――――仮初めであっても、永遠なんて欲しくはなかった。 「…………夢、か」 じっとりと汗ばんだ身体に不快感を覚えながら、静雨は起床時間の二十分前に目覚める。 寝起きは久々に最悪だ。まだあまり働かない頭で、もしや魘されてはいなかったろうか、と思う。 可能性は低いが、その姿を蘇芳が見はしなかったか、とも。 なるべくなら弱味を晒したくはない。 それは、他人に気遣わせてしまうことと繋がるから。 「………………」 手のひらで額を押さえる。そのまま大きな溜め息。 二酸化炭素と一緒に鬱屈とした気分も排斥できるわけはなく、外に出れば少しは気も紛れるかと、着替えるために起き上がった。 10.はじまりはおわりへつづくみち 冬の冷たい朝が、静雨は嫌いではなかった。 時には耳が痛くなるほどだが、確実にまどろみは吹き飛ぶ。 布団から一歩出れば芯に響く寒さを感じる。着替えで肌を外気に晒すと余計にだ。 最初はゆっくりと歩く。木々のそよめき、枝葉の間から降り注ぐ光。 雨が止んだ後の露、風の歌声。自然が溢れる空間を、大気を、味わうように。 動くことに身体が慣れてきたら走り始める。徐々にペースを上げて、無理をせず、リズム良く。 はっ、はっ、と規則正しい呼吸音を刻み、心臓の拍動を聴き、じわりと滲む汗を拭う。 意識は空白。何も考えない。まっさらな心のまま、森の中を駆け抜ける。 風になれたらいい、と思った。 それでどこまでも飛んでいけるのなら、私は何ができるだろうか、と。 いつものルートを一周して戻ってきた頃には、眠気も寒さもなくなって、むしろ暑いくらいだった。 少し荒れ気味の呼吸を整えつつ、すうっと冷めた思考で物事を考える。 今日の予定。蘇芳に頼むことはあったか。書類の分量。するべきこと。鈴が来る可能性。 「…………っ」 不意に、今朝の夢の内容が脳裏を過ぎった。 振り払う。駄目だ。考えるな。思い出すな。もう、全ては終わったことなのだから。 「……今日の私は、どうかしているな」 起床時よりも深い溜め息を吐く。 こういうのを、メランコリーとでも言うのだろうか。 しばらく沈んだ気分が続くのだと思うと、これからが嫌になる。 せめて蘇芳の前ではしっかりしよう、そう決めて、朝食の待つ部屋に向かった。 人の心が美しい色だけをしているのなら、この世界はさぞかし綺麗に保たれているだろう。 もし、簡単な言葉で済ませられるほど単純なものならば、何もかもは上手くいったのだろう。 誰もが胸の内に何かを抱えている。 それは幾重にも絡まり連なり繋がり、人格、心そのものを形成する一側面。 深層心理。普段は自覚しない、あるいはできない思考の集積物。 静雨が視るのは、その"心の闇"である。 人間の中で最も剥き出しの、加工されていない、殻に包まれていない部分。 言うなれば、深く留めている想いだ。だからこそ表に出てはいけない。隠すべきであるが故に、人は心を繕う。 誰に見せることもなく。誰に晒すこともなく。伝えようとするのなら、無難な形に纏めてからだ。 人が心の奥底に溜め込む感情は純粋で、逆を言えば、それだけ強く、激しく、ある意味では 隠すべきというのは、そういうこと。自分や相手を壊す力が、心にはある。 だから、静雨自身が壊れずに生きてこれたのは奇跡なのかもしれない。 そしてその奇跡が今の彼を、救い、苦しめもする。 ……その昔。まだ自分の力を制御できなかった頃の彼は、際限なく人の"心の闇"を見てきた。 両親、近所の住人、学校の同級生に教師、すれ違う誰か。 見境無しだった。目を背けることも許されなかった。 一方的に押しつけられるように、吐き気のする現実をただ受け入れるしかなかった。 静雨も同じ人間だ。共感もすれば、拒絶も、理解もする。彼はいつでも、他人の心に振り回されていた。 父と母は、外面こそ社交的だが胸中には仕事の取引先や気に入らない大人への憎悪が渦巻いていて。 しかもそんな自分の闇に気づかず、あるいは気づかないふりをして、さも平気だ何もないというように日々を過ごしていた。 学び舎の子供達は、静雨の異常性に無意識ながら感づいていて。 幼さが持つ特有の残酷さが彼らを静雨から遠ざけ、忌避させた。心の通じ合える友達は、結局卒業してもできなかった。 教師や保護者は、言葉とは裏腹に大抵子供を大事に思ってなどいなくて。 信じてほしいと望まれれば望まれる度に、人を信じること自体が恐ろしくなっていった。 道端で、公園で、店内で、電車で、駅で、街中で見る、そこここに溢れ返る人達は、皆別々の何かを求めていて。 表情や仕草や声や行動の全てが薄っぺらい偽りの姿をしていた。自分も、自分以外の相手も騙し、誤魔化していた。 友達に笑いかけながら、死んでしまいたいと思う者。 人に紛れて日常を過ごす中で、世界なんて滅んでしまえばいいと祈る者。 見た目だけでなく中身も傷ついてぼろぼろになっている者。 色を失った表情で、けれど心の中では血のように痛々しい涙を流している者。 辛いのに何も言えず、たったひとり泣き言を胸に仕舞ったままの者。 勿論、幸福に満ちた想いもたくさんあった。 それでも、どうしても目につくのは暗いイメージばかりだった。 いちいち誰かの心に反応して、嬉しくなったり悲しくなったりしては生きていけない。 だんだんと感情が平坦になっていった。笑顔も、涙も、時間の流れと共に忘れていった。 ―――― いっそ、心なんてなければいいのに。 もし本当にその願いが叶ったのなら、楽になれただろうか。 可能性の話をしても仕方ない。結果として、静雨の元に魔法使いは訪れなかったのだから。 いつからか、彼は何かをしようと思った。 その頃になるともう何故生きているのかもわからず、だから理由が欲しかった。 せめて、自分が存在する必要があればいい、と。ここにいてもいいと、少しだけでも、認めてもらいたかったのだ。 だが、彼は知らなかった。 人の救いになれる力は、人を追いつめ苦しめるものにも為り得るのだということに。 それに気づいたのは、何もかもが終わってしまった後。 静雨が声を掛けた四人のうち、一人が自殺し、一人が永遠に忘れられない傷を負い、残りの二人と再び会うことは、なかった。 そして最後に、取り返しのつかない過ちを犯してしまった彼が残り。 ……深い後悔を得て、初めて静雨は涙した。 以来の誓いを、彼は未だ守ろうとしている。 誰かに手を差し伸べるのなら、言葉と心を気遣い、考え、優しく背中を押すのだと。 その果てに相手がどんな答えを出してどんな未来を歩むのか、覚悟し、あらゆる現実からこそ目を逸らさないようにと。 自分も、他人も、選んだ道を進む過程で、どうしようもなく傷つくことを理解しようと。 だから間違わないために努力をして、それでもまた間違って、学んで。 一人でできることのあまりの少なさに愕然としながらも、必死に足掻いて、生きて。 ……生きて、彼らと出逢った。 それがはじまり。終わりへ続く道の始点。 「静雨くん、手、止まってるよ?」 今日は挨拶もなしだ。ぶしつけとも取れるが、静雨は気にしていない。 お互いに、それを許せる程度には気を許せる仲だと思っている。 「……考え事をしていてな」 「何か、あった? ちょっと浮かない顔してるから」 「…………表情には出していないつもりなのだが」 「だって静雨くんだもん。私にはわかるよ」 「全く……鈴。君には隠し事ができないようだ」 誤魔化してみたが通用しなかった。 どうも彼女には勝てない、と苦笑し、言葉を選ぶ。 というのも、これは甘えに過ぎないと自覚しているからだ。 「…………夢を、見た」 「夢?」 「昔の夢だ。私がまだ、君達と知り合う前の」 「……だいたい検討ついた。嫌な過去を思い出して落ち込んでたんでしょ」 「当たらずも遠からずと言ったところだ」 「え? まだ何かあるの?」 「永遠を生きる、とはどういうことなのだろう、と思ってな」 「こないだの……えっと、レアさんだっけ? 彼女に会って?」 「そうだな。それもある。彼女は私達より遙かに長く生きているだろう。あるいは、あの姿が私達の未来なのかもしれん」 「…………でも、静雨くん。霧人さんも今頑張ってるし、わたし達の場合は、」 「―――― わかっている。この永遠は仮初めだ。おそらく近いうちに、解除の条件は揃う。だが」 次に続く自分の問いかけは、鈴を困らせるかもしれない。 が、言わなければ伝わらないのだ。いつか必ず直面する問題に対して、どうすべきなのか。どんな結論を、出すべきなのか。 「本当に、私達の持つ答えは正しいのか。心から願うものなのか。それをもう一度、考えようと思う」 「………………」 「鈴。君は君自身の答えを出してほしい。無理に私と同じ結果を選ばなくてもいい。君が望むことなら、私は何も言わない」 「……ううん。わたしは、わたしの意思で静雨くんに付いてくよ。結論を任せるわけじゃ、ないからね」 「………………そうか」 短く呟いた声に、厭うような響きはない。 決して見えない心の裏で彼が照れている気がして、鈴は嬉しそうに席を立つ。 「静雨くん、コーヒー飲むでしょ?」 「ああ。……砂糖を一杯、頼めるか?」 「珍しい。いっつもブラックなのに」 「何となくだ。たまには違う味で飲みたくなった」 苦いばかりでなく、少しは甘さがあってもいいだろう。 コーヒーも、日常も。悩んで求める、答えにも。 それがわかるようになったのなら、望まず得た力にも、価値はあるのだと信じよう。 かつて、世界には幾度か、彼らと同じ可能性を持つ者が存在した。 しかし皆、過酷な現実に勝てず、自らの可能性の重さ故に潰れていった。 神海静雨。 倉宮鈴。 緋神霧人。 浅葱蘇芳。 冬野真希。 産まれ落ちた五人も、もしかすれば、そんな運命を辿ることになったかもしれない。 だが、彼らは出逢ってしまった。近しい立場、近しい力をその身に抱える者達は、互いを理解し労わり合った。 常人には理解し得ぬ苦しみをも共感し、それまで世界が拓けなかった道に足を踏み入れた。 踏み入れて、しまったのだ。 その可能性を失うのは、世界にとって大きな損失だった。 だから、彼らの出逢いは引き金となり、五人の前に語り手が現れた。 彼は告げた。 君達は世界に呪われたと。老いることなく、死ぬことなく、永遠を生きるものになるのだと。 五人は首を振った。 そんなことは望まない。生きているのも辛いのに、永遠なんていらないと。 だから彼は、記入者と名乗った彼は、選択肢を示した。 『答えを見つけてごらん。もし呪いを解きたいのなら、自分達の手で"心持つもの"を創り出してみせて。 そしたらもう一度、私は君達の前に現れるよ。だけどその時、 ―――― 君達は、どんな道を選ぶだろうね?』 ただ、願わくば―――― 迷って、悩んで、苦しんだ末に出した答えを、誇れるように、祈るよ。 |