霧ノ埼、薄霧と呼ばれる地域の端の端、鬱蒼と茂る、人気のまるでない木々の集まる空間にそれは存在していた。
古ぼけた木造の、年季が入った建物。しかし決して崩壊寸前ではなく、若干ながら生活感が漂ってくる。
窓から漏れる明かりは中に人間が住んでいる印。時折床を軋ませて歩く音が響く。
表には木組みの扉、そしてその上には看板がひとつ。
手書きの、きっちりとした筆運びで書かれた文字は、

『神海診療所』

一応ながら、そこは、精神科の体裁を取っている医院だった。
とはいってもあくまでそれは自称であり、そもそもまず誰も来そうにない場所である。
もっと大きな病院はちゃんと存在しているし、普通は皆そっちに行くものだ。

そう。普通ならば。
……ここに訪れるのは、望み、求め、その果てに迷い込んだ者のみ。

家屋内は狭い。入口には二人並べば窮屈になる玄関、色褪せた木製の下駄箱。
受付らしきスペースが置かれているのだが、だいたいは無人だ。
向かって左側に引き戸があり、そこを抜けると診察室になる。
ベッドがひとつ、四脚の、小学校の実験室で使われていそうな椅子がひとつ。
そして背凭れ付きの少しはまともな椅子に机。机上にはカルテらしき紙が適当に整理されて積み上げられている。

その椅子に座り、ペンをひたすらに走らせている人物が一人。
白衣姿の、乱雑に縛っただけの長い髪を持つ男。

彼の名は神海静雨。
職業は、とりあえず見た目で言うならば医師だ。
実際のところは免許も所持していないし以前にその仕事で金すら稼いでいない。
今書いているのもカルテというよりはわかりやすく整理した情報に過ぎなかったりする。
普段からずっと彼の毎日はこんなものなのだ。


これは、彼と、彼を取り囲む幾人かを含んだ一日の風景。





1.ある寂れた診療所内の日常





静雨の朝は早い。
受付口の奥に生活空間があり、そこで眠っている彼は必ず六時前に起床する。
枕横に畳んで置いてある服を取り、着替えて外へ。七時ほどまでをジョギングに費やす。
毎朝の習慣となっているそれは今や、やらないと落ち着かないものだ。

運動で僅かに残った眠気を飛ばしてからは同居人を起こす。
布団の中でもぞもぞと動く人影は細い男性。軽く肩を揺らすと大した抵抗もなく目覚めてくれる。

「あ、おはようございます」
「……おはよう」
「はい」

短く挨拶を返す静雨に微笑みかけた彼は、浅葱蘇芳。
静雨の同居人であり、そして体裁としては助手でもある。
しかしこの家で家事全般を取り仕切る姿はどちらかというとお手伝い、あるいは主夫といった感じだ。

二人が揃ってからは蘇芳が食事の用意をし、その間に静雨が今日の予定を考えて伝える。
朝食中は言葉もちらほらと交わされるが、事務的な話か日常会話に終始する。今回もそうだった。

「少し調べ物を頼みたい」
「資料に使うんですか?」
「ああ」
「わかりました。リストを挙げておいていただければ明日までには」
「昼までには列記しておく」

黙々と食べ終わった後は洗濯物を纏め、蘇芳に渡す。
室内に洗濯機はないのだが、次の日には乾燥したものを持ってくるので任せっぱなしだ。
せめてもと皿洗いを済ませ新しい白衣に袖を通し、静雨は診察室へと向かった。
慌しく動き回る蘇芳の姿もいつものことである。

しばらくは黙々と筆を走らせる作業。
内容はというと、大抵は論文の原稿か頼まれ事、そして医学的な資料の整理だ。
普段のパターンなら昼過ぎに終わるが、夜になるまで一度も机の前から動かない日もある。

昼食も蘇芳の世話になり、一日の仕事を早めに消化してから、静雨は微かに陽の射す窓の近くでぼんやりと待つ。
ただひたすらに、自分で淹れた薄いコーヒーを飲みながら。
いつか、ここに来るべきであろう誰かを。形のないものを求め、心のどこかで迷った果てに辿り着くはずの誰かを。

何故なら、それが静雨が己に課した役割だからだ。
蘇芳がこの場所にいることを選んだように。あるいは、静雨自身がここにあることを望んだように。

夕焼けの朱色が木の床を染め、静雨のコーヒーがカップから尽きた頃、一人の訪問者が現れた。
時々訪れる彼女は真っ直ぐ診療所の静雨の元へと向かってきては、気まぐれに雑談と夕食を共にし、帰っていく。
ふとすれば高校生に間違えそうな容姿をした彼女の名は倉宮鈴。
静雨とは親しい間柄で、蘇芳ともある程度以上の面識は持っている。

「もうだいぶ雪が溶けてね、何だか寂しいなぁ、って」
「そうか。この辺りは積もらないからな、俺はあまり感じなかったが」
「静雨くんはそもそも季節の変わり目にも鈍いでしょ。ちょっとは遠出もしないと駄目だよ?」
「…………気をつけておこう」
「もう何十度目の台詞だか」

口数の少ない静雨と並ぶ様は教師と生徒のように見えるが、互いの口調は対等だ。
他愛ない話をする鈴に、真面目な受け答えをする晴雨。
バランスが取れていないようで、二人はちょうどいい関係であるのは確かだった。

「あ、コーヒー淹れるよ」
「すまない」
「いいのいいの。毎度のことだけど、好きでやってるんだからね?」

注がれたブラックのコーヒーは出来たてで温かく、少しだけ、苦笑がこぼれた。
軽く口に含む。苦い。薄い。けれど、おいしい。
自分が淹れるよりも良く思えるのはどうしてなのか、未だに静雨はわからずにいる。
わからぬまままた飲み、それは三杯目に入るまで続けられた。

夕食後、彼女が帰ってから二人は就寝する。
蘇芳は非常に寝付くのが早く、布団を被って二分も経たずに寝息を響かせる。
逆に静雨は意識を落とすまで時間が掛かってしまう。
おそらく考え事をし過ぎる所為だろう、と結論づけているが、一因でしかないのだとも納得していた。

眠る前に、祈ることを彼は忘れない。
―――― 願わくば、明日もこの場所に、鈴達以外の誰も来ることがないように、と。

それは、この世界に生きる人々の、心の平穏を願うことと同意だった。





けれどどこかで必ず人は迷い、傷つき、救いを求める。
そんな名も顔も知らぬ誰かに手を差し伸べることが、静雨にできる、ただひとつの干渉方法。

……これより語るのは、人の心、そして願いにまつわる物語だ。
見えぬものを見ることのできる、彼らの物語。