今日もニュースで、無機質に昨日の事件などが流れる。
政治家がどうしたとか、芸能人が結婚したとか、そんなものばかり。
聞こえるアナウンサーの声を適当に流しつつ耳に入れていた時、彼はふとひとつの単語に反応した。


殺人事件。


ただの人殺しなら、それなりに世に溢れているだろう。
一年のうちに、誰かが誰かを殺さないことなど有り得ない。
犯人のエゴのために、欲求のために、理不尽な理由で顔も名前も知らない人間の人生が終わる。
不思議な話だが、もう見慣れた言葉。死ぬなんて簡単なことじゃないのに。

画面の向こう側に座っている女性が言う。

昨日未明、ここから少しばかり離れたところで死体がふたつ見つかった。
どちらもまともな殺され方をしておらず、部屋は凄惨な光景だったらしい。
殺害されたのは、まだ小学生の子供持ちの夫妻。犯人は見つからず。動機も不明。
別に恨まれるような家族ではなく、近所の人々にも好意的に映っていた。
犯行時刻は深夜、侵入経路は不明。凶器はその家にあった包丁。
手口その他から見て、警察は過去九年間定期的に行われてきた猟奇殺人事件の犯人と同一人物だ、と推測。
警察曰く、現在も引き続き捜査中。一刻も早い犯人逮捕に努めている―――――― そんな感じだ。





彼は立ち上がった。



誰もいない家の中、声を掛ける相手もいない。
上着を羽織り、秋になって少しばかり寒くなってきた外へと向かう。

行き先は告げず、目的もなく、ただ、何となく。





主のいなくなったリビングには、点けっぱなしのテレビだけが自己主張していた。




















1---出会いの必要




















「…………………………」

塀の上で、女性が一人空を眺めていた。
見上げる先は青。昨日も一昨日も変わらない色。


ぽつりと佇む彼女を、道行く者達は誰一人として気に留めない。
まるでそこに誰もいないかのように、何も見えていないかのように。

不意に彼女は動き出す。
ゆるりと塀から飛び降り、地に足をつけ、道路の真ん中へ。
しばらく歩き、止まる。と同時に、乗用車が一台曲がってきた。けれど彼女は動かない。



そのまま、乗用車は何事もなかったかのように過ぎていった。



静寂。

轢かれているはずだった彼女は五体満足で立っている。
先ほどの事実に驚くでもなく、それが当然のことなのだという認識を噛み締めながら。


また、見上げる。





―――――― 空はいつもと、何も違わない。





















簡潔に言えば、彼女――― 松原紗智は、いわゆる幽霊である。
亡くなったのは八年前。霧ノ埼でのバスと乗用車の接触横転事故による死亡者二名のうちの一人だ。
当時、彼女はまだ21歳。現役大学生が巻き込まれた不運な事故として、新聞の中程に載る程度のものだった。

死んでから目覚めるという表現は変だが、確かに紗智は一度生命を失ってから再び意識を蘇らせた。
自分は死ぬんだ、そう自覚をしたはずなのに、どうして私は生きているのか、と。
そこまで考えて、視線が部屋全体を網羅し、気づく。ベッドに横になっていたはずなのに、立ち上がっている。


これは夢だろうか、それとももしかして――――――


一歩を踏み出し、ドアに手を掛けようとして、すり抜けた。
目の前にあるモノに触れない。試しに扉そのものへと手のひらを宛てがい、やはり突き抜ける。





―――――― もしかして、私は"幽霊"になったのか。





先ほどの想像が真実味を帯びてくる。
現実にある物理法則では説明できない現象。それが自分の身に起きているのだと実感し、彼女は怖くなった。

頬を引っ張る。痛い。
両手を合わせる。くっついた。
座ってみる。冷たく感じた。

この感覚は、私の生きていた世界のもの。
心臓の鼓動、届いてくる音、色のある視界内の風景。その全てが既存の現実。
なのに、自分の立っている地面が嘘のように思えるのはどうしてだろう。 今すぐにでも崩れてしまうかもしれないと考えてしまうのはどうしてだろう。

彼女は他の何もかもを気にせず、ただひたすらに思考した。
自分の納得できる答えを導き出すために。置かれている状況を知りたいがために。
時計のない部屋の中、時間は過ぎていく。数分かして、思いは結局最初の疑問と重なる。


幽霊。

適切な言葉は、他に見つからない。
そんな空想の中でしか有り得ないと思っていた存在になってしまったのかもしれない。
ある程度納得できるまでの証拠は揃っている。あとひとつ、確認すべきは、本当に自分は死んでいるのか。

即行動。文字通り彼女は部屋を抜ける。
覚えのある廊下を進み、自分がいたはずの個室へ。
ノックや声を掛ける必要はない。慣れはしないがそのまま真っ直ぐ扉に向かい、素通りで室内に入る。
ぶつからない、という事実に未だ違和感はあるが、時が経てば自然と気にならなくなるのだろう。
一瞬、木製のドアの断面を目にしてから、見渡した。
白一色の殺風景な空間。置かれたベッド以外、ほとんど何もない。


自分の、身体も。

確かに此処に横たわっていたはず。部屋番号は間違えていない。
並んでいた生命維持のための機器類も撤去されている。
僅かに戸惑い、しかし彼女の足は再び動き出す。思い当たる場所を頭に浮かべながら、止まらずに。





ようやく、松原紗智は自分の身体を見つけた。
他と同じように個性のない部屋のひとつで、欠片も動かず目を閉じて動かないそれを。

不思議なことだ、そう思った。
自分が、鏡越しでなく自身の手足を、胴体を、顔を眺めている。
と同時に、それが自分でない限り別のモノであるのだということも考えた。


幸いなのかどうなのか、誰もいなかった。もし誰かがいたならば、どうすればよかったのかとふと思考する。

泣いていても慰めることはできない。
謝っていても許すことはできない。
私は幸せだった、と、微笑むこともできない。

…………もう、心残りはないのだ。
生きているうちにするべきことはおおよそ成し遂げた。
まだやりたかったこと、残したかったもの、思い返せばいくらでも浮かんでくるけど。
言葉は置いていった。少しでもそれで、彼ら二人の悲しみが軽くなれば。

そこまで考えが巡り、これ以上、彼女の心は此処にいることを許さなかった。
足早に部屋を、病院を出る。一刻も早く離れたかった。怖くなった。
見えなくなるほど遠くまで駆けて、止まる。息が切れている。もう死んでいるのに、こんなにも生の実感を感じるなんて――― 変な話。



目的がなくなった。

人間が進むための原動力。目指すもの。
さっきまではこの"自分"がどうして在るのかを知るため。
でも今は、何もかもがわからない。何故彼女は"幽霊"として存在しているのか、意味も理由もわからないまま、知らない世界に放り出された。

「…………………………どうしよう」

それは、彼女が死んでから初めて口にした言葉。
行く先もなく答えも知らず、ただ迷いが声となる。


多くの問いが浮かんできた。

どうしてここにいるんだろう?
どうしてこうなったんだろう?
どうして死んじゃったんだろう?
…………どうして"生きて"いるんだろう?

疑問は尽きない。
誰も、答えてなんてくれない。



彼女にできるのは、途方に暮れて立ち止まり動かない、そんなことのみだった。





















九年の時を経て、松原紗智は未だ世界に在る。
ほとんど何も知ることはなく、僅かに、微かながら理解できたことがあっただけ。


幽霊とは、さして生きていた頃と変わらないモノだ。
普通に地を歩き、睡眠時間も必要、音も聞けるし物質に触れることも可能。感触もある。

だが、今までとの相違点がいくつかある。

まずひとつ、限定的とも言えるが彼女の"時間"は止まったまま。
食事が要らず、老けることがない。ある意味都合のいいような気もする、と紗智は思う。

もうひとつ、触れることは可能でも干渉はできない。
物体を動かすことはできず、すり抜けるのがデフォルト、意思次第で触れられる。
扉などはその典型で、少しでも干渉してしまえば生きている人間にとって不自然な現象に映るだろう。
開けることは叶わず、故に"そこにないモノ"として通り抜けられる。

最後に、幽霊という存在は物凄く希少らしい、ということ。
今まで一度も会ったことがない。九年を掛けても、だ。

そこに彼女は強い絶望を感じていた。ひとりで在り続けるのはあまりにも苦しい。
分かち合える存在を欲していた。孤独な時間を抜け出したかった。
幽霊も"死"ねるのだろうか、そう考えたこともあったが、彼女自身には自殺するほどの決意はできない。
自分で首を絞めて窒息死するのが一番簡単で確実だろう。しかし、必ずストッパーを掛ける。食事の必要もないのだから、飢えで死ぬことだって有り得ない。
要するに、死にたくなんてないのだ。失うのは楽なことでも気軽なことでもない、ということ。



これから何を糧に在ればいいのだろう。


もう彼女にとって幾度目かの自問。
無論、未だ解答は得られず。辿り着くとも思えない。

今日で三度目、空を見上げる。
雲は流れ雨は降り風が吹き移ろい行くが、本質としては変わらない雄大な青が彼女は好きだった。
自分自身と同じようで、全く違う。それに安堵と、同時に僅かな不安を覚える。

「このまま、ずっと、なのかなぁ…………」

呟いて、どうなるというのか。
聞く者のいない言葉は大気に溶けていく。
風が頬を撫で、しかし寒いとは思わずに立ち尽くしたまま。

ひとりきり。
寂しさだけは、一度たりとも忘れたことはない。


はぁ、と吐かれた息はほんのり白く、冬の訪れが近いことを感じさせる。
季節は流れ、だが彼女にとっては無縁。
世界の誰も来ることができない何処かに取り残されたような。

感傷だ、そう思い視線を下に向けた時。



確かに、目が合った。

二十歳前後の青年。
灰色の外套、黒い靴。無個性な見た目よりも、冷たく鋭い両の瞳が印象に強かった。
彼女の表情は驚愕。青年の足は、今間違いなく静止している。

「…………………………え?」

遅れて出る声。
何故、そのひとことが頭の中でループする。

こんな偶然、あるんだろうか。それとも。



彼が自然な動作で手を差し出す。
しかし彼女は微動だにせず、その手を避けようとして、





すり抜ける。





それでも彼は表情を変えない。
時が止まり、音がなくなり、ただ、彼と彼女だけが此処に在る、そんな気がした。










これがふたりの、はじまり。