倉宮鈴が白夜色のアトリエを訪問したのは、肌が切れるような冷たさを感じる冬の朝だった。
その日も習慣で六時に起きた色は、服を着替えたところでノックの音を聞く。
それなりに名も売れた彼だが住居は世間に知られていない。
昔から変わらない、霧ノ埼の何もない場所。そこに建てた小さな家をアトリエにしてから、もう十年近くが経つ。
友人もほとんどおらず、家族の他に知る人間は片手で数えられる程度しか存在しないのだ。
母親なら来る前に連絡をするし、だから誰だろう、と疑問に思いつつも開けて迎える。

―――― そこにいるのはいつか見た、大切な始まりをくれた少女。

「……久しぶり、だね」
「あなたは…………倉宮さん?」
「うん、ご名答。白夜色くん、何年ぶりかな?」

玄関に立つ彼女は、彼が覚えているものと欠片も違いない姿をしていた。
薄く浮かべた笑顔には再会を懐かしむような色が込められている、と思う。

不覚にも、少し、瞳が潤んでしまった彼だった。





8.今あなたが見ているのは





アトリエと言っても、名の通り機能しているのは玄関より奥の空間だ。
その広さは建物の半分程度で、残り半分は当然ながら住居である。
廊下からトイレ、小さなキッチン付きのリビング、そして寝室。
まず鈴をリビングまで案内し、椅子を勧め、「……お茶、飲みます?」と訊ねた。

「あ、いいよ。お構いなく」
「でも……何か申し訳ないというか、その」
「わかったわかった。じゃあ、わたしに淹れさせて。それなら飲むよ」
「余計申し訳ないんですが……」
「気にしないの。私が、やりたいんだから。場所どこ?」
「は、はい、茶葉はそこの棚に。湯呑みは右の、ええ、その段です。ティーカップはすぐ下に」
「全部揃ってるんだね……」
「たまに母が来ると振る舞うことになるので。『お茶は雰囲気も合わせて飲むものよ』と」
「なるほど、確かに」

会話をしながらも、鈴の手はてきぱきと準備を進めていく。
セレクトしたのは煎茶の方。急須に葉を入れ、火に掛けて十分温めた湯を注ぎ、しばしの間蒸らす。
濃過ぎず、薄過ぎず。直感で時間を計り、予め用意した湯呑みふたつに向けてゆっくり急須を傾ける。
注がれる緑色の液体からは苦味を込めた香りが漂い、どこか安心させてくれるような印象を二人に与えた。

「できたよ。はい、どうぞ」
「えっと……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「でもこれ、変な光景ですよね。お客さんが訪問先の住人にお茶を振舞ってるのって」
「いいの。だって、わたしらしいと思わないかな?」
「そんな面識ないので何とも」

互いに向かい合う形で座り、茶を啜る。
彼にとっては緑茶も紅茶も烏龍茶も見た目はただの色つき水に過ぎないが、味は全て違う。
渋みと、苦味と、体の芯に伝わるぬくもり。喉を通すには少し熱く、けれどその熱さが心地良い。
舌を火傷しない程度にちびちびと口をつけ、おいしいな、と思った。
最も、おいしいという単純な感想は他の茶でも同じように抱いただろうが。

「最近はどう?」
「どのことですか?」

唐突な鈴の疑問に、色は悪戯っぽく笑って返した。
勿論、言外に何を含んでいたかはわかっている。ちょっとした冗談だ。

「わかってる癖に。わたしに嘘はつけないよ?」
「そうでしたね。前もそうだった。……まぁ、あれからも程々に描いてます。決してペースは早くないですが」
「そこは嘘じゃないんだね。そっか、君、割と自分に正直みたいだし」
「……褒めてるんですか?」
「当然。少なくとも、わたしには有り難いから」
「ならよかったです。アトリエの方、見ていきますか?」
「うん。もともとそのつもりで来てたしね」
「じゃあ、案内します」

二人とも茶を飲み終えたタイミングで、彼が立ち上がった。
鈴もその後ろに続く。途中で湯呑みを流し場に置いておくことも忘れない。
一度廊下に出て、寝室のある扉を歩き過ぎ、一際大きな入口に辿り着く。

かちゃり、とノブを回して開いたドアから中に入ると、先ほどのリビングと比べて軽く三倍以上は広い空間が鈴を迎え入れる。
リビングや廊下と同じ、板張りの床。奥には外が見えるようにという配慮からか、一面ガラス窓だ。
そこから昼の陽射しが微かに射し込み、室内を明るくしている。
手前側、隅に、描かれた絵がいくつか置かれていた。とはいえ決して乱雑な扱いでもない。
きっちりと整え並べられたそれらは、やはり、白と黒以外の色彩を持っていなかった。

中へと踏み込んで、鈴は空気を吸う。
木と、紙と、絵の具と、鉛筆と、水と、微かな汗と、埃と、その他諸々が混ざった、時間の匂い。
部屋の中心にあるイーゼルに立て掛けられているのは、すぐ目の前に広がる景色を描いた風景画。
「見ていい?」と声にはせず目線で問いかける。
返事は頷きで、それに納得した鈴は改めてじっと絵を眺めた。

派手な色を使っているわけではない。
むしろ、ある意味では単色なのだから地味だ。
けれどそこに寂しいという印象は感じられず―――― 空も、緑も、土も、形としては見えない風さえも。
確かな、彼が感じて込めた彼なりの『美しさ』が、存在していた。

……ただ、心を絵に注げる尊さを、彼の示したこの答えを、綺麗だと思うのはおかしいだろうか。

扉の近くにいた色には、背を向けた鈴の顔は見えなかった。
あるいは、見えなくてよかったのかもしれない。結果的に、彼女を泣かせたのは彼だったのだから。










――ねぇ、どうして、人間は言葉とか仕草とか、そういうものでしか自分の気持ちを伝えられないんだと思う?
――嘘ついたり、誤魔化したり、本当のことを隠したりするんだと思う?



彼女にとってはほとんど生まれた時から、父も母も大人も子供も男も女も関係なく、人間が怖かった。
他の誰にも見えない何かが、彼女には見えていたから。……見えてはいけないものが、見えていたから。
顔で笑っていながら、心中ではぞっとするような殺気を抑えているなんて、そんなの当たり前のことだった。
人はあらゆる手段で自分の本心を覆い、日々を過ごしている。何故なら、それは常に晒すべきではないからだ。

そう。本来は隠さなければならない。心は脆く、儚いが故に、正面からの力には耐え続けられない。
ならわからなければよかった。知らないままでいたかった。ずっと、嘘に騙されて生きたかった。
そんな風にいられれば、彼女はたぶん、ここまで傷つくこともなかっただろう。

他者の表層思考を情報として読み取る能力。
表をどんなに取り繕っても、塗り固めようとも、彼女の前では意味を為さない。
剥き出しの中身を見せつけられ、押しつけられ、その度に彼女は苦しんだ。

不幸しか運んでこない、恐ろしい力。おぞましい力。
自分と一緒に、なくなればいいのに。そう願うほど彼女にとっては負の意味しか持たなかった、力。

己の異端さを隠し、人を避け、接点を極力作らず年月を重ねた。
一人になっても、孤独になっても、それでいいと本気で信じていた。

なのに。
どうして心は誰かを求めるのだろう。
傷ついて、辛いのは嫌で、だから離れたのに。
寂しいと思ってしまう自分は、どうすればいいんだろう。


――きっとみんな、不器用なんだね。だから悩んだり、大変な思いをしたりして。
――寄り添って生きるにも、馬鹿みたいなことですれ違って、ね。



そんな彼女は、隣にいてくれる人を見つけた。
いつも難しい顔で、殊更に不器用で、でも生きていくことに一生懸命な。


――やっとわかったんだ。どんなことでも、選んで、信じるのはわたし自身なんだ、って。
――だったらわたしのこの力にも、大事な意味があるって、そう思いたい。



同じように、自分にもできることはあるのだと。
ようやく、彼女は受け入れて、傷つくことをやめた。
そうして築いた今がある。簡単ではなかった、決して楽でもなかった過去の上に。

だから彼女は旅をする。ほんの少しでも、誰かに手を差し伸べることができればいいと願って。










「それじゃあそろそろ、わたし帰るね」
「あ、そうですか……ちょっと、待っててくれます?」
「うん。いいけど」
「すぐ済みますから」

彼は走ってアトリエへと行ってしまい、取り残される鈴。
呼び止めたのはどうしてだろうかと考えてはみるが、わからなかった。
しばらくして足音が近づいてくる。往路よりも間隔は長く、慎重な動き方だった。

「できれば……これを倉宮さんに受け取ってほしいんです」
「え…………? あれ、これって確か」

現れた彼が持ってきたのは、額縁に収まった一枚の絵。
それには見覚えがあった。ちゃんと保管されていたらしく、前と比べても劣化した様子はあまりない。

「でも、賞取ったし寄贈したんだと思ってた」
「いえ。僕が引き取ったんです。いつか会ったら倉宮さんに渡そう、って」
「…………いいの?」
「いいんです。倉宮さんだから、いいんです。この絵を描けたのは倉宮さんのおかげですから」
「……うん、わかった。大切にするね」
「そうしてくれれば画家冥利に尽きますよ」

抱きしめるには少し大き過ぎるそれを、鈴は両手でしっかりと掴む。
その姿を見て、色の表情は緩やかにほどけた。幼くも、純粋な笑顔の形に。

「今、君が見ているものを……これからも忘れないでね。見失っちゃ駄目だよ」
「はい。鈴さんも、お元気で。気が向いたらまた来てください。歓迎しますよ」

鈴は答えず。
だからこそこれは別れでないのだと、彼には思えた。

それでいい。また会えたなら、次はちゃんと僕が紅茶でも淹れよう、と心の中で誓って。
去り行く彼女はそんな彼の声でない言葉を感じて、聞かなかったふりをした。










ノックの前に何かをごとりと置く音が響いて、何事かと静雨は振り返る。
ゆるゆる開く戸の向こうから、両手で持つのがやっとなサイズの板らしきものと一緒に鈴が入ってきて、頭を抱えた。

「……鈴、それはどうした」
「もらってきたの」

彼女が嬉しそうに笑っていたので二の句は告げなかった。
しかし、留め具として軽く巻かれていた紐を解き、傷つかないよう被さっていた布を取り払ったところで声を掛ける。
その一連の動作は、中の絵を出すためのもの。つまり、

「ねえ静雨くん。この絵、飾ってもいい?」

予想通りだった。
少し悩み、静雨は返す。

「構わんが……何故だ?」
「わたし達が―――― 頑張った証だから。きっと」
「……そうか。目立ち過ぎないところならいいだろう」
「ありがとう」

何があったのか、詳しくはわからない。
ただ、ひとつだけ間違いないのは、結果として彼女が幸せであることだ。

背伸びしながら必死に上の方へと掛ける場所を作ろうとしている鈴に苦笑して、静雨は立ち上がった。
……あれでは届かないだろう。自分でなければ。

その日、診察室に一枚の絵が飾られた。
端に描かれた女性は、静雨には鈴にしか見えなかった。





後に、白夜色は世界でも珍しい色盲の著名な画家となった。
一度雑誌のインタビューで、名を広めるきっかけである小さな絵画展の賞を取った絵の行方を訊かれたが、 最後まで彼は笑って答えなかったという。今は手元にない、それに思いを馳せるように。