世間一般に、俺の兄貴のような人間は『天才』と呼ばれるらしい。 高校卒業後単身でイギリスに留学(それを留学というのなら、だが)、二年で修士課程までを済ませた。 学問全般において優秀な成績を残し、特に言語学では英国随一と言われる結果を出した。 ……と、本人の話と噂を統合するに向こうでは色々やって色々あったそうだが。 俺にはそんな才能もないし、日本から外に行くつもりもないので関係ないことだった。 ――― そう、本人が帰ってくるまでは。 10歳上の兄、瀬名川正(俺はよくマサ兄と呼んでいた)は、俺が中二の頃にイギリスから帰国してきた。 いや、ただ帰ってきただけならいいんだが、一人じゃないことが問題だったのだ。 実家に何の連絡もなく顔を出したあのバカ兄は、自分以外に二人の人間を連れてきていた。 一人はマサ兄と同い年くらいの女性。金髪碧眼、どう考えてもイギリスの、綺麗な人。 そしてもう一人は……同じく金髪碧眼の、どこかマサ兄にも似た、幼い少女。 あの時呆然とした俺の前でマサ兄が言ったことを、俺は未だに忘れていない。 真剣な、かつ楽しそうな表情で、 「俺、彼女と結婚するから。あ、こいつは娘」 とりあえずグーで殴った。あっさり躱された。 彼女、クーベルさんとの出会いは向こうの大学で。 同級生で学科も同じ。初めて顔を合わせた瞬間から、お互い見事に一目惚れだったという。 何かしら通じるところがあったのか、異常なほどの早さで意気投合し。 付き合い始めたと思ったら半年足らずで婚約の約束までしてしまった。 しかし、マサ兄は日本で結婚したいと申し出、彼女はそれを受け入れて大学卒業後来日することを決意。 マサ兄の卒業時に出産、いわゆる同棲生活をしながら彼女の卒業を待った。 ちなみに両親(つまり俺の両親でもあるのだが)には連絡が行っていたらしい。俺は聞いてないのに。 そして、帰ってきたマサ兄は、少し離れた場所にあるそれなりな高級マンションの最上階に居を構えた。 だけならまだしも、隣の部屋まで手中に収め、そこには何故か俺が住むことになったのだ。勿論当人の俺には無断で。 どこにふたつの物件も買う金があったのか、資金源は何なのか、そもそもどうして俺が、という疑問でいっぱいだったのだが。 最後の疑問に関しては、寛容と言えば聞こえのいいある意味放任主義な両親に「別にいいんじゃない?」とあっさり独り立ち (これをそう呼べるのかどうか微妙だが)を認められ、やむなく越してきた時に答えを得た。 それが我が兄夫妻の一人娘、リシェラード・F・瀬名川(5歳。まだ幼稚園児)の世話役というやつである。 何をやっているのかは知らないが、マサ兄はちょくちょく家を空ける。 時期は不安定で、午前中に出て午後に帰ってくることもあれば、一週間顔を見ないこともある。 前に仕事の内容を訊ねた時は、 「向こうじゃ通訳やってたし、こっちでもまあ似たようなことだな」 と返され、まともな回答だったので納得した。 が、今になって考えると、全部嘘か一部嘘かのどちらかではないかという結論に辿り着く。 ……実際、高校でも英語の成績は若干下から数えた方が早い俺と違い、マサ兄は会話、発音共に完璧だ。 同時通訳のひとつやふたつできても全くおかしくはない。むしろ、マサ兄ほどの通訳もそうはいないだろう。 ただ、仕事がそれだけであるなら一週間も帰らずに何をしてるのか。当然の疑問である。 さらに、二ヶ月に一度ほど、夫妻でイギリスに飛んだりもする。 理由はともかく(だいたいは仕事か旅行か顔出しのどれかだ)、その間は娘が一人残される。 旅行でない場合はどうも連れていけないようで、つまり、不在中の世話係として俺が任命されたわけだ。 半ば強制的な引っ越しだったが、別に嫌なことばかりじゃない。 実家からの距離は徒歩12分前後。少し離れたところに自分の一人部屋(にしては広すぎるが)ができたと思えばいい。 幸い生活費に関してはマサ兄が工面してくれて、ついでに食事もクーさん ――― クーベル、だからそう呼んで、と言われた。マサ兄だけがベルと呼ぶ――― がよく食事を作ってくれる。 俺はというと、作れないことはないがさほど上手くもない。米が炊けて味噌汁ができて、あとは軽い炒め物程度。 日本に来て驚異的な速度で和食も覚え、最早死角のないクーさんの味には遠く及ばない。 ともかく、世話係な俺はそうして頻繁に隣にも顔を出している。 リシェラード――― シェラちゃんの、遊び相手として。 初めはリセちゃんと呼んでいたのだが、彼女直々に「シェラでいいですの」と言われてからはその通りに。 どうやらそっちの方が響きが良く好きらしいと最近知った。マサ兄もクーさんもシェラ、だし。 幼稚園では専らリセちゃん、リセちゃんと引っ張りだこのようだ。 シェラちゃんは実に可愛らしい。 母の血を強く受け継いでいるようで、絹糸のような金色の髪、整った顔、細い手足、ぷくぷくとした白い肌。 陳腐な表現でいいならば、一種の完成された芸術品。そんな美しさを持っている。 それは単に俺がイギリスの人間を見慣れていないからなのかもしれない。 だが、先入観とかを抜きにしても、確かに綺麗ではあるのだ。 クーさんは彼女に「常に淑女たるよう、立ち居振る舞いにも細心の注意を払いなさい」と教えている。 その教えの効果かはわからないが、シェラちゃんは5歳なのに妙に子供らしくないところがあったりする。 具体的には変なお嬢様言葉。年齢不相応の落ち着き様。 時々、ちょっと育て方間違っちゃいないだろうか、と俺は思う。 でもちゃんと子供らしいところもあるし、いい子だとも思うのだが。 さて。 季節は秋、文化祭が終わり、小さな秋休みに入った頃。 瀬名川夫妻が四日間、またイギリスに行くこととなった。今回は真面目な用件で、シェラちゃんは留守番。 都合良く俺は一週間ほど休みなので、こっちでシェラちゃんを預かる展開に。 食事、幼稚園への送り迎えその他諸々は任せた、というわけである。 今回は、そういう話――― 。 ...first day 「んじゃ行ってくんなー」 「ハルくん、シェラのこと、毎度ながらよろしくね」 「はい」 「いってらっしゃい、父様、母様。お気をつけて」 木曜。朝早く、トランクに大量の荷物を詰めて、二人は家を出た。 徒歩で駅まで、そこからは電車を乗り継ぎ、空港から飛び立つルート。 1時間もしないうちに空港には着くだろう。二人の乗る飛行機を見ることはできないが。 両親を見送るシェラちゃんの目は、少しの寂しさと、それを覆う気丈さを含んでいた。 ……いつも彼女は、家で自分一人になる度そんな瞳をする。 一応ながら俺も付いているが、やはり親という存在には敵わない。 せめて、これ以上寂しくならないよう一緒にいるだけだ。 ちなみにハルくん、というのは俺のことである。 瀬名川春哉。単純に、春だからハル。マサ兄にはよくカナ、と連呼される。『哉』はカナとも読むからなのだが、 女っぽいので俺はその渾名が嫌いだったりする。マサ兄はからかいの意を込めて呼ぶので余計タチが悪い。 どうやらあのバカ兄貴は俺を困らせるのが大好きらしく、おかげでストレスは溜まってばかりだ。 次にカナと呼んだら力一杯殴ってやろうかと心に決める。当たるかどうかは微妙だが。 「じゃ、行こっか」 「ええ」 今日は平日。本人も保護者たる二人もできる限り休みたく(休ませたく)ないので、時間がある時は俺が送り迎えをしている。 幼稚園までは歩いて10分もいらない。既にシェラちゃんは着替えているので準備は万端、いつでも出られる状態だった。 天気予報を聞くまでもなく、見上げれば綺麗な晴れ空。 九月も終わりかけ、夏の名残は紅葉と共に消え去っている。 まだ手袋は必要ないが寒いことに変わりはない。吹き抜ける風は涼しいというよりもう冷たかった。 「…………兄様」 「ん?」 「手、握ってくださいません? 冷たくて」 いつもと同じ、歌うような可愛らしい声。差し出される手を俺は取る。 小さなそれは、確かに冷えていた。きゅっと握って、俺の手も冷たいんじゃないだろうかと思う。 けれどちらりと見た横顔は、幼子らしからぬ凛とした雰囲気を纏いながら、どこか、嬉しそうでもあった。 幼稚園は既に子供達で賑わっていた。 エプロンをつけた保母の女性が、門の前で通る園児に挨拶の声を掛けている。 見慣れた顔だ。おはようございます、とこちらも挨拶を返した。 「ああ、今日は弟さんですか。クーベルさんはまた?」 「はい。兄貴と一緒に」 「そうですか。ではまた、数日の間、よろしくお願いしますね」 「こちらこそ」 「リセちゃん、おはよう」 「おはようございます、先生」 「……じゃあ、俺はこれで」 シェラちゃんを預け、元来た道に戻る。 家に帰ってまずするべきことは、――― 英語教師に出された宿題だった。 夕方になった。 二時間でテキストの三割を終え、あとは明日でいいやと投げ捨ててからはひたすらゴロゴロ。 気づけばもう六時を過ぎていて、迎えに行く時間だ。 「うう、寒っ」 家を出て、途端肌を撫でる風の冷たさに、呟く。 朝よりも一際冷たく感じて、これじゃ帰りはちょっとアレだな、なんて思う。 両手をポケットに突っ込みとぼとぼ歩きながら、この寒さをどうしたものか考えて、 ……ふと、通りがかったコンビニに目が行った。 中に入る。目的はレジ横。……あった。店員に言って購入する。 冷めないように懐へ仕舞い、だいぶ陽が短くなったな、と今更ながら気づいた。 「ども、迎えに来ました」 「はい、呼ぶのでちょっと待っててくださいね。リセちゃーん! 春哉さんが来ましたよー!」 そして連れられてきたシェラちゃん。 今日は何をしていたのか、後ろの方で凄まじい騒ぎ声が聞こえてくる。 しかしここでは日常茶飯事なので、あまり気にし過ぎると疲れることを俺は半年前に学んだ。恐るべきは子供のスタミナ。 喧騒には構わず、あくまで淑やかにやってきたシェラちゃんは俺の腕を取る。 「さ、行きましょう、兄様」 「ああ」 また明日。そんな別れの言葉を背に、俺達は幼稚園を後にした。 帰路は夕焼けで赤と紫に染まっている。これじゃ陽射しの温かさは望めないだろう。 顔に出さずとも寒そうなシェラちゃんに懐から出した物を渡してみた。あ、驚いてる。 「これは?」 「肉まん」 少しだけ潰れてしまっていたが、袋から取り出すとほかほかと湯気を立て始めた。 しばし躊躇して、それから小さな口でちょこっとかじる。 もむもむ。もむもむ。 「どう? おいしい」 「……悪くないですわ」 そう言いながらもシェラちゃんは食べるのを止めなかった。 ゆっくり、俺の半分くらいの速度で肉まんを消化していく。 ――― どうでもいいが何か食べ方がリスみたいだよなぁ。 そして、帰った俺達は夕食を残してしまうのだった。 ...second day 金曜。シェラちゃんを幼稚園に送ってから、俺は近くの商店街をうろついていた。 何故かというと、冷蔵庫の中身がいい加減空っぽになりかけてきているからである。 放っておいても誰かが勝手に補充してくれるわけがない。 当然ながら、なくなれば買いに行かなければならないのだ。 俺は一度に纏めて買う派なので、おおよそ十日周期でこうして足を運ぶ。 自分で買い物をするようになってからもうすぐ三年。主婦には及ばないものの、それなりな選物眼は持っているつもりだ。 まぁ、さすがにバーゲン時、ハイエナの如く殺到するおばちゃん達に勝つ自信はないんだが。 魚屋、肉屋、八百屋、惣菜屋などを一見し、値段をチェック。 相場より安ければ手に取り、質を考えて購入する。スーパーにも行ってみる。 一概にどっちの方がいい、とも言えないもの。節約するためには相応の労力が必要だと俺は知っている。 食材を集め終わったら一旦家に戻り、荷物を仕舞ってから次は日用品探し。 足りない物をメモに取り(忘れると二度手間だ)、いくつかの候補の中から一番条件に合う物を選んでいく。 「……そういやシャンプーがそろそろ切れるんだったな」 嗜好品はともかく、洗剤みたいな物は基本的に同じ品しか使わない。 自然と購入場所も決まってくる。スーパーでたまに値引きされていれば喜ぶ程度。 我が家は隣と違って一人暮らしだが、食器や風呂場のシャンプー、歯ブラシといった個人物は俺の分だけじゃない。 兄夫妻がこっちで俺も含め四人で夕食を摂ることもあるし、シェラちゃんが今みたいに泊まったりもする。 全員自分の家のように(それもある意味では正しい)扱うので、そういうものはほぼ常備だ。 特にシャンプーなんかは男性用と女性用で全然違っていたりするから、忘れようものなら悲惨なことになるわけで。 ちなみに、衣服に関してはちゃんと自分のを持ってきてもらっているので心配ない。 ……というか、俺が女の子の下着を買う現場を見られでもしたら死ぬ。全力で死にたくなる。 間違っても変な趣味をしてるとか噂されたくはない。 「……うし、終わり」 結局リストが完全に埋まったのは2時過ぎだった。 その間、何も食べていない。いい加減軽い立ち眩みがしてくる頃だ。 昼はラーメンにでもするかと思い、俺は台所のインスタントラーメンをどうアレンジするか考えながら帰った。 毎度の事ながら、荷物は滅茶苦茶重かった。 確かに料理はあまり上手くないが、だからといって何もしなければ作れるようになるはずもない。 母やクーさんに教わりながら俺は少しずつレシピを増やす努力をしている。 一朝一夕で覚えられるものでもなく、時には失敗して不味い料理も出来上がるが投げ出すつもりはなかった。 失敗しなければ、その経験を活かさなければ成功は望めないからだ。 よってここ最近食卓には一週間に一度の割合で味の悪い物を出すことになっている。 いつもは自分が顔をしかめながら食べるだけで済むのだが、今日はシェラちゃんにも振る舞わなければならない。 昨日は店屋物だったが今日は自家製、慎重に、無理せずやれば問題はないだろう。 とはいえそんな大それた料理は作れない。二分ほど悩み、うどんを茹でることに決めた。 鍋に水を入れ、コンロに掛ける。 だしを取り、白菜、長ネギその他諸々を切って湯の中へ。さらにぶつ切りにした鶏肉も。 十分に熱を通してからうどんを投入。蓋をし、柔らかく上がるまで待つ。 火を止め、朝買ってきた天ぷらをレンジの前に置いて、俺はコートを着込んだ。 あとちょっとだが、続きはシェラちゃんと帰ってきてからである。 三十分後、幼稚園から俺達は揃って家に戻った。 手を洗い荷物を置いて着替えたところで、シェラちゃんは微かな匂いに気づいたらしい。 醤油をベースにした和風の香り。言うまでもなく、さっき作ったうどんの匂い。 天ぷらを入れてレンジを回す。 うどんの方は軽くまた弱火で温め、器を用意して二人分よそう。 ほかほかと昇る湯気。アラーム音が聞こえる。レンジから天ぷらを出し、皿に盛って完了。 シェラちゃんは箸もしっかり使えるので心配はいらない。……うどんをフォークで食べるのは難しいだろうし。 「それでは、いただきますわ」 「はいどうぞ。いただきます」 「…………………………」 「どう? お気に召しますか、お姫様?」 「……おいしいですわ。これなら及第点をあげてもよろしくてよ」 「…………くくっ、いや、ホントそういうの似合うね、シェラちゃん」 「そうですの? なら私は兄様に淑女と認めていただけてますのね」 こうして食べてもらう度に、出来を採点してもらってたりする。 クーさんとはまた違い、子供らしい味覚で、かつストレートに言ってくれるので参考になるのだ。 たまに手痛い台詞でけちょんけちょんにされる日もあるが、それも含めて、新しいことを覚える楽しさなのだと思う。 三玉のうどんは綺麗さっぱりなくなった。 天ぷらはというと、海老のしっぽだけが皿の上には残っていた。 ...third day 土曜。今日と明日は幼稚園も休みだ。 シェラちゃんも家で適当に過ごすことになる。 普段俺はあまり外に出ない。特に秋を迎えた昨今は、どうにも寒くて足が向かないのだ。 部屋の中でゴロゴロしつつ読書やビデオ鑑賞をしてたりする。 対してシェラちゃんは割とアウトドア派。淑やかでありながらもスポーツ全般が得意なのは完全に才能の賜物だろう。 噂では小学生と一緒にやっても遜色ないらしい。バスケにサッカー、ドッヂボールと何でもありだ。 昔キャッチボールの相手を務めたこともあるが、少なくとも幼稚園児の投げる球ではなかった。 そんな全く逆の過ごし方をする俺達。 なので、休日は家の中でのんびりするか外に出るかのどちらかだ。 優しいシェラちゃんはだいたい俺に任せてくれるが、稀に行きたい場所を口にして、その時は必ず俺が折れる。 我が家の力関係は、俺<シェラちゃん。世話役はお嬢様には逆らえない。 高校生になって5歳の少女に振り回される人生だ。まぁ、何だかんだで付き合ってしまう俺だが。 そして、今日はその稀な日だった。 「散歩に行きたいですわ」 「散歩?」 「ええ。どこでもいいですから、歩き回りません?」 そういうシェラちゃんは珍しくパンツルックで、いつもスカート姿だから新鮮に見える。 ちなみに、現在俺はまだパジャマを着たまま。当然これでは出かけられない。 「……了解。着替えてくる」 「急がなくていいですわよ。でも、きっちりして下さいませ」 「はーい…………」 ……今日はゆっくりするかと思っていたのだが、それは叶わないようだ。 さて何を着たものか、悩みながら俺は自室に服を取りに行った。 天気は良好。僅かに雲はあるものの、相変わらずすっきりした秋晴れ。 心持ち上着の前を強く締め、通り道の風景を頭の隅にでも覚えていられる程度の速さで歩く。 マンションから10分足らず、賑やかで活気のある商店街を冷やかしつつ抜ける。 「兄様、こちらに寄りません?」 小さな指が示したのは遊具が普通のところより多い公園。 それなりに目立つ位置にあるのだが、この辺まで用もなく来ることはほとんどなかったので知らなかった。 おぼろげに「ああ、こんなとこもあったな」くらいなものだ。 特に面白い何かが置かれているわけでもない。なら何故、と疑問が湧き、しかしすぐに氷解した。 シェラちゃんが並ぶ遊具の中から選んだのは、一番低い鉄棒だった。 おもむろに手を伸ばし、棒を掴み、軽く助走の幅を取って、 ざっ、という砂を蹴る音と共に、なるほど、今日スカートじゃないのはこれをしたかったからかと今更ながらに気づいた。 これ以上はないというほどに鮮やかな逆上がり。 跳ね上がる足が鉄棒の高さを越え、腹を抱えるように一回転、着地する。 「如何です、兄様?」 「……お見事。よくできたねぇ」 俺が逆上がりを初めて成功させたのは小三の頃。これでも決して遅くはない。 単純に、シェラちゃんが凄過ぎるだけだ。妙な敗北感を覚えるのは決して気のせいじゃないだろう。 だがそれ以上に、何というか、強い子だなぁ、と微笑ましいような、そんな気持ちにもなった。 わざわざ俺に逆上がりを見せるため散歩の提案をしたんだとすれば――― 。 「……どうして笑ってらっしゃるんですの?」 「いや、何でもないよ」 可愛らしいという言葉が実によく似合う。 少し我が儘なところも、優しいところも含めて。そう思った。 適当にファーストフードで昼食を済ませ、閑静な住宅街、神社仏閣巡りをして帰ってきたのは夕方過ぎ。 信仰心はなくともああいうものは結構見ているだけで面白かったりする。 まぁ、彼岸にハロウィンにクリスマスに正月と節操ない日本人たる俺達に信仰心も何もあったもんじゃないが。 で、帰宅後シェラちゃんに手伝ってもらいながら夕食も作り、二人でまったりと食べて。 その間、湯船に湯を張り、洗い物を片づけた頃には準備万端になっていた。 ――― さて、ここで弁解をしておこう。 間違っても俺は変態ではない。幼児偏愛者でもない。ロリータコンプレックスでは断じてない。 何故だか言い訳めいた聞こえようだが、例え相手が5歳の子供でも異性というのはそれだけで色々と問題のある組み合わせだ。 特に、そういう部分をどうしようもなく意識してしまう、あるいは意識されてしまう状況の場合は。 シェラちゃんが完全無欠に子供らしければ、そうでもないのだろう。 しかし、幼稚園児とは思えぬほどに成熟した精神。思春期入りかけの中学生みたいに感じることがある。 当人も恥ずかしがり、けれど変なところで無防備なのでギャップが激しい。 ……結局何が言いたいのかというと、正に現在そんな状況なわけで。 髪も身体も洗い湯に浸かった俺の目の前には、男である俺よりは断然長い金色の髪に指を通すシェラちゃんの姿。 一応タオルでぐるっと身体を隠しているが、うなじとか足とか鎖骨の辺りとかがはっきりわかる。 よく手入れの行き届いた金髪は光を受けて輝き、透き通ってさえ見えて、綺麗、というひとことしか思い浮かばない。 物珍しいわけでもないのに、見飽きるくらい目にしているはずなのに、つい凝視してしまう。 どうして一緒に入っているのか。理由は簡単、まだシェラちゃんは一人で湯船に入れないのだ。 住人一名に対し無意味に広い風呂場。浴槽は大人が楽に二人入れる幅で、深さも一般家庭よりあるだろう。 立って浸かるなら余裕でも、座って浸かるのには110cm足らずの背では難し過ぎる。 ゆっくり温まりたくて風呂に入るのに、溺れてしまうのでは世話もない。 だから俺も同行して、入浴時は膝に乗せる形で、というわけだ。 「兄様、失礼しますわ」 シャワーを浴び終え、シェラちゃんが爪先から沈んでいく。 すぐに、膝の辺りにぷにぷにした肌の感触を感じた。 位置的にはちょうど頭一個分の高さで、軽く視線を下に向ければつむじが目に入る。 俺は手を伸ばし、その絹のような髪を梳きながら頭を撫でた。 むずがりながらもシェラちゃんは嫌がらず、為すがままにされてくれる。 「くすぐったいですわよ」 「そう? 嫌だった?」 「いえ。気持ちいいですわ」 「ならよかった」 「…………兄様の膝の上にいると、安心できますの」 「そっか。……俺のでよければいつでもどうぞ」 「ええ、気が済むまで存分に使わせていただきますわ」 そんなことを話して、俺達はのぼせる前に上がった。 実は俺が恥ずかしさを感じていることも、でもそれ以上に優しい気持ちになれることも、口にはしなかった。 少なくとも、高校生が5歳児に言うようなことではないだろうから。 ...last day 日曜。イギリスにいる二人が帰ってくる日だ。 予定では夜とのことなので、シェラちゃんは両親の帰宅前に眠ってしまうな、と思う。 基本的にその辺りは年齢相応。俺よりよっぽど早寝早起き。 よって、まず朝は俺が揺さぶり起こされるところから始まる。 キッチンに手が届かないのでまだシェラちゃん一人では食事も作れない。 何をするにも、この家の物は幼稚園児の規格ではないのだ。 大抵、朝食の場合は米を炊いて味噌汁作って、なんて面倒なことはやらない。 オーブンでトーストを焼き、ベーコンエッグとかをフライパンでふたつ、あとはトマトに牛乳、くらいなもの。 朝は適当昼は大雑把、手の込んだ料理は夕食に。わざわざ言わないが、そんな感じでもう形が決まってしまっている。 食べ終わったら、あとはのんびり。 昨日の散歩で満足したらしく、今日はシェラちゃんも外に出ようと提案はしなかった。 普段、こうしていることの方が圧倒的に多い。 二人で思い思いに何かをして、時に構ったり、我が儘を聞いたり、喜ばれたりして。 「ワンカさんは、ステッキで、川の堤にはえている木立ちを指して、大声でたずねました。 『それに、あのかわいらしいしげみは? どうです、美しいでしょうが? さっきもいったように、わたしは、汚いものが、大嫌いなのです! ところで、あの木やしげみは、みんな、食べられるんですぞ! それぞれちがった、おいしい原料で、つくってあるのです! あの草地は、お気に召したかな? あそこにはえている草やキンポウゲの花は? いいかね、坊やとお嬢ちゃん。いま、きみたちの足の下にはえている、その草は、 わたしが発明したばかりの、やわらかなハッカ入りの新式のお砂糖で、できているんですよ。 ためしに、その草を、一本、食べてみたまえ! さ、どうぞ! おいしいですよ!』 みんなは、いっせいにしゃがむと、草を一本、摘みました―― 」 「……その草花、一度食べてみたいですわね」 「あはは、うん、確かに」 シェラちゃんに本を読んであげたり。 「そこは難しく考えずに、――― ええ、正解です、よくできましたわ」 「…………………………凄く有り難いけどさ、でも」 「泣き言は受け付けませんわよ。兄様の成績があまりよろしくないのが悪いんですから」 情けなくも残ってた英語の宿題を手伝ってもらったり。 「こ、こうですの?」 「うん。もうちょっと上手く混ざるように、かな」 「重いですわ…………っ」 「料理って結構力いるからね。ほら、頑張ってっ」 仕返しにフライパンを持たせて炒め物をやらせてみたり。 「いーち、にーい、さーん、しーい、ごー、ろーく、しーち、はーち、きゅーう、じゅーう」 「じゅーいち、じゅーに、じゅーさん、じゅーし、じゅーご、じゅーろく……」 「……数えてると何か段々頭がぼーっとしてこない?」 「え? ああ、途切れてしまいましたわっ」 「18からだよ」 「わかってますわ。……兄様のいじわる」 湯船の中で100を数え終わるまでまで一緒に入ったり。 そして、21時を回った頃、シェラちゃんが舟を漕ぎ始めた。 こくり、こくりと頭を揺らしてはぶんぶんと左右に振り、目を擦って懸命に眠気を払おうとする。 それでも駄目だから今度は頬をつねって、ぱん、と叩いて音を鳴らして。 歳相応に夜更かしできないシェラちゃんは、けれどいつもあの二人が帰ってくる日だけは。 「おかえりなさい」のひとことが言いたくて、「ただいま」のひとことが聞きたくて、起きていようと頑張るのだ。 でも、最後には睡魔に勝てなくて、耐えられなくて、眠ってしまう。次の朝まで何も言葉を掛けられないまま。 帰ってきたら起こそうか、と申し出たことがある。 なのにシェラちゃんは静かに首を横に振って、それじゃ駄目ですのよ、と。 私が自分の力で、自分の口で言いたいと思ってますから、と。 そんな姿を見て俺は、例えようもなくこの小さな女の子のことを、いじらしく感じるのだ。 ……およそ子供らしくない性格なのに、 根本的な部分は、まだまだ5歳の少女そのもので。 「シェラちゃん、大丈夫?」 「…………まぶたが、おもいですわ」 「もういいよ、寝よう?」 「だめ、ですわ。いちどで、いいから」 おかえりなさいって、わたしのくちからいいたいですの――― その言葉は、氷のように溶けて、途切れて、薄れていった。 座った姿勢でシェラちゃんは眠ってしまい、本人に言われた以上、起こすのも憚られた。 だからせめて、その眠りが安らかであればと。 毛布を持ってきて掛け、俺の膝に寝かせて歌をうたった。 思いつく限りの優しい歌を。静かな、穏やかな、子守歌を。 「おう、ハル、シェラ、今帰ったぞー。…………お?」 「あ、マサ兄。クーさん。おかえりなさい」 「ただいまハルくん。……シェラ、随分と幸せそうな顔してるわね。いい夢見てるのかしら」 「……だと、いいですね」 二人が帰ってくるまで、シェラちゃんを引き取りに来るまでは、ずっとそうしていた。 せめて夢の中ででも、少女の願いが叶えばいいと、思った。 「――― おかえりなさい、父様、母様」 ------------------------------ あとがきのようなもの camelさんリクエスト、『金髪幼女をネタに』。どうにかこうにか書き上がりました。 言うまでもなく幼女はシェラちゃんです。リシェラード・F・瀬名川。Fはフェルクウェイ、母の元名字。 つかぶっちゃけ一番悩んだのはこの子の名前だったりします。五日くらい考えてたw リシェラード、に原型はありません。フェルクウェイは、ゲド戦記一巻の見開きにある地名のひとつ。 時間を掛けた分短編らしからぬキャラ設定が出来上がったりしました。 割と連載しても動かせそうな程度には。出してない細かいところも結構。 歳相応らしくシェラちゃんはぬいぐるみが好きとか、まだ夜はトイレに一人じゃいけないとか。 正さんはイギリスでも(日本でも)自分をショウと呼ばせたとか、クーさんは四人姉妹の末っ子だとか。 もしかしたら、彼らでまた書く時もあるかもしれません。ここまでできちゃうと一度限りじゃ勿体無くて。 しかし、金髪幼女を出してみたはいいものの、どうしたらいいのか悩みました。 とりあえず可愛らしく、少しばかりいじらしく仕上げてみましたが、如何だったでしょうか。 両親が大好きで、ハルくんのことも大好きで、素直だけどちょっと頑固で、甘えるのが苦手な子。 そんな風に彼女を描けていればいいんですが。 この『歳相応さ』を書くのは意外に難しいと思いました。だって私もうぴゅあじゃないもん。 一日2KBほどのペースで、十日くらい掛かってます。…………マジすみませんでしたonz こんな超絶遅筆でも付き合ってくださった方、ここまで目を通してくださった方、リクエストの発信元camelさん。 どうもありがとうございましたー。ではまた。 玄関から外に出て、隣のドアを開けて、ベッドに運ぶまでの四十歩足らず。 その道程を、俺はシェラちゃんを背負って歩いた。 身体は見た目以上に軽くて、全然重くはなくて、耳元で静かな寝息が聞こえる。 儀式の、ようなものだ。家に着くまでが遠足であるのと同じ。 こうして俺が少女を自分の部屋に戻してあげるまでが、世話係としての役目だと思っている。 ……何だかんだでこの立場を気に入っているのに気づいて、一人苦笑した。 そっと抱えて降ろし、枕に頭を乗せ、布団を被せる。 安心した表情をしばし眺めて、帰ろうと立ち上がりかけ、 「…………にいさま」 手を握られた。 無理矢理剥がすのは凄く罪悪感が。仕方ないからきゅっと握り返すと、幸せそうにシェラちゃんは微笑んだ。 そしてゆっくりと絡まった指を一本一本外し、今度こそ立ち上がる。 「またね、シェラちゃん」 「んん…………」 「また、あした」 きっと明日も顔を合わせる。 明後日も、明々後日も、そのまた次の日も。 その関係は、少なくとも俺にとっては心地良い。 彼女が俺を必要としなくなるまで、きっとお嬢様と世話係の間柄は続くんだろうな、と、そんなことを考えた。 「わたしは…………にいさまと、」 寝言を背に、暗い部屋を退出しようとして、 「せきをいれたいですわ…………」 「ぶっ!?」 この子はいきなり何を言い出すか…………っ! 思わずドアに頭をぶつけ、額を押さえる俺の肩が叩かれる。 そっちを向くと、マサ兄がそれはもうにこやかな顔をしていた。 「ほう、そうかそうか、シェラはカナが。なるほどなぁ」 「……そこのバカ兄貴。法律で叔父とは結婚できないってなるべく早めに教えた方がいいぞ。つかただの寝言だろ」 「甘い。親は娘のためなら何でもできるんだ。知らんのか?」 「…………………………」 「幸い知り合いに法律に詳しいのがいるからな。まず養子縁組を組んで……」 「ちょっと待て。本気か? 本気なのか? 決定事項なのか?」 「――― なあ、カナ」 「…………何だよ」 「世の中、頭と金を使えばできないことはほとんどないぞ。ルールを味方につければな」 「………………頼むから、勘弁してくれ」 結局この後クーさんも加わって、俺は小一時間二人に責められ続けましたとさ。 ちなみに、さり気ないどころか堂々とカナと呼ばれていたが殴るのをすっかり忘れていた。 数日後、家に帰るといつの間にかテーブルの上に養子縁組の候補がリストアップされた紙があり、頭痛を覚えたのは別の話。 |