理由もなく、紗智は幼い頃の記憶を思い出す。
今も大事に仕舞っている過去だ。


両親は、決して優しくなんかなかった。
儘ならない時は思わず手を上げることもあったし、何より声色が強かった。
叱るようでいて、ただ気に食わないだけと言うような。

正直、子供心に怖かった。
だから波風を立てないように努力してきたし、依存なんて夢見事。
子供のままでなんていられなくて、結果、大人"もどき"のできあがり。
無難に生きる術と、他人と上手く付き合う方法を同年代の誰よりも学んでいたと思う。

小学校を卒業、中学、高校を経て、それでも両親に対しての認識は変わらなかった。
相変わらず激情に駆られやすい人だった。

ただ。


彼女には、今まで見えてこなかった些細なモノが見えてくるようになったのだ。


少し捻じ曲がっていたとしても、自分はふたりの娘。
それなりに愛されていて、産んだことを後悔なんてされてなくて。
昔から手掛かりはあったけれど、単純に彼女は未熟だった。気づくのが僅かばかり遅かった。

ありがとう。

独り立ちをする前に、紗智が口にした言葉だ。
たったひとことで、数え切れないほどの気持ちを込めることができる。
それは凄く嬉しかった。思わず、ちょっと泣いてしまうくらい嬉しかった。

最早幻像。既に、遠い出来事。
いくつかの後悔と共に、彼女が抱えるぬくもりのひとつ。


そんな、懐かしい"しあわせのもと"。



彼も抱えているのだろうか。
記憶の再生と合わせて、要らない推測をしてみた。
辿り着かないように思えた答えは、意外とあっさり姿を現す。

――― あるに、決まってる。

示す感情がなければ、復讐は端から考えられない。
殺されたという両親に、彼は溢れ決壊してしまうほどの好意等を持っていたはずなのだ。

いいな、と感じた。同時に、悲しいな、とも感じた。
その気持ちを、他の誰かに向けることができたらよかったのに。


ぷつりと画像が停止。代わって思考に没頭。
実にならない、暇を潰すための行動だ。
朝も早く、まだ大半の人間が寝静まっている時間帯。
何となく起きてしまい二度寝もできない彼女は、剣が起き上がってくるまで待つことにしていた。

しばらくして。
足音が近づいてくる。ゆっくりと、しかし確実に。


寝間着姿の彼と、目が合う。





「おはよう」
「おはようございます」





微笑みと共に聞こえる声には、彼女らしい笑顔と言葉で返した。




















3---確かな大切




















朝食を箸で啄ばむ彼を、紗智はただ眺めていた。
時々会話を交わし、程なくして皿の上の食物はなくなる。
片付け、洗い、一息。


正午の前には外へ。軽く散歩をしつつ、町を一周。
帰ってくる頃には陽は沈みかけ。そこそこに高いビル群から漏れる黄昏色を背に、帰宅。


夜になると、少し広い部屋で彼は大事そうに包まれたモノを取り出す。
おおよそ60cmの日本刀。日常風景には似合わないそれ。
振ると銀弧を描く。空を切る音は、鋭い。

「名義上では親戚の。本人に言って使わせてもらってる」

見つかれば問題になるだろう。譲渡は許されていない。所持には許可が必要だ。
しかし、密閉空間、外に室内の状況がわからない場所であるならば、露呈しない限りは振り回すこともできる。

正眼の構えより、地面に垂直に、平行に、そして袈裟に。
我流だろうか粗はあるが、基本はある程度しっかりしている。
何をするにも技術がなければ無理なことを、彼は知っている。だからこその訓練。

食事の後から十時を過ぎた頃に全てが終わり、就寝。
そんな一日を何度も、何十度繰り返す。変わることなく、変えることなく。


彼は、焦る必要を感じていなかった。
急く気持ちは慎重さを崩してしまう。ゆっくりと、向かっていけばいい。



一ヶ月が経った。

紗智は二人でいることに慣れ、この"生活"を半ば当然のものとして受け入れ始めた。
会話ができるだけでも、今までとはまるで違う。
言葉の交わし合いがこれほど身に染みるものなのだと、改めて感じた。

朝起きた時の「おはよう」。
出掛ける時の「いってきます」。
寝る時の「おやすみなさい」。

家族で暮らしている頃、当たり前のように口にしていた言葉。
自然に聞くモノだったから、それがどんなにあったかいかは気づかなかった。

ひとつ、耳にする度に。
ひとつ、声にする度に。

それが例え事務的であったとしても、彼女には本当にありがたく思えてならなかった。
実際、救われた部分もあるのだろう。
認識も理解もされないのは、苦しいから。
誰にも寄り添えないのは、怖いから。


この日々は近いうちに崩れて、終わってしまう。
彼の目的を達成したら、行き場がなくなることも有り得る。それもひとつの可能性。
…………そうしたらまたひとりで生きていかなくてはならない。

離別はいつか訪れること。
わかっている。だから、今、自分にできることを、そう彼女は思う。

言ったのだ。
「偽善かもしれないけど、でも、できることはきっとあるから。だから私は、きみのそばにいるよ」と。
自分の言葉を嘘にしたくない。彼に向けた誓いを嘘にしたくない。


「…………私を求めてくれてたら、いいな」


隣にいようと決めた今、彼女の願う、それが一番のことだった。





夜のこと。
それなりに晴れた星空を小さな窓から見上げ、佐智と剣はしばし呆ける。
もう既に見飽きた光景で、眺めているのは退屈だった。

人が多く、都会に分類されるであろうこの町は何故だか空気が綺麗であり、陽が沈んでも空は明るい。
深い闇色に覆われても、月や星は世界を照らすのだ。毎日毎日、雲が掛かっても雨が降っても。

けれど、それでも人は明かりを求める。
宵が訪れる頃には、舗装された通路に、住人のいる家々に、光が灯る。
不安なのかもしれない。黒に紛れて自分が消えてしまうことが。


ぼんやりと、視線は遠くへ。飽きれば近くへ。
天を仰げば小さな輝きの集まり。
地を見れば人口の強い光。
どこにも単色の空間はない。濃淡の違いはあれ、黒か白かのふたつ。

「…………世界って、こんなにも単純にできてるんだね」

何となく佐智は思ったことをそのまま音にした。
響くその声は静寂の中で酷く場違いに感じる。
空気が悪くなったような気がして、少し彼女は戸惑った。
場を取り繕おうと口を開きかけ、しかしすぐに閉じる。
横で彼が言葉を紡ごうとしていたのに気づいたから。

「…………かもね。人間みんなが考えているより、きっと簡単なモノなんだ、この世界は」

表情は変わらず、目線は空に向けられたまま。
ひとりごとに近いのかもしれない。でも確かに、今のは返答だったと思う。


会話が途切れた。
言葉が続かないのは気まずかったりもするが、もう、無言でもいい。



少なくとも今は、寂しくなんかないのだから。











朝が来れば目覚めるのが当たり前で、死んでも変わらない慣習に佐智は苦笑した。
幽霊になったといっても、生きていた頃とはほとんど何も違わなかったりする。
食事と人付き合いだけはすっぽり抜けていたのだが、後者は現在復活。
実はまだ自分は死んでなどいなくて、これは夢か冗談かもしれないと未だに思う時がある。

まぁ、ここにいなければそんなことを考える心の余裕もなかったのだろう。
たかが一ヶ月。でも、彼女にとっては掛け替えのない日々だった。
失われたものがあった。彼のそばにいれば、それは難なく抱えていられた。

他人とはこんなにも有り難い存在だったのか。

死ぬことがなければ、ひとりにならなければ、気づくことはなかったはず。
…………そう考えると不思議と嬉しい気持ちになった。
神様なんてモノがいるなら、感謝しよう。ささやかな、自分にとっては大事な、巡り合わせに。


離れた場所で、彼女の名前を呼ぶ声が聞こえる。
あまり抑揚のない平坦な、しかし無機質には感じない彼の声。


迷わずに、彼女はそちらへ向かっていった。笑顔で。





物事というのはいつの間にか経過していくもので、それに気づいた時にはもう終わっていたりする。
過ぎ行くのは遅く、過ぎ去るのは早い。何となくそんな言葉が頭に浮かんだ。



見つけた。

彼は確かにそう言って、彼女は確かにそう聞いた。
端的だが、彼女には補完のできる言葉。

つまり、ようやく"探し者"を捕捉したということ。
九年間法的機関が捜索し続けても見つからなかった人物を、彼は見つけた。


どうやって、と訊いてみるが、答えは曖昧だった。
勘とも運ともつかないような、その積み重ね。
…………彼にしか捕まえられないモノがあったのかもしれない。
一ヶ月ほどの間、時々思い出したかのようにどこかへ連れて行かれたが、自分はそれで"協力"していたのかな、と佐智は思う。
少しでも手伝えていたのなら、それは嬉しいことなのだろう。

「明日の夜、僕は行く」

発せられた彼の声は明確な決意を持っている。
強くはっきりと、しかし静かで、どこか怖いくらいの真っ直ぐさ。


暗に彼は訊いていた。
君は来るのかと。別に来なくてもいいのだと。
僕が他人を殺す光景を、君が見ている必要はないのだと。

「…………ほら、やっぱり」

佐智は誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
こんなの、単なる幻想だと笑われるのかもしれないけど。

間違いなく、薙乃剣は優しいと思うのだ。

長いようで短かった彼との日々。
きっと近づけた。触れ合えた。
何気ないことが嬉しくて、微笑ましくて。

彼のことを、私は知っている。
そう、佐智は自信を持って断言できる。

終わりが来るともわかっていた。
それでも彼女は此処にいて、此処にいようとしている。


覚悟なんて、とっくにできているから。


踏み出そう。先に進むために。
新たな始まりに向けて、彼女にしか成し得ない決意を。

「私も、行くよ。君がなんと言おうとも」

口にして、笑いかけた。
この気持ちは本物だって、言葉にせずに教えたかった。



「…………そっか」



彼には。





しっかり、伝わったのだと思う。