人を寄せつけぬ部屋というのはきっと、こういう場所のことなのだろう。
そう誰もに思わせるほど、床には足の踏み場もなかった。

ケーブルと何かの部品と使用済み割り箸とその他諸々が所狭しと散乱した その腐海のような部屋で。
一人の男が、一心不乱にキーボードを叩いていた。指の動きは早く、そして止まらない。
カタカタとリズム良く、時にスタッカートを打ち刻む音は連続し、 ディスプレイの上に気が遠くなるような量のプログラムを作り出す。

無数のアルファベットが画面を流れる。
およそ万人にとって理解し難い記号の数々。彼にとっては、もう飽きるほど見慣れた物達。

カタカタ、カタカタカタ、カタカタカタカタカタカタカタカタカタ――――

やがて音は途絶え、同時に安堵の溜め息が彼の口から漏れた。
止まった手が肩を力強く(当人はしているつもりである)揉みほぐす。
首を鳴らし、肩関節を回し、椅子の背凭れを支点に伸びをして、もう一度、先ほどよりも大きな溜め息をひとつ。

「……ようやく終わったー」

緋神霧人。職業、プログラマー。
とはいえそれを仕事としていたのは昔の話。
経営していた会社も当時の部下に明け渡し、今は気まぐれに趣味の範囲でプログラムを作りながら暮らしている。
真剣に働かなくとも生きていけるだけの資金は多過ぎるほどにあり、そのほとんどを研究に当てている最中だ。

さっきまで彼が向かい合っていたマシンからは複数のコードが伸び、すぐそばのものに繋がれていた。
それだけではない。コンセントからも、得体の知れない怪しげな機器からもケーブルが届き、接続されている。

―――― それは、人の形をしていた。

容姿は十代後半の女性のもので、密やかに瞼は閉じられ、まだ目覚める様子はない。
首の後ろを始めとした各種の配線、露出した内部を除けば、本物と間違えられてもおかしくない精巧さ。
完成された、一個の芸術と言っても良かった。

ほぼ一睡もせず、最低限の食事だけを摂りながら八日掛けて組み上げたプログラムは、目の前の眠り姫を起こすためのものだ。
膨大な情報で構成されたシステムは、言うなれば精神を築き、育てる土台。

霧人が目指しているのは、自立駆動を可能とする、自己進化機能を備えた―― つまり、心を持ち、考え、生きる機械である。
しかし、少なくとも霧人だけの力ではこの段階に至ることさえ不可能だった。
あくまで彼にできるのはプログラム、スクリプトの作成で、かじってはいるものの機械工学を修めてはいない。
ならば器たる部分を作ったのは誰かというと、運良くこれ以上ないほど適切な相手がいた。

縁合って知り合い現在霧人が後援者をしている、とある高校生の天才発明家・・・・・・・・・に頼んだ特製品。
漫画か小説にしか出てこないような、冗談みたいなアイテムを発明できる人間は彼女しかこの世界には存在しないだろう。

五年の歳月を要し、彼女の協力を得て、外的な問題は全て解決した。
残るは内的な、これから徐々に進ませるべき問題。

感慨に浸りながら、霧人はエンターキーを押す。
長い長い、その道程の始まりを。










「お邪魔するよー」
「…………ほう。霧人か」

珍しい客が来た。
まず滅多に人の訪れない辺鄙な場所だが、今回はまた随分と久しぶりな登場だ。
風の噂(というより本人の発言)でしばらくほとんど外に出ないという話を聞いていた静雨は、僅かに驚いたような顔を見せた。
仕事柄、趣味柄、あるいは能力柄、彼はあまり人前に出ることをしない。
しかもそのくせ静雨より遥かに知り合いが多いため、ここに直接現れるのは年に四回あればいい方である。
おおよそ半年の間、一度も会うことがなかった相手だった。

「今日は何の用事だ」
「性急だねぇ。焦らせてもいいことないよ?」
「急いではいない。ただ、ブランクを考えるとよほどの大事ではないか、と推測できるのだが」

霧人は明確な用事がない限り、わざわざ足を運んでこない。
口伝で済むのなら電話があるし、少し面倒な話でも手紙の類でどうにかなるからだ。
ちなみに、診療所にはどこからか引っ張ってきた電線がある。ガスも水道も使える。
料金も請求されないそれらがいったいどうなっているのかは、静雨にしかわからない事情である。

静雨の問いに、霧人は言葉で返すことをせず、にやりと悪戯を仕掛ける時のような笑顔をした。
ふっと診察室から退出し、すぐに戻ってくる。
入ってきて、という声を戸の外に向かって掛け、笑みを深く濃くする。
訝しむ暇もなく、静雨の目の前に、もう一人の訪問者が姿を見せた。

「………………」

そして、静雨は今度こそはっきりと驚愕の表情を浮かべた。
一年に一回でも見られれば十分過ぎるほど貴重なその光景に、霧人は満足する。

「……これは、そうか。完成したのか」
「まだまだだよ。第一段階はクリアしたけど、完成には程遠い」
「何故だ?」
「それは静雨君が一番よくわかってるでしょ?」

霧人が目標としているのは、人間と同じような心を持つ機械である。
……では、心の定義とは何であろうか。
会話ができればいいのか。自分から動くことが可能なら? それとも、愛を知れば?
作り出されたロジックを元に行動しても、それは定められたプロセスをこなしているに過ぎない。
人間が人間たる所以、生物が生物たる所以は、自らが自らの意思で、感情で、生きていけるところにある。
動物や植物に心があるかどうか、という議論に意味はない。人間は彼らの言葉や心に波長を合わせられないからだ。

どれだけ問いを重ねても、万人が納得する答えは出せないだろう。
心とは、得てして不確定で不明瞭、不安定で不鮮明なものだからだ。
ただ、霧人にも、静雨にも、ひとつだけ、確実と断言できる事象がある。

―――― その『心』の深奥を、神海静雨は視ることができる。

少なくとも人間の心と同じものであるならば、静雨にはわかるはずなのだ。
故に、霧人の最終目的はそこに通じる。

霧人自身も鈴や静雨のように、心に関わる能力を持っている。
しかし、それは二人とは全く違い、相手の心を知ることのできるものではない。

自分の思考を思念として周囲の対象に伝える力・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 一方的なテレパシー、昨今の映画で『サトラレ』と言われたそれが霧人の能力。
如何なる物理的、精神的障壁を越えて、自らの意思とは無関係に"思っていること"を外へと発信してしまう。

例に漏れず、普通の人間がしなくてもいい苦労を散々経験してきた霧人だが、その過程に問題はない。
大事なのはたったひとつ、霧人の思念が届くのは、確認できる限り人間だけだということだ。

無機物であるはずの機械に心が生まれたのなら、生み出せたのなら、三人の力が作用する。
逆説的に言えば、彼らが感知できた時点で対象には心があると確定できる。

「この子は、自分の意思で動けない。動かない。まだ、名前もつけてあげてないしね」
「……そうか。だが、そこまでは来たのだな」
「うん。あともう少しだと思う」

少女の形をしたそれは、微動だにせず、次の指令を待っている。
いつか。彼女―― と呼んで差し支えないだろう―― は、この部屋をきょろきょろと見回したりするようになるのか。
今は夢でしかない。……夢でなくなるのには、まだしばらくは掛かる。

けれど、さして遠くない日々であろうと、静雨は想像した。
ちょうど現在買い出しに出かけている蘇芳も、その時は文字通り夢に見てくれるだろうから。


「……しかし、何故女性型なんだ?」
「弟がね。俺の浪漫を現実にしてくれ、って。完成した暁にはあいつの子に手を入れることになってて、その前身として」
「………………そうか」

頼まれ事のはずなのにまんざらでもない霧人を見て、やはり兄弟か、と静雨は静かに頭を抱えた。