彼の目は、真っ直ぐに紗智を捉えていた。
意志は強く、言葉はなく。
何故視線がこちらに向いているのか。疑問は湧くが、それは僅かなものであり、頭の中では結論が出てしまっている。

「きみ、私が…………?」

返事はない。
故に彼女は不安になる。
孤独の解消への一歩。半ば見失っていた希望だったが、もしかしたら、という思いがあるのだ。
この光景が幻像で、自分の言葉が現実と違うのだとしたら。
そんな恐ろしい想像を彼女は頭に浮かべる。
縋るモノなどもう何もありはしない。最悪を考えながら手を伸ばすだけ。


陽が落ちてきた。
空の色は青から橙、そして濃紺へと移行していく。
夕方と夜の合間、地平線に沈む太陽がほんの微か明かりを残す。

人口の光が灯り始めた。大通りはこれから朝まで闇を遠ざけたまま。
しかし、この小さな道は電灯も少ない。辺りを支配するのは、宵闇。
完全な夜でもなく、眩しい昼でもなく、曖昧な時間。


限定的な世界の中で、彼は目を逸らさなかった。
含まれる感情は読めず、しかし明確な方向性を持って。

その黒瞳の奥には、一体どれほどの想いが沈んでいるのだろう。

先に動いたのは紗智の方。
一度自分の鼓動を確かめるように胸へと手を当て、それから訊ねる。

「…………よければ、名前、教えてくれない?」

口から出た言葉はあまり場にそぐわないものだった。
だが、おそらくはこれが彼女の取れる最善の選択。



彼は答える。真っ直ぐに、迷わずに、進むため。










「剣。…………薙乃、剣」




















2---両者の心情




















彼の理解は早かった。
女性の名前が松原紗智であるということ、彼女は既に死んでいること、そして今はいわゆる幽霊であること。
紗智にとって彼の第一印象は"鋭利な刃物のよう"だったのだが、話してみると意外に物腰は柔らかく穏やかなことに気づいた。
何しろよく笑顔を見せる。彼女の言葉に相槌を打ち、無難なひとことふたことを返し、微笑む。
だが、妙に薄っぺらくて悲しい――― そんなことを紗智は思った。

目の前にいる彼が纏う雰囲気は、全てが嘘に感じて。
…………むしろ、初めに見たあの"怖さ"が本質だったのかもしれない、と考える。

行き着いた場所は、そこそこに大きな家。
彼の男性にしては僅かに細い手指が懐から鍵を取り出し、開錠する。


玄関に靴は一足もなかった。
母親が迎えに来るような様子もない。それはつまり、

「…………僕は一人暮らしだよ。両親は九年前に、ね」
「あ…………………………ごめんなさい」
「いいよ、謝らなくて。君は何も悪くないし、それで両親二人が戻ってくるわけでもない」

黙ってしまう紗智。
剣は少し間を置いて、責めたわけじゃないんだけど、と付け加える。

お邪魔します、を呟き、彼女は歩を進める。
足音は立たないが、何となくゆっくりと。
居間に案内され、コップを差し出されるが持てないことに気づいて苦笑。
彼もそれは冗談のつもりで、手に持ったコップをそのまま自分の口に運んだ。


しばらく、無音の間ができる。


何を言い出そうか、彼女は迷った。
最善の選択肢がどれであるかは、取ってみないとわからない。
下手なことを口走れば、またひとりになってしまうのかもしれないのだ。

それは、それだけは、どうしても避けたいことだった。

「…………ねぇ」
「なに?」
「どうして私が見えるの?」

まずは無難なところから。
出会った時から気になっていた疑問だ。
今まで長い間、幽霊となった松原紗智という存在を認識できた者は誰一人としていなかった。
偶然、と言ってしまえばそれまでだろう。
だが彼女には、何となくではあるが、そう思えなかった。
例えば彼と自分がこうして出会ったのは必然である、とか。
馬鹿馬鹿しい思考であるとも思う。錯覚だと断言してしまえばそれまでだ。

でも、触れるべくして触れ合うことができるのかもしれない。
今、確かに彼には紗智が見えていて、話をしているのだから。

「わからない。理由があるのかどうかも僕は知らないよ」
「そっか…………」

初めから訊いても答えが返ってこない問いだと予測はついていた。
次の質問。

「此処に私を招いたのは何故?」

返事はすぐに来ない。
彼女が表情を窺うと、彼の顔が僅かに強張っているのがわかった。


なんでだろう。


些細な疑問が声になるより先に、言葉が紗智に届いた。

「…………君に、手伝ってほしいことがある」

言う彼の瞳は真っ直ぐ、強く、遠くを見つめている。
両眼の黒色は深い。どこまで沈んでしまえるのか、と彼女は思った。
無表情なのに、底から浮かんでくるような負の感情を感じる。

「僕はそれを成し遂げたい。僕はそれを終わらせたい。僕はそれを始めたい」

何かが訴えかけてくる。
彼が発する音。それははっきりとした色を持って。



関わらないと決断するなら今、そう彼女の頭の中で思考のひとつが叫んだ。
それでも紗智は動かない。動くことを良しとしない。





知ってしまった。
その表情の翳りを。溶けない恨みを。壊れそうな心を。

知ってしまったら、もう見なかったふりなんてできなくなった。
彼女にとって、松原紗智という人間にとって、苦しみは、悲しみは、切なさは、分かち合うモノだから。



認められる色は、黒。
歪みもせず揺らぎもせず、闇に近い黒。


「目指すのは、一人の人間。僕の全てを壊した、まだ素性も知らない人間」

視線が合う。
彼の目は、出会った時と何も変わるところはなく。

「実行すべきは、復讐。僕だけが喜ぶ、僕の単なる自己満足のための行為」

本当の、心からの笑顔を見たいと思った。
教えてあげたい。世界は、どんなに悲しくても、苦しくても、素敵なものなのだと。



薙乃剣は告げる。自らの望みを。
ただ、己が願いをかなえるためだけの望みを。



「できるなら――― 僕と共に、歩んではくれないだろうか」





















与えられた時間はさほど多くなかった。
松原紗智は選ばなくてはならない。彼の元にいるか、そうでないか、そのふたつを。


…………どちらにしろ。彼は一人でも"復讐"を成し遂げようとするのだろう。
あの決意はそれほどのモノだ。誰が何と言おうと、おそらくは曲がらない。
真っ直ぐに、迷わずに、終わりへと向かうために。

「私にできることは――― 何?」

自問。
彼に、薙乃剣という人間に対して、彼女ができること。
結末は見えている。彼の憎む、その対象を彼自身の手で殺すか。
もしくは、彼が何らかの理由で死ぬかのどちらか。諦めの二文字は、まず間違いなく存在しない。

見過ごせば、そのまま。
付いていけば…………どうなるというのか。
止められはしない。歪んだ形だとしても、彼の想いを捻じ曲げることは何人たりとて不可能だ。
彼は最後まで行くのだろう。そこにどんな最後が待っているとしても。望まざる現実が控えているとしても。


綺麗事だ、と言われてもよかった。
偽善者だ、と思われてもよかった。

ただ、彼女は、救われない結末が嫌いで、他人の笑顔が好きで、みんなの幸せを願う人だった。



だから。

問いに対する自答は、揺るぎなく、たったひとつ。





















窓から入るような真似はせずに、玄関の扉から足を踏み入れる。
足音は立たない。しかし両の爪先から踵までは地を踏む感覚を伝えてくれる。

向かうはリビング。
彼は、先ほど見た時と変わりのない姿で座っていた。
「おかえり」のひとことが聞こえてくる。僅かに戸惑って、ただいま、と返した。


切り出すのは、こちらから。

「悩んだけど、私なりの答えは出たよ」
「そっか。…………聞かせてくれないかな?」

一呼吸を置く。
やはり恐れはあるが、もう戻らない。

「きみは寂しそうに見える。そして、足掻いているように見える」

思うことを、言葉に。
信じることを、声に。

「沈んだままは嫌なんだよね。抜け出したいんだよね。私は、叶うならその手を取りたい。光満ちた世界に立っていてほしい」

彼が真っ直ぐであるならば、私も真っ直ぐあろう、と彼女は願う。

「偽善かもしれないけど、でも、できることはきっとあるから。だから私は、きみのそばにいるよ」

息を切り、微笑む。
今はまだだけど、いつか、笑い返してほしい。心から。





彼は、正直驚いていた。
どうして彼女はここで笑えるんだろう、と。
その答えは、随分昔に忘れたもの。もう忘れたままだと思っていたもの。

彼は、少し怖くなった。
どうして彼女は僕が"見え"ているんだろう、と。
きっと自分は寂しがっていて、足掻いていて、ヒカリを見たいと願っている。


初めて会った瞬間、ただ何となく、自然と足が止まった。
直感。得体の知れない感覚。それと、歪んだ想いを以って。

まず浮かんだことは、利用価値がある、その一点だった。
幽霊であるならば他人には見えない。"探し者"を発見するのも容易だろう。
故に、願った。力になってほしいと。

何てことのない、打算だ。

…………今はどうか。
自分は――― 心の底で、期待しているのかもしれない。
彼女が薙乃剣という人間を"どうにかしてくれる"ことを。
できることなら、そうであればいい、と。


淡い希望だと思った。
しかし、もしかしたらとも思った。

結末は変わらないだろう。自分は必ず"あいつ"を探し出し、殺す。それは絶対に揺らがない。
ただ、その過程で、もしくは新たな始まりで、彼女はこの手を握り引っ張り出してくれるのかも、しれない。



ならば。

今できることは、おそらくひとつ。





「紗智…………って呼んで、いいかな?」
「え、うん、いいけど」
―――――― 紗智」


彼は口に出す。踏み出すための、その言葉を。





「願わくば…………僕の、力になってほしい。いつか、終わりの時が来るまで」





彼女は、小さく頷いた。