硝子越しに見える世界は夜の暗さを表している。 その景色を背に、黒衣を纏う彼女は何をするでもなく立っている。こちらに視線を向けて。 表情は読めない。 奥底に沈む感情は如何なるモノだろうか、窺い知ることは不可能だ。 ディス。死神を名乗る者。 「どうして、」 ここにいるのか、と続けようとしたが、止める。 そんな質問は無意味だ。一般常識を当てはめるべき存在ではない。 壁も何も、おそらく彼女には関係ないのだろうから。 口を噤んだこちらを見つめたまま、ただ、彼女は其処に立つ。 鋭くも緩くもない、眼差し。今まで生きてきて一度も見たことのなかった、黒曜石にも似た瞳の色。 「…………何故」 問う。それは先ほどのとは意味の違う、単純な疑問。 知りたいのは、理由だ。この場所に、俺の元に来た理由。 「興味がある、それだけよ」 「…………何?」 「私を"認識"できたあなたに、興味があるって言ったの」 動かないこちらに向かって、一歩が出される。 ゆっくりと、確実に、何らかの理由を持って。 「新鮮なのよ。私を"認識"できる存在は本当に少ないから。過去の何処にも、私を知覚できた人間はいなかったから」 音が聞こえない。 世界は今も息づいているのに、俺にはそれが感じられないのか。 自分の鼓動も、ほんの僅かな大気の動きも。 今まで何度もあったことだけれど。 でも、はじめて、それを俺は怖いと思った。 「決めた。私は、しばらくあなたのそばにいるわ」 紡がれる言葉は、厭に鮮明に聞こえる。 ただ、嫌悪感はなかった。さらりと、奥に届いてくるような。 眼前の彼女はほぼ無表情で。でも微かに何か、色があるようにも見えて。 ―――――― 何となく。俺は"ディス"という存在のことをもっと知りたいと願った。 know-1 その日から"同居"が始まって、一緒にいるようになった。 学校。通学路。家の中。至る所で彼女との会話が交わされ(他人にはわからないように)、意思の交換が繰り返された。 こちらの知ることは非常に多い。 対して、彼女が知ることは俺ほど多くなかった。 少なくとも俺より彼女は知識が豊富で、ただ、世で言う常識に関してはほとんど無知だった。 一週間、そうして過ごした。 向けられた質問と同じくらい、向けた疑問もあった。 場所を問わず思いつけば相手に訊く。きっかけはふとしたことであったり気まぐれであったり。 互いに強い干渉をするでもなく、言葉を発し受け取る、そればかり。 文字通り"別世界"の住人である彼女の話は案外に興味深い。 普通に、常識の中で生きてきたならば知らなかった夢物語のようなことを数多く聞いた。 例えば、曰く。 空想でしか有り得ないと思っていたモノ達の実在。 あらゆる"死んだ"存在が導かれ行き着く先。 彼女自身のこともいくつか聞いた。 正真正銘、自分は死神であること。 死神とは一度"終わった"モノを世界の果てに運ぶ役目を持つ存在なのだということ。 年齢はもう重ねすぎて覚えてないこと。 そんな話をする時の顔は苦笑やら自嘲やらで、例外なく憂いのような色を含んでいた。 いつもはこちらに窺わせることのない彼女が、その瞬間だけに見せる感情。 …………遠い、俺とは限りなく遠い、全く別のモノである彼女も、そんな"人間らしい"表情をするのだとわかった。 ふと思う。 自己を振り返ることの可能な誰もが何かを抱えているのだろう、と。 それは形容し難く、明確でもなく、ただ思考の奥底を軋ませる。 過去の出来事であったり何気なく傍にある大切なものであったりするのだ。 死神の少女――― ディスにも、きっとある。あの深い瞳の中に沈むモノが。 俺にも、それはあるのだから。 敢えて理由を挙げるとするならば、気が向いたから。 他に言い訳は思いつかない。その辺はどうも不明瞭だ。 とにかく、ただ、話そうと思った。 自分のこと。月次誠二という存在のことを。 語られるばかりでは不公平だと思ったのかもしれない。 考えてみればこっちは話すことなどあまりなかった。専ら聞く側で、俺が彼女に教えられることなどほとんどありはしなかったのだ。 後ろめたさ。知られることの渇望。前者はともかく後者のような気持ちは今まで感じたことがあっただろうか。 何かが変わっていく、それが怖いのか。未だわからない感覚。 その日もディスは俺の視界にいつでも映っていて、時折口を開いたりした。 向こうが一方的に喋り、返答は願われていない。それは会話というより彼女の自己満足のための行為なのかもしれなかった。 夜、彼女が此処に現れた時に似た時間、空間。 そこで俺は声を発した。何となく、そういえば今日初めて"他人と会話する"のだと思考する。 「…………………………小学校に入りたての頃、両親が死んだんだ」 話し始めは唐突で、こちらの言葉に一瞬遅れて彼女が反応する。 ひとりごとにも近かった。誰に向けるでもないようで、けれど誰かに聞いてほしい、そんな。 目の前の彼女は無言で続きを待っていた。ただ視線が合っただけだが、そう感じたのだ。 続ける。 あの頃は世界の全てが当たり前に、そのまま変わらず進んでいくんだと思っていた。 今より幼く無垢で無知な自分。幸せしか知らず生きていた自分。 痛みや苦しみをほとんど感じずにいられた。傷を与える他人がいなかった。 ずっと。ずっとそうであると、信じて疑わなかった。 父はそこそこに大きな企業の所有経営者で、失敗も不自由もない仕事をしていた。 母はある程度の名家のお嬢様で、大学生くらいの時に父と知り合って結婚したらしい。 生活に困ることはなく、むしろ平均よりも上、裕福だった。そして、それに満足していた。 一人息子の俺が生まれた時、両親は手放しで喜んだという。 実際二人は優しくて、温かかった。父の大きな手のひらと、母のふわりとした腕の中をおぼろげながら覚えている。 病気や怪我にも無縁な、本当に"問題のない"日々。「それでいい」と思える日々。 幼稚園。同い年の子供はみんな俺に普通に接してくれた。 口喧嘩や殴り合いもしたけれど、心から憎み合っていたわけではなかった。 夕暮れ空を見上げて、母の迎えを待って。「またね、ばいばい」と交わす言葉が溢れていた頃。 今、思えば。 幸せな光景ばかりで、逆に恐ろしく感じる。 一度も使っていないランドセルを背負ってはしゃいだ日。 順風満帆だった父の会社、その売上げが落ち込んで、ついに倒産した。 前から兆候はあったらしい。でも、途中で手を引くことを父はしなかった。それほどの危機感を持ち合わせてなかったのだろうか。 深夜の怒鳴り声が日常茶飯事になった。俺は耳を塞いで寝るようになった。 いつの間にか両親は優しくなくなっていた。「どうして怒ってるの」なんて、怖くて訊けなかった。 入学式の前々日、「りこん」と「しゃっきん」というふたつの単語を耳にした。他はわからなかった。今でもわからない。 恐怖であの頃の記憶は微妙に曖昧だ。思い出す度、過去は絡まっている。 二人とも酷い剣幕で、その日はベッドの中、耳を塞ぐだけでなく目を閉じて浅い眠りに就いた。 次の日の朝。 真っ赤な部屋の床と同じく真っ赤な両親を見つけた。 泣いて、泣き叫びながら逃げて、転んで、膝をすりむいて、さらに泣いてひたすら宛てもなく逃げた。 入学式のあった日。 黒い服を着た俺は、ほとんど会ったこともない親戚に連れられて先生やらに挨拶をしていた。 昨日の記憶は鮮明に残ったまま。泣きはらして腫れた目のまま。 手を繋いでいた親戚の顔はどこかよそよそしく、面倒なモノを預かったというようで。 その時、世界の全ては自分に優しくないんだとわかった。 「今もはっきりと覚えている。確かに俺を、俺という存在そのものを嫌っていた、あの表情を」 会話を終える。 ありふれた悲劇だった。 現実にあった、つまらない終わり方だった。 何もかもが信じられなくなったのは、その頃からかもしれない。 ここにあるもの。そこにあるもの。全て、呆気なく崩れ去ってしまうから。 返される言葉はなく。 彼女は黙ったまま、その日のうちに声を出すことはなかった。 ただ。話を聞いてくれた、それだけが嬉しく、そして有り難かった。 |