どうやら室内は診療所の体裁を取っているらしかった。
受付と思わしき無人の窓口に、不思議なほど綺麗な、埃なんて少しも積もっていない椅子の数々。
あまり人が訪れた形跡はなくとも、人の手が入ったのが確かな雰囲気。
とりあえず、下駄箱とスリッパがあったので靴を脱ぐ。
土足で遠慮なく踏み込めるほど性根は腐っていない。履いたスリッパは、冷たかった。

別の部屋に続くドアはふたつ。
片方はノブのついた、今では一般的なもの。
もうひとつはスライド式の、それこそ診察室に入る時通るような扉。
……惹かれたのは、後者だ。抵抗はなかった。呼ばれている気がする。
説明できない感情を抱きながら、私は引き戸に手を掛けた。

がらがらがら、と、開く音が響く。
踏み込んだ足下から木製の床の微かな軋みが聞こえる。

果たして、そこにいたのは、白衣を着た男だった。





3.その手で失われたもの(後編)





「……久々の来客か。そこに座るといい」

彼は突然現れた私に驚きもせず、席を勧めた。
そのあまりの自然さに疑問の言葉を失い、指された古い丸椅子に座る。
途端、尻の下から床のよりも激しい軋みを感じ、びくりと肩を震わせた。

「すまないが椅子はそれしかない。まだ壊れはしないはずだが」
「あ、あの…………」
「何故自分はここにいるのか、か?」

心中を言い当てられる。
どうして、と別の問いを投げかける前に、彼は答えた。

「私の元に来た者は皆そう思う。例外は珍しい。そして、理由を説明した後もだいたい反応は同じだ」
「……同じ?」
「そんなことはない、と。誰もが否定する」
「………………」
「だが、納得の是非はともかくとして、まずは話そう。君がここに来たのは、」


―――― 心のどこかで、君が求めたからだ。


そう、彼はきっぱりと告げた。
宣告通りになることに抵抗を感じながらも、私は首を横に振る。
そんなことはない、と。ここに来ようとなんて微塵も思ってなかった、と。

でも。
目の前の青年は、私の答えを完全に断ち伏せた。

「君は、重大な物事を隠しているだろう」
「…………な、」
「親しい友人から。学校の教師から。知った大人から。君を取り囲む者達から」
「そ、そんなことっ、」
「……母の手指は、怖いか」

思わず目を逸らしかけて、私は、見てしまった。
相対する彼の瞳を。深く暗い、深淵の闇に似た黒瞳を。
それは、どんな壁も影も殻も関係なく、自分の心、その奥の奥底まで、全てを見透かしているような――――

「…………君が」
「あ……」
「君が仕舞い込んでいるものは、いずれ君自身を砕くだろう」

―――― 呪縛が解けた。あの目に捉えられることが嫌で、私は不自然にならない程度にそっぽを向く。
そんな些細な方法で逃れられるとはとても思えなかったが、それでも、正対するよりは遥かにマシだった。
彼は興味を失ったのか、あるいはすべきことが終わったからか、椅子を回して反転し、何かを書き始める。
そして背を向けたまま小さく「来た道を戻れ。帰るなら玄関から出ればいい」と呟いて、それきり振り向かなかった。
呆気に取られながらも、私は雰囲気に流されて診察室らしき部屋から退出する。

いつの間にか、受付のところには別の男の人が立っていた。
その人は柔和に笑い、

「お疲れ様。あ、心配してるならアレだけど、勿論お代は要らないからね」
「払う気もありません」
「それはそっか。……そうそう、悩める患者さんには処方箋がひとつありますよ」
「…………何ですか?」
「"人も動物も、命の重さという意味では等価値だ"。はい、伝言、確かに伝えました。君が二度と来ないことを祈ってるよ」
「あなたは……あなた達は、いったい」

私が震える声で放った問いに、今度は苦笑して、言った。


「ただのお医者さんと、その助手ですよ」










自分の靴を履き、年季の入った戸を開けて玄関から出たところまでは覚えている。
一瞬意識の空白が出来、気づけば私は自宅の前に立っていた。
思わず振り向いても、あの深い森と古びた診療所はない。全ては夢幻だったかのように。
けれど、夢というにはあまりにも記憶がはっきりし過ぎていた。嘘だと、冗談の類だと断言できない自分がいた。

……今更ながらに、身体が、心が震える。
深闇の黒瞳。白衣姿の彼の言葉。処方箋の名で告げられた、真実の指摘。
ただ、恐ろしかった。私を守る幾重もの防壁は全く意味を為さず、その奥にあるものを何もかも暴かれていた。
アレは人の闇を視るモノだ。直感とはいえ、確信に近い。アレに隠せることなどひとつもない。
そう、この私が誰にも知らせず、見せず、隠し通してきたことさえも、完璧に見抜かれていたのだから。

「………………」

玄関前に立ち止まったままでは怪し過ぎる。
僅かな躊躇を感じながら、私は鍵を取り出した。
差し込み、回す。かちゃりと音がして、家は私を迎え入れた。
ただいまとは言わない。言う必要もない。電気の点いていない家屋の中には声を掛ける相手も存在しないから。
真っ直ぐ自分の部屋に行き、乱雑に荷物を放り投げて風呂へ。
途中でバスタオルとマット、着替えを回収し、脱衣所兼洗面所に置いておく。
肩の辺りが濡れた制服を足下に脱ぎ捨てる。行儀悪いが指摘する人もいない。だから、構わない。
まだ外では雨が降り続いていて、肌寒く、私を鬱屈とした気持ちにさせる。

……下着姿になったところで、私はガスを点け忘れていたことに気づいた。
もう一度湿った制服を着直すのも嫌だったので、バスタオルを身体に巻いて台所のスイッチを押しに向かう。
大きく吐いた溜め息が、精神的な疲れの度合いを表しているようだった。










きっかけは、何だったろうか。
その頃の私は生きていることすら億劫で、けれど死ぬのも面倒で。
ぼんやりと道路を走り去る自動車の群れを眺めては、その巨躯に吹き飛ばされる自分を想像していた。

……ふと、目の前を横切る小さな影を見て。
その正体を見極めるよりも早く、道路へ飛び出した『それ』は白い軽自動車のタイヤに巻き込まれ、無残に血を流した。
思わず絶句する私を余所に、白い車は僅かに止まり、しかしすぐに、逃げるようにアクセルを踏んで遠くへ消えていった。
影はもうぴくりとも動かない。胴体はひしゃげて赤く染まり、グロテスクな様相を晒している。
慌てて私は立ち上がり、獣とその身体から漂う死の匂いにも顔を背けず近づいて、凝視してしまった。

それは猫だった。たった今轢き殺された猫だった。
途端に吐き気を催し、私は膝を付く。喉元にせり上がる酸味をどうにか抑え、再び顔を上げる。
恐る恐る触れ、突然飛び出した私に鳴らされるクラクションも無視して死骸を道路の端に除けた。
ぶにぶにと手越しに伝わる肉の感触。生気の通っていない、生きていたものの感触。
限りなく醜悪で、歪で、絶望的なその姿は死の具現だった。

だから。
この時私は、死に慣れてしまったのだと思う。

だらしなく口を開けた猫だったものの首に手を伸ばす。
緩やかに力を加えると、同じような力が自分自身の首にも掛かっている、そんな幻視をした。
細い指が皮膚を撫で、絡まり、喰い込む。ぎりぎり。じりじり。だんだんと息が苦しくなって、頭がぼんやりして――――

―――― 手を離した。

死骸は何の反応も示さない。
もう、『それ』を掴むことに抵抗はなくなっていた。
服に血が付かないよう持ち抱えて、私は埋葬できる場所を探した。


それから、小遣いのほとんどを猫の餌に費やすようになった。
この街に野良猫は多い。どこからかやってくるのか、あるいは飼っていたものが捨てられたのか。
よくよく目を凝らしてみると、そこかしこに猫達は顔を出していたのだ。
人に慣れたもの、警戒するもの。反応は様々だったが、最終的に餌の誘惑に勝てる種は滅多にいなかった。

人間から餌を得ることに抵抗のない猫は、好みの差はあれど、私の手からでも遠慮なく取ろうとする。
近づいて。そばまで寄って。その身を無防備に晒して。

時刻は深夜。人気が欠片もない場所。
左手の平に餌を乗せ、それを食べようと顔を下ろした猫に私は右手をゆっくりと伸ばし、

「フギャッ!」
「…………っ」

必ず少しの抵抗はある。
鋭い爪が月明かりに光り、手の甲、指、あるいは他のどこかを引っ掻き、傷つける。
けれど私は構わず、機械のように―― いや、機械はこんな、じっくりとはやらないだろう。
人の力で、人の残虐さで、緩やかに、静やかに、力を込めて締め上げる。
首を。首を。呼吸が途絶え、物言わぬ抜け殻となるまで。

最後に強く力を入れ、ぽきりと頚骨の折れる音が響いた。
そこまでやる必然性はない。とっくに『それ』は息絶えているからだ。

その日は左手の甲だった。だいたいがそこなので包帯を巻いていたが、布地は切り裂かれ、新しい赤線ができている。
玉のように流れる血と、赤く鮮明な傷をしばし眺めて、私は多種の感情を込めた溜め息を吐く。
情けなさと、悲しさと……どうしようもない満足感を胸の内に認めながら。

全てが終わった後は、『それ』を持って近くの道路へ行く。
静まり返った夜。昼に比べ車の通りは圧倒的に少ない。
だからこそ、私はそこに躊躇なく、死骸を投げ捨てる。わざと、斜線上を狙って。

離れて待った。
珍しく、今日はすぐに来た。
ぐったりと横たわる『それ』にとっては、絶望的で暴力的な巨体がライトの光を撒き散らしながら走り迫ってくる。
車高のあるトラックは小さな猫に気づくことなく、一切のブレーキも掛けずに、

―――― 見事に、一発で轢いてくれた。

そう。これで、あのトラックが轢き殺した・・・・・・・・・・・・ことになる。
私は死骸が見事に潰れたのを確認してから、その場を去る。

もうそれを、十数度も行ってきたのだ。










「情念。妄念。執念。そういった強い念……即ち感情は、病のように伝染するものだ」
「今回の場合は……えっと、母親から彼女に、ですか?」
「ああ。私が彼女に向けた言葉は、彼女の母にも言える。己の行動は、いずれ必ず自身に返ってくる」
「……そうか、だから僕が見た未来は」
彼女が母を絞め殺す未来・・・・・・・・・・・か。そうなる可能性があったが故に、彼女はここに来たのだろうな」

そこまで言うと静雨は手を額に置き、頭を抱えるような姿勢を取った。
溜め息をひとつ、額にあった手は机の上にあったコーヒーカップを持ち、それに軽く口をつけて、

「母子共に、その手で失われたものの重さに気づけばいいのだが。……踏み止まるかどうかは彼女自身の問題だ」










元々母は粗暴で、少しばかり難のある性格だった。
しかし気性の荒さは父がいる間は表に出なかったらしい。
それが顕在化したのは、愛想を尽かした父が家を出て行ってからである。
手切れ金というのか、働かなくとも暮らしていけるだけの金は置いていってくれた。
幸か不幸かまではわからない。結果として母は一応の働き口を見つけ、自分が生活できるだけの給料を得られるようになり。
父の残した金は、私が学校に行くために使われた。母は自分の懐からそれを出したくなかったのだろう。

ひとつ、確かなことがあるとすれば、母が父を愛していたことだ。
愛が身を焦がす情だというのなら、失われたその熱の行き先は全て私に向いた。

腕。背中。腹。腿。顔を除いた肌には殴り、蹴られ、物で打たれた痣がある。
長袖とロングパンツを着用することでそれは隠せた。
初めはその程度で済んでいたが、母はやり場のない怒りをいつも私で解消していたし、私も随分前から諦めていた。

そのうち、母は最後に首を絞めるようになった。
じわりじわりと底から死が這い上がってくるイメージ。嗜虐心が満たされるのか、いつも母はその時微かに笑っている。

脳に酸素が回らない感覚というのは、一定のラインを超えると気持ち良くすら思えるものだ。
すうっとどこかに浮いて、飛んでいってしまいそうになる。
あるいはそれがいわゆる臨死体験なのかもしれないが、私にとってはほとんど日常的な感覚になっていた。

か細い指が私の首から離れると同時に、得体の知れない浮遊感は消失。
現実に引き戻され、慌てて呼吸を再開した身体が勝手に咳き込んだ。
苦しい。辛い。……それすらも、錆びついた感情。私は母を見る。何の色も篭っていない、虚ろな瞳で。


母は未だに笑顔をうっすらと浮かべていた。
その気持ちは、わかる。私も首を絞める時、笑っているからだ。
けれど母には足りないことがある。私にあって、母にないもの。


当たり前のように、日常の一仕草のような自然さで、私の手指が母の首に伸びた。
無抵抗。母は反応しなかった。できなかった。私に迷いも、戸惑いもなかったから。

「な…………っ!」

出かけた言葉はすぐに途切れる。
絡まる指は歳相応に乾いた皮膚へと埋まり、その呼吸を阻害する。
そこまで来ても、母の手は動かなかった。私の手を止めようとしなかった。

「苦しい? 辛い? 死にたくない? ねぇ、どう?」
「が…………っ、あっ、ああっ」
「私ね、いっつも、さっきもそんな感じだったんだ。……ああ、こんなことならもっと早く」

―――― もっと早く、やっておけばよかった。
私の声に、母は震えた。それが私には―――― 甘い、奈落への誘いに見えた。

どうしようもなく、私も、母も壊れていたのだ。
だからもう、戻れない。どこにも退けない。逃げられない。私に掴まれた、あの憐れな猫達のように、


『君が仕舞い込んでいるものは、いずれ君自身を砕くだろう』


「…………え?」

脳裏に、響く。
そして思い出す。闇色の瞳と彼が私に告げた言葉の、本当の意味を。


『人も動物も、命の重さという意味では等価値だ』


首を絞める手から力が抜ける。
目の前で咳き込む母。滑稽にも涎を垂らして、死にそうな顔で、げほげほと。ごほごほと。


『君は、重大な物事を隠しているだろう』
『親しい友人から。学校の教師から。知った大人から。君を取り囲む者達から』
『……母の手指は、怖いか』


自分の手を見つめる。
かたかた小刻みに震え始める指先。猫の命を奪った、この手指。
そこには―――― 失われたものの、重さがある。失いかけたものの、重さがある。

「あ………………」

……怖かった。
あの手指がいつか、私の命を本当に奪うのではないかと。
だから、その怖さから少しでも逃げたかった。忘れたかった。

自分の苦しみを知る相手が、欲しかった。

でもいつしか、私はそれだけでは満足できなくなっていた。
もっと楽になりたかった。私より惨めなものに存在していてほしかった。
野良猫なら、死んでも誰も困らない。保健所が死骸を回収して、死因なんてまともに調べもしない。
知らない人を殺すよりよっぽど確実で、安全で、何より、私自身の抵抗心が薄かった。

ああ、なのになのになのになのになのに!
残酷な私は、死という事実の重さを、この手で失われたものの重さを理解できなかったのだ。
死は等価値で、ならば命も等価値。そこに貴賎はない。上下もない。
失われたものは還らない。私のしたことは……取り返しのつかない行いだった。

「ああ、あ…………」

そして、私は母をも手に掛けようとした。
ただ、この現実から逃げたかっただけなのに。いつの間にか間違って、戻れなくなっていた。

「ああああああああああああああああっ!!」

また―――― そうして、私は逃げ出したのだ。
呆然とした、母を残して。










「……どうにか踏み止まったようだな」
「………………」
「とはいえ、ここに来たからにはまだ終わっていないということか」

玄関から靴も履かずに飛び出した私は、何故か再びそこにいた。
あの時と同じように丸椅子に座り、白衣姿の男と向かい合っている。

「突き放すように聞こえるかもしれないが、ひとつ言っておこう」
「…………何ですか」
「死のうとは思わないことだ」
「……っ!」

まただ。また、見抜かれた。
私は今、確かに心の奥底で、如何に死のうかを考えていた。

「それは結果として逃避にしかならん。無意味だ」
「でも…………っ! でも……っ」
「他に償う方法を思いつかない、か?」
「…………はい」
「……簡単なことだ」

ぎり、と奥歯を噛む私に、彼は言った。


「生きろ。生きて抗え。足掻け。君が生きることそのものが、失われたものへの償いだ」


まるで容易いことのように。
その言葉は残酷で、愚直で、けれど一番難しい、生き方の指針。

「もう君は二度とここに訪れることもないだろう。その方が私も有り難い」
「…………あの」
「何だ?」
「どうして……どうして、私なんかに」
「その問いこそ無意味だ。……私は、自身にできる精一杯のことをしているだけなのだから」
「…………そうですか」

私は立ち上がる。立ち上がって、最後に、お世話になりました、と礼を告げる。
背を向けて去る前に見たのは、薄く、苦々しくも笑う彼の顔だった。
受付の人はただ、手を振って見送ってくれた。
力強くはないけれど、弱々しくても、私も手を振り返すことはできた。
帰るために、一歩を踏み出し――――










母はまだうずくまっていた。
今までよりその背が小さく見えて、いつの間にか母に対する恐れが私の中から消えていることに気づく。
ゆっくりと近づき、私の影にびくりと怯える様子を敢えて無視し、隣に座る。

「……私、苦しかった」
「………………」
「だからわかってほしくて、自分だけ苦しいのが嫌で、野良猫をいっぱい殺してみたんだ」
「………………」
「でも、そんなの八つ当たりだった。私は間違ってた。気づいたら、私の手、凄く重くなってた」
「………………」
「もう私、あんなこと二度としない。それに、あなたにも負けない」
「………………」
「……それだけ。寝るよ」

振り返らなかった。真っ直ぐ、自分の部屋に入って布団を被った。
今更ぼろぼろ涙が出てきて止まらなくて、よくわからないけどそれでいいと思った。
きっと、今日だけは泣いてしまっても許してくれる、と。
流れた涙と一緒に、少しだけ、重かった手が軽くなった気がした。

疲れて眠る前に。
人影が枕元に立って、その手をゆっくり伸ばし―――― 私の頬に触れた。
夢だったかもしれない。判別する余裕もなく、私は深く意識を沈めてしまったから。










来客は夜も更けてきた頃に訪れた。
とんとん、と丁寧にわざわざノックをしてから入ってくる。

「……鈴か」
「うん。何となく、静雨くんが気になって。……暗いよ。何か、あった?」
「いや…………ああ、少しばかり、弱音をいいか」
「もちろん」
「私にできることは……本当に、ささやかなのだな」
「…………そうだね。でも……何もしないよりは、遥かにいいんだよ」
「……すまない」
「もう口癖だね、それ」

救われてるな、と思う。
そして、自分は弱い人間だな、とも。

だが、それでいいのだ。
決して強くはないが、そんな自分にでもできることはあるのだと。
どんなに些細でも、何かができるのだから、と。

「…………鈴」
「ん?」
「コーヒー、美味いものだな」
「わたしが淹れたから?」
「かもしれん」


人の手は、いつでも何かを奪う。
しかし奪うだけでなく、何かを与えることもあるのだ。


後日、それとなく様子を見に行った蘇芳は、彼女が半袖姿で友人と談笑している姿を見たという。
その報告を耳にした静雨の表情は、深く穏やかな―――― 安堵の笑顔だった。