まだ夢の中にいるような気がして、でもやはり現実に生きている。
目が覚めれば朝だし時間は勝手に過ぎていく。当たり前に。

ただ、知らなかったことを知っただけ。
他に変動はない。何も、違わない。



ゆっくりと、身体を起こす。
今日も学校だ。さっさと用意を済ませて出ないと。
遅刻はしたくない。理由はなくて、何となく、無駄なポリシーのようなもの。

食事は自給自足だ。
四日に一度くらいのペースで買い物をし、調理も自分でしないといけない。
慣れ。作れば作るほど腕は上がる。最初は目玉焼きひとつまともに完成しなかったが、今はローカルな料理でない限り材料があれば何だってできる。
家事の類はやり尽くした。一人暮らしである以上他人が何かをしてくれるはずがないのだから、自分のことは自分で、だ。
掃除、洗濯、その他色々。放っておいても片付きはしない。
いくら飽きても、疲れていても、誰も手伝いはしてくれない。


結局最後は、自分一人で生きていくしかないのだ。


我ながらつまらない結論だな、と思う。
だが、おそらくこれが現実。夢も希望もない現実。





さて……今日の朝食はどうしたものか。










reason-3










急ぎ足で家を出る。
別に焦らなくとも遅刻は絶対しないのだが、あまり人の多い登校風景は好まない。

それに、早めに着けば、誰もいない教室の空気を体感できる。
あの、静寂しかない一時が俺は好きだ。
孤独で喧騒も遠い場所。世界から切り離されたような不思議な場所。

誰か一人でも来てしまえば終わりになる、そんな脆さも気に入っていた。

辿り着けば、此処に来るであろう人数分の机と椅子、教卓、文字が書かれる黒板などが一斉に視界に入る。
自分の席は窓側から二列目、その一番奥。前でないことは有り難い。教師の位置に近いというのは何かと面倒だ。

窓は南より若干東向きで、今も斜めに陽射しが入り込んでいる。
授業中はカーテンで遮断されるのでこういう光景は朝のうちでないと見ることができない。
木の茶色、黒板の濃緑、金属の銀、光の白。実に多くの色が混ざってこの空間も成り立っている。
その中に佇む自分。黒、肌色、白、紺、その他いくつかが不規則な調和を以って混在している存在。

椅子を引き、座る。ひんやりとした肌に伝わる冷たさは僅かに心地良い。
こうしていると世界に溶け込めるような気になれて、だから一人でいるのは楽だった。

今、此処には何もない。
一体感。思考を切り身を委ねると意識が何処か別の場所へ運ばれていくような。
欠片ほどの揺らぎもない時間。音も景色も消え去ってしまって、まっさらな部屋に心だけが取り残される、形容のし難い感覚。

仮初めの孤独を得る時、この身を苛むのは無力感だ。
しかしそれは嫌なものではない。ただ、自分の想いに関係なく人間は流されていく、そんなひとつの真理を知ったような気になれるだけ。

冷たく、厳しい世界。だからこそある意味有り難い。
流されていれば、惰性で生きていけるのだろうから。



静寂を引き裂いたのは、立て付けのあまりよくないスライド式の扉を開けた人物だった。
がら、という音を聞きそちらを向く。控えめに、ゆっくり広がる隙間から見える小さな影。

一人分が通れる幅まで動いたところで、扉は止まった。
その場所に立っているのは、このクラスの生徒。まだ予鈴まで時間があるのに、随分と早い。 ……自分も人のことを言えたものではないか、と苦笑。

皮の鞄を手に提げたその姿には見覚えがあった。
身嗜みに関して多少寛大なこの学校で、律儀に色も染めずそれなりに長い黒髪を後ろで束ねた少女。
目立つ容姿ではない。クラス内でも大人しい方。ただ、ひとつだけ彼女には印象強いモノがあった。

「…………校倉?」
「おはよう。名前、覚えていてくれたんだね、月次くん」

校倉こなた。珍しいそれが彼女のフルネームだ。

よいしょ、とこちらより少し離れた自席に座り、筆記用具と一時限目の用意をしてから目を閉じる。
そんな何気ない彼女の仕草を視界の隅に入れながら、俺は何となくその名前のことを考えていた。

こなた。此方。彼方と対になる言葉。
かなたが遠くを指すのだとしたら、こなたは近く。
例えば、空想ではなく現実。未来でも過去でもなく現在。
果てにあるモノよりも、手の届く位置にある何か。


彼女は、校倉は―――――― 名前通り、今を生きているんだろうか。


思考を止める。
…………所詮こちらの想像に過ぎない。そうであっても、そうでなくても、俺には関係ないことだ。

無言の時間が続いた。会話をする必要はなくて、場所を同じくしているだけのこと。
しばらくすれば比較的優良な生徒から登校してくる。少しずつ、いつもの喧騒を取り戻す廊下。
名前もまともに覚えていない彼らは俺に対しても様々な反応を示す。
挨拶をする者。どうでもいいと通り過ぎる者。あからさまな侮蔑の視線を投げかけてくる者。十人十色だ。

縮小された社会。区分けされた共同空間。
生きていくために協調することを学ぶ、箱庭。





その中で、きっと俺は孤独だ。そういう道を、自ら選んでいるのだから。










バイトは土日を含めて週三日。授業が早めに終わる水曜に入れている。
他の日では学生としての生活に支障が出るのだ。一応これでもやっていけるのだから、わざわざ働く時間を増やす理由はない。

いつもの空。夕日が遠くに沈んでいく茜空。
昼の青と比べれば奇妙な色だと思う。夜は藍とも紺ともつかない暗い色で、どちらも青系統だ。
黄昏の色彩は外れている。赤系統。世界が在り様を変える、僅かな瞬間。
伸びる影は酷く細長く、今にも千切れて消えてしまいそう。突然その黒がぷつりと断絶してしまう光景を幻視する。

そうやって自分の存在が溶けてしまえば、どんなに楽なのだろうか。

家に着く頃には外灯が目立ちはじめ、遥か地平線で太陽が燻っているだけの仄かな光を見る。
たった一人、しかも中学生には似合わない広さの一軒家、その扉のノブに手を掛け、回し、足を踏み出す。
部屋は今を除きよっつもあるのに、使うのはひとつだけ。自分の荷物は少なく、物置も要らない。
靴を脱ぎ揃え鞄を自分の部屋に置いて、夕食の用意をしようと冷蔵庫に手を伸ばした。



「ねぇ」



振り返る。
声のした方、居間の窓際。





闇にも似た、黒い少女が其処にいた。