昼食を調理中のことだった。
気まぐれに思いついて作った豚のピカタ(小麦粉と卵の衣で包み、油で焼くイタリア料理)の油を切って、 さて味はどうだろうか大丈夫だろうかと先に用意したケチャップベースのソースをつけて味見しようとした時。
すっと横から細い手指が伸びてきて、まだ熱い完成品の中から一枚を掴み、掻っ攫っていったのだ。

あんまりにも唐突な展開で、僕は一瞬呆気に取られた。
いくら調理に集中していたといっても背後に人がいることに気づかなかったなんて。
しかも、よく考えずとも、この部屋に僕以外はいないはず。
そして診察室で机に向かっている静雨さんは、つまみ食いをするような人間じゃない。
なら鈴さんか、と想像してみるけれど、彼女なら先に一声掛けてから持っていく。

とりあえず悩むのを止め、ゆっくりと振り返る。
そこには、

「…………え? ええ?」
「……むぐ、ん。相変わらず料理上手いのね。昼は私も一緒に頂いていいかしら?」
「ま、真希さん!?」

僕のよく知る人物―――― 冬野真希がいた。





7.押入れの奥の宝箱





この診療所の住人は二人。僕、浅葱蘇芳と静雨さんだ。
僕らとは別に、迷い込むのではなく意図的にここに来るのは主に三人。
鈴さん、霧人さん、それと今僕の隣で上品かつハイスピードで目前の料理を食している真希さん。
ちなみに訪れる頻度で言えば鈴さんがダントツ、霧人さんと真希さんは横一線だ。
ただ、前者はかなり不規則不定期、後者はほぼ定期的なのだけど。

僕は彼女が現れる未来を予知していなかった。
というのも未来視自体が見る時期にばらつきのあるもので、先週頭の次は週の終わり、なんて場合も極端な例としてある。
生憎先週分は既に起こり、今週はまだ夢に出ていない。
結果、大袈裟なくらい驚くことになってしまった。……ちょっと恥ずかしい。

「……ん? 何か私の顔についてる?」
「あ、いえ。おいしそうに食べてくれてるので、嬉しいなぁ、と」
「そりゃそうよ。まともなものを口にしたのが二ヶ月ぶりだし。帰ってきたらまずあなたの作ったものを食べるって決めてるから」

真希さんは一般人が行けないような場所にある遺跡、歴史的建造物の発掘、調査を主とする職に就いている。
鑑定士としての眼力は持ち合わせてないけれど、学術的価値がある古物も調べて持って帰るらしい。
とはいえどこかの組織や会社に所属しているわけではなく、フリーランスの一人仕事。
誰かとコンビもチームも組まず、必ず単独で活動するという、特異な立場にある人だ。
でも"そちら側"では随分高く評価されているようで、忙しい時は割と忙しい。
未開の奥地とか砂漠の真中とか、とにかく遠くて危険なところに行くため、一度出発すると最低一ヶ月は戻ってこない。
なのに生還率は見ての通り十割。滅多に怪我のひとつもしない、端的に言えば凄腕の……冒険者?
未だに彼女の仕事を何て呼べばいいのかわからないけど、少なくとも僕が付いていったら半日で死にかけると思う。
そういう世界で、当たり前のように生きている人物なのだ。

そこに至るまでの経緯、動機、理由、原因。
全ての根本にあるのは僕らと(厳密には僕が一番近い)同じ、異能の力。

彼女は、空間に蓄積された情報記録、要するに過去を読み解くことができる。
映像という形で、時代の上下は限定しない。指定をせずとも彼女が最も望む頃の風景を見られる。
ただし極度に精神を消耗するため持続的な使用は不可能。
一時間分を体感すると、おおよそ半日の睡眠を強制される。本人曰く、

「こたつの中に入ってて物凄く眠くなる感覚を五十倍くらいにしたようなもの」

……らしい。
何となくだけど、まず逆らえない眠気であるのはわかるだろうか。
睡眠というよりは休眠に近い。相当に意識は深くまで沈むようで、何をしても起きなかった。主に霧人さんが実行犯。

過去視が役立つのは主に彼女の仕事先、遺跡や古い建物などでだ。
その場所の過去を映像で再現できるということは、既に起こった事象、決定された時間軸、真実の歴史を見られるのと同じ。
つまり、彼女は学者達の議論を無意味にする収穫を得られるのである。
唯一の欠点、強制的な休眠は、まあ時と場合に応じて上手く対処するとのこと。
毎度毎度半日も危険極まりないところで寝ているにも関わらず、しっかり戻ってきているので今のところ問題ないのだろう。

そんな彼女にとって唯一の悩みが、食事の不味さ。
基本が現地調達、調理方法も焼くか生か煮るかという大雑把さで、そりゃあ味にも飽きる。
しかもどうしようもないことに、真希さんは料理ができないのだ。
昔は作って試したこともあったけど、悉く失敗して以来諦めたそうで。
別にセンスがないわけじゃないのに勿体無いと思う。でも本人はそれで納得していて、だから僕は何も言えない。
それに、結果として帰ってくる度、僕の料理を食べに来るから悪い気は起きない。むしろ嬉しい。

「……真希。どうだった?」
「目ぼしい成果はなかったわ。まぁ、そうそういいものなんて見つからないわね」
「そうか。……仕事は、楽しいか?」
「……珍しい。静雨さん、あなたがそんなことを訊くなんて。雪でも降るのかしら?」

真希さんの言葉に静雨さんは顔をあからさまなほど顰めた。
というか、わざわざこっちの部屋に来て食事を摂っているのがまず滅多にないことであって。
軽く心の中で驚きつつ、まあ確かに珍しいなぁ、と思っていた。

「随分な言い草だな」
「あ、ごめんなさい。言い直すわ。あなたがそんなことを言葉にするなんて、ね」

普段、彼は"そういうこと"をあまり口にしない。
声に出さずとも、通じる気持ちはある。以心伝心とは言わずとも、以前にわかることはある。
言葉は他人に心を伝える手段。でも、それを使わないことで伝えるやり方も存在するのだ。
知っているから、静雨さんは基本的に饒舌ではない。元々の性格も多分に関わっているのは確かだけど。

「……感傷だ。答えたくないのなら構わない」
「いえ。楽しんでるわよ。……静雨さんがここにいるのと同じように、私も私にできることをしてるもの」
「真希さん……」
「蘇芳くんはどうかしら? ここにいて、楽しい?」

突然問いを振られ、けれど僕は、

「はい。楽しいですよ。僕も二人と一緒です。できることを、精一杯したいと思って、ここにいますから」
「……そう。そうね。それが、私達の答えだものね」

今更考えるまでもない。
答えがあるから、僕も静雨さんも、真希さんもこうしてそれぞれの場所で、それぞれの心を抱えて生きている。

きっと、そういうことなんだ。










昼食の席から誰もいなくなり、三人分の皿洗いを終えて奥からはたきを持ってきた僕は、真希さんに呼び止められた。
静雨さんはまた診察室に篭って筆を走らせている。しばらく出てこないだろう。

「私はそろそろ帰るわ。静雨さんにはよろしく言っておいて」
「わかりました。後で伝えておきます」
「蘇芳くん、手を出して」
「はい?」

ぽん、と置かれたのは、小さな虫の姿が彫り込まれた石。
透き通るような深い青色をした、宝石だった。

「古今東西お守りシリーズ。今回はエジプトより、スカラベを彫り込んだラピスラズリよ」
「ちょっと、これ実はとんでもなく高価だったりしませんか?」
「まさか。質はそんな良くないし、市場で値切って買ってきたものよ。だから遠慮なく受け取って」
「……はい」

それじゃあね、とひとことを残し去っていく背中。
僕は玄関まで追って見送り、その長身が消えるまで立ち尽くしてから、手元のはたきを床に放って自室へ向かう。
目指すは押入れ。布団と日用品、もしくは役に立たない品が雑多に詰まった、半ば物置と化している空間。
中でも一番目立たない場所にある、決して大きくはない木箱を取り出す。

開けばそこには、たくさんの小物が入っている。
木製の彫刻から宝石、ネックレス、アクセサリーの類と統一性の欠片もない。
でも、僕にとっては全てが大事な宝物。だから、この箱は宝箱。
さっきのラピスラズリをそっと中に重ね、蓋を閉じ、静かに元の位置へと戻した。

「……さて、掃除しないと」

心持ち軽い足を動かして、僕はまたはたきを拾いに行く。










「何か蘇芳くん物凄く機嫌良さそうだったけど」
「真希が来た」
「あーあーあーあー。なるほど。それなら納得」

その夜、鈴が静雨の元を訪れた。
手土産はない。彼女の土産はいつも、外の話である。
それも今日の分は語り終え、会話のネタを探した結果が蘇芳のことだった。

「蘇芳くん、真希さんが来る度持ってくるものを全部大事に取っといてるんだよね」
「……何故知っている?」
「嬉しそうに箱を開けて小物を仕舞う様子を見たことあるから」
「覗き見は感心せんが」
「違うよ、偶然通りがかった時にちらっと。それで気になっちゃって。って、静雨くんは何で知ってるの?」
「…………私も、見たことがある」
「じゃあおあいこだね。人のこと言えないよー」
「弁解はしない。……しかし、あの顔は記憶にある限り一番幸せそうな表情だったな」
「うん。―――― どうして、だと思う?」

静雨は答えなかった。
言葉にしない方がいい事柄も、この世界には存在するのだ。

口を噤んだ静雨を見て、鈴は満足そうに微笑んだ。