玄関の扉を開ける。靴を脱ぐ。廊下を歩く。部屋に入る。鞄を置く。着替える。
一連の動作をあまり時間も掛けずに終え一階に。
居間には人の気配もなく、ふぅ、と軽く息をついて椅子を手で引き座った。

時間は有限。無為に過ごすつもりはない。
けれどすべきこと、行くべきところはわかっているから、どうしたものかと天井を見上げた。

そこに空はない。
壁と同じだ。決して、届かないわけではない高さ。

果てがある。終わりがある。例えば、テーブルの上に立って背伸びをすれば、伸ばした手は天井そらに触れられるだろう。
頑張れば辿り着ける。全ては、必ずいつか届く位置にあるはずだ。


そう、信じることは、間違いなのか。
…………間違いでないと、思いたい。


腰を上げる。用意した上着を羽織り、準備は万全。
家を出て向かう場所はひとつ。確証なくとも自信はあった。

靴を履きながら考える。
空には暗雲が広がっていて、雨が降るかもしれない、と。
なのに傘を持っていくつもりのない自分に気づき、苦笑した。

降ったらそれまで、降らなければ運がいいというだけのこと。
秋の雨は少しばかり冷たいだろうが、別に風邪をひいても構わない。

さぁ、急ごう。彼女はあそこで待っているだろうから。

鍵を閉め、歩き出す。「いってきます」は言わずに。
久しぶりだ。習慣になっていた言葉は、口にできなかった。

両親が死んだ次の日以来、一度たりとも欠かさなかったひとこと。
それは儀式のようなものだった。誰もいないけれど、また帰ってこれるように。
ひとりぼっちの部屋でも、居場所であることに変わりはないのだから。



濡れてもいい。どうせなら、降ってくれた方が嬉しいかもしれない。





何となく、二度と同じ気持ちでは帰れないと、俺は知っていた。




















disintegration-2




















走らず焦らず。
さほど遠いわけでもなく、だから息を切らしてまで急ぐこともない。

そんなことをしなくても待ってくれているだろう。
着いた時にまともな会話もできないのでは本末転倒だ。行く意味もわからなくなる。


闇色の景色。
黒でない暗さが世界を包む。

ところどころに立つ外灯ではどこか頼りない。
雲に覆われ月のない空の下、微かな明かりでは足りないように思えた。


目的地に踏み入るまでの間、些細なことを考える。

両親のこと。
正直言えば、今でも恨んでいるのだ。
どうして置いていったのか、どうして独りにしたのかと。
あの頃から他人を信じられなくなったし、要らないと願った。それが本心でなかったとしても。
死ぬことで現実から目を背けた二人と同じように、逃避で全てを霞めた俺。
子は親を見て育つと言うが、そんなところまで真似しなくてもいいのに。
まだ俺が幼かった頃の、幸せな毎日を夢見ながら憧れていた方がよかったのに。

弱かった。
弱いままで、強くなくてもいいんだと嘘をついていた。


本当は、ずっと。
寂しくて悲しくて、仕方がなかったくせに。


誰よりも簡単に、自分自身を偽れた。
だからこそ、他人を騙していくことにも怖れを感じなかった。
逃げて逃げて、逃げ続けていればもう二度と痛い思いをすることはないと、ばかみたいにしんじてた。

ずっと、間違えたまま生きてきたのだ。
ずっと、傷つけたまま歩いてきたのだ。

そんな行動が、必要以上に自分を痛めつけることにも気づかずにいて。
冷めた顔で、何もかも知っているかのように装って。

簡単なことを教えてくれる人がいなかった。
単純なものを与えてくれる人がいなかった。

…………そういう人達を見つけようとしなかった、俺が一番どうかしてた。

他人の痛みは理解れない、なんて、初めから知っていた。
でも、分かち合えたり少しでも背負ってやれることは、知らなかった。

誰だって傷ついてる。
同じくらい、苦しんでる。
カタチはもちろんそれぞれだけれど、皆ただ幸せに過ごしていられるはずはないのだから。


例え世界中の痛みを抱えきれても、彼女は落としてしまうだろう。
自分の居場所は、自分の中だけにしかないと言った少女。
そこにいるのは"ディス"じゃない。ただの死神だ。役目を追った、死神だ。

だから。
零れてしまった彼女の心を、俺は拾おう。
それだけがきっと俺にできることで、俺にしかできないこと。


"ディス"が何処にもいないなんて、そんなの絶対に許してはいけない。


これから、変わっていかなくてはいけない。
少しずつでいいから。ゆっくりでも、いいから。
両親への恨みも、いつかはなくしてしまおう。
この胸の中の虚無感も、いつかは取り去ってしまおう。

そうやって、歩いていければいいと思う。



言うべきことはわかっている。
ようやく見えた。俺達が当たり前のように持つ心の存在意義を。
俺なりに辿り着いた答え、人の心の在り様を。


広い夜闇の奥に、目指す場所がある。
出会いの位置、公園。偶然に偶然を重ねた運命の始まり。


一歩、境界の内に足を踏み出す。
風が吹き木々がざわめいた。秋になって色づいた葉が散り落ちていく。
赤、黄、くすんだ茶色。本来なら視覚に強く訴えてくるような色も、暗い世界の中では目立たない。

頬に一枚、張り付く。
つまんで顔に寄せてみると、土の匂いがした。
何となく、懐かしい匂い。知らずに溜め息が漏れる。


公園の中央。
広場というには狭いその空間に、黒に溶けるようにして少女は立ち尽くしていた。


空を見上げる横顔。
瞳は真っ直ぐで、表情は悲しそうで。
辛いのに意地を張って我慢している風にも取れる姿。



それを「どうにかしたい」と思い始めたのは、いつからだったろうか。



…………本当に、俺は変わったな。

声には出さず、心で呟く。
実際今みたいな自分は嘘で、これは夢か何かだと言われても信じられそう。


けれど現実。だから迷わない。


「遅かったか?」
「…………いいえ、そんなには待っていないわ」

互いを認める言葉は、多く要らず。
問いと答えも、ひとつきり。





そのためだけに、俺と彼女は此処に在る。