が感じられない。不便すらも美しさに変換しているようにすら思える。 極上の絹糸を光に透かしたような黄金の髪は、櫛を使わずとも絡まらず風にたなびき。 暗灰色を湛えた瞳は輝石の如く煌き、世界の全てから目を逸らさない強さをも兼ね備え。 雑誌のモデルも顔負けなスタイルを包む合計一万円にも満たないラフな服装も、彼女が着れば一流のデザインに変わる。 道を通る十人が十人とも振り返るのだが、降り注ぐ数々の視線をまるで意に介さず、彼女は探していた。 「んー…………なるほど、こんなもんか。特に多いってわけでもないし、滞在期間はいつも通りかな」 その唇から紡がれるのは流暢な日本語。少なくとも、ある程度歳を経てから覚えた、というレベルではない完璧なものだ。 一見して白人系とわかる女性が当たり前のように日本語を話す姿は不思議だが、彼女にはそれが似合っているようにも見えた。 「……あれ? これは……珍しい。 手順は簡単だ。どこか家賃の安い部屋を借りて、日払いのバイトを見つけて、とりあえず生活できる環境を作る。 それから、目的をゆっくりとこなしていけばいい。ここに来る前も、その前もずっとやってきたことだった。 「ま、ゆっくり行きましょう。急いては事を仕損じる、ってね」 彼女はセントーレア。名に信頼の意味を持つ、魔法使いである。 9.君が本当に願うものの形 仕事も一段落し、自分で淹れたコーヒーを口に含んでいる時、こんこん、とノックの音が聞こえた。 鈴かと思い、振り返った静雨は訪問者の姿を見て、硬直した。 「お邪魔しまーす」 現れたのは、全く面識のない人間だったのだ。 西欧の血を引いているからだろう、染めたわけではない地の金髪。静雨に並ぶ長身。 どこか浮かべた笑みは人懐っこくもあり、そのくせ妙に色々な何かを隠しているようにも感じる。 外見の若さに隠れて、長い年月を生きた者が持つ特有の雰囲気が滲み出ていた。 静雨の知り合いはもともとあまり多くはなく、この女性はそこに該当しない。 当然だが、視点を広げれば知らない人間の方が圧倒的だろう。街中ですれ違う相手に友人がいる可能性は限りなく低い。 それと同じで、例えばふらっと見知らぬ場所に迷い込んだ人がいても不思議ではないはずだ。 なら、何故静雨は驚いたのか。 単純な話だ。ここに、偶然迷い込む確率は万に一つもない。 もし居場所を知っていたとしても、一般人は辿り着くことすらできないだろう。 だからこそ、彼女が今、診療所の中に入ってきたという事実は驚愕に値する。 いや、そもそもそれは有り得ないはずなのだから。 不審を抱いた静雨の様子に、彼女は苦笑した。 別に驚かせるつもりはなかったんだけどなぁ、と呟き、 「はじめまして。私はレア。セントーレア。現存する唯一の魔法使い。君は?」 「……神海静雨。精神科医の真似事をしている」 君、と呼ばれたところで微かに眉を顰めながら静雨は答えた。 そして、聞いた名前にふと心当たりがあるのを思い出す。 「……噂を、耳にしたことがある。世界を巡り、願いを叶える者の話を。人々の信頼を糧に生きる魔法使いのことを」 「それは嬉しいなぁ。噂になる程度には、私は世界に関われているんだね」 「………………」 「ん? どの言葉が引っ掛かった? 世界に関わる、ってところだと思うんだけど」 「…………名言はしない」 「外れてもいない、ってところかな。そっか、ある意味では君も同類だもんね。ここ座っていい?」 「構わん」 「じゃあ遠慮なく」 くるり、とターンして髪を舞わせ、レアはベッドに腰掛ける。 それから目を閉じ、何かを探るような表情を見せた。 「……コーヒーは、飲むか」 「あ、お願いします」 「わかった」 静雨が席を立つ。台所にカップを取りに行くのを眺めて、姿が奥へ消えてから部屋を見回した。 今座っているベッド、静雨の定位置である机。壁にはアナログ時計と白黒の綺麗な絵が一枚、それと丸椅子がひとつ。 控えめに言っても殺風景だ。物がほとんどない。 しかしそれは、彼がこれ以上を望んでいないからだろう。必要ないものをわざわざ増やすこともないわけだ。 白衣を着た背中。神海静雨と名乗った彼に、特別な願いはないようだった。 もし、魔法使いに叶えてほしい『願い』があるのなら、彼女には見えるはずだから。 レアが静雨に感じたのは、別のものだ。在り様とも言うべきそれは、普通の人々と一線を画している。 魔法使いが『願い』を察知し、叶えるためにはいくつかの条件が要る。 まず、対象が大なり小なり、過去、あるいは現在、魔法使いという存在を信じていた、信じているということ。 その『願い』が世界の根底を揺らがす結果をもたらさないこと。そして、心の底から成就を願っていること。 おおよそみっつの条件を兼ね備える者が、彼女と出会い関わる資格を得る。 レアは相手の持つ本当の願いを見抜き、内容に応じて普段は扱えない力を行使するのだ。 だが、静雨は魔法使いではない。 彼女のような"願いを叶える力"は持ち合わせていない。 そこまでわかっていて、レアが静雨を同類と表したのには理由があった。 ―――― 「砂糖は必要か?」 「平気ー。ブラックでも全然飲めるからそのままでー」 静雨から手渡されたカップには、暗い色をした液体がゆらゆらと揺れていた。 早速口をつける。苦い。特に美味しいというわけでもない、平凡なインスタントの味。 けれどその陳腐さが、レアは嫌いではなかった。もう一口、軽く啜る。 「…………それで。何の用で来た。まさか目的がない、とは言わないだろう」 「急かさない急かさない。まぁ、確かにそうだけど。ちょっとお話したくてね」 「私相手でないと勤まらんものか」 「うん、そんなところ。……ドア越しに盗み聞きしてないで、入ってきていいよー」 「え……!? あ、えーと……静雨くん、ごめん、入るに入れなくて」 申し訳なさそうな顔をして、鈴が引き戸の向こうから現れた。 静雨と見知らぬ誰かが会話中なのを知り、割り込むタイミングを失したらしい。 だからといって盗み聞きはないだろう、と思うが、鈴の性格を考えると出直すという選択肢はない。 ちょうど蘇芳は買い出しで不在、暇を紛らわす話し相手もいない状況で、ただ待つのは辛い。 それに、霧人や真希以外の来客は静雨が笑顔を見せるよりも珍しいことだ。 会話の内容が気になったとしても、仕方ないと言えば仕方ないのだろう。手段こそ褒められるものではないが。 椅子をわざわざ運んで静雨の隣に座る少女―― 鈴を見やり、レアは心の中で思う。 私達のような存在が、生きて、生き続けるのは、とても難しいことだ、と。 そして、それを彼らもおそらくは感じているに違いない、と。 だからこそ。 彼女はここを訪れ、ひとつの問いを向けるつもりでいた。 鈴は表情には出さず、しかし動揺し、驚愕していた。 目の前の女性。セントーレア、と名乗った彼女は、静雨の視線に晒されながらもたじろぐ様子が一切ない。 しかも、何より信じられないことに、 …………思考が、聞こえない? 彼女が他人の表層思考を受信できない場合、二種類の原因がある。 ひとつは、対象が何も考えていない時。思考に空白ができていれば、読み取る情報もまた存在しない。 そしてもうひとつ、対象にプロテクトが掛かっている時。これは静雨以下四人しか該当しなかった。 今、鈴がレアに対して感じているのは、後者の方だ。 読み取るものがないというより、単純に読み取れない。まるで、普通の人が普通の人と接するように。 ―――― 瞬間、鈴は しかしすぐ湧き出た思いに気づき、否定する。それは違う、と。 静雨の横顔を見た。相変わらずむっとしたような、誤解されそうな表情。 その、瞳が……鈴の目には少しだけ、揺らいだように、映った。 「それで、何の話だったっけ」 「……私に話がある、と」 「要約上手いねー。うん。話。痛いところ突くかもしれないけど、いいよね?」 「…………構わん。何となくだが、君は私達のために告げる何かを持っているのだろう」 「そうなるといいな、とは思ってる。でも、そこは君達次第。大丈夫、簡単な問いをひとつだけ、ね」 「………………」 「魔法使いとして、願いを叶える者として告げましょう」 細い指が、乾いた音を鳴らす。 ぱちん、という響きと共に、その手が掴んだのは一輪の花。 『信頼』の意味を持つ、矢車菊。 「……こんな力、消えてしまえばいいと、願わなかった?」 異物は排斥される運命にある。 故に、彼らは時に蔑まれ、時に罵られ、時に恐れられ、次第に居場所を失っていった。 全ては人ならざる力を持つがため。 幼い頃はまだその扱い方も知らず、無意識のうちに誰かを傷つけ、怯えさせた。 それが本来"あってはならないもの"と理解してからは、自分の胸の中だけに秘め、ひた隠しにするようになった。 例えば、生まれた瞬間より手か、足か、いずれかが欠けていたとしよう。 親も他の大人達も、同じ子供も皆、そんな子を「足りない」と評するだろう。普通の子と比べて足りない、と。 だが、思うのだ。誰にもないものを持って生まれてきても、それは足りないことになる。 備えているからこそ、常識、普通、当然、そういうものから逸脱してしまう。 彼らは、知らない、という当たり前を持たずに生まれてきてしまった。 そう。知らなければこんなに苦しむこともなかったのに。 辛い思いをして、泣きたくなるような日々を経験して、それでも生きていくことは、なかったのに。 「…………そう思うことも、あった」 「わたしも。そればかり考えてた時期も、あったよ」 だったら、何の役にも立たない、自分を不幸にするだけの力なんて、なくなってしまえばいい―――― そう、願った。 「じゃあ、今は?」 「……正直に言えば、今でもだ。どうしても、その気持ちは拭えない」 「苦しんだことは嘘じゃないから。あんな過去ごと忘れてしまいたいって、考えちゃうよ」 それでも。 時間は戻らず、思い出は揺らがず、現在は変わらない。 「……私達は、過去に引きずられるべきではない」 「だから、頑張ろう、って、ずっと前に決めたの。そのために、自分の持つものを精一杯使っていこうって」 「…………誰かのために?」 「うん。苦しんでる、誰かのために」 「だが……この手はあまりにも小さい。この身でできることは、本当に少ない」 「そうだねぇ。どんなに素晴らしい力を、それを扱う術を持っていても、私達は全能じゃない。万能でもない。 それどころか、優秀ですらない。誰も彼もに手を差し伸べることは不可能。結局―――― 自己満足に過ぎないよ」 人の心を知ったとしても、人を導けるとは限らない。 逆に、知っているから傷つけ、失うこともある。 そして、たった一人でできる範囲の何と小さなことか。 世界を包むには短過ぎる。世界を覆うには脆弱過ぎる。誰か一人を救うことさえ、儘ならないのに。 「―――― わかっている」 「………………」 「だが、私は……例えちっぽけであっても、自分にできることを、自分がしていることを、信じている。 不器用だろうが、自己満足だろうが、自分勝手だろうが……この生き方は、変えられん」 「今のままでいいの。わたしも、みんなも、全てに意味があるって、大丈夫だって、信じてるから」 「……それが、君達の願い、なんだね」 「ああ」 「うんっ」 魔法使いは立ち上がる。 もうここにいる必要はない、というように。 その表情は、晴れ晴れとした綺麗な笑顔。手元の花を放り投げ、きょとんとした顔で鈴が受け取ったのを見てから、 「んじゃお姉さんは帰りましょうか。いい答えも聞けたし」 「あ、あの……っ!」 「何?」 不意に、鈴は彼女を引き止めた。 けれど続く声はなく、えっと、その、と俯いて言葉を探し、数秒後、ゆっくりと紡ぐ。 「……静雨くんは不器用な上に口下手だから、顔にも声でも出さないけど……その分、わたしが言います。ありがとうございます」 「別に大したことはしてないよ。……ふふ、お二人さん、お似合いだね」 「え? …………ええ!?」 「花は渡しておくね。すぐ枯れちゃうけど、飾っておいてくれたら嬉しいかな」 「……考えておこう」 「またね。来るべき時が来たら、会いましょう」 そうして、魔法使いは診療所を去った。 後には二人が残される。 「…………変な人だったね」 「彼女の特徴を見事にひとことで表しているな。確かに、不思議な人だった」 「結局、何しに来たんだろう……」 「はっきりとはわからん。だが、先人として、私達を気遣ってくれたのだろう、という推測は立つ」 「先人?」 「話によると、彼女はもう数百年を生きているらしいが」 「えええ!? 嘘!? だってあんなに綺麗なのに!」 「……君も似たようなものだろう」 「女の子に歳の話は厳禁ー!」 「…………君が始めた話なのだが」 コーヒーはもう冷めている。 機嫌を損ねてしまった鈴を横目に、静雨は苦い液体を口に含み、温かい次の一杯を飲むために席を立った。 魔法使いとは、誰かの願いを叶え続けるシステムだ。 だが、それを不満に思うことは、もうなくなっている。 彼女は自ら望んでここにいるのだから。それに、旅をして、気ままに暮らすのも楽しい。 「……全てを救えないのは、私も同じだからね」 魔法使いが手を差し伸べられるのは、条件に合った『願い』を持つ者だけだ。 そうでなければ、例え世界のどこかで苦しんでいる人がいても、その痛みを和らげることはできない。残酷な、ルール。 「でも。私には私なりの、彼らには彼らなりの、やり方や考え方がある」 それにきっと、根っこの部分では一緒なのだ。 できることがあるならしてあげたい。自分にしかできないのなら、尚更。 だって、自分が関わった結果、幸せになってくれたのなら、それに勝る喜びはないだろう。 「さーて、今日も頑張って行きますかっ」 ……君が本当に願うものが、どんな形をしていようと。 それを誇れるのなら、胸に抱えて進んでいって。 強く、生きましょう? |