浅葱蘇芳。彼は一見何の特徴もない平凡な主夫である。 だが、その存在を特異にする能力をひとつ持っていた。それが『未来視』だ。 占いにあるような予知とはまた違い、彼の場合 "最も現時点で起こる可能性の高い未来"を明晰夢という形で見ることができる。 おおよそ週に一度、彼と彼の周りの人間に関連した七日以外の出来事に限定される。 内容や日時の指定まではできず、また見られる時間もあまり長くないため、一概に便利とも言えない。 しかし、蘇芳が見るのは必ず"不確定未来"であり、故に干渉することによってそれは変えられる。 だからこそ、彼は自身の力を疎ましくは思っていなかった。 可能性の高さ、と言ってもまた時によってまちまちで、簡単なことで変わるものもあれば、逆になかなか揺らがないものもある。 それに、彼が見られるのはあくまで結果。そこに至るまでの過程まではわからない。 総じて未来というものは変更が容易ではないのだ。 例えばボクシング。 相手のパンチを予測できても、避けられなければ意味はない。 同じように、避けたと思っても別の手に捉えられることもある。 最終的に「殴られた」という結果には変わりない。 ……ここでひとつ。 現実には、知らなければよかったと思いたくなるものも存在するのだ。 4.浅葱蘇芳の災難 記憶の中の自分はまだ幼く、歳相応に遊び、勉強し、生きていた。 子供というのは基本的に無知で、純粋故に愚かなものだ。 それがどういう意味を持つかも理解できずに、口にしてしまった。 初めて夢に見たのは、旅客機の爆発事故だった。 知らない人達の乗った機体が空中で四散し、粉々になり、人間と機械の破片が海に墜落する風景。 目覚めるとはっきり頭に残っていた。 それを正直に母に告げると、笑って「怖い夢を見たのね」とあやしてくれたのだ。 数日後、新聞の一面に夢と同じ光景が写真で載っていた。 多数の死者。悪夢のような事故。エンジンの不良が主な原因で―――― ―――― その日母は、口を利いてくれなかった。 次に夢に見たのは、病死する父と母の姿だった。 白い病室のベッドで安らかに息を引き取る、両親を失う場面。 今度は父に教えた。顔を一瞬顰めて、けれど嫌悪の色を隠すように「そうか」と短く呟いた。 母は僕が十七の時、父は二十三の時に亡くなった。 来るなと言われて全てが終わるまで入れなかった二人の病室は、かつて夢の中にあったものと寸分違わぬ形だった。 今でも時々、脳裏に蘇る両親の言葉。 別の生き物を見るかのような表情。恐れを多分に含んだ視線。 家族という名の絆は消え、血の繋がりという体面だけが残った。 大切なものをひとつ失って、ようやく僕は学ぶ。 それからは寡黙になり、毎回内容の変わる夢のことは自分の胸だけに仕舞うようになり。 鬱屈とした感情を抱えたまま大人へと成長し、そして―――― 夢には夢だと断言できる、独特の雰囲気がある。 認識できるものは全て現実とほとんど等しいのだが、その中での自分は誰にも見えない存在だ。 目の前で繰り広げられる一連の出来事を、第三者として眺め続けることになる。 それに、 場所は診察室。僕の他に、鈴さんと静雨さんがいる。 鈴さんはくすくすと可笑しそうに表情を綻ばせていて、いつもの場所に座る静雨さんはそっぽを向いている。 よく見ると肩を震わせていて、どうやら珍しく笑っているらしかった。 最後に立ち尽くす僕の姿を見てみると、 「………………」 一発で理解した。 これは、絶対に回避しなければならない未来だ、と。 その日より、僕は神経質なほど足下に気をつけた。 とにかく何よりも床の掃除を優先し、落ちたものは真っ先に拾い、障害物に成り得る物はひとつも逃さず回収。 どれほど小さな段差でも大袈裟なくらい慎重に乗り越えた。 如何なる時も焦らず慌てず騒がずに、家事や頼まれ事の全てを消化した。 静雨さんが不審そうな目で見ていたけど、敢えて気にしなかった。 そして七日目。 幾度か危険なパターンに遭いながらもどうにか回避し。 陽が完全に暮れた頃、診察室の方で夕食を摂るという静雨さんに調理物を運んでいた。 トレイに乗せた料理を持って作業中の後ろ姿に声を掛ける。 「夕食持ってきましたよ」 「……ん、そうか。すまない」 「ここ置いときますね。食べ終わったら言ってください」 「いや。私が片そう。その程度は自分でやる」 「わかりました。お仕事、頑張ってくださいね」 手ぶらになった僕は台所に戻ろうとして、 「言い忘れていたが」 「はい?」 最悪なことに、その時僕は気を抜いてしまっていた。 振り返りながら一歩を出して、瞬間、足が何かを踏んで滑り、バランスを崩し、綺麗に顔から引き戸に倒れ。 「やっほー、静雨くん元気ー?」 「へぶっ!」 「へ?」 正面から激突する寸前タイミング良く、あるいは悪く扉が左にスライド、見事に縁の角ばった部分に鼻を含んだ縦位置を強打。 しかも慣性で頭が右に流れ、さらに側頭部を思いっきり打った。洒落にならない痛さだった。 鼻にすればいいのか頭にすればいいのかわからず、両手で不恰好に二箇所を押さえる僕を見て、 今さっき現れた鈴さんは挨拶もなしに力一杯、それはもう涙が出るほど大笑いした。 「ぷっ、あ、あははははははっ! 蘇芳くん何その顔ー! 珍プレイだよ今のー! あはははははっ!」 「わ、わりゃわにゃいへふははいっ!」 「だ、駄目、もう駄目、おか、可笑しすぎるー! ぶふっ」 まともに喋れない僕の顔には綺麗に赤い縦線が入り、痛々しいというよりもピエロに似た滑稽さを漂わせている。 ああ、こういうことだったのか、と諦念を感じながら振り向くと、予想通り、静雨さんは微かに肩を震わせていた。 何となく、天井を見上げてみる。 ……鼻と頭だけでなく、心も痛いのは、気のせいだろうか。 すぐ近くの足下に、元凶である小さな万年筆がころころと転がっていた。 「……静雨さん、そういえば、何を言い忘れてたんですか?」 「いや、その辺りに万年筆を落とした気がするので拾ってほしい、と」 「………………」 世の中、本当に上手くいかないものだな、と思う。 |