友人の話に耳を傾けながら、その傍らで雑音を選び取る。
オープンカフェの一席に座った私は、街中を歩く人々の声を、聞いて、聞いて、聞いた。

ねぇ、明日の予定はあるの――――
ああもう、全くついてないな――――
射手座のアナタはラッキー、だって――――

その中で拾った言葉。
私の母親と同じくらいの歳であろうおばさん二人の会話の一部。

……朝、ごみを捨てに行ったらね、通りに猫の死骸があったのよ。
……あらやだ。気持ち悪いわねぇ。
……車に轢かれたみたいで、正視できない姿だったわ。はぁ、今日夢に出そう。

去っていく太ったふたつの背中を横目で見送り、視線をテーブル向かいの友人に戻す。
彼女とは中学校からの付き合いで、別々の高校に行った今もこうしてたまに会ってはつまらない話をする。
そんな時間に私はそれなりな充足感を覚えているが、彼女はきっと私以上に楽しんでいるに違いなかった。
何故なら、顔を合わせた時から言いたいことがあって仕方ない感じだったのだから。

女の子というのはどうやら噂話とかの類が凄く好きらしく、彼女はその典型みたいな性格だった。
逆に私は全然興味がなく、彼女のそういうところだけが苦手で、でも指摘はできずにいる。
聞き手に回り、なるべく疑問を挟まず、彼女曰く「ホットなニュース」を語り終えるまで待つしかないのだ。

「ちょっと、聞いてるー!?」
「あ、ごめん、少しぼーっとしてた」
「仕方ないなぁ。もいっかい話すよ? あんまり広まってない噂なんだけど――――





2.その手で失われたもの(前編)





―――― これはね、あたしの先輩から聞いた話。
人伝だから正確じゃないだろうけど。

とある学校でいじめられてた男の子が、自殺しようとしたの。
それで夜に高いビルの屋上を目指して歩いてたんだって。
その日は小雨が降ってたんだけど、彼は傘も差さずに歩いてたの。
もうすぐ自分は死ぬんだから別に濡れてもいいやって、たぶんそんな気持ちだったのかな。
でも、その辺で一番高いビルはちょうどエレベーターが壊れてて、階段で昇るしかなくて。
ぐちょぐちょの靴で最上階に近づくにつれ、怖くなってきたんだ。本当に死ぬの? それでいいの? って。

「……まるで自分のことみたいに話すね」
「あたしじゃないよ?」
「わかってるけど。よく断言できるなって思っただけ」
「はいはい。相変わらずひねくれてるねー。……話、続けるよ?」

でね、柵も乗り越えて、あと一歩で飛び降りられるってところまで来て、そしたら、
『やめておけ』っていう声を聞いたんだって。
彼はすぐに振り返ったんだけど、いつの間にか雨は止んでて、何故か見知らぬ建物の前に立ってたの。

「その後はね、」
「いいよもう。何か先読めたし、私はちょっと信じられない」
「そういうと思った。じゃあどうなったかわかる?」
「過程はわかんないけど、帰ってきた男の子は自殺しなかった」
「それくらいあたしでもわかるよー。……いや、実はそこから何があったかは知らないんだけどね」
「………………」
「ああっ、白けた目で見ないでっ。代わりにわかってることがひとつあるんだから」
「何?」
「彼、いじめられっ子だったんだって。でも、その日を境にぱったりとなくなったの」
「どうして?」
「ずっとされるがままにしてた彼が、相手を殴った」

彼女の話はそこで止まった。
そして締めるように指でテーブルをこつんと突き、

「他にもあるんだって。雨の日に、同じような体験をして、変わった人が」
「…………嘘くさ」
「はい、これでおしまい。久しぶりに真実味のあるものじゃなかった?」
「ううん」
「そんなすぐ否定しなくても……」

冗談か与太話としては面白かったが、真実としては到底受け入れられない。
内容が具体的なのが逆に、あまりにも怪し過ぎる。
それに、私は超常現象や未確認生物といった話全般を信じてないし、正直どうでもよかった。
だからすぐに忘れて、そこからは二人でウインドウショッピングを堪能したのだった。










「ねぇ……暑くないの?」
「別に。慣れてるし」
「でもさぁ、もう五月も半ばなのに長袖で」
「肌焼けるの嫌だから」
「それは百歩譲って女として理解できるけど、加えていっつも包帯ぐるぐるじゃん」
「……悪かったね、不器用で。下手の横好きで」
「そ、そこまで言ってないよー。私も裁縫とか好きだし」
「くすっ、冗談冗談。ごめん、今日はちょっと用事あるから早めに帰らないといけないんだ」
「あっ、そうなの? 引き止めちゃってごめんね。また明日ー」
「うん。また明日」

友人と別れて足早に学校から出る。
帰り道の途中で薬局に寄り、切れた包帯を買って鞄に仕舞ったところで雨が降ってきた。
空の暗さを見た感じではしばらく止みそうにない。生憎傘は持ち合わせてなかった。
どうしようか。財布の中身は少し寂しく、走って帰るには少しばかり強い雨量。
結局足止めされて、シャッターの下りた知らない店の前で雨宿りをすることになった。

さぁ―― と霧みたいな水を撒いたような、静かな雨。
傘を片手で抱えながら自転車に乗っている人は、鬱陶しそうに目を細めて過ぎ去る。

濡れて帰るには勇気が要るから。
その勇気が溜まるまで、こうして待つ。

軒からしとしとと雫が落ちてきて、足下の辺りを濡らしていく。
広がる水溜り。何気なく動かした爪先が触れる。
気持ち雨足が緩くなってきた、かもしれない。
もう行こう、私はそう思って水溜りを飛び越えるように一歩目を踏み出し、


文字通り、世界が変わった・・・・・・・


「え…………?」

慌てて周りを見渡す。
深い緑。都会にいると全くと言っていいほど縁のない、森と呼ばれる風景。
そしてすぐ目の前に――――

「嘘…………」

古い、木造の、見知らぬ建物が存在していた。
先日友人から聞いた話を思い出す。

『でね、柵も乗り越えて、あと一歩で飛び降りられるってところまで来て、そしたら、
 『やめておけ』っていう声を聞いたんだって。
 彼はすぐに振り返ったんだけど、いつの間にか雨は止んでて、何故か見知らぬ建物の前に立ってたの』

夢? 夢、じゃないの?
私はまず頬をつねり、軽く叩き、近くの木に手を触れた。
つねっても叩いても痛かったし、木にはざらざらとした確かな感触があった。
……それでも現実と、認めることが嫌だった。

だから夢なら覚めてほしいと、元の世界に戻る方法を探す。
迷わず、私の足は如何にも怪しげなその建物の中へと、進んでいった。