正直に言おう。僕の膝は、その一歩でもうどうしようもないくらいがたがたと震えていた。
心臓も小太鼓を連打するが如く小刻みに、けれど激しく鳴りっぱなしで、そのくせ妙に縮こまって息苦しい。
呼吸の一回一回に苦痛を伴う感覚。思考が上手く働かない。くらくらする。

十数センチ先に足場がなく、見下ろす視界には深い闇と混ざったコンクリートの地面が広がっている。
背後、退いた手がついさっき乗り越えた柵に触れる。鉄の感触は雨に濡れてより冷たい。
こんな状況に置かれれば、普通は高所恐怖症でなくとも僕みたいになるだろう。そう信じたかった。

「………………」

ごくり、と唾を飲む音が聞こえた。
雨。降り続く雨が足下を水で侵食している。頬に、髪に、伝って首筋に、服から肌に。
全身濡れ鼠の僕は、遥か高みに立って、見慣れた風景を俯瞰して。

……今、死を目前にしていた。





6.鼠が猫を噛むために





四日悩んで、出した答えだった。
そこに至ったのは、一番楽で有効な手段だと思ったから。

学校での僕はそれはもう惨めなもので、弱いから強者に目をつけられ、貶められる。
要するに、人格とか尊厳とか当人の気持ちとか、そういうのを綺麗さっぱり無視されているわけで。
ただ、楽しいから、なんていうような実に傍迷惑な理由で他人の、この場合は僕の幸福を搾取してるに違いなかった。
人の不幸は蜜の味。よく言ったものだ。一般的に『いじめ』と呼ばれる行為のほとんどにその言葉は当てはまるだろう。
涙を流し、不恰好に尻餅をつき、助けを求め、やめてと懇願し、無様に地を這いつくばる姿を笑い飛ばす。
そんなのきっと世界中にあるような光景だろうけど、よりにもよって僕じゃなくても、と悪態を吐くこともあった。

死ぬなら一瞬がよかった。
苦しむ間もなく、それこそ瞬くまでの時間で。

まずはこの辺りで最も高い建造物を探し歩いた。
自分の住む町がどれだけ広いかを知ったのもその時。
初めこそ徒歩で移動してたけど、途中から遠出をするのに自転車を使うようになった。
遠くからでも視認できるビルやマンションを見つけたら、足を止めて入ってみる。
セキュリティが甘くなければ一階で門前払いだ。実際そのパターンが多かった。

空を飛びたいと願った子供の頃の夢を思い出した。
だからそれに近い、墜落死という方法を選んだ。

結局目星をつけたのは家から徒歩圏内の高層ビル。
玄関はオートロックの住人呼び出し式で通れそうにない代わり、階段の方から笑えるくらい簡単に侵入できた。
そして個人的に最重要な屋上へのルートは、十一階から階段で行けた。鍵も掛かっていない。
運良く下見の時も誰にも見つからず、これからの予定に支障はなさそうだった。
一度十階付近の階段から顔を乗り出して眺めた街並みは、幼児の書いたあみだくじみたいだと思った。

弱い僕でも、死ねばその事実が武器になる。
武器を振り回すのは僕以外の人々だ。後は勝手にみんなが復讐を完遂してくれる。

両親に隠れて遺書を作った。
内容の八割が僕を散々陰湿に責め立てた奴らへの恨み節になって、何故か笑ってしまった。
当日に机の上に置いておけば父か母が気づくだろう。その頃にはもう全てが終わっている。
僕は地面に叩きつけられて、物言わぬ死体に変わっているはずだから。
最後に、ごめんなさい、と記して、封をした。

それくらいしか考えつかなかった。
非情で残酷な、地獄みたいな現実に立ち向かうのは、もう嫌なんだ。

ちょっと散歩してくる、と言い残して家を出た。リビングから遠く聞こえるいってらっしゃいの返事を耳にした。
外は雨、傘は持たない。勿論わざと。どうせ最後だ、風邪に罹る心配をする必要もない。
惨めに濡れてしまいたかった。さほど強くもない霧雨だけれど、服を湿らせるには十分で。
闇色の道路を抜け、件のビルに難なく忍び込み、エレベーターのボタンに手を掛けようとしたところで故障中の紙を見つける。
仕方なく、長い長い階段を上がっていく。一段一歩を踏みしめる毎に、ぐちょりと不快な感触が足裏から伝わってきた。

自分は死んで、どれだけ酷い姿になるだろうか。
悲惨な結果を知って、奴らはどれだけ苦しむだろうか。

視界に映る空が次第に近くなってきて、僕は終わりを肌に感じる。
九階。十階。十一階。やっぱり封鎖されていない屋上への扉をそっと開け、人気のないその場所へ踏み入る。
そして遮るもののない空間へ辿り着き、全天の灰色を目にして、僕の身体はぶるりと震えた。
墜落死までの手順。歩く。申し訳程度の柵を乗り越える。覚悟を決めて、飛び降りる。
薄くコンクリートに張った水溜りの上を進み、弾みで落ちないよう濡れて滑る柵を慎重に跨いだ。

あとは簡単。最後の一手、虚空へ足を、全身を投げ出す。
そこで全てが、ようやく全てが、僕の何もかもが世界にさよならを告げる。

膝が笑っている。怖い。馬鹿馬鹿しいほど緊張している。
文字通り人生を決める決断だ。でも、もうここまで来たんだ、僕は―――― 僕は、行く。

すうっと、見えない何かに押されるように前へと動き、浮遊感が身体を包もうとして、





『やめておけ』





僕は、落ちなかった。
濡れた靴が柔らかい地面、緑を踏み、靴下と靴底に染み込んだ水がじわりと溢れる。
雨が止んでいる。どころか、そこは屋上ですらなかった。
いつの間にか見知らぬ場所に立っていて、今更ながら濡れた服を肌寒く感じる。
深い森の中は適度に涼しく、風はなくとも空気は澄み渡り、都会ではまず見られないその景色を僕は綺麗だと思った。

正面には木造の建物。少し色褪せた看板には、診療所の名が書かれている。
さっき聞いた声。錯覚かと一度考えてみるけれど、まだ頭の中でリフレインしていて。
何か、この扉の向こうには僕にとって凄く、凄く大事なものがあるような気がして。
疑問とか不信感とか、そういうのを全て無視して、中に、入った。

玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、無人の受付を過ぎ、誘蛾灯に群がる虫のように、誘われた方、引き戸に手を掛け、開く。
部屋の奥、椅子に座った人影を見つける。白衣姿の男性。引き戸の音に気づいたのか、ゆっくりと振り返り、

―――― その瞬間、僕は硬直した。微動だにできなかった。

目が。ふたつの黒い、底無しの闇を湛えた瞳が。
僕をじっと、見つめて、見据えて、見抜いている。

「……そこに座るといい」

低い、静かに響く大人の声が椅子を勧める。
どう反応したものかと悩みながらも座り、向かい合って、でも僕は何をしたらいいのかわからない。
まさか何となく入りました、なんて話せるわけもなく、先ほど自分がしようとしていたことも、勿論口外できない。
言葉を忘れたかのように口を噤み俯く僕から彼は視線を外し、手に持ちっぱなしだったペンを置いて、問いを放った。

「君は、本当に死にたかったのか?」
「………………は……?」

一瞬、いきなり何を言われたのか、理解できなかった。
だってそれは、あまりにも的を得ている。完璧過ぎて寒気がするほどに。

「もう一度訊こう。君は、本当に死にたかったのか?」
「……はい」
「違うな」
「なっ…………!」
「君の心には確かな迷いがある。迷いが君をここに誘い、ここに留めている」

僕は、死にたかった?
本当に、墜落して、地面に激突して、潰れて、屍になりたかった?

「……そんなことない! 僕は、僕は死にたかったんだ! あんな、」
「あんな惨めな思いをするなら、か?」
「………………」
「知らないようなら教えよう。人間にとって、最大の逃避が自殺だ。 そして、死ねば全てを失う。君が願っているのは、そこまでしても欲しいものか?  家族を、友人を、自分自身を傷つけて、そこまでしても得たいものか?」

―――― 君の望んだことは、本当にそんなものだったのか?

「でも……でも僕は……」
「それでもまだ死のうとするのなら、止めはしない。……帰るといい。元来た道を戻れ」

一方的に告げられて、釈然としない気持ちを感じながらも部屋を出る。
受付にはいなかったはずの人がいた。玄関を指差して、そこから外に行けば帰れるよ、と微笑んだ。

「ああ、そうそう。処方箋がひとつありますよ。お代は要りませんから、遠慮なく受け取ってください」
「…………?」
「"弱さなど錯覚だ。わからなければ殴って聞かせろ"。……これが、君の答えになればいいね」

僕は顔を顰めながら濡れた靴を履き、玄関から抜けて、景色は屋上の、柵の中に変わっていた。戻っていた。
もう雨は止んでいる。向こう側、数歩の距離が、今は限りなく遠く思えた。










嵐はいずれ過ぎ去る。だから待っていれば大丈夫。
耐えられるのならそれでいい。我慢して、心は殻で守って。

あの後家に帰った僕はすぐ風呂に入った。シャワーの温かさが心地良くて、少し涙を流した。
どうやら遺書は見つからなかったらしく、安心して机の中に仕舞う自分の姿は滑稽だと苦笑。
疲れていたのか、眠りは深かった。夢も見ずに、昨日と同じ朝を迎えた。憂鬱な一日の始まりを。

何も揺らがない。変わらない。動かない。
学校まで歩き、机に鞄を置き、騒がしい教室の中に溶け込んで。
ホームルームが終わり、小休止を挟んで一時間目、数学。ここは何もなかった。
二時間目。ちょっと目を離した隙に鞄の中から次に使う参考書が消えていた。
三時間目も四時間目も、同じように何かが消えて、探すこともせずに溜め息を吐く。
僕は弱いから、他の方法を知らない。されるがまま、どんな仕打ちにも耐えることしかできない。

昼休み、購買でパンを買ってきて戻ると、机から鞄そのものがなくなっていた。
周りを見る。気色悪い、意地も悪い、にやにや笑いをした奴らが数人、僕の反応で楽しんでいる。
ぎり、と歯噛みして、けれど堪えた。腕っ節では勝てない。無理に決まってる。
当然言っても止めるはずがない。全部無駄なんだ。意味がない。どうしようもない。だから、弱い僕は、


『弱さは錯覚だ。わからなければ殴って聞かせろ』


―――― ふと、その言葉を思い出した。
できる、だろうか。わからない。わからなければ――――

「……いっ!」

僕は自分の頬を力一杯殴った・・・・・・・・・・・
痛い。ずきずきする。でも、でも……これで、僕の弱さは錯覚だと、思った。思えた。

突然の馬鹿みたいな行動に唖然とした奴らの一人に近づき、おもむろに、拳にありったけの力を込めて。


パンチはグー。殴った手は、僕の弱さを叱咤するように軋んだ。










「彼は死ぬことに抵抗を持っていた。だからこそ、その迷いは彼を生かした」
「二階から飛び降りるのと、十二階から飛び降りるのと、違うのは覚悟の度合いだけですからね」
「墜落というのは、足を踏み外せばそこに躊躇いが介在しない。踏み出すこと自体が躊躇いの対象だからだ」
「切腹とかリストカットだと、無意識的に力を緩める……でも、一度落ちたら調整できないってことですか」
「もし本気で死のうと思っていたのなら、私が忠告しても無駄だっただろう。再び落ちて、そこで終わる」
「でも、あの子は迷ってた」
「諦めるのは、あらゆる可能性を試してからだ。彼はまだ、自分で何もしていない」

覆水盆に返らず、落ちた水は戻れない。
死とは即ち、そういうものである。

「強さ弱さとは、自分自身が定めること。その殻から抜け出せない限り、現状は変わらない」










結局。
二人を殴り終えたところで残りに袋叩きにされ、途中で止められた。
けれどきっちり全員に一発入れたので満足。痛む全身を気にしながら、保健室の教諭に世話になる。

「あんた、話に聞けば随分派手にやったわねぇ」
「そんなことないです。負けちゃいましたし」
「でも、よく頑張ったよ。あんな風にできるやつ、そうそういやしないさ」
「……いえ。僕も、昨日まではそうでしたから」

簡単に、弱い自分とさよなら、なんて上手くいくはずもない。
でも、ちょっとずつ、ちょっとずつでいいから、僕は強くなれるだろうか。変わっていけるだろうか。


鼠が猫を噛むために必要なもの。……それは、ほんの僅かな勇気だけ。