あれから、五日が経つ。

振り返ることなく白い部屋を出た二人は、運良く誰に目撃されることなしに逃げ切った。
剣の自宅に一度戻り、刀の血を綺麗に拭った後、置き手紙をして家を出た。
まだ朝にならないうちに、電車に乗って町を去る。住み慣れた、思い出の残る町を。

懐には僅かな金と一振りの日本刀だけ。
彼の供には幽霊、松原佐智。彼としか話せない、彼にしか見えない存在。


旅を始めた。


今は秋、あと一月もすれば冬になる。
だから南の方に行こうか、そう目的地を適当に決めてみた。

歩き、電車を使い、時にはヒッチハイクをして。
逃げるわけではない。決別したかった。色々な想いとかを、全て自分のいたあの町に置いて。


新たな道を、今度は一人でなく二人で、進む。
何にも縛られず、何にも遮られず、自分の意志でそうしたい。





彼は行く。隣にいる、彼女の手を取って。




















警察が死体に気づいたのは、一週間ほどが過ぎた頃だった。
元々あの男の住む家は窓から明かりが確認できることのない、近辺の住人が近寄り難いと思っていた場所で、 付近の人間との交流もなかったらしく、周りから断絶された空間だった。
玄関から出てくる姿も四日に一回見られれば多い方で、男の素性を知る者は皆無と言える。
仕事は。趣味は。性格は。…………誰も、そんなことわからなかった。
理解者のいない人。いや、理解されようとしなかった人。
社会不適合者だったのかもしれない。だが、彼は確かに生きることができていたし、生活をしていた。

ともかく、死体として偶然発見された男は"回収"され、ついでに家が調べられた。
現場は凄惨で、怖いほど真っ白な部屋に赤のコントラスト。
ドアの正面の壁、地面より約1m上から床に流れた跡を確認される。
身体は腰を下ろした体育座りのような姿勢で、背を壁に任せ俯いたまま硬直。
表情は無く、目を閉じ静かに逝ったらしかった。
死因は一目見れば明らかで腹部からの出血多量による失血死。無論他殺。
傷自体はさほど酷くなく、早めに適切な治療を施せば亡くなることもなかったはずだが、何の処置もされずに放っていたらしい。
生きる意志がなかったのか、そんな余裕がなかったのか。
そして、犯人は何故致命傷を与えなかったのか。謎が多く、判断は難しかった。

この事件の手懸かりはないかと他の部屋が調べられた結果、別の部屋から血に染まった衣服が九枚見つかった。
箪笥の奥の方に大事そうに仕舞われていたそれらの血痕を鑑定すると、九年前から行われていた猟奇殺人事件、 その被害者の血液と一致したことから、警察は死んだ男を猟奇殺人の犯人と断定。
だが、死体を逮捕しても罪に問うこともできず、殺人の理由がわからぬまま事件は完結した。
男を殺害した人間の捜索を警察はただちに始めるが、情報があまりに乏しくそれらしき人物も確認されなかったため、発見は難しいだろう。
全国に指名手配をしたものの、時効までに逮捕をするのは不可能かもしれないという意見もあり、事実その通りで、 一年を費やしても警察の元に届く情報のうち信用に足るモノは皆無だった。



こうして、真実は闇へと消える。





















佐智が墓参りをしたいと言った。
剣は誰の、と聞いて、あなたの、と返される。
まだ彼女の親は両方とも亡くなっていないらしく、今も元気に頑張っているんだそうだ。

両親の骨は祖父の家の近くに埋まっている。
少し遠いが、どうしても行けない、行きたくない場所でもない。

ようやく腰を据えて住む町を決めた。
つい先日借りたアパートの一室。広くはないが、不便でもない空間。
仕事も何とか見つかって、一人分の稼ぎくらいはどうにかなる。それなりに結構なお釣りも来るだろう。

ちょうど本日、予定なし。
此処から新幹線で二時間ほど北に行けば、目的地には着く。多少歩くことになるが構わない。

…………それに、最近訪れていなかった。
だからではないけれど、いい機会だと彼は思う。



言いたいことは、あったから。










着いた頃には陽も沈みかけで風が冷たい。上着を持ってきて正解だったと考えながら、剣は墓地に足を踏み入れた。
手には火を灯した線香、それと花が一束。

灰色の石は酷く無機質で、縦に立った直方体の部分には『薙乃家之墓』と書かれてある。
この下に昔は人間だったモノがあって、ただ生きた人間の話を聞くためだけの存在。問いをしても答えは返ってこない。
桶に汲んだ水で墓石の汚れを落とし、それから線香を立て、花を置いて手を合わせ祈る。無言で、想いを外には出さずに。

とんでもない親不孝で、ごめんなさい。…………願わくば、どうか安らかに。

短い時間で祈りを終える。
そこまでの間、佐智はただ横で彼の様子を見ていた。

僅かに俯いた顔を上げた彼に声を掛ける。

「私も祈って、いいかな?」
「もちろん」

一応許可をもらってから、両手を合わせた。
目を閉じて、静かに。言葉が届くように。

色々あったけれど、私は彼に感謝してます。…………この巡り合わせに、彼を産み育てたあなた達に、ありがとう。

手を下ろす。顔を上げる。
これで目的は達成した。返ろうと背を向け、同時に彼女が彼に問う。

「そういえば、あの花…………菊、だよね」
「…………母が好きだったんだ。花弁が集まってひとつの花になってるその様子が、たくさんの人が力を合わせているように思えるから、って言ってた」

彼にもたくさんの思い出はある。
それが改めてわかって、佐智は嬉しかった。此処に来てよかったと心から思った。


きっと。
これからもしっかり生きていける。


「さ、帰ろう」
「そうだね、僕達の"家"に」



微笑んで、二人は歩き出した。










薙乃剣は思う。

僕は人を殺した。それを正当化するつもりはないし、死んでいい人間なんて絶対にいない。
罪は消えない。どんなに足掻いても、どんなに苦しんでも、どんなに願っても。
だから、僕は全てを背負って生きていこう、と。

それは難しいことだ。辛いことだ。
痛みを伴う道だろう。でも、彼は迷わない。
始まりと同じように、真っ直ぐ、強く、信じる先を。



松原佐智は思う。

私は彼の隣にいたい。何があっても、何処に行っても。
少しでもいいから、彼の痛みを分かち合えるように。
それだけが、自分にできることだから、と。

抱きしめることはできない。触れ合うことは叶わない。
遠いかもしれないけれど、近づくために彼女は手を差し伸べる。
心で心を包み込むように、優しく、あたたかく。



二人は求める。自分にはないモノを。
二人は繋がる。共に未来へ行くために。

その手は決して触れ合えない。
―――――― それでも、一緒にいたい。小さな、願い。





宵闇の中、その場所からふたつの影が溶けて離れていく。
緩やかに消えていく足音。話し声。










墓前には、風に揺れる此ノ花が黄昏の色に照らされていた。