教室に足を踏み入れると、そこに少女の幻想を見た。


もちろん、本物ではなくて。
陽の当たる窓際に立っていたのは、このクラスで唯一名前を覚えている同級生。

「…………随分早いな」
「うん。今日はちょっと早起きしたから」

仄かな笑顔が向けられる。
外から降り注ぐ光を背にしたその姿は、どこか浮世離れしているようにも思えた。


隣に並ぶ。ふぅ、と息をひとつ吐き、彼女の横顔を眺めた。
別段目立つところもない、街中で会ってもまず見過ごすだろう容姿。
平凡で、平静で、自己を主張することもせず他者を束縛することもしない。

それが彼女の本質なのかはわからないが。
少なくとも、俺が知っている限りの"校倉こなた"はそういう人間だった。


時計が秒単位で現在いまを刻む。
急がず焦らずただ変わらないペースで。

「ねぇ、月次くん」
「何だ?」
「…………ううん、なんでもない。ごめんね、気にしないで」

一瞬決意したような表情を浮かべ、しかしすぐに口を噤む校倉。
問いただそうかと考えたが、野暮なことかもしれないので止めておく。

しばらく無言。
なのに、気まずいとは感じなかった。

「………………えっと、あのね」
「ん?」
「…………………………月次くん、好きな人とか、いるの?」



人生で最高の不意打ちだった。



まず言葉を失い、呼吸を忘れ、声に詰まり、思考の混乱を三十秒ほど掛けて落ち着かせてから返答をしようとする。
でも、続く台詞のない自分に気づいて。


好きな人。
好きな人。
…………俺の、好きな人。

思い出すのは一人の死神。
"ディス"と名乗った、寂しそうで、悲しそうで、無表情を装った、本当は人一倍優しい少女のこと。


――― ああ、なんだ。俺は、彼女が好きだったのか。


きっとわかっていたけれど、明確にはカタチにしなかった想い。
「好き」だなんて直接的な単語には結び付けなかった。ただ、一緒にいたいと、そう思えた。

大事な存在。
誰よりも何よりも、必要にした存在。


……溢れてくる。
無意識に抑えつけてきた感情が、今になって流れ出す。

泣きたかった。堪えた。
叫びたかった。抑えた。
逃げたかった。耐えた。

ぐっ、と、全てを外に漏らさないようにして。



「…………………………ああ。いるよ」



言った。

例え二度と会えなくとも。
俺は彼女を忘れはしない。幾度も、幾度も、記憶の中にあるその姿を確かめる。

嘘偽りのない、言葉。
万感を込めたひとことは、たぶん他の誰でもない、自分に向けたものだと思う。

「…………そっか。ごめんね、変なこと訊いちゃって」
「謝らなくていい。別に、不快じゃないから」

くるっと校倉は窓の方へ身体の正面を合わせる。
一挙動遅れて俺も同じことをした。


……世界そとは眩しい。
明るい空は今日も変わらず青色だ。



いつもと同じ景色を見た、いつもと何ひとつ違うことのない日。





少しだけ前と変わった心持ちで、俺は遠くを見つめていた。










帰る場所はない。行くべきところもない。
私は世界を漂う。存在理由はただいるだけで満たされる。
言ってしまえば器なのだから、受け止められる容量スペースさえあればいいのだ。


ふわふわと。ふらふらと。
ひとり孤独な世界の中を彷徨って、上下左右の概念もない何処かに揺られて。

吐息さえも消えていく。
呼吸は意味を成さず。その意味さえ溶けていくのかもしれない。


ぽつり、そこに穿たれた私。
白の中の黒。黒の中の白。どこに在っても異分子たるこの身は、ならばどこなら認められるのか。

無限にも似た有限で考える無数の事柄。
そのうちのいくつかでしかないけれど、些細なきっかけで答えに辿り着いた。

……いや、もとより答えはなかったのだ。
自分なりの正解を見つければよかった。ただそれだけの、至極単純なことだと気づいた。

大きな収穫。
必然とも言える巡り合わせが教えてくれた、少なくとも私にとっては大切な。


そう、きっとあれは必然だった。
彼が私を認識できたこと。たったひとつの途方もない偶然が。

変わっていく彼を好ましく思った。
そんな感情を抱く自分に戸惑った。

全てが同列である中で、彼だけは特別に成り得た。


悩んで、悩んで、苦しんで。
自分の在り方がわからなかった。私が存在すること自体の価値を、誰にでもいいから訊きたかった。

何故ならずっとひとりのままで。
誰とも何とも触れ合ってこなかったから。

ある意味では無垢に未熟に生きてきたのだろう。
痛みばかりを抱え、それ以外を知ることなく在り続けてきた。
そういう在り方が唯一で、他なんてないと思い違いながら、ずっと。


今は、心が軽い。
私を支える存在がいる、それだけで。


別れは、決して間違いではなかった。
ただ一度の別離。もう一度は有り得ない。
出会いと同じように、それはひとつだけのもの。

いいのだ。
彼と私は違うから。一緒の世界に生きられないのなら、いつか訪れる終わりに耐えられなくなるかもしれない。
だからこその「さよなら」。感謝と謝罪の意を含めた、別れの言葉。


私が私である限り、忘れないと誓おう。
それが、自分にできる精一杯のことならば。



きっと、えいえんにとどかない、きみ。





――― また、近いうちに。
冷たい雨に、打たれに行こう。





今は、このちいさな思い出を抱きしめて。