夜が来た。 夕陽の明るさは消え、闇が世界を覆う。 その中に、剣は立っていた。 黒い外套。膝より下までが隠れている。外からは見えない腰の辺りには鞘に収められた刀が一本。 佐智はすぐ隣にいて、表情は僅かに固く口を閉ざしている。 彼らの目の前には、さして大きくもないごく普通の一軒家。周りを塀に囲まれた住み処。 窓から漏れる光はなく、いるであろう住人が今起きているのかどうかはわからない。 人通りのない瞬間を見計らい、家の裏側に移動。 そこにある窓を静かに破壊する。まだ縁に残る破片を丁寧に折り剥がし、身体を潜り込ませ侵入。 躊躇はなかった。その程度の覚悟はとうにできている。 部屋は暗く、外から漏れる微かな月明かりが視界に入り、室内の輪郭を浮かび上がらせる。 どうやら使われていないらしく、生活に必要な物は置かれていなかった。 扉を開ける。廊下に足を踏み出し、音を立てないように歩く。 慎重に、ひとつひとつ部屋を調べる。神経は鋭く空気を読み取り、誰もいないことを視聴覚で確認していく。 冷静でいるつもりだったが、彼は心臓が高鳴るのを抑えられなかった。 事が進んでいく度、鼓動が強くなり血の巡りが加速する。 それは佐智も同じだった。 身体全体に響くような激しい音。少しばかり苦しい呼吸。 過剰な緊張感。訪れる現実に、心が、怯えている。 最後の扉に辿り着いた。 帰る時のために、黒の上着を脱ぎ、扉の付近に置く。腰に備えた日本刀を隠さずに。 ゆっくりと手を掛ける。惜しむでもなく、恐れるでもなく、取っ手が引かれた。 「佐智。…………ただ、見ていてほしい。それだけで、いいから」 「…………わかった」 予感はある。確証はない。けれど、彼の思考は自信を持っていた。 此処に、薙乃剣の望む相手がいることに。 4---新たな道程 まず目に入ったのは、おぞましいほどの無だった。 窓も家具も存在せず、壁一面が病的なまでに白い。 天井には蛍光灯も白熱灯もなく、のっぺりとした四角い空間。 檻のようだと二人は思った。 何かを閉じ込める、牢獄なのではないかと。 その中に別の色がある。 部屋の隅、膝を折り畳んで座っている黒髪の人間。 衣服はこれも白く、汚れが一切ない。それこそ、異常なほどに。 部屋に浮かぶシルエットが立ち上がった。 細くも太くもない、標準的な見た目の男性。身長も目立った高さでも低さでもなく、街中で見かければすぐ忘れてしまう印象。 しかし、彼が剣の方を向き、自然に、 「やぁ、いらっしゃい」 笑った。 ――― ただそれだけで。 それだけで、剣は怖いと感じた。 今までに見たどんな笑顔よりも透明で、真っ白で、気持ち悪かった。 これが。 「…………僕の、仇」 一瞬、逃げ出すという選択肢が頭に浮かぶ。 しかしすぐに迷いを捨て、相対した。真っ直ぐに、彼なりの決意を以って。 懐に右手を忍ばせる。 腰の辺りにある刀の柄に手のひらを置き、姿勢を僅かに落とす。 左手を外套に隠れた鞘と鍔に宛てがい、抜刀の構え。 「こういうことをやっていれば、いつかは君のように私を殺しに来る者が出てくると思ってはいたが……案外、早かったね」 対する男は動ずることなく、何事もない風に話す。能面のような笑みは絶やさず。 それが剣の癇に障った。 「…………こうなる可能性を知っていてまで、それでも」 九年以上、人を殺し続けてきたのか。 無言の部分に、そんな意味を込めて訊いた。 「当然だ。押しつけられてやったことでもない。君もそうだろう? 自分の意思で、ここに来た」 「……だからどうした」 「別にどうも。食べたいから食べる。殺したいから殺す。そこに何の違いがある?」 「――― 詭弁だ!」 抜いた。 肘から手首へ、力が行き渡る。解き放たれた刃は銀の軌跡を描く。 佐智が息を飲む様子が見え、それでも動きは止めずに振り抜いた。 横一閃、男の白い服がぱっくりと切れた。外傷はない。狙い通りの牽制。 剣は刀を振り回すことに対する僅かな躊躇いに気づいた。が、それくらいは範疇内だ。 人を殺したことのない自分が、易々と禁忌を踏みにじれるとは思っていない。 強い意志だけが、それを為せる。覚悟とも呼べる意思だけが。 「次は斬る」 「…………ならどうすれば斬らないでくれるのかな?」 「あなたに選択肢はない。何があっても、僕はあなたを逃がしはしない」 死刑宣告、そのつもりだった。 少しは怯えてくれると思っていた。 だが、男は揺れない。 「どうぞ、気の済むようにやればいい。…………もっとも、それなりに私も足掻くが、ね!」 「…………っ!」 身体を逸らしたのは咄嗟の判断だった。 瞬間、膨れ上がった殺気と共に銀色の何かが自分のいた場所を刺し抜く。 躱した、と思いながら相手の獲物を見る。袖元から出したのか、包丁ほども刃渡りのあるナイフだ。 バックステップで離れ、およそ三歩分の距離を取り、仕切り直し。 日本刀とナイフではリーチの差が桁違いである。 相手の刃が届く前に、一刀の下に斬り伏せる。それが一番正しく確実な戦法。 逆を言えば、懐に入られるとその射程の長さが命取りになる。 互いに武器の大きさ、そして重さの違いから刃で受けるのは難しい。 当てるには回避不可能な一撃を入れるしかなく、そのためには必ず躱さなければならない。 ナイフの基本は刺突。斬るのには向かず、小振り故の軽さが利点だ。 近接戦に持ち込まれれば厳しい。刀の刃先がギリギリ届く程度の距離が要る。 そのためには、常に相手から目を逸らさず、一挙一動を逃さず、勝負は一瞬。 剣は決して戦い慣れなどしていない。幼少の頃、少しだけ手解きをしてもらったことがあるくらいだ。 習ったことは僅か。基本中の基本のみ。それだけを頼りに、毎日訓練をしていた。 振りに癖をつけず、対象を斬るための一閃はただ鋭く、迷いなく。 満足に構えられるまでは半年、きちんと振り切れるようになるまで一年掛かった。藁でも斬れるようになるまでは三年掛かった。 道場通いでもして技術を身につければ良かったかもしれない。けれどそれは剣の気持ちが許せなかった。 剣術は人を殺すためのものではない。昔はそうだったかもしれないが、今の時代はもう違うのだ。 だから、自分自身の力だけで、鍛えて鍛えて鍛え続けた。 全てはこの瞬間のために。両親を失った日から、ずっと、ずっと求めた復讐のために。 ふっ、という息と共に一歩を踏み出す。 構えは正眼を保ち、間を詰め、届く距離まで来たと思う同時、腕が動く。重い刀を振り上げる。 逆袈裟。相手の右肩から左足へと斜めに流れる軌道。 トップスピードは訓練の時より速く感じた。半ば重力に任せる形で肩口を狙う。 「……っ!」 しかし、剣の目はその身体がしゃがみ、間一髪で躱すのを見た。 振り切る頃には向こうの姿勢も整っている。まずい、と思ったが、一度振った刀はすぐには戻せない。 バネのような動作で縮んだ足が伸び、ナイフの切っ先が剣の腹の辺りへ真っ直ぐ飛んでくる。 どうする、なんて迷っている時間はなかった。 男の顔が迫ってくる。この期に及んでも、まだ、笑ったまま。心底この状況が楽しいとでも言うように。 ――― 殺されるわけには、いかないっ! 剣は、刀を放した。 腕に掛かる鉄の重さが消え、勢いで刃先が地面に薄く刺さる。 慣性が身体を右に傾かせ、さらに思いきり上半身を捻ることで、刺突は剣の横腹を掠めるのみに至った。 相手は姿勢を戻せない。隙は一瞬、だが、その一瞬で十分。 腰を捻じり、背中を通り過ぎる顔に、渾身の肘をぶち込む。 ぐあ、と呻いて吹き飛んだ男を見ることもせず、一度手放した刀の柄を握り、地から抜く。 あとは難しい話ではなかった。素早く、そして冷静に、倒れ伏す胴体に向かって振り下ろす。 血が跳ねて服につく。手応えは、案外あっさりしていた。 ああ、これが人間を斬るってことなのか、と胡乱な頭で感じた。 緩やかに、赤色が流れていく。 男の白い服を、白い部屋の床をも染め、次第に広がり小さな池を作る。 それは酷く惨めな姿で、横たわった身体は抵抗する気もないのか、ナイフを放り、手先さえ動かさなかった。 「………………私は、死ぬのか」 男が呟く。 自嘲でもなく、後悔でもなく、ただ、事実を述べるように。 「…………あと、もう五人ほど殺していれば、私も、殺人を止めていただろうな。恐ろしくなって」 「戯言は、聞きたくない」 「…………遺言のようなものだ。ここには君しか聞いてくれる人間がいないからな」 剣は、今すぐその口を黙らせたかった。 目の前に映る男の存在そのものが嫌だった。ずたずたに切り裂いて壊してしまいたかった。 もう一度、刀に手を掛け、振り上げようとして、 佐智と視線が合う。 彼女はこの光景を見てなお、怯えの表情を見せながらも、目を逸らそうとはしていない。 どうしようもないこの現実から、逃げようとはしていない。 気丈だ。本当に、強い。 ふと、自分の身体を凝視する。 返り血を浴びて、黒に濁った赤が混ざっている。頬にも微かに粘液の感触がある。 酷い格好だ。抜き身の日本刀を持って、血まみれで、惨めな殺人鬼を見下ろして。 それでも彼女は、こんな自分を真っ直ぐに見てくれている。受け止めてくれている。 信用されているのか。……だったら、これ以上ないほど、有り難いことなのだ。 もしここで、この男を切り刻んでしまったら、怒りや劣情に任せてバラバラにしてしまったら、同じになってしまうだろう。 九年前、当時の薙乃剣の全てを壊したこの男と。 ―――――― だめだ。 手が止まった。頭上まで持ち上げた刀を、そっと地面に戻し、置く。 放っておけば、間違いなく男は死ぬだろう。今すぐ治療すれば助かるかもしれないが、その気はないらしい。 剣は、有り難いとは思わない。 ただ、これで終わったのか、それだけを考えていた。 「…………最後に、呪いを残しておこう」 消え入りそうな声で、男は、 「…………すまなかった。君の、家族を、奪って」 最後のひとことを口にして。 それきり、何も喋らなくなった。 何を、思えばいいのだろう。 全て、全て、終わってしまった。 強い恨みも決意も、これで消えてしまった。 今までこの日のためだけに生きてきたのに、この時を迎えるためだけに生きてきたのに。 これから、何に縋れば。 俯く剣に、佐智がゆっくり近づいた。 部屋の扉を背にして、彼にそっと手を差し伸べる。 「行こう」 此処にはない、何処にもない彼女のてのひら。小さなてのひら。 掴めはしないだろう。ぬくもりを感じることは叶わない。 でも。 「…………僕は、君の手を取りたい」 彼も血濡れの手を差し出し、触れた。 感触はないけれど、錯覚かもしれないけれど、確かにぬくもりを感じた。 それだけで、彼は、生きていきたいと思ったのだ。 |