ありふれた前置きで申し訳ないけど、ぼくは今までの人生で夢を見たことが一度もない。
 眠りが深いのか、それとも単純に記憶力が悪過ぎるからか、原因はよくわからない。
 ただ、学校で友達が「今朝面白い夢見てさー」なんて話をすると、どうにも居心地悪くなってしまうことが多かった。
 自分だけ話に混ざれないのが、子供心にちょっと仲間外れにされたようで悲しかったのを覚えている。

 勿論、高校生になった今では別に構わないとも思う。
 ドラマやアニメ、漫画の物語内に入り込んだり、御伽噺の世界を体験したり、そんなことに、少しは憧れたりもするけれど。
 夢を見られなくても生きていけるし、それが特別損ではないことにも気づいたから。
 ……中学生の一時期、図書館に入り浸り明晰夢の見方に関して散々調べたのもいい思い出だ。
 ともかくぼくはこれまで一回たりとも夢を見ず(あるいは頭に残らず)、布団の中で眠って気づいたら朝、という毎日を過ごしていた。
 きっとこれからも夢を見ることなく生きてくんだろうなぁ、とぼんやり考えてその日も床に就き、

 ―― そしてぼくは何故か、いつの間にか、森の中に立っていた。



ミルフイユの上手な食べ方



 現実と夢の境目はどこにあるのかと言えば、実際に見えているのが現実だと判断できるか否かでしかないだろう。
 今が夏なのに目の前が白一色雪原だったら間違いなく夢だろうし、 翼もないのに空を飛んで大地を見下ろしていたらそれが現実であるはずはない。
 さっき布団に入り毛布に包まって寝たはず、という認識がある以上、目覚めたら当然自分の部屋、布団の中にいて然るべき。
 なのにどうしてこんな見知らぬ場所に立っているのかと考えれば、

「夢……だよね?」

 そう判断するしかないと思う。
 ふと足下に目をやると、靴を履いていた。視線を昇らせ、着替えた覚えもないのに普段着になっていることを知る。
 辺りは陽がほとんど射さないほど深い、葉を茂らせた木々が彼方まで並んでいて、 そして極めつけに、ぼくの正面には一番有り得ないものがあった。

 ……お菓子の家。
 それ以外に、どう形容すればいいんだろうか。
 近づいてみるとよくわかる、建物を構築するその全てが、何らかの菓子だった。
 煉瓦の壁はチョコレート、ドアは巨大なビスケット。登頂の煙突から立ち昇る煙からか、甘い匂いが漂ってくる。
 窓はなく、中に何があるのか、誰かが住んでいるのかもわからない。ただ周囲は本当に静かで、 例え夢だとしても一人で歩いて迷うのは嫌だと思った。思ったから―― ビスケットのドアノブに手を掛ける。 想像したよりも硬く、力を入れても壊れそうにないことを確認し、念のため開ける向きも確認し、思い切って引いた。
 滑らかに、僅かな軋みもなくドアは開き、片足を踏み入れる。そっと、中の様子を窺うように。

「お邪魔しまーす……」
「いらっしゃい」
「!?」

 思わず、びくっ、と肩を震わせてしまった。
 そりゃ煙が上がっているのだから誰かがいるのはわかっていたけれど、夢の中でとはいえこう唐突に声を掛けられると驚いてしまう。
 ぼくはその声がした方―― ドア側から見て右手だ―― へと向いて、言葉を失った。
 本当、絶句と言うに相応しい。息を飲み、目を無意識のうちに見開き、自分でも情けないほどの間抜け面で、文字通り見事に硬直した。

 ―― 初めは、人形かと思った。
 でも、違う。そうじゃない。人形は動かないし、ましてや優雅な仕草でカップに口付けもしない。
 ―― 次に、天使かと思った。
 それも違う。羽がないし、そもそもぼくのイメージでは天使は金髪碧眼、良く言うヨーロッパ的な容姿だ。
 断じて、光に煌めく絹糸のような銀髪でも、覗き込めば吸い込まれそうな琥珀色の瞳でもない。
 ならばぼくと同じ人間かとは、どうしても思えなかった。世の中に美形と呼ばれる人は、 世界人口およそ六十億人の中にそれこそ数えるのも馬鹿らしいくらいいるだろうけど、 優劣をつけるならきっと誰と比べても負けはしない。整い過ぎた目鼻立ちは、整い過ぎているが故に作り物めいた、一種凄絶な美貌。 道を歩けば必ず皆が足を止め、振り返り、そして言葉を失うような、そんな人間離れした美しさ。
 これは、他に形容の仕様がない。どうしようもなく完成した、非の付け所が皆無な神の造形。
 ただ……ただひとつだけ、ぼくが「いらっしゃい」に対する返答さえも後回しにして、口にすることを我慢できない特徴があった。
『美しさ』という属性に真っ向から対立するような、そういう特徴。

「……小学生?」

 椅子に座った彼女の背は、物凄く小さかった。
 ついでに、床に足が届いていなかった。

「………………」
「あ、あの、すみません、お邪魔してます」
「……閉まりなさい」

 彼女の言葉と共に勢い良く閉まったドアが、ぼくの後頭部を強打した。




「……で、何でぼくは向かいに座ってるんだろう」
「貴方が来訪者だからよ」

 まあ確かに、隣か向かいかと訊かれれば後者を選ぶ。初対面の人の横に座るほど度胸やら下心やらは持ち合わせていないし、 四人分の席しかないテーブルで、一応ながら客であるぼくが腰を下ろすべきは、家主の正面、向かいの席なのかもしれない。
 だけど―― そう、初対面。お互いに初対面なのだ。なのに何の躊躇もなく招き入れ、 どうぞ寛いでくださいとばかりに紅茶まで勧めるのはどうか。警戒心とか、ちょっと欠如してるにも程があるんじゃないのか。

 ……でもこれ夢なんだよなぁ。

 自覚はしているのだけど、目で見るもの耳で聞く音、全てがあまりにもリアルなものだから、つい現実と錯覚してしまう。
限りなく判別し難い夢というのも実際あるらしいので、そういうものなんだと思えるけれど―― お菓子の家なんていう、現実ならまず有り得ない建物を見ていなければ、ぼくは今夢の中にいるとは断言できなかっただろう。
 あるいは―― 彼女さえも、本当に存在すると信じただろうか。

「……何か?」
「え? あ、ううん、何でもないです」

 容姿に合った子供らしい高さと、相反する奇妙な落ち着きの両方が含まれた声色。
 可愛らしいと言うには無表情過ぎて、美しいと言うには背が足りなさ過ぎる。
 面立ちも、少女の幼げな魅力に女性の艶とも言うべきものが混ざっているように感じ、見れば見るほどぼくは戸惑った。
 それを助長させているのは服装で、些かレース過剰の、白を貴重とした色のドレスを身に纏っている。 テーブルの下に隠れてよくはわからないけど、スカートはふわりと広がっていて、 その隙間からフリルの束がひらりひらりと見え隠れしていた。
 少しだけ覗く足首は細く、有り体に言えば折れてしまうんじゃないかと心配してしまうほど小さな足を包んでいるパンプスも、 その辺のお店に売っているような安っぽい物とは違う、如何にも貴族が使ってそうな豪華なものだった。
 要するに―― 何というか、掴み難いのだ。小学生としか思えない姿には不釣合いな、異様に大人びた仕草や表情。 それは普通併せ持つものではなく、一見すれば十歳にも満たないはずの彼女が、本当はもっと年老いてるのかもしれないと思ってしまう。
 だからぼくは、どう会話していいものか、正直全然わからなかった。 出された紅茶も、大変個人的な理由で食指が動かず、なかなか口を付けられずにいる。
 ……そんな調子で俯きっぱなしのぼくを心配してでもくれたのか、あるいは彼女も気まずかったのか―― ほとんど無表情だったので、単純に社交辞令からなのかもしれない―― 不意に、声を掛けられた。ぼくの背筋が勝手にぴんと伸びる。

「紅茶はお気に召さないかしら?」
「あ、いえ……その、昔にちょっと飲んで……おいしくなかったから、どうも苦手で」
「そう。なら少しでいいから試してみなさい。好意を無碍にする人間には罰が当たるわ」
「は、はい」

 叱られてるのか諭されてるのかいまいちよくわからないまま、言われた通りカップを口元まで運び、傾ける。
 鼻腔をすっと通る心地の良い香り。甘味と渋味が絶妙なバランスで、抵抗なく飲むことができた。……すごく、おいしい。
 仕事で外国を飛び回ってる両親が適当に買って送ってきた紅茶を初めて自分で淹れて飲み、 それがもうただ渋く苦いだけの味だったので、以来一度も口にすることがなかったのだけど―― 苦手意識を払拭するような、上品かつ繊細なその味に、ぼくは一発で虜になった。それほどに、彼女の淹れた紅茶はおいしかったのだ。

「感想は言わなくていいわ。顔に出てるもの」
「……こんなおいしい紅茶があるなんて思いませんでした」
「なくなったら言いなさい。注いであげるから」

 早速ハイペースで、けれどなるべく行儀悪くはならないよう飲み干し、空になったカップを手渡す。
 たおやかな指が持つティーポット、その口から流れる、湯気を立てる琥珀色の液体が器を満たしていく様を、ぼんやりと眺めていた。

「どうぞ」
「ありがとうございます」
―― うん。やっぱり、おいしい」

 ぼくの呟きを聞いて、彼女は微かに、本当に微かにだけど、誇らしそうな表情を見せた。
 自分で淹れたからこそ、自信と、自負があるんだろう。そう、と小さく返した時の声色は、どことなく優しかったように思える。
 特に今は会話もないけれど、こういう静寂もまた―― じゃなくて。

「あ、あの!」
「どうしたの、いきなり大声なんて出して」
「……これって、夢、ですよね?」

 和んですっかり忘れていた。この状況は、どう考えても普通じゃない。
 まだ名前も知らない女の子と、お菓子の家で二人紅茶を嗜む光景を、人は異常と言うだろう。
 しかも、何故か彼女に対して敬語を使っているし。見た目通り小学生の年齢なら、畏まるべきはぼくではなく彼女の方だ。
 調子が狂う。いつの間にか彼女のペースに巻き込まれてのんびりしていたけど、これは夢。そう、夢だ。 しばらくしたらぼくは朝を迎えて、布団の中で目覚める。つまり彼女も夢世界の住人、 きっと起きたら二度と見ない、会うこともない、そんな儚い存在。
 現実と夢の境界が曖昧だと、いつかこっちが現実になってしまいそうで。
 だからぼくは、今いるここが夢の中だと、はっきりさせたかった。……怖いから、ではなく。 人生で初めて、初めて見ることのできた夢だからこそ、素敵な紅茶も、冗談みたいなお菓子の家も、人形めいた眼前の少女も、 全て、夢の中だけのものだと、確認したかった。
 ―― 黙って楽しんでればいいのに、と思う。本当、その通りだ。 確かめなくても夢に決まってるんだから、いつ目覚めるんじゃないかと怯えるよりも、 能天気に非現実を堪能している方がよっぽど気楽だろう。
 でも、やっぱり―― 実感が欲しかったから。もしかしたらこの先二度とできないかもしれない、貴重な体験だから。
 確認して、納得して、心に留めておきたいと、そう思った。

「そうね――

 果たして、

―― 貴方がそう思うのなら、きっとその通りよ」
「そう、ですか」
「ええ」

 彼女の答えがぼくの望むものだったかは、ちょっと、わからない。どちらとも取れる、曖昧な言い回しだったからだ。
 なら好意的に解釈しようと、その時のぼくは頷いて、紅茶のお代わりをゆっくりと楽しんだ。
 ……その間、ほとんど一方的に、色々な話を聞いた。今更ながら互いに名乗り合って、彼女が『フィーユ』という名前だと知った。
 ぼくはつまらない身の上話を。彼女は自分が魔女であり、紅茶とお菓子が大好きで、というかもう長い間それしか摂っておらず、 また他に摂る気もないこと、このお菓子の家も彼女が作ったものであることなどを語ってくれた。

「……もう朝ね」

 会話が途切れたところで、不意に彼女が呟いた。 困ったことに室内には時計がなく、また窓がどこにも存在しないため外の様子も見られない。 だからどうして断言できるんだろう、と思ったけど、何となく、自らを魔女と言った彼女の言葉は、信じられた。 ……あるいは、これは夢なんだから、もうぼくが目覚めようとしているのかも、とも考えたのだけど。

 ―― そっか、終わりなんだ。

 そう心の中で反芻すると、少し寂しく感じる。こんな不思議な夢、きっともう二度と見ることはできないんじゃないか。
 短い間とはいえ会話をして、気づけばぼくは彼女をとても好きになっていた。小さなテーブルで向かい合って、 静かに彼女の淹れた紅茶を飲みながら、ただ二人でいることが、心地良かった。安心できた。
 だから―― ふっと、自然に出たひとことは、

「ありがとう、ございました」

 夢がぼくの空想の産物だと言うのなら、お菓子の家も、彼女も、ある意味ではぼくの一部だ。 つまり自分自身に感謝してるわけで、たぶん傍から見れば間抜けな光景なんだろうけど、 でも、それでも、ぼくはどうしても言いたかった。
 素敵な時間を。楽しい夢を、ありがとう、と。
 ……彼女は一瞬きょとんと、容姿相応な可愛らしい顔をしてから、静かに、そして優しく、微笑んだ。

「ドアから出れば貴方は目覚めるわ。ここにいた記憶は、残ったまま」
「……忘れたりとか、しないんですか?」
「貴方が覚えていようと思う限りは大丈夫。……さあ、もう朝よ。良い子は起きなさい」
「あ、はい」

 最後に――

「また、会いましょう」

 そんな言葉を、聞いた気がした。
 ドアノブを捻り、力を込めて押すと同時、暗転。

「……う」

 目を開ければ―― そこは布団の中だった。
 しばらく状況が上手く掴めず、上半身を起こして右左。日頃お世話になっている、 馴染んだ自分の部屋であることを確かめ、ついでに手で頬をぎゅうっと抓ってから、痛い、と呟く。……ああ、現実だ。
 そういえば夢の中ではやってみなかったなぁ、とちょっとだけ後悔しつつ、どこかすっきりした気持ちで、 ぼくは布団から抜け出した。

 さて。いつも通り、学校だ。




 結論から先に言えば、別に登校してみても何があるというわけでもなく、どれだけ不思議な体験をしたとしても、 あれはやっぱり夢。現実じゃなかった。定年間近の白髪が唯一特徴らしい特徴な担任、 ホームルームの時間も会話に夢中なクラスメイト達、築何年だったか、ボロが出始めてきた校舎、全て変わりない。 相変わらず過ぎて退屈になるくらい変わりない。
 未だ鮮明に覚えているけれど、まあそんなものなのかなと納得して一日を過ごし、布団に入り、 睡魔がやってくるまでゆったり本を読んでいた。いた、はず―― なのに、いつの間に眠ってしまっていたのか。 意識が落ちていたことを自覚しながら覚醒する。

「……あ、れ?」

 見間違いでなければ。今、目の前にあるのは、昨日見た夢と同じ景色。正面、数歩先の位置に建つ、お菓子の家。
 今日は―― 来訪者を迎え入れるかのように、始めから、ビスケットの扉が開いていた。
 おかしい。これまで人生の中で一度も、ただの一度も夢を見なかったぼくが、二日続けて、 しかも全く同じ内容の夢を見るものなんだろうか。偶然―― としか思えない。でも、偶然として片付けるのは、何故か、躊躇われた。
 喉を潤した、紅茶の味を思い出す。宝石よりも綺麗な、少女の姿を思い出す。あまりにもはっきりした記憶。 五感で覚えた、曖昧さの一切ないイメージ。それは、本当に夢の中の幻だったのか。ぼくが無意識に生み出した、空想世界の住人なのか。
 わからないまま、ぼくの足は前と同じように動いていた。玄関を、抜ける形で。
 果たして、

「いらっしゃい」

 全く同じ言葉と声で、フィーユと名乗った少女はぼくを歓迎してくれた。
 視界のやや右側、ファンシーな、彼女の身長に合わせ低い位置に作られたキッチンと、 そこから数歩の距離に据えられたテーブルに椅子四つ。中でも最もキッチンに近い場所に陣取る彼女は、 今日もまた、涼しい顔で紅茶を啜っている。目を閉じて、味わうように。
 後ろ手でドアを閉めると、乾いた音が響いた。それを咎めるが如きタイミングで、彼女の瞳が開き、視線がぼくへと向けられる。
 深い―― 深遠の世界を湛える琥珀色の瞳にじっと見つめられると、どうも、落ち着かない。
 無言の圧力に負けて、先に口を開いたのはぼくだった。

「……お邪魔、します」
「そう。挨拶は重要よ。一種の儀式なのだから」

 淡々と諭される。
 確かに礼儀は尽くさないとなぁ、と一応納得し、それからぼくは真っ先に、前と同じ質問をした。
 要するに、ぶっちゃけて―― これは夢じゃないのかと。
 帰ってきたのはこれまた前と同じ。

「貴方がそう思うのなら、その通りよ」

 結局真偽を定めるのは個々の主観なのだから―― と彼女は言った。
 信じれば真実。是か非か。本物か偽物か。重要なのは現実か幻想かではなく、ぼくにとってはどちらなのか。
 ……どっちなんだろう。昨日(この認識で間違っていないはず)の夢の中で未練たらたらに別れを惜しんだりしたものだから、 ここで実は夢じゃありませんでしたなんてことになると恥ずかしくて仕方ない。個人的に。
 でも、一度疑ってしまうと―― 何もかもが怪しく見えたりして。現実じゃ有り得ないから夢、 というのは些か短絡的な思考なのかもしれないと思い始めている自分がいることに気づく。
 それは、普通に考えれば誇大妄想者の暴論だろう。馬鹿馬鹿しいのひとことで片付けられる世迷言の類なはずだ。 なのに―― なのにぼくは、ぼくの中の何かは、彼女の言葉に含みを感じた。
 貴方がそう思うのなら―― なんていうけれど、どちらでもある現実は存在しない。シュレディンガーの猫でもあるまいに。
 現実は、必ずどちらかだ。ぼくがどう思おうと、決して揺らぐことはない。そして―― そう思うのならその通り、 という言い回しは、ぼくの記憶がおかしくなければ、大概相手が間違ってる時に使うもの。

 座って、目の前に置かれた紅茶を頂く。口に含むと鼻を抜ける香気。神掛かった、絶妙なバランスの味。
 ぼくはこのおいしさが幻でもいい、とはとても言えない。現実に飲めたらどれほど素晴らしいかと、感慨に耽りながら思う。

「フィーユ……さん」

 名前を呼ぶと、彼女―― フィーユさんは、返事の代わりにちらりとこちらを見た。
 容姿だけで年齢を推測、判断するなら確実にぼくより年下なので、 呼び捨てにするのが正解じゃないかという考えが少しだけ頭に浮かんだけど、 どうしても、彼女を呼び捨てにするのは抵抗がある。だって―― ぼくは、そんな大人びた表情をまだ作れない。
 永き時を生きた、けれど古典に出てくるような鉤鼻の老婆、そんな典型的なイメージとは似ても似つかない、少女の姿をした、魔女。
 それを鵜呑みにするかどうかも、ぼく次第だろう。事実が是であるにしろ、非であるにしろ。勿論、彼女の存在そのものに対しても。

「えっと……その……」
「………………」
「さ……触っていいですか」

 ―― 物凄いジト目で見られた。

「……どこに触れる気なの?」
「あ、いや、いやらしい意味では決してなくて」
「もしそうだったら貴方、大変なことになってたわよ」
「……具体的には?」
「朝起きると貴方の隣で等身大マネキンが同衾しているわね。女性物の服を着て」

 興味本位からの質問、軽い気持ちだったとはいえ、訊かなければ良かったと心から思った。
 もし本当にそんなことになったら、ぼくは精神的に最悪の状態で学校に行くことになるだろう。 他に家族がいないのが唯一にして最大の救いだけど、万が一にも気まぐれに、 しかもぼくに内緒で戻ってきてその光景を見られようものなら、社会的に死んでしまう。 ……というか、フィーユさん。あなたとまだあまり一緒にいないからよく知らなかったけど、そんな性格してたんですか。
 ―― 脱線した。閑話休題。

「ちょっと……手を」
「手に触れたいの?」
「はい。確かめたい、というか、自分の中で、結論付けたいというか」
「そう。なら―― こちらまで来なさい」
「わ、わかりました」

 言われるがまま。彼女の右隣に立つ。
 と、唐突に、ありふれた表現をするならば白魚のような細指が、くるりと九十度、ぼくの方へと向いた彼女の足下を指し、

「跪きなさい」
「へ?」
「早く」
「え? えぇ?」

 平坦な、でも強い語調で示され、思わず勢いで従ってしまった。
 さながら姫と忠誠を誓う騎士の構図だなあと、とりあえず客観的に見て逃避していたぼくの眼前に、 先ほど地面を指差した彼女の右手が差し出される。最高級の陶器に似た滑らかさ。 本当に、一切の世辞も誇張も意味を成さないほど完璧に、染みひとつ見当たらない、透き通るかのような、作り物のような白さ。 ふっくらとした、豊かで豪奢なドレスの袖からちょこんと外に出た、露になった彼女の肌は、恐ろしく綺麗だった。 触れていいのかと、躊躇いを覚えるくらいに。

「手を取って」
「こ、こう?」
「紳士的に。たおやかに、花を愛でるように―― そう」

 甲を上にした彼女の手を、ぼくは下から軽く持ち上げ、支え、親指と残りの四指で優しく挟み込む形で、触れていた。
 見た目通り、小さくて滑らかで―― そして仄かに温かい。人の、温もりだった。

 単純なぼくなりに、信じて、信じ切っていいのなら―― 夢じゃあ、ない。




 しばらく後に聞いた話だけれど―― ここで、魔女について説明しておこうと思う。 ちなみに、歴史的観点から見る、過去にヨーロッパで迫害された異端の人々のことではなく、フィーユと名乗った魔女のことだ。
 そもそも魔女というと、怪しげな液体の入った鍋を掻き回したり、深夜に箒で空を飛ぶ、 特に黒い三角帽と同じく黒いマントの、鉤鼻の老婆辺りをイメージするだろう。ある意味では、その認識も間違いではない―― らしい。
 魔女とは魔術を扱える者、特にその中でも女性の別称であって、 基本的に魔術―― 『常識の外に在る力』を扱えるようになるには、長い年月が要求される。 力は溜めれば溜めるほど強くなるものよ、と注釈の意味で彼女が言っていたのは、きっとそういうことだ。 勿論例外はあるだろうけど、こと魔術に関してはそれが真理。時の流れが、力と力を持つ者を強くする。
 何歳なんですか、という質問には答えてくれなかった。代わりに、テーブルの下で思いっきり脛を蹴られた。 あの足では絶対届かないはずなのに、どうやって一撃を入れたのかはわからない。 本人に訊いても、魔女だから、のひとことで誤魔化されるのは間違いない。
 彼女ほど永く生きる魔女は、ぼくのような人間には必要不可欠な食事はしなくてもいいそうだ。 単純に趣味嗜好の類として楽しむ者はたくさんいるとのことだけど、彼女は違う。 本当に、紅茶以外の何も口には入れない。それでいて、太ることも痩せることもなく、全く変わらない姿で居続ける。 世の女性からしたら垂涎ものの体質なのは確か。
 彼女は、世界に結構いるらしい魔女の中でも特殊、例外中の例外で、異相世界と呼ばれる場所に自分の居城たる空間を構築、 そこで日々紅茶を飲んで過ごしている。異相世界に関しては、説明されたけどあまり理解できなかった。 語彙の少ないぼくには、ここじゃないここ、という表現しかできない。 何らかの理由で、ぼくは彼女の世界に紛れ込んだみたいだ。 あと、お菓子の家なのは彼女の趣味で、紅茶は現地のを失敬しているとのこと。それは一般に泥棒と言うんじゃなかろうか。

 ―― 魔女は契約を何より遵守し、契約によって縛られることでより強力な術を行使する。契約こそが魔女の本質と言ってもいい。
 つまり約束事のようなもので、動けばお腹が減る、使えばお金が失くなる、奇跡には代償が要る、という、 当たり前のことを当たり前にするための証明だ。契約書にサインすれば、言い逃れはもうできない。 それと同じことで、魔女と契約したものは、願いを叶えてもらう代わりに対価を差し出す。 要求したものを頂く代わりに、魔女は契約の名の下に、対象の願いを叶える。
 対価が何であるかは、要求する魔女次第だ。悪魔よろしく魂を望む―― その分叶えられる願いは多く、もしくは大きくなるけれど―― 者や、財産、幸運なんて曖昧な、形のないものを欲するのもいるらしい。
 そして彼女は―― 感情の欠片を対価に頂く。願いを抱くほどの、強い想い。その一欠けを。
 代償は少なく、故に、叶えられる願いもあまり大きなものではない。 そも、彼女自身が選り好みをしている時点でどうかとは思うのだけど―― 何故そんな対価を求めるか、理由を知れば、仕方ないなとも思う。
 親愛、友愛、類愛、慈愛。異性愛、同性愛、恋愛、自愛。
 人が人に向ける強い感情は数多あるけれど、殊更彼女が探しているのは、暖色、明色のもの。
 お菓子が何より大好き、というのは、伊達じゃない。彼女は―― 人の心の、欠片を食す。
 例えるならば、感情の色は味。暗ければ苦味を、明るければ甘味を宿す。 願う心がポジティブ、前向き、甘露の色であればあるほど、契約によって結晶化した感情の欠片は至高の菓子になる。 十人十色、六十億人いれば六十億色ある人間の心に、何ひとつ同じ味はない。
 彼女は、そういう魔女だった。

「ということで、貴方の願いを叶えてあげる」
「はぁ……」

 夢の中で会うようになってから、通算六日目―― あらかた講釈も聞き終わった頃、唐突に彼女はそう言い出した。
 何が「ということで」なのかはよくわからないけど、とにかく、ぼくの願いを叶えてくれるらしい。勿論、契約という形を取って。

「……でも、そんな簡単なことなんですか?」
「内容によるわ。第一、貴方が私の目に適う願いを持ってなければ、前言撤回ということになるわね」

 たった六日、されど六日。時計がないのでここでいったいどれだけの時を過ごしたのかは謎だけれど、 その全てを彼女と会話しながらのティータイムに費やしたぼくは、見た目ほど彼女の性格は可愛らしくないとしっかり理解していた。
 何しろ彼女は、掴み難い。外見と中身が一致しないように、また言動も、くるくると変わる。 優しくも厳しい大人に見える時があれば、辛辣な台詞を吐く賢人の老婆にも、容姿相応に頬を染める子供にも見える。 まるで万華鏡だ。あと嫌らしい。実はかなり毒舌。話し慣れれば慣れるだけ、精神を強く持たなければいけないだろう。 でないと耐え切れない。
 永く生きた人は、皆こうなるのか。……そう考えると、古代の人々が切に求めた不老不死、 永遠の命なんて碌なものじゃないと本気で思う。自分はこうはなりたくない。
 ―― 大人しい、無難な性格だと自負していたはずなのに、どうやらぼくはだいぶ彼女に感化されているようだ。
 そりゃあ何度も貶されれば耐性だって付くし、舌戦を繰り返していれば口も悪くなるだろうけど。

「うーん……特には、ないと思うんですけどね」
「それは私が判断することよ。貴方のような足りない……いえ、スポンジ似の頭で考えても意味がないわ」
「なんでそこでより酷く言い直すんですか」
「いいから黙って私の足下に跪くのよ」
「ど、どうしてですか」

 控えめに反論したら凄い目で睨まれた。
 仕方なく、従う。逆らえないなぁ、と自覚しながら立ち上がり、テーブルを少し迂回し、前に手を触った時のように、 座る彼女の右隣まで移動。片膝を立てる形で腰を下ろす。

「違うわ」
「え?」
「正座よ。貴方、騎士でも気取ってるの?」
「この前と言ってることが違います……」
「早く」
「うぅ……」

 それでも言われた通りにしてしまう自分が憎い。

「そう。あとは両手を前に出して、地面に付けて」
「……これで?」
「頭を下げて、申し訳ありませんでした、と言いなさい」
「ええと、頭を下げ……ってこれどう見ても土下座ですっ」
「五月蝿い」

 客観的に考えずとも物凄い構図だった。
 見た目小学生の女の子に理由なく土下座する高校生。写真に撮られようものなら一生逆らえない。
 さらにあのパンプスでぐりぐり踏まれて喜んだら、完璧に真性のマゾだろう。当然、ぼくにそんな性癖はない。あるわけがない。

「あの……いつまでやってれば……」
―― 何やってるの貴方。そんなことして恥ずかしくないの?」
「……えっと」
「さっさと戻りなさい」
「……今の、意味あったんですか?」
「ないわよ」
「………………」

 密やかな殺意が芽生えたけど口には出さない。
 とぼとぼ歩いてぼくは自席、彼女の向かいに腰を下ろした。身体が重い。精神的に。
 そこでぼくが嘆息するのを見計らったかのようなタイミングで、

「家族ね」
「は?」
「両親は好き?」
「えっと……」
「答えなさい」
「……その、好き……です」
「マザコン? それともファザコン?」
「……どっちでもないです」

 この歳になってそんな風に質問されるとは思わなかった。
 というか、貴族めいた容姿でそういう俗な単語を口に出されると、激しくギャップを感じて困惑する。

「いったい今度は何を言わせたいんですか……」
「確認よ。貴方、両親といる時間が少なくて、寂しい思いをしているのでしょう」
「………………」
「だから、その願い。私が叶えてあげるわ」

 願い。
 ぼくの、願い。

「ちょっと、あの、待ってください。ぼく、そんな願いなんて、」
「あるのよ。貴方が自覚していなくても、私にはわかる。家族を―― 両親を想う貴方の気持ち」

 ―― 宝石みたいよ、と彼女は言った。

「貴方にとって、両親は誇りなのね。誇りに思っているからこそ、邪魔をしたくない。寂しいとは、言えない」
「………………」
「それを認めなさい。話はまず、そこから」
「………………はい」
「では、契約をしましょう。―― その前に」
「その前に?」
「貴方、素敵なお菓子を持ってないかしら?」
―― はい?」

 聞き間違いだろうか。
 何故そこで、ぼくがお菓子を持っていることを訊ねるのか。
 最早流されているという事実に関しては半ば諦観を抱きつつ、ぼくは訊き返す。

「えっと……関係あるんですか?」
「当然ね。人に頼み事をする時は、誠意が必要だと思わない?」
「誠意……というと」
「例えば、依頼料とか依頼料とか依頼料とか」
「……それしかないんですか?」
「私はお菓子以外欲しくないのよ」
「わ、我が儘過ぎる……」
「それで、持ってるの? 持ってないの? 貴方の家にあればいいのだけれど」

 言われ、記憶を辿ってみた。
 依頼料―― 彼女に対する報酬というのだから、コンビニで買ってきたような安いものは駄目だろう、と除外。
 ちらりとそのフランス人形みたいな姿を流し見て、現在冷蔵庫で眠っているものがあるのを思い出した。

「あ……そうだ、家の冷蔵庫に、ミルフィーユが入ってます」
「ミルフィーユ……ミルフイユね」
「ミルフイユ? ミルフィーユじゃないんですか?」
「それは日本だけでの通称よ。正式名称はmille-feuille。フランス語で千枚の葉、という意味。 ちなみにミルフィーユだと、千人の娘さんという意味になってしまうわね。そんなことも知らなかったの?」
「知ってるのが当然みたいな言い方しないでください……って、あれ? ミルで千、って意味なんですよね」
「ええ」
「じゃあ、フィーユさんの名前って」
「偽名よ」
「……ものすっごいさらっと最初に嘘吐きましたね」

 即答だった。しかも偽名だった。ぼくはちゃんと本名を教えたのに。
 食い下がってみるも、結局話してはくれなかった。語りたくないのかもしれない。忘れたという線もないわけではないけど。
 この調子だとぼくはいったいどれほどの嘘を教えられたのか、我ながら心配になる。本当、彼女と相対している時は油断できない。
 ―― と、そこでひとつのことに気付いた。

「……そういえば」
「何かしら」
「フィーユさんは随分日本語達者ですよね」
「ほとんど話せないわよ」
「……へ?」
「念話、という術があるの。それを応用すると、言葉に込められた意思をそのまま相手に伝えられるのよ。逆もまた然り」
「へぇ……便利なんですね」
「ええ。―― ひょっとして貴方、今のでミルフイユをミルフィーユだなんて勘違いしていた自分の無知を誤魔化せたつもりなのかしら?」
「誤魔化したつもりは微塵もないです。ぼくは三流の策略家か何かですか」
「え? 違うの?」
「素で返さないでください……」
「……それは本気として」
「本気なんだ……ああもうとにかく、ミルフィーユ……じゃなかった、ミルフイユを報酬として渡せばいいんですね?」
「そうね。どうせ貴方のことだから大したものじゃないでしょうけど、それで我慢してあげる」
「そりゃあ、デパートで買ってきたやつですけどね……」

 人は言葉でもざっくり相手に傷をつけられるのだと実感した。
 ともあれ堂々巡り。強引に流れをぶった切らないと終わりそうにない。

「で、どうやって渡せば?」
「明日、枕元にミルフイユが入った箱を置いて寝なさい」
「……え? それだけ?」
「そうよ」
「…………? わかりました」

 もっと面倒臭い、如何にも儀式チックな手順を想像していたんだけど。
 ともあれ、今日はもう起きた方が良さそうだった。紅茶の残りを飲み干し、別れを告げる。彼女の言葉は先日と変わらず、

「また、会いましょう」

 浮上する。




 そして翌日。
 せっせと言われた通り寝る前に冷蔵庫から取り出した箱を、枕元にそっと置いて眠ると、 お菓子の家を前にしたぼくの右手には微かな重量。さっきまで見ていたのと寸分違わぬ、白い箱だ。 一応信用しているとはいえ本当に持ってこれるとは思わず、起きた時周囲に箱がなければもうお手上げ、 一連の出来事が夢であるというまだ微かに残っていた線は見事に途切れるだろう。

「まあ、上出来ね」

 挨拶も早々に、いつものポジションに落ち着いたぼくが置いた箱を見て、彼女はそう言った。 せめて上出来と言うなら少しくらい表情を笑みの形に緩めてほしい。
 早速開けて食べるのかと思いきや、その箱を彼女は横に除け、先に契約を履行するとぼくに告げた。

「少し待ってなさい。儀式の準備をしてくるわ」
「はぁ……」
―― 言っておくけど、覗いたら死ぬより恐ろしい未来が待っていると思いなさい」

 魔女は契約で己を縛る。それは要するに、一定の手順を踏むことで力を増すということだ。
 この場合、身体を清め、相応しい服装に着替えることで儀式を確実にするのだと後に聞いた。
 しかしそれはあくまで「後に聞いた」のであり、その時のぼくは置いてかれた状態で、玄関から見て一番奥、 テーブルの向こうに位置する扉の奥に入っていった彼女が何をしているのか、そもそもその部屋は何なのか全く知らなかった。 なので手持ち無沙汰になったぼくは何となく近づき、扉に身を寄せ耳を澄ませてみる。

 ―― 衣擦れの音が聞こえた。

「…………!」

 さらにそれがしばらく続くと、がちゃ、という音、次に、水を流す音。……どうやら、お風呂に入ったらしかった。
 当然ながら、ぼくは女性が入浴している場面に立ち会ったことなんてただの一度もない。母親とのそれだって随分前だ。 だから、いくら彼女が身体的には小学生レベルだと言っても、扉向こうの光景を、唾を飲んで一瞬想像してしまう。 勿論そこにいやらしい気持ちは一切ないのだけど―― 一糸纏わぬ姿でシャワーを浴びる彼女、その肌に濡れた銀髪が絡み付き、艶かしさをプラス。 白磁の肌を伝う流水は足下へと落ち、排水溝に消えていく。未成熟な肢体は色気こそほとんどないものの、 稀代の芸術品めいて美しく、触れることさえ躊躇われる奇跡の体現――
 ―― と、そこまでイメージしたところで、ぼくは慌ててドアから離れた。これは確かに、覗いたら死ぬだけでは済まないだろう。 想像していたことさえ気付かれたら命が危うい。無駄に心臓に悪い思いをして、 ぼくは一人気まずい空気の中ひたすらに紅茶を啜るしかなかった。彼女が出てくるまでの、長い時間。

「貴方、何故そんなに顔色が悪いのかしら」
「いや……その……」
「まあいいわ。それじゃあ、始めるわよ」

 何故かにやにやと、口元だけでチェシャ猫のような嫌らしい笑みを浮かべてから (ぼくの思考が読まれてたのかもしれない。だとすれば確信犯だ)、彼女は表情を引き締めた。
 着替えた彼女の服装は、これでもかというくらいの黒。一般的な魔女のイメージである、あれだ。
 儀式には「それらしさ」というのも大事なのだと、これも後に聞いたことである。
 手にした箒で複雑な紋様、陣をぼく達の周囲に描き、精神集中するように瞳を閉じる。

――――――

 小さなその唇から、得体の知れない言葉が漏れる。聞いたことのない言語。詠唱。 すると、彼女の前に燐光が集まり、ゆっくり、何かの形を取り始めた。次第に輪郭をはっきりと、くっきりとさせていく。
 果たしてそれは、

「……電話だ」
「電話ね」
「しかも黒電話」
「黒電話ね」
「……チョイスが古過ぎると思う」
「ちなみに、もう繋がってるわよ。受話器を取りなさい」
「え?」

 言われた通りに。取ってみると、何故か、母親の声が聞こえた。

「本当に繋がってる―― !」
『はぁ? あんた何言ってるの。自分で掛けてきたんでしょうが』
「あ、うん、そ、そうだったね。ごめん」

 とりあえず謝ってしまうぼく。情けないわね、と呟く彼女は無視。

「その……元気にやってる?」
『まあね。今父さんもいるけど、代わる?』
「……お願い」
『わかった。父さーん!』
―― おう、代わったぞ。元気にしてるかー?』

 久しぶりに聞いた、二人の声。
 ……何も変わってない。そのことに安堵を得たのは、やっぱり、家族だからだろうか。

「それはこっちの台詞。……仕事、大変そう?」
『そりゃあなー。でも楽しいし、母さんと一緒だし、大丈夫だ』
「………………うん」
『で、何だ。まあ……お前の声が聞けて、父さんも母さんも、嬉しいぞ』
「そっか。ぼくも、かな」
『おう。じゃあ電話代も掛かるし、母さんに代わるぞ』
『はい母さんよ。名残惜しいけど国際電話じゃ長電話は禁物だからね』
「……次、いつ帰ってくるかな」

 自然と。そんな言葉が、口をついて出た。

『そうね……なるべく早く、としか言えないけど、いい?』
「うん。またね」
『頑張りなさいよ』

 ぷつっ、と切れる電子音。もう、声は届かない。
 役目を果たして満足したかのように、黒電話はすうっと消えた。

「……ぼく、携帯持ってるんだけど、今まで一度も両親に掛けたこと、なかったんだ」
「本当は、掛けたかった?」
「うん。でも……忙しいだろうなとか、迷惑掛けたくないとか、思って。ボタン、押せなかった」
「覚えておきなさい。離れても、人の心は繋がっているものよ」
「………………」
「それに――
「それに?」
―― 契約の一環。私が貴方の、家族になってあげる」
「…………は?」
「そうね……年齢的には姉だけど、貴方は妹の方が好みかしら」
「好みじゃないから止めてください!」
「よろしくね、お兄ちゃんっ」

 背筋を薄ら寒いものが走った。恍惚からではない―― と信じたい。
 その美貌で、そんな可愛らしい声で言われると、何故だか、酷く自分がいけない人間のように思えてくる。 例え、中身がアレだとわかっていてもだ。
 彼女は全てを見透かしたかのように、くすくすと笑った。
 ……正直、ほんのちょっとだけ騙されそうだった。ほんのちょっとだけ。

「さて。最後よ、契約に基づき、貴方の両親に対する愛情を、少しだけ頂くわ」
「い、痛くないですよね?」
「そんな心配しないで。少し、その感情が薄くなるだけだから」
「え、……っ!」

 おもむろに。
 彼女の細腕が、ぼくの胸に沈み込んだ。ずぶずぶと、何かを探るように。
 数秒で、引き抜かれる。同時に何か―― 形を持たない想いが、僅かに薄らぐ感覚。
 白いその指は、珠を掴んでいた。煌めく―― 輝く、虹の雫のような、ビー玉サイズの、けっしょう
 それを躊躇いなく、彼女は口に含む。唇で触れ、舌で絡め、転がし、味わう。じっくりと。楽しむ。 ぼくの感情の欠片を―― 歓喜と、恍惚の表情を以って、心ゆくまで堪能した。
 はぁ……っ、と艶やかな息を漏らし、違和感を拭き取るように胸を擦っていたぼくに向かって、囁く。

「とても―― おいしかったわ」

 その時見た彼女の微笑みを、ぼくはきっと、一生忘れないだろう。
 何故なら――それで完全、完璧、どうしようもなく、ぼくは彼女に参ってしまったのだから。




「……何かしら? 私に見蕩れてた?」
「いや全くそんなことは。―― ミルフイユって、そうやって食べるんだなぁ、って」
「別に、どれが正しいというわけではないわ。私はこの方法に慣れてるだけ。 貴方は今までと同じように、上からフォークを刺して汚らしく潰しながら食べなさい」
「そう言われると一気に食欲が萎える……」
「ああ、言い忘れてたわ」
「え?」
「ミルフイユは本来、あまり長持ちするお菓子ではないの。おいしく食べられるのは、作られてから精々三時間が限度よ」
「………………えっと、つまり」
「貴方はある意味期限切れのお菓子を私に押し付けたということね」
「ごめんなさい」
「まあ、鮮度は戻しておいたけど」
「……謝り損だ」

 後日の話。
 ぼくは彼女と、持ってきたお菓子を二人で食べた。紅茶はアッサム。砂糖もミルクも入れず、ストレートで一緒に。
 ミルフイユは名前の通り、千枚の葉を重ねたような形で、綺麗に取るのが実に難しい。というか縦じゃ無理。 どうやっても、ぐしゃりと不恰好に潰れてしまう。
 ちなみに彼女は、横に倒して切り取っていた。

「でも……ひとつ疑問なんですが」
「今度は何かしら。つまらないことを言ったら上から金だらいが降ってくるわよ」

 本当に降ってきそうで嫌だなぁ……。

「ほら早く話しなさい」
「……えっと、どうしてぼくはここに来れたんでしょうか」
「まあ、恐らくでいいなら、貴方と私の波長が合ったんだと思うわ」
「波長?」
「俗に言う、運命の赤い糸とか、そういうもの。意思に関係なく、誰かと誰かを繋ぐ可能性の絆。 ―― つまり、ある意味貴方がここに来たのは、必然なのでしょうね」
「何でわざわざ高校生になってからなんですか」
「そこまでは知らないわ。ある程度精神的に成熟したからでなくて?」
「随分投げっぱなしですね……」
「あら、それは違うわ。魔女は総じて現実的なの。過去をあまり悔やまない」

 そう言って、彼女は目を閉じ、口元を少しだけ緩め。

―― 貴方がお菓子を持ってきてくれたんだから、それで十分なのよ」

 浮かべた小さな笑みは、純粋な―― 嬉しそうな、子供のものだった。
 可愛いだなんて、絶対口に出しては言わないけれど。その在り方を、ぼくは、本当に―― 素敵だと、思った。

 深い深い森の中、お菓子の家で開かれる、不思議な二人きりのティータイム。
 とりあえず―― ぼくが望む限りは何度でも、会えるらしい。

 ちょっと人には言えそうにない、夢のような、本当の話だ。











ロリこん2に出したものの、先行版というか容量オーバーした方です。前半が割と違います。
これを改訂したのが11/25位でした。ナイトガード賞を(また)いただいてしまい恐悦至極。
色々指摘批評もされましたが、それを含めて勉強になったと思います。
機会があればいずれ短編連作として書き直しをしたいところ。