まほうつかいのねがいごと 1/ その日はほんの気紛れで、今まであまり通ったことのない道を歩いていた。 家に帰るまでの時間を少し長くするためだとか、そういう意図は全くこれっぽっちもない。本当に、ただ何となく。 歩幅を保ち、前だけを見て進む。視界には遠い夕焼けとくすんだ灰色の町並み。相変わらず、酷く味気ない。 今日はもうバイトもないから、急ぐ必要はなかった。己の望む速さでいられるのは、どこか有り難いと思う。 彼方でカラスが一声鳴いた。 空を見上げ、羽ばたき流れ消えていく黒のシルエットをしばし眺めて、何事もなかったかのようにまた歩き始めた。 大通りから細い道に入る。さっきまでは僅かながらあった喧騒も、人影のないこの場所には届いてこない。 見慣れた世界をぼんやりと素通りしていると、ふと目に留まるものがあった。 それは小さな公園で、錆びたブランコと滑り台、小学校低学年くらいの子供には高すぎる鉄棒のみが鎮座している。 申し訳程度の草葉に囲まれた、出来の悪い箱庭のようなところ。 端にはベンチが置いてあり、詰めて四人ほどの子供が座っている。 彼らは皆親でも待っているのか、もうすぐ溶けてなくなってしまう夕焼け空を呆けたように見ていた。 自分の知らない光景。待つ人がいるというのは、 「羨ましいな…………」 本心から、その言葉を口にした。 誰にも聞こえないくらいの囁き声は、大気に放たれ薄れていく。 帰ろう、と視線を帰路へ戻そうとして、足を止めた。 公園の中心に、女性が立っている。 まず目についたのは腰を過ぎて尻の辺りまで伸びる長髪。 黒ではない。光に透けるような金の色をしていて、微かに吹く風に乗ってさらさらと宙を舞っている。 それは世界に相容れない異質さと幻想的な雰囲気を同時に有しているようで、思わず素で見惚れてしまった。 瞳の色は限りなく黒に近い灰色。真っ直ぐな眼差しはどこまでも遠くを見渡せそうな強さを秘めていた。 細い身体はぱっと見でもバランスよく整っているとわかる。出るところは出ていて、女性らしさは十分すぎるほどだ。 無地の白シャツにハーフパンツ。はっきり言ってしまえば"らしくない"服装が、不思議とその浮世離れした美しさを際立たせている。 しかし、何よりも印象的だったのは、その表情だった。 ベンチに座ったままの子供達に向けた、微笑み。慈しむような、愛おしむような、そして、幸せそうな。 一瞬、子供のうち誰か一人の母なのかと思った。だが、外見があまりにも似ていない。 こちらの推測を裏付けるかのように、幼い少年少女は友達に向けるような無邪気さで彼女に何かを言っている。 公園の外と内。その微妙な距離が、ベンチからの声をはっきりと教えてくれない。 ただ、身振り手振りや口の動きから、彼らは前にも彼女と会っているらしい、ということはわかった。 傍目から見れば先生と生徒などのようにしか映らないその組み合わせは、微笑ましい雰囲気を作っている。 何となく。その輪に入ってみるのも面白い、と思う自分がいた。 けれどそれは興味でしかなく、意思は身体を進ませない。 子供と面を合わせて会話ができるほど、自分に社交性がないのは自覚している。 きっと彼らの前に立っても、引き攣った笑いでしかいられないだろう。 自嘲を含む苦笑。昔から自分は変わらないな、と。 今度こそ帰ろうかと歩を進めかけ、また止まった。 背筋をぴんと伸ばした姿勢の女性は、突然、何の前触れもなく、手元に花を四本出した。 鮮やかな手並み。どこから取り出したのか、素人目とはいえ全くわからなかった。 造花ではない。艶のある青に近い紫色の花弁と茎は自然の花そのものだ。少し遠くて判別し難いが、確か、矢車菊。 それを子供達に一本ずつ配り、笑みを見せた。 何かを口ずさむ。すると、彼女の袖や背中側から白い鳩が大量に湧き出た。 羽ばたく音が空へ向かう。辺りに散る羽根が地面に着く前に指鳴りが聞こえ、 ――― 風が渦を巻く。勢いよく舞い上がった白色は、雪となって地に落ちる。 その光景を、ただ、馬鹿みたいに呆けて眺めている自分がいた。 ここからでも聞こえる子供達の喜ぶ声。 はしゃぐ姿を、彼女は何より欲しかったのかもしれない。証拠に、今までで一番綺麗な笑顔をした。 やがて、幼い四人は駆けて帰っていく。こちらの脇を抜けて。 また静寂が世界の常となり、この場には自分と彼女だけが残された。 ……陽はもう沈んでいる。電灯の薄い光は、存在を強調するスポットライトに似ているな、なんて余計な思考が頭をよぎった。 視線が合う。他に誰もいない、二人だけのこの場所で、そうすることは自然な行為だった。 ひんやりとした風が頬を撫で始め、その頃には公園に人影はなくなっていた。 いつの間にか。気づけば、一人になっている。 空を見上げた。星がいくつも瞬き、遥かに雲が流れていて、僅かに欠けた月は穏やかに浮かんでいる。 ふと溜め息が漏れた。何をしているんだろうか、と。 家までは遠くない。 二度止めた足を、歩くために再び動かした。 2/ アパートでの一人暮らしをしているフリーター。 自分の生活状況を表すのにこれ以上わかりやすい言葉はないだろう。 既に大学は卒業した。しかし、仕事が見つからない以前に、定職に就きたいと思えなかった。 探せば何とかなるのだろうが、その努力をする気になれない。 適当なバイトで日々の資金を賄っている。親は父母ともしっかり生きているが、 まともな職を持たない馬鹿がいるのは迷惑だろうと、家を出た。 感謝はしている。だからこそ、勝手な行動で迷惑を掛けたくなかった。 「……そういえば、半年の間電話の一本も掛けなかったな」 忘れていた、なんて言い訳は今更しない。 億劫だっただけだ。時間がなかったわけでもないのだから。 自戒の意味を込めて、頬を叩く。ぱちんと清々しい音が響いた。目も覚める。 今日の夜、大した話題はないが電話くらいはしておこう、と心に決めた。 「行ってきます」 声を聞く相手はいない。 扉を閉め、鍵をかける。ちょっと強く力を入れれば捻じ切れるんじゃないかと思わせるほど脆そうなノブを握り、施錠の確認をした。 毎朝行う、儀式のようなもの。部屋の中に盗まれて困るような物体なんてないに等しい。 もう一度外出の意を持つ言葉を小さく口にし、いつも通り歩き出そうとして、 「よいしょっと、……ん?」 隣の部屋のドアが開いた。そこから、ゴミ袋を抱えて人影が現れる。 腰を越える長さの金髪。灰色の瞳。計算された彫像にも似た完璧に近い身体と、それを包むラフな服装。 見紛うはずもない。昨日公園で見かけた女性だった。 「…………あ、昨日、公園の前にいたよね?」 「はぁ、そうですけど」 「やっぱり。なんか印象深くて、覚えてたんだ。いや、一日経っただけで忘れてたら問題だけど」 苦い笑い声が聞こえる。 発音はあまりにも流暢で、少なくとも外国語圏で育って後から日本語を学んだようには思えないレベル。 両手に良く詰まったゴミ袋を持つ姿は、典型的な金髪美人の淑やかなイメージを真っ向から否定していた。 こちらの視線に気づき、彼女は自分の様子を見て、またあはは、と苦笑。 一度右手の袋を地面に落としてから、背中側に手を回し、 「お近づきの印に、なんてね」 昨日のと全く同じ矢車菊を渡された。 拒否する理由はない。素直に受け取る。 触れた茎は僅かに水気を含んでおり、さっき取ってきたかのような新鮮さを保っていた。 この辺りに矢車菊は咲いていたかな、と思考し、答えが出なかったのでとりあえずやめた。 ――― だとすれば、この腕なら相当に名の知れた人なのだろうか。それとも隠れた名手か。 どちらにしろ凄いことだと思い、心の中で自嘲した。 気が遠くなるような努力の末に得たであろうそれは、自分には似合わないもののように感じて仕方なかったから。 時間にすれば数分の、他愛ない会話を重ね。 もう急がなくてはいけない旨を伝えると、引き留めてごめんね、なんて返事をされた。 「そんなことはないです」 「ならよかった」 花のような笑顔を向けられる。 何となくほっとして、それじゃあ、と走り出そうと足を上げ、 「あ、名前、聞いていい?」 「…………明です。明るいって書いてあきら。丹羽明。友人はアキって言いますけど」 「なるほど、アキくんね。私はレア。セントーレア、の略なんだけど」 「わかりました。レアさん、ですね」 「呼び捨てでもいいのに」 「遠慮しておきます」 面と向かって話すのは初めてだが、彼女――― レアさんは全く気にする様子もなく。 初対面でないような錯覚を感じ、凄いな、と本気で思った。 自分には真似のできないことだな、とも。 名の交わし合いを最後に、言葉は途切れ。 走った。今、行くべきところへ行くために。 振り向くと、ゴミ袋を持ちながら、笑っているのが見えた。 3/ コンビニのバイトを終えた帰り道。 賞味期限切れのもう売り物にならなくなった弁当を手に家路を行く。 別に疲れはしない。接客業をして擦り減るのは、体力よりも精神力だ。 慣れればあまり苦にはならない労働。運が良ければ一食分は貰えるのだから、決して悪くはない。 大通りから小道へと。喧騒を避けるように、人気のないルートを選んでいく。 黄昏時の空はもうすぐ夜だというのに酷く明るく、沈む太陽の側は眩しさで直視できない。 並ぶ建物を見て、中途半端な都会だな、と今更なことを思う。 光を遮るほどの高層建築物は少なく、どちらかというと一軒家の方が多い区域。 もっと賑わっている所へ行けば、日照権がどうとかそんな話もあるのだろうが、 この辺りには無縁だ。大規模な建設計画もなかったはず。 だから陽光の届かない場所は僅かで、草花が光合成に困ることもない。 ……人がいなければ人以外のものがより強く栄える。世界は限られているのだから、それは当然の摂理。 人間は地球にとっての寄生虫なのだと、いつか言っていた知り合いがいた。 もともとこの辺りだって、一面緑色の空気が澄んだ綺麗なところだったのだろう。 それがいつからか、侵食され、蹂躙され、破壊され。今では人間にとって都合の良い空間へと作り変えられた。 かつて大地を闊歩していた生物も、根を張り枝を広げていた植物も、端へと追いやられている。 飽きるまで喰い尽くし、全てが手遅れになるまで、もう戻れなくなるまで享楽の限りを尽くせば、待っているのは破滅だ。 週末の時もなお、人間は人間で在り続けるのか。そうかもしれない。 ……そんなことを考えると、空想の未来に際限はない。馬鹿馬鹿しい想像に終わりはない。 今を生きるのですら精一杯な自分に、人類の行き先を心配するほどの余裕はないというのに。 精神は暇を持て余しているのだろうか、飢えているのだろうか、その辺りのロジックはわからないが。 空想はそのまま可能性になり、退屈を薄れさせてくれる。 複雑だな、と。人間は複雑なものだな、という言葉で思考を完結させた。 昨日見た公園に差し掛かる。 いればいい、とは思わなかった。 いるのだろう。そんなおぼろげな推測。 それに間違いはなく、確かに彼女――― レアさんはそこにいた。 今日は一人。子供達が座っていたあの小さなベンチに腰掛けて、落ちていく陽を眺めていた。 遠い眼差し。ぎりぎり建物に遮られ見ることの叶わない地平線、その向こうを視線が射抜いている。 浮かぶ雲が赤とも紫ともつかない色に染められ、一種幻想的とも形容できる光景を前にして、 「…………」 ――― そこには、届かないものを見るような、諦念と微かな後悔を含む表情があった。 外見に不釣合いなほどの、老成した者が持つ雰囲気にも似ている。 まるで、昨日の笑顔が嘘みたいだと。そういう思いを抱きたくなるくらいに、違っていた。 本質。そう、本質だ。誰もが心の奥底に深い、暗い部分を持っているものだが、彼女にとってのそれが、今の表情にあるのだろう。 無論自分にもある。だから、他人にもあることを否定してはいけない。 ……嫌な話。痛々しい考えだな、と思う。無意識のうちに、右手が左の二の腕をぎりぎりと握っていた。 力を緩めることはせずに、さらに強め、指が肌に食い込むのにも構わずそのままにしておく。 鈍い痛みがある。それは手を離してもしばらく残るものだ。 自らが与えた苦痛を元に、未だ鮮明な記憶を引っ張り出した。もう、思い出としか扱えないほど古い、記憶を。 夕焼けが赤く染める世界。むせ返るような匂いも、アスファルトを汚す水も、何もかも、空に似て赤かった。 小さな身体を抱き上げた腕。地に覇気なく付いた膝。この自分の手足も、かつて、あの瞬間は赤かった。 幼いが故に無垢で、同時に残酷だった頃。おそらく人生で初めて、後悔という感情を知った頃。 時間は戻らない。失われたものも、永遠に戻らない。 魔法使いがいればいいと祈ったのは、いつまでだったか。 この願いを叶えてくれる存在。それが世界のどこかにいて、いつか自分のところへ来てくれて…… ……現実は甘くないと気づいたのは早かった。ただ、受け入れて生きていくしかないと。 過去は変わらない。過ぎてしまったことが、変わるはずもない。 苦笑。後ろ向きな思考が多いな、と己を少し叱咤した。 宵闇の中、まだベンチに座ったままの彼女に声を掛けることもなく、公園を背にする。 もう後ろ髪を引く気持ちは、残っていなかった。 4/ いつの間にか頻繁に付き合うようになった。 何しろ家は隣。最近越してきたらしい彼女は、ときどき余った料理をお裾分けに来てくれたりする。 さすがに醤油を借りにくる、なんて古典的なことはないが、日に日に不思議と関わりが強くなってきていた。 「アキくん、両親とは今どうしてるの?」 一週間に一度は夕食を一緒にするようになって、そんな質問をされることも多い。 興味本位などの、言ってしまえば下種な感情からではなく、訊ねる時の表情はいつも心配を含んでいる。 正直、くすぐったい。他人に心配されるのは嬉しいと共に、いいのだろうか、というある種の後ろめたさも感じるものだ。 だから反応に困る場合もあるのだけれど、基本的にはしっかり答えている。口外したくない過去は多くないのだから。 「大学卒業の際に実家は出てきました。でも、そんな仲が悪いわけでもないのでたまに電話くらいは掛けてます」 「そっか。……親御さんとは仲良くしないと駄目だよ。代わりのいない、大事な存在なんだからね」 「善処します。……レアさんは? もし良ければ教えてくれませんか?」 考えてみれば、彼女の過去について聞くのは初めてだ。 いつも訊ねられる側はこちらであり、それで会話は終えてしまっていた。 今思えば、それとなく避けられていたのかもしれない。邪推でしかないのだが。 「うーん…………説明してもいいんだけど、ややこしいんだよなぁ」 案の定と言うべきか言わざるべきか、遠回しに拒否された。 「あ、あまり言いたくないのならいいです。無理に聞き出したいわけではありませんから」 「え? あー、違う違う。そういうんじゃなくて、何というか……うん、今度説明する。ね?」 「はぁ…………」 喋るのが嫌だというわけではなく、口にしにくいことらしい。 だがその代わり、次の機会に話してくれるという約束を取り付けたのだから、結果オーライなのだろう。 結局後は他愛のない話題で落ち着き、別れることとなった。 またね、と微笑んでいた彼女の姿が妙に頭に残った。 5/ 「私、魔法使いなんだ」 第一声で全くこれっぽっちも現実味のない言葉を聞いた。 嘘だとこちらが返す前に、不意打ちに近い形で彼女は両手に持ちきれないほどの矢車菊を出した。 種はない。どう考えても袖や服の中には入らない質量。それは溢れるように床に落ち、 辺りを花の匂いと青に近い紫色でいっぱいにする。 膝まで埋まった頃、指鳴りと共に全ては幻の如く消え去った。 一瞬夢や幻覚の類かと疑い、目を擦り頭を振って改めて世界を凝視すると、彼女の手には花束が。 はい、と差し出され、なし崩し的に受け取ってツッコむタイミングを失ったことに気づいた。 「まぁ、今は手品師みたいなことしかできないんだけどね」 公園で初めて子供達といる姿を見た時、自分は確かに が、それは間違いで、実際は ……笑えない冗談だ。証拠がなければ気が狂ったと本気で思う。 しかし、現実は此処にある。変わらず。ありのままで。馬鹿げていても、本当であるのだから仕方ない。 「……どうしたの? あ、やっぱり信じられない?」 「いえ。ただ、現実って薄っぺらいものだな、と」 少しの逃避と溜め息、とりあえずそれで落ち着いた。 人生で初めてある意味完璧におかしい人と巡り会ったのがショックだったのかもしれない。 これでも安穏としたまともな世界を生きていたのだ。何となく、今まであったものが壊された気分。 ……そんな自分の思考を顧みて、苦笑した。何を考えているんだろう、と。 疑うのは簡単だ。認めるのは難しい。だが難しいからといって諦めるのは未熟故の行動ではないか。 「……しかし、その魔法使いがどうしてここに?」 「いや、ここ家賃安いから」 滅茶苦茶現実問題だった。 「え、ほら、魔法使いってもっと色々できるもんじゃないんですか?」 「ううん。私のは伝承とか創作のとはちょっと違うよ。何でもできるにはできるけど条件付きだし」 「条件?」 「そう。だいたい、自分の願い事は叶えられない。そんな都合良い能力じゃないの」 「難儀ですね」 「確かに」 世の中、なかなか上手くできていないものである。 現実に苦笑しながらもしばらく話を聞き、彼女に関する情報を大分知った。 定住はせず世界中を転々としていること。家族はもう誰も生きていないこと。今は工事現場などでバイトをしていること。 彼女がヘルメットを被って力仕事をしている様子を想像すると、少し滑稽で面白かった。 思わず噴き出してしまい怒られたが、それでも構わず笑い続けた。 ずっと昔、願っていた存在がここにいるのに。 もう、自分をどうにかしてほしいとは、考えなくなってしまっていた。 6/ バイトを終えて外に出ると、救急車のサイレンの音を耳にした。 割と近い。しかし、野次馬根性なんてものは持っていないので、気にすることなくいつものように帰り道を歩く。 大通りに辿り着いたところで薄い人ごみを見つけた。交差点の辺り。車の行き交いが多い場所。 サイレンはそこで鳴っていた。赤い光が灯っている。 何とはなしに人の隙間に入り様子を見ようとした。 黄昏空の下、止まったひとつの軽自動車とそれより白い救急車があり、担架に乗せられて運ばれていく小さな身体が視界を過ぎ、 フラッシュバック。 赤い記憶が脳裏に蘇った。 膝が落ちる。全身から力が抜け、目に映る世界がぶれる。 駄目だ、と思った瞬間急制動が掛かり、寸でのところで姿勢が保てた。 急いで。急いで記憶に蓋をする。気持ちとは逆にゆっくりと、亀の歩みのような速度で。 微かに荒れた息が、揺らぐ景色が、徐々に落ち着き正常へと戻っていった。 周りに妙な目で見られるが構わない。構う余裕はない。 あからさまでないくらいの早足でその場を去った。 交通事故のあった現場は、そんな自分を全く気にすることなく、ただ事実のみを残していた。 公園までようやく来た。周辺に人がいないことを確認し、ベンチに腰を下ろす。 先日彼女が夕陽を眺めていたこの席に今は自分がいることを、不思議で、滑稽だと思いながら。 夜が近い。空は薄闇の紫色を纏い、既に沈んでしまった太陽が僅かにまだ光を届かせている。 何故かまだ家に帰る気にはなれなかった。 思い出してしまったからだろう。いつまで経っても、あの時の記憶は痛い。 「まだ、振り切れないな……」 当たり前だ。忘れられるとも、忘れようとも思ったことはないし、笑って語れるような思い出にもならない。 幼い頃のこととはいえ、間違いは、決してなくなるものではない。償いも、できない。 「このままずっと生きていく、か」 言って、自分でも嫌な表情になっていくのがわかる。 全部何もかもなかったことにできるのなら、どんなにいいことかと、そんな考えが頭に浮かぶから。 最悪だ、と心の中で叱咤した。甘えようとする自分はどんなに成長しても消えはしない。 「……帰ろう」 「あ、待って」 はっと顔を上げる。 いつの間にか、すぐ目の前に魔法使いが立っていた。 「隣いい?」と訊ねられ、曖昧な返事をしたら遠慮なしにどさっと座られた。 そんな彼女の仕草に少し笑みがこぼれる。 ――― しばらく無言が続いた。しかし、何故か嫌な雰囲気ではない。 「……ねぇ、話してくれない?」 「何をですか?」 「君のこと。アキくんのこと。アキくんの、願い」 「願い……?」 また、蓋の隙間から記憶が漏れそうになる。 なるべく慌てずそれを抑え、平静を装おうとした。 自分は大丈夫だと。どこにも問題はないのだと。 しかし、願い、のひとことに心が反応する。最早過去として片づけられたあの出来事。 「もう一度、子供の頃に戻って――― 」 選び直したい。間違った、残酷な選択肢ではなく。十数年を経た今になっても悔やみ続ける現実ではなく。 「――― この手で殺した妹を、助けたい」 interlude-1/ けたたましいブレーキ音。 その瞬間、時間は酷くゆっくりになっていた。 子供の身体に対してあまりにも大きな車体が正面から突っ込んでくる。 冗談にもならない質量が、ただ真っ直ぐ、こちらを轢き殺すために。速度は緩まず、間に合わない。 繋いだ手は震えていなかった。隣にいる妹は一歩遅れて反応していた。 自分の手はどうしようもなく強張っていた。けれど迷わず、動いていた。 ぱっと離す。ぬくもりが消える。戸惑いを含む妹の表情を見ることなく、小さな両腕で、 突き飛ばした。その反動で、自分は迫る車体の幅より外に出る。 鈍い音が聞こえ、冗談のように宙を飛ぶ見慣れた姿を眺めながら、ただ呆然とした。 どすん。少し遠くに妹が転がっている。真っ赤な液体を流して、決して穏やかではない顔で目を閉じて。 誰かの悲鳴が響く。関係ない。微動だにしない妹のところまで歩き寄り、抱き上げて、手指が血で染まった。 怖かった。父や母に怒られた時よりも、雷の音を耳にした時よりも、何よりも何よりも。 むせ返るような匂い。地面に広がる赤色。静かに、置くように妹の身体をアスファルトに横たえ、 逃げた。懸命に、必死に、その世界から逃げた。 車から降りた青ざめた顔の運転手も、近づいてくるサイレンの音も、集まる群衆も自分を全てが責めているように思えて。 走って、転んで、叫んで、走って、行く当てもないのに。 結局、血まみれのまま、家に帰ってきて泣いた。眠ってしまうまで、延々と、泣き続けた。 妹とは仲が良かった。 歳はいっこした。出かける度に、ちょこちょこと後ろに付いてくる様子がおかしくて、可愛かった。 いじめられた時は味方したし、泣いている時は一緒にいた。同じ布団で寝ることも多かった。 ずっと、これからも、そうしていられるんだと子供心に信じていた。 夕焼けの色に染まった世界は、もう二度と忘れられない記憶の形。 7/ 「……それは無理。できない。時間は戻しちゃいけないの。現実は、繰り返せない」 ある意味、死刑宣告にも似た言葉。 少なからずショックを受けている自分がいた。わかっていたのに。駄目だと、知ってはいたのに。 まだ脳裏から離れない、あの瞬間。幼い身体を突き飛ばした時の感触が残っている。 死にたくなかった。――― それは言い訳。 二人とも助かる方法はなかったのか。あったのかもしれない。犠牲が必要だったのか。どうして、自分は生きているのか。 極限状況でのとっさの判断。責任の持てない子供は、その状況では殺人を問われない。 事故の後、父から聞いた声が今でも鮮明に思い出せる。 ――― 仕方なかった。お前は悪くない。 ただ、悪くないんだと。気に病むことはないのだと。何度も、何度も口にし続けた。 まるで自身に言い聞かせるかのように。それが逆に、こちらを責めている印象を植え付けた。 横で母は泣いていた。なんであの子が、と何かを恨みながら。怒りをぶつけられない何かを。 ――― 仕方なかった。お前は悪くない。悪くないんだ。 どこがどう"仕方なかった"のか。 もっと違う選択肢はあったのに。妹が助かる、両親が苦しまない、そんな現実があるはずなのに。 「……アキくん。妹さんは生き返らないけど、それを……なかったことには、できるよ」 「…………」 「君が、君の両親が、妹さんを知っている人達全てが、その存在を忘れればいい。そうすれば、誰も苦しまない」 「……いえ、それじゃあ、駄目です」 忘れるのは、あまりにも残酷すぎる。 単なる逃避にしかならない。ただ一人、妹だけが、報われなくなる。 「うん。そう言ってくれると思ってた」 「え?」 こちらの答えを聞いて、魔法使いはにっこりと笑った。 その意思を待ち望んでいたのだと言うように。 「辛いなら、謝ってみて。ごめんなさいって、伝えてみて。きっと、許してくれるから」 「それはどういう――― 」 「妹さん、待ってるよ」 不意に、意識が途切れた。 interlude-2/ 目が覚めると自分の身体は子供のもので、目の前に妹が立っていた。 驚き、戸惑いながら手を伸ばすと、向こうからぎゅっと握られる。微かに伝わるぬくもり。 どうして、とは口にしなかった。そのひとことは言うべき台詞ではない。 「…………ごめんな」 意外にすんなりと、舌は動いてくれた。だから続ける。 「いくら謝っても足りないと思うけど、でも、ごめん。ごめんな。……それくらいしか、もう、できないから」 「…………ううん、いいの」 記憶の中でしか聞けなくなった妹の声。 変わってない。少し舌っ足らずの、どこか甘い音が耳に心地良い。 懐かしさでふと涙がこぼれた。それを拭うこともせず、 「もうひとつ。――― ありがとう」 「えへへ、どういたしまして。……おにいちゃん、わたし、気にしてないから。だから、ね」 抱きしめる。血の匂いはしない。 絶対に忘れないように、強く、優しく、このひとときだけはなくならないように、小さな両腕で包み込んだ。 二人して泣いた。ずっと、ずっと、笑顔のまま、泣き続けた。 そして、別れを告げる。 さよならのひとことを最後に、景色は薄れ――― 8/ 「お疲れ様」 起きた途端に声を聞く。 時間はさほど経っていない。まだ彼女は隣にいて、こちらの目を真っ直ぐ見ていた。 「ね、言った通りでしょ?」 「はい。……何だか、とてもすっきりしました」 すっきりした、なんて言葉では片づけられないのだが、他にいい例えが見つからないのだからしょうがない。 救われた。あのまま生きていれば絶対に叶わなかったことを、実現できたのだから。 謝りたかったのかもしれない。それしかできないのは知っていたけれど、ただ、ごめん、と。 許してもらえるだなんて思っていなかった。それでもいいと思っていた。 ……本当、馬鹿だな、と少し自嘲する。もっと信じていればよかったのに。 「……ありがとうございました、レアさん。あなたのおかげです」 「ううん、違うよ。決断したのも、望んだのも、この結果を求めたのも君。わたしは、きっかけを作っただけ」 「いえ、それでもです。願いを、叶えてくれましたから」 彼女は気づかせてくれたのだ。自分が何より欲していたものを。 それにはどれほど感謝しても足りない。ずっと昔、いてほしいと祈っていた存在は、今ここにいる。 「だから、ありがとうございました」 「――― うん。わかった、どうしたしまして。感謝に遠慮しちゃ悪いよね。……さ、帰ろっか」 「はい。今日は我が家でごちそうしますよ」 「やったっ! ……実はちょっと残りの生活費が少なくて困ってたんだ」 「あはは」 自分にできることは。 ありがとうの言葉と、ささやかな食事の振る舞いくらい。 それで十分だと言ってくれる彼女が、とても、とても有り難かった。 9/ 一ヵ月後。 越すことになった、と隣人に告げられた。 引き止めようとは思わない。ただ、おそらく今生の別れとなることが寂しかった。 彼女の荷物は大きめのトランクとポシェットがひとつだけ。随分少なく見えるが、 実際家の中にはほとんど物がなかったので、それだけで何とかなるのだろう。 「それじゃ、これでさよなら……と言いたいところだけど、ひとつ、いい?」 「何ですか?」 「はい、これ。……今度妹さんの墓参りに行くことがあったら、飾っておいてくれないかな?」 手渡されたのは一輪の矢車菊。 茎や花弁がまだ瑞々しい、綺麗な花。 「わかりました。あ、良ければ聞いていいですか?」 「ん、なに?」 「どうして、矢車菊なんですか? 他の花だっていいと思うんですが」 ふとした疑問をぶつける。 こちらのその言葉を聞いた瞬間、彼女は子供のような笑みを浮かべて、 「私の名前、セントーレア。これって、矢車菊の別名なんだ」 最初で最後の種明かしをした。 遠くなっていく背中を眺めて、それから手に持つものを空に掲げる。 花の名を冠した魔法使い。彼女のことは、二度と忘れないだろうと苦笑しながら。 「…………墓参りに、行こうか」 約束をしたのだ。この花を飾ると。 善は急げ。これから行ってはいけない理由なんて、どこにもない。 信じてもらっているのだから、こんな嬉しいことはない。 fin.
interlude-0/ 自分が過去、暮らしていたその場所の名前を、彼女は知らない。 ただ、季節が巡ると辺り一面に矢車菊が咲くことだけは確かだった。 両親は結婚してから此処に越したという。 元は都会の出らしいが、あまり詳しいことは教えてくれなかった。 別に、物凄く知りたいわけでもない。だから、しつこく訊ねるようなこともしなかった。 ずっと、家族三人幸せに過ごしていけたのだから。 父も母も他界して、一人になった頃。 所用で町に行き、そこで少女を見つけた。 親がもういないと泣きじゃくる姿に耐えられず、家に連れていくことにした。 少女は食卓に出したパンとスープを綺麗に平らげ、行く当てがないという旨を彼女に告げる。 断る理由もなく、寂しさを拭うためにも、彼女は少女と一緒に暮らすようになった。 幼くても、少女は家事を覚え、懸命に頑張ってくれた。 いつしか彼女は娘に向けるような愛情を覚え、親子にも似た関係になる。 名を与え、時には叱り、時には可愛がり、そうして一人でいた頃の寂しさを忘れていった。 初めは無表情に近かった少女も、段々と笑顔を多く見せてくれる。 それが嬉しく、そして、あまりにも幸せだった。 少女が家族になってから二年の歳月が経ち。 冬の季節、少女は病を患った。 医者は治すことができないと言い、彼女は途方に暮れる。 何もできない、それが何より悔しかった。 ベッドの上で、少女は花が見たいと言った。 春の頃に咲く、矢車菊で溢れる景色を見たいと言った。 今は冬。ひとつの季節を越さなければ、外は花畑にならない。 彼女は無力だった。ただ、願うしかなかった。叶わないことを、願うしかなかった。 この子に、私の大切な娘に、命短い少女に、見せてあげたい。ささやかな願いを叶えてあげたい。 純粋で、真っ直ぐで、強い祈り。 ――― 想いは世界を揺らがせ、彼女に力を与えた。 次の日、外には雪の代わりに矢車菊が広がっていた。 遠く、遠く、遥か彼方まで一面、花の彩る世界だった。 少女はありがとう、と彼女に伝え。 その言葉を残して、もう、再び目を開けることはなかった。 またひとり残される。 外は冬の景色に戻り、ただ冷たい雪しか見えない。 やがて春になり。 孤独となった彼女は家を後にした。少女の大事にしていたこの場所を忘れないよう、瞳に焼き付けて。 ――― 自分には力がある。ささやかな願いを叶える、……誰かのために、ある力。 それをまだ見ぬ人のために使おうと。どこかで苦しんでいる、澄んだ願いを持つ人のために。 世界の中の、決して多くはない人達は、魔法使いを信じていた。 いつか、目の前にやってきて、傍から見ればちっぽけな願いを叶えてくれるのだと信じていた。 ここから。 彼女――― after word/ というわけで『まほうつかいのねがいごと』終了です。 ここまでの量だと短編じゃ済まないよなぁ。中編扱いが妥当かも。 学校の課題に出すものとしてはなかなか"ちゃれんじゃー"な内容だと思うんですがどうでしょうっていうかごめんなさいー!(ぇ 物語としては大して面白くないんじゃないかと。ありきたりといえばありきたり。しかし王道を貫いているわけでもなく。 セントーレア、って名前はちょっと無茶かなぁ、とか割合本気で思ったり。矢車菊=セントーレア、というのでもないので。 花言葉が『信頼』っていうのは一応本当です。『繊細』『幸福感』なんてのもありますが。ひとつじゃないんですよね。 interlude-0は蛇足になっているかも。でも、個人的にはなくちゃいけない部分です。 何故彼女が魔法使いになれたか。まぁ、単純に言えば"選ばれた"だけなんですけど。単純すぎるかw あと、実験的要素がひとつ。劇中で、アキくんは『自分』か『こちら』って一人称しか使ってません。 だから『僕』なのか『俺』なのか『私』なのか謎。よく無理したなあ私w ちなみに、執筆時間は9日間。総量は27.5KB(文字データのみ)。一日3〜4KBペースですな、結局。 んではこんなもんでー。またー。 |